足立君江 写真ライフ

ー東京の街・安曇野・カンボジア撮影記ー

   

コントロー村~孤児院へ

2015年11月22日 | カンボジア
 前日まで、S21と言われるトウール・スレン収容所では、ここで亡くなった2万人ともいわれる人々の一部を見た。
考えられないほどの拷問が行われた跡を見ながら、皆が言葉を失っていた。

そんなことを抱えながら、空路シェムリアップへ向かう。
シェムリアップについた途端に、この街の持つ独特の安らぎのような空気に、なぜか心が落ち着いている。
あ~やっと古巣に帰ったという感じかな~・・・。

翌日は先ず朝5時に6号線、プサルー(市場)の撮影。
疲れた人は寝ていてもいいというオプション。

   
市場は朝の2時から動き出すので、暗いうちから私たちも撮影する。
「シャッターが切れないよ、足元が水でぬかるんでいる、豚肉がすごいよ」
「ほら 仕事の邪魔にならないように・・・。」と・・・。

そのたびにISOを変えて、マニュアルで、絞りは開き、ピントはAFにしないでと声をかける。
わずかな電球と蝋燭のあかりが頼りになる。

   

こんなときこそ、練習になるし、自分のカメラを十分に使いこなさないと話にならない。
しかし、そうこうしているうちに20分もしないで夜が明ける。
いるだけでも空気が伝わってくる・・・。

朝食が済むと、8時出発でコントロー村の伝統舞踊の練習場、オンナルットさんの家へ。

毎回訪れる場所だが、この頃は新人の子どもたちが増えた。
昨年、はじめて出会った子どもが見事に成長している。
教えるのはオンナルットさんの娘のソピアタラーさんだ。

   
  
 帰るときは皆さんが見送ってくれた。

次はやはり毎回おとずれるスナダイクマエ孤児院へ。
新しく入ってきた可愛い子どもたちにも会うことが出来た。

   
代表のメアス博子さんより、孤児院についての話を聞いて、子どもたちと遊んできた。
何よりもこの院の出身者である、パナー君が私たちのガイドをしてくれているし、日本語がすごく上手くなった。
いままでのツアーは、全部パナー君が私たちと行動を共にしてきた。
彼は2000年に私がはじめて孤児院を訪ねた時は、ほんとにあどけない少年だった。
今では旅行会社のガイドで活躍しているし、可愛い伴侶を見つけ来年は結婚をする予定。

先に成功をおさめ、結婚したラアーボ君に続いて二人目に所帯持ちになる。
なんとうれしい知らせであった・・・。

昼食後、ホテルでしばらく休んで、午後3時から私の知り合いのブレークロングハウン村のマイムさんの家に行く。
この村は100家族で1000人の人口で、車で30分の村になる。

  村の入り口で早速、5~6歳の子どもたちのダイビングでお出迎え。
マイムさんは元気だったが、ご主人のチョームさんが体調が悪く、まだ完全には治っていなかった。

     
それでも、添乗員の若い佐々木さんに、マイムさんが本気でカンボジアの占いや手相を見てあげたりして、それが面白く微笑ましかった。

その帰りは、カンボジアの真っ赤で大きな太陽が時々刻々と沈んでいく様を撮影した。

   
時々、牛を連れた人や、周りの川で魚とりの網を張る人がいたりと、それぞれが思い思いに撮影した。
太陽の周りが真っ赤に燃えていく様子に、なかなか帰る気になれない私たちでした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コッダイ村へ

2015年11月19日 | カンボジア
 地雷原であった地域をきれいにして、綿の木を育て必要な綿花を栽培して織物を作る村。
カンボジアはまだ内戦時代の地雷が残っていると言われ、そこに住む人々のために地雷除去のNGOの活動が続いている。
カンボジアで使われた地雷は35種類はあると言われ、安価であったため沢山の地雷が使用されたきた。
しかし、心配することなかれ、我々が行く村はすでに地雷は除去されて多くの人が普通に生活してきたところだ。

トンレサップ川を車ごと船に乗り、織物をしているコッダイ村を訪問。

   
 大きな荷物は日用雑貨や野菜なども・・・。   温度が35度はあるかと思われた日でしたが静かな村です。

村に入ると、時間を決めて先ずみんなが心で感じた思いをそれぞれが写真にしていく。
知らない場所に行って、どうしたら良いか迷う人もいるかと思いましたが、皆さんがベテランでニコニコと挨拶しながら撮影していました。
リピーターの皆さんは、すでにテーマも決めている人もいて、心強かったですね。

