足立君江 写真ライフ

ー東京の街・安曇野・カンボジア撮影記ー

   

朝の市場

2014年11月30日 | カンボジア
 朝、眠い目をこすりながら5時に出発、6号線沿いのプサルー(市場)へ出かけた。

まだ暗い市場はろうそくの火で、仕事をする人たち、荷物を運びこむ人で結構にぎわっている。
学校に行く前に子どもたちは働いている。
村の人たちも採れた野菜を持って集まってくる。少しでも現金収入が欲しいから・・・。

   
 朝5時過ぎの市場。              ろうそくの火で空芯菜をそろえる。やはり女性は働き者です。
 
   
 バナナ屋さんでは学校に行く前にお手伝い。         肉屋さんもろうそくの明かりで・・・。

   
 野菜を細かく刻んで売る。すぐに使えるように。     扇風機をどこへ持って行くのかな。
 

   
 カンボジアのスイカは楕円形で甘い。        グロテスクな鳥たちの姿・・・。鳥はどこでも放し飼いなので美味しい。 

   
 そろそろ学校に行く時間です。           卵を売る少女。割れかけた卵を見つめて。
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コントロー村からクロバイリエルへ

2014年11月28日 | カンボジア
 コントロー村は伝統舞踊「アプサラ」、また民衆によって作られた「ココナツの踊り」や「魚とりの踊り」、ヒンドウ教のお話の中から「メカラダンス」など楽しい踊りが沢山ある。
最近になって、練習場のオンナルットさんは新しい子どもたちも増え、踊りも新しくなったという。

   

私が最初に訪れたときは、衣装は普段着でTシャツやパンツであったが、今ではすっかり変わってしまった。
当然、その頃練習に励んでいた子どもたちは、今は卒業して仕事をしながらレストランの踊りに駆り出されるようだ。

年月の流れをつくづく感じてしまう今日この頃だ・・・。

   
近所の子どもたちもやってきた・・・。
今回も撮影ツアーの皆さんとお邪魔して、踊りの練習をみたり、お話を聞いたり、記念撮影をしたり・・・。

そのあと、コントロー村からクロバイリエル村の家族を訪ねた。
父親が地雷の被害者であったが、亡くなってこの村の親戚の家を頼って、お母さんは6人の子どもを連れて引っ越してきた。
探して尋ねた私に母親は「みんな戦争が悪い・・・。」とポツリと言った言葉が忘れられない。
年月が経って何もないように見える生活だが、そう思って生きている家族がここにいると切ない思いでいっぱいになったのでした。
今は長女がはたらき、姉妹でほそぼそと籠を作って生活しているが、子どもたちが底抜けに明るい。

   
 手製のブランコを敷居から下げて遊んでいた。  一緒に行ってくれた皆さんが2ドルで小さな入れ物を買ってくれた。
1ドルがこの家族にとって大切なのです。

午後は街に戻り、昼食を食べ少し休んでから、いよいよスナダイクマエ孤児院へ。
元気な顔が私たちを迎えてくれた。
新入生の可愛い2人も、日本語で名前や趣味などで自己紹介。
メアス博子さんからは院内の説明や、紹介、チョムラン君と私の出会いなど話していただき、私も思わず感極まった次第です。

   
チョムラン君は私たちの前で日本語で自分の思いを読んでくれると、思わず皆さんも目頭を押さえるほど・・・。アプサラダンスも上手に踊ってくれた。踊りや歌で私たちを迎えてくれたのだ。

   
 今回、バレーボールやら卓球のボールなど持参してくれたリピーターの方がいて、子どもたちは喜んでいた。聞くところによると、かなり強いチームに成長しているようだ。

夜は「アマゾンレストラン」で昼間訪れたコントローク村の子どもたちの踊りを見ながら、バイキングの夕食。

今日も充実した一日でした。




 
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撮影ツアーでサムロム村

2014年11月27日 | カンボジア
 今回の撮影ツアーのガイドは(株)ピースインツアーの佐々木愛さんと現地ガイドのパナー君。
パナー君はスナダイクマエ孤児院出身の日本語ガイドであり、2000年に初めて行った時からの知り合いになる。
真っ黒に日焼けした顔がたくましく、日本語も昨年より上手くなった気がする。

そして、一日目はサムロム村。 

カンボジアは家族のつながりをとても大切にする国と聞いたことがある。
サムロム村は人口500人ほどの村だが、約200人が血縁関係の親戚という珍しい村です。
歴史的にも過酷な条件の中で、内戦後たすけあいながら、ここに集まったのではないかと想像している。
シェムリアップから車で40分くらいの村だが、国道6号線から横道に入ると田んぼの光景がひろがりとても長閑だ。
村全体がひとつのコミニティであり、縫製工場や市場、学校、寺院などがある。

ガイドをしているサロンさんの家に行くと、先ず2人にひとつ大きなココナツで出迎えてくれた。
私たちはこのお宅で、カンボジアの家庭料理をごちそうになり、今日3時ごろまで撮影タイムとなる。
食事をしながら、カンボジアの伝統の楽器、タイコやスコーなどの楽器で演奏も聞かせてもらう。
楽器で演奏の方法を教えてもらい、演奏してみる人もいて楽しいひとときであった。

村を回るときには、馬車に乗りながら、歩きながらと様々な被写体を求めての散策。

   
 さあ!これから牛車に乗る手配を・・・。        サロンさんのお母さん、80歳。料理も上手い。

   
 土壁にワラを混ぜた珍しい壁の家を発見。        花もきれいで屋根には魚を干してある。        
   
 段ボールを運ぶ少年。                 古い木材を運んできたサロンさんのいとこの人。

   
 サムロム寺、まだ幼いが凛々しい顔立ちの少年僧。   ちょうど食事の時間でしたが撮影許可をいただく。修行中の坊さんには女性が触ってはいけません。せっかく積んできた徳が無駄になるとの事。帽子もぬいでと注意をしながらの撮影。

