シェムリアップの街を南北に走るシェムリアップ川は、雨季になると時々氾濫する。
大雨の時は市内のシバタ通りまで水浸しになるので、川はもちろん氾濫する。
雨があがると子どもたちが大好きなダイビングがはじまる。
トンレサップ湖周辺の田畑を潤しながら、アラン村あたりで水草やゴミなども集まり、川幅整備の対象となっていた。
町の上流はすでに多くの家族が立ち退いて、ウエル村に移転したようだ。
以前、アラン村のア・ラーさん一家を訪ねたとき、村の人たちが集まり、移転に反対する話し合いをしていた。
話によると、立ち退き料が600$とのこと・・・。
全てが値上がりしているなかで、到底納得できない金額!・・・。
今回、ア・ラーさんの家族を訪ねると、すでに立ち退きをした後で、跡地やその周辺の土地は韓国が買ったと村の人は話していた。
ア・ラーさん家族はウエル村に移転したが、町まで距離があり田んぼはもちろん野菜を作る畑もなく、ただ区画整理された一角が与えられた。
ブリキの家が並んでいるところもあるが、村の人は、この場所は韓国のNGOが整備したという。
ア・ラーさんは仕事の手段もなく、また引き返してきたという。
アラン村の近くにボー村があり、その市場の近くに家を借りて住んでいるという風の便りであった。
市場あたりをウロウロしてみたが、その家族に出会うことはなかった・・・。
今回も私はその引っ越し先となっているウエル村に行ってみることにした。
コントローク村を過ぎて、田んぼの中に、新しくできた道を左へ大きく曲がって15分ほど走るとウエル村になる。
すっかり区画整理され、空き地にはトイレだけがボコボコと立っていた。
今回はバイクの相棒が、ここに知り合いがいると言うので尋ねることに・・・。
その家族は引っ越してきて、古材を使い家をたて、ここに来てから新しく家族が増えて赤ちゃんを囲んで暮らしていた。
父親は何をしているのかと聞いたところ、バイクのガイドだと言うが、英語も日本語もできなく、自国語のクメール語だという。
バイクがあれば町まで出かけることはできる。
町の上流1キロの場所にプーム・トリアン(村)がある。
この地域は政府の土地があり、そこにすでに住みついて、ひとつの長屋のような一角が出来ていた。
ここも川の流域にあたり、家々には赤いスプレーで大きく番号が書かれていて、これは何かとガイドに聞くと、これはすでに立ち退きをするための管理の番号だという。
細い路地で遊ぶ子どもたちを見ると、日本の戦後、路地で遊ぶ子どもを見事に作品にした、土門拳や木村伊兵衛のコマ回しや刀を振り回す子どもたちが脳裏に浮かんだ。
橋の上に名前と一か月と10日と書いた紙切れがあり置き去りにされた子どもは、新しい父母に育てられ大きくなっていた。
政府の土地に新しく家を造ってしまった家族がいるが、どうなるのだろうと心配だ。
カンボジアはどこにいっても発展途上にある状態で、土地の問題は整理されないままが続いている。
日本のNGOなり企業家がカンボジアで何か事業を起こすにしても、土地はカンボジア人の名義ではないと買うことができない事から、後に考えられないほどの大問題となり、裁判になっている事例もある。
日本の弁護士が関わったという民法も、村人まで定着するにはまだまだ時間がかかりそうだ・・・。
大雨の時は市内のシバタ通りまで水浸しになるので、川はもちろん氾濫する。
雨があがると子どもたちが大好きなダイビングがはじまる。
トンレサップ湖周辺の田畑を潤しながら、アラン村あたりで水草やゴミなども集まり、川幅整備の対象となっていた。
町の上流はすでに多くの家族が立ち退いて、ウエル村に移転したようだ。
以前、アラン村のア・ラーさん一家を訪ねたとき、村の人たちが集まり、移転に反対する話し合いをしていた。
話によると、立ち退き料が600$とのこと・・・。
全てが値上がりしているなかで、到底納得できない金額!・・・。
今回、ア・ラーさんの家族を訪ねると、すでに立ち退きをした後で、跡地やその周辺の土地は韓国が買ったと村の人は話していた。
ア・ラーさん家族はウエル村に移転したが、町まで距離があり田んぼはもちろん野菜を作る畑もなく、ただ区画整理された一角が与えられた。
ブリキの家が並んでいるところもあるが、村の人は、この場所は韓国のNGOが整備したという。
ア・ラーさんは仕事の手段もなく、また引き返してきたという。
アラン村の近くにボー村があり、その市場の近くに家を借りて住んでいるという風の便りであった。
市場あたりをウロウロしてみたが、その家族に出会うことはなかった・・・。
今回も私はその引っ越し先となっているウエル村に行ってみることにした。
コントローク村を過ぎて、田んぼの中に、新しくできた道を左へ大きく曲がって15分ほど走るとウエル村になる。
すっかり区画整理され、空き地にはトイレだけがボコボコと立っていた。
今回はバイクの相棒が、ここに知り合いがいると言うので尋ねることに・・・。
その家族は引っ越してきて、古材を使い家をたて、ここに来てから新しく家族が増えて赤ちゃんを囲んで暮らしていた。
父親は何をしているのかと聞いたところ、バイクのガイドだと言うが、英語も日本語もできなく、自国語のクメール語だという。
バイクがあれば町まで出かけることはできる。
町の上流1キロの場所にプーム・トリアン(村)がある。
この地域は政府の土地があり、そこにすでに住みついて、ひとつの長屋のような一角が出来ていた。
ここも川の流域にあたり、家々には赤いスプレーで大きく番号が書かれていて、これは何かとガイドに聞くと、これはすでに立ち退きをするための管理の番号だという。
細い路地で遊ぶ子どもたちを見ると、日本の戦後、路地で遊ぶ子どもを見事に作品にした、土門拳や木村伊兵衛のコマ回しや刀を振り回す子どもたちが脳裏に浮かんだ。
橋の上に名前と一か月と10日と書いた紙切れがあり置き去りにされた子どもは、新しい父母に育てられ大きくなっていた。
政府の土地に新しく家を造ってしまった家族がいるが、どうなるのだろうと心配だ。
カンボジアはどこにいっても発展途上にある状態で、土地の問題は整理されないままが続いている。
日本のNGOなり企業家がカンボジアで何か事業を起こすにしても、土地はカンボジア人の名義ではないと買うことができない事から、後に考えられないほどの大問題となり、裁判になっている事例もある。
日本の弁護士が関わったという民法も、村人まで定着するにはまだまだ時間がかかりそうだ・・・。