  
 70歳のおばあちゃんが守ってきた織や染を、今は若いお母さんたちが継承していく。 おばあちゃんたちの手や、織機を踏むんできた足が素晴らしい布を作りだしていく。

   
 私は活躍してきたおばあちゃんたちに歳やお名前を伺いながら写真を撮らせていただく。ポルポト時代からこの村にいたという人も・・・。

  
 真っ白な綿から、きれいな赤い布が作られる。

   
 その赤い布は生きてるように光っていた。どこの国も同じで、おばあちゃんは孫が可愛くてという感じ・・・。

  そろそろ帰るころは、もちろん女性たちの間で、綿の素敵なクロマーが大人気でした。

 



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カンボジア撮影ツアー(1)

2015年11月19日 | カンボジア
 カンボジアから参加者15名、無事に帰りました。

久しぶりのプノンペンは建物も道路も変わり、車とバイクの多さに圧倒されるほどです。

先ずはコンポンチュナン州、車で2時間ほどのオンドル・ルッセイ村、焼き物の村へ・・・。

   
 この村はもともと素焼きの盛んな村だったようです。   細い手に神経を集中させてロクロで形を作る。

内戦の時はどうだったのか考えると、コンポンチュナン洲も激戦の場所だったのでしょうね。
今は村に入るとのんびりとした空気の中で、大きな窯があり、ロクロを足で回しながら陶器を作っていて、訪ねる家々がそれぞれ家族で作業をしています。

ここで初めて「NyoNyum」というカンボジアの生活情報誌をず~と発行してきた山崎幸恵さんにお会いして、お話を伺いました。

   
 山崎さんと作り手の女性を。         77歳のおばあちゃんとみんなで話をしながら・・・。

カンボジアでは村を活性化して、村の人が生活していけるようにと地場産業を中心にNGOや個人で応援している方がいます。
日本で益子焼をしてきた方が、ここカンボジアの村で、土の具合は、焼く窯は、釉薬はと研究をつづけこの村に定着させてきたようです。
この村の土を利用し、試行錯誤してきたことが窺えました。

  
若いお母さんたちが子どもを連れながら、ロクロを回していました。
ハンモックで寝る子や、飛び回る元気な子に撮影者は圧倒されながら・・・。

また人間ロクロと言われていますが、77歳の素敵なおばあちゃんが、中心に置いた捏ね上げた土の周りを回りながら陶器の形にしていました。
おばあちゃんの手をみせていただくと、なんとやさしく小さな手で、それでいて年月が作り出した皺が魅力的でした。

   

またここでは、赤尾さんとラオスマラソンで走った明さんにもお会いすることが出来ました。
彼はこの村が陶器で生活し、独立していけるように、販売のルートも探しているようです。素晴らしいですね。

ここでは皆さんが撮影に夢中になり、山崎さんもびっくりするほど・・・。
撮影者の皆さんはきっと、いろんなことを感じてくれたことでしょう。

なかなか予約もなく、いきなりこういう村に入ることはできないので、企画にかかわった(株)ピースインツアーの佐々木さんにも感謝です。
ここで作った陶器も販売してくれるので、私は夫婦湯呑ちゃんをゲット。
早速使ってみたら、手にしっくりとしてなかなかいいですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015 カンボジア撮影ツアー

2015年11月11日 | カンボジア
 今年も、いおいよ出発の日となりました。

何事もなく、事故がおきないように気を付けながら行ってきます。

今回はプノンペンに入り、人間がろくろとなって回って作る陶器の村や綿から織物を作るを訪れます。
今回は1日がかりで回る村と、午前中と午後は歴史の跡をたどり、S21、トウール・スレン博物館を訪れます。

シェムリアップでは伝統舞踊、アプサラの練習場のある村を訪ねます。
また、スナダイクマエ孤児院にも行きます。

それから私の知り合いの村、ブレークロングハウン村へ行きます。
100家族、1000人ほどの村です。

夕陽の良い時刻を狙っています。

一生懸命に復興に向かう村は、ほんとうに素晴らしいです。

市場やアンコールワットも新規参加された皆さんを中心に、朝日を目指していきます。

ご一緒する皆さんに何よりも、カンボジアの素晴らしさをわかっていただけるとうれしいです。

私たち日本も、二度と同じ過ちを犯さないために、凶器となった戦争の恐ろしさを知るために・・・。

帰りましたら、またブログを更新します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レニのこと

2015年11月08日 | 日常
 写真学校にいるころ、良く映画を観賞する会が開かれた。

それは白黒の映画で見る光と影の関係性であったり、ストーリーでは最初の導入部分の入り方、また話が盛り上がった状態で終わり方はどうであるかといった関係が、写真の組みかたやストーリーと同じであることからであった。