   
 寺からまたサロンさんの家近くに戻り、散策・・・。  
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明日からカンボジアへ

2014年11月20日 | カンボジア
 10月の末に3泊4日で青森へ。

帰るとすぐに安曇野へ行き、崩れ沢の集落で農家の晩秋の軒先を訪ねた。

合間を見て先輩たちや仲間の写真展へ・・・。

あわただしく過ごしているうちに、カンボジア撮影ツアーが明日から始まる。

さて、カンボジアへ行くようになりバイクで村々を回るようになって、今年で14年目になる。
カンボジアのどこが良くてそんなに行くのか。
3年目のツアーの前に私自身も考える・・・。
これまで、写真のテーマも次々に変わっていった。
「はたらく子どもたち」「アンコール小児病院待合室」「カンボジアの女たち」

2000年に初めて訪れた孤児院の子どもが、今は日本語ガイドとして私のツアーに一緒に回ってくれる。

いままで様々な境遇の中で、懸命に生きる子どもたちを愛おしく思った。
病気や怪我で苦しむ村の子どもを見るたびに、あの子はどうしただろうかと心を痛めた。
これは私の母としての気持ちだったのだろう。
しかし、お母さんたちも懸命に働いていた・・・。
田んぼや野菜畑で汗を流し、子育てにふりまわされ、裸足でバイクを運転していた女性の足は大きかった。

戦争が終わった国の国造りともいうべき事業は、必ずと言っていいほど都市部が先になる。
農村に入ると、以前は2メートルほどだった村の道が、この頃は2倍に広がっている。
川の周辺の家々は立ち退きをせまられ、安いお金で生活手段のない場所へ移転している。
政府の土地に住み着いたひとつの集落が、土地が外国資本に売られたことで、立ち退きを迫られる。
不安定な楼閣のような土地に住処を作った人々は、いつどうなるのか判らないのが今のカンボジアの現状だ。

そんななか、私は今回も村を訪ねるツアーを企画した。

200人が親族という村、家族を大切にするカンボジアの人々の考えが集まっている。

ローンカウ村は籠造りの家を訪ねる。ここには私の写真集の表紙になった15歳で働きに出た少年の家がある。

クロバイリエル村には、地雷の後遺症で父をなくした家族が住んでいる。

日曜日には、踊りの練習場がある村も行き、午後にはスナダイクマエ孤児院へも足を運ぶ。

トンレサップ湖はコンポンブルックの集落を訪ねる。

オプショナルツアーでは朝焼けの遺跡や、プサルー(市場)に行く予定だ。

一緒に参加してくださる皆さんに、カンボジアを肌で感じていただきたい。

写真を撮ることはどういうことなのか。
心がうごいた瞬間を写真で伝えていただければうれしいなあ と思います。

バスの中では私の村への思いを、つたない言葉で心を込めてお話しする予定です。
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悲しい10月であった

2014年11月06日 | 日常
 10月は忙しいなかでも、悲しい出来事があった。

この一か月の間に、3人の友人を天国へ送り、心から冥福を祈った月であった。

まず、私の写真のモデルになってくれた女性。
私は彼女の写真で、2001年「ダイエットおんな心」モノクロ5枚組の写真が評価され、視点の「新人賞」になった。
その頃、糸の切れた凧のように、カメラを振り回して、毎日写真を撮って歩いた。
私が一時期ゴルフに夢中になり、朝練の打ちっぱなしの練習場に行くと、必ず彼女も来ていた。
良くゴルフにも一緒に行った。
オシャレをして良く食事にも行った・・・。
ラドン温泉にも付き合い、暑気払い、忘年会で集まり良く笑って写真も撮った。
あの頃はバカみたいに良く遊んだ。 ノウ天気に楽しんだ・・・。

病気になり、故郷に帰って一か月もしないうちに・・・。

もうひとりは、私が関わるようになった写真クラブの女性で、あんなに元気だったのに残念でならない。
彼女の葬儀の時に、家族の方が彼女の撮影した写真を、大四つが入るファイルに10冊ほど式場に出して皆さんに見ていただいた。
式場の前方には彼女の撮影した全紙の額が飾られた・・・。
すばらしいお別れの会となった。

もうひとりの方は、癌で手術のあと再発して残念の別れとなった。
彼は私にマグナムの写真家の事や「写真とは」とよく話してくれた。
いつも長い手紙を、メールではなく丁寧にきれいな字で書いて近況報告をしてくれた。
カンボジアへ行きたいといいながら、2度ほど挑戦していたが病気に勝つことができなかった・・・。

その都度、心を痛めた・・・。
先祖の仏壇の前で、お友達がそちらへ行ったからと報告して祈った。

人の寿命はどんな形で、いつどうなるかわからない。
心残りのないように、友人とは連絡をとって別れることが出来たらと思う。

私もいざというときには、あの大量の写真、フィルムはどうなるだろうか・・・。
そう思うとなるべく写真展で見ていただき、写真集にまとめておきたいのだが・・・。

写真家協会では「フィルム保存センター」の設立を一つの柱としているようだが、収容できるか規模がわからない。
考えればキリがないほど、問題は山ずみなのだが、私が生きているうちに解決されるだろうか・・・。

遺言を書いても子どもたちが価値がわからないと捨てられるだろうなあ・・・と思う。
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