いまでも覚えているのは、ナチの党大会を撮った「意志の勝利」という映画で、監督が「レニ・リーフェンシュタール」ー1902-2003ーという女性であった。

映画と写真との関係はつながっていて、写真家が動画や映画を撮ることは当たり前の時代になっている。

今日、話したいのはレニ・リーフェンシュタールのこと。
それは後で見ようと思っていたDVDのなかに、レニのプロファイルをひもとくものがあったからだ。

アドルフ・ヒトラーに党大会の映画を撮ることを依頼されたレニは素晴らしいプロパガンダ映画を作ってしまった。
演説するヒトラーのカギマークの旗柱に、エレベーターを付けて、演説するヒトラーの舞台の前に線路を作って移動しながら撮影した。
120名の男性のスタッフを引き連れて、レニはアーチストとして、常に妥協を許さなず、映像への執念を崩さなかった。

やがて、第二次世界大戦が終わると、ナチとの関係をうたがわれ、ものすごいバッシングの嵐に身をさらされた。
軍事裁判にかけられ、3年間拘束され、ありとあらゆる疑いをかけられ、マスコミからのバッシングは長い間続いた。
当時、こんなに力をもった女性はいなかったと思いますが・・・。
最後までナチとの関係を否定し続け、しかし映画を撮ったことは罪ではないと言い続けた。

やがて、解放され60歳でアフリカのスーダンにわたり、独特の文化をもつヌバ族の魅力にとりつかれ、写真を撮り続けた。
10年間撮った写真は1973年に写真集を出版して世界的に有名になった。

その後、71歳でスキューバダイビングの資格を取り、海中を映画にする。
そのときの言葉は、「ヤジ馬になってほしい、一番ショックを受けたことを一生大事にしてほしい」・・・。

映画監督としての栄光は、ベネチュア映画祭の最高賞を獲得、1937年には万国博覧会でグランプリを獲得している。

98歳、スーダンへ向かうヘリコプターが墜落。偶然にも一命をとりとめる。
入院したレニは、「まだまだ やりたいことが山ほどあるのに死ねない」と言った。
98歳の年齢でやりたいことが山ほどあると言える人がいるだろうか・・・・。
「どんなことがあっても、人生にYESと言いなさい」
悪いこともいいこともあるけれど、すべてが自分を大きくしてくれる・・・。と

101歳で常に行動を共にしていた40歳のホルスト・ケトラーと結婚。
彼はレニと一緒にいることは、「刺激的で退屈とは無縁」の世界だと言っていた。

2002年に世界中の友人に祝福され100歳の誕生パーティ。

2003年、101歳でこの世を去った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真展へ

2015年11月08日 | 日常
ここ数日、感銘を受けた写真展、写真集についてFBなどで簡単に投稿しているが、ブログを見てくださる皆さんにもと思った。

とても素敵な写真展、そして写真集を手にいれた。

 
写真家 横木安良夫さんの写真展、「Day by Day」
そして写真集「あの日の彼、あの日の彼女」ーteach your children 1967-1975ー

モノトーンの写真展、写真集ですが、そこで何種類ものプリントを見ることができた。
会場でラムダプリントとは何でしょうかと質問してみた。

印画紙の数が少なくなる中、私も今までフィルムで撮ったモノクロの写真は何度か発表することができた。
アグファが無くなってから、オリエンタル号数紙、イルフォード、ケントメアと6つ切りにプリントしたものを、セレクトして個展の度に焼いていく。
そんなことを繰り返してきたが、これまでの大量のモノクロフィルム写真を、どんな方法があるだろうかと考えていた矢先だった。
そんな中、横木さんの写真展をきっかけに、やってみなければ始まらないと気が付く・・・。

ダースト社のシステムでレーザー露光をする。それをイルフォードのバライタに焼き付ける方法。
またデジタル写真であっても、モノクロの印画紙にプリントすることができる。
フィルムをスキャニングしたものをインクジェットでとプリントする方法など色々だ。
今回、そのプリントを拝見したことで、ラムダのモノクロファイバープリントが、高精細な気がしてきた。
たしかに、純粋に印画紙へのバライタプリントは、味があるが今の時代にできる限りの方法を試すのもいいかもしれない。
そういえば、桑原史成さんの写真展のときも、バライタ印画紙へのプリントと、ラムダの方法を見てきた気がした。
具体的にやってみないとわからないが、今後への足掛かりになった気がした。

写真集は私の青春時代と重なっている。
写真は作者が毎日そこにいてシャッターを切らなければ出来上がらない。
何でもない普通の生活がこんなにおもしろいものだと気づかせてくれた。
ときには、全学連や新宿騒乱の社会的な写真も・・・。
何よりもその時代をしっかりと写していて、懐かしさが込み上げてくる・・・。
「そうそう、そうだよね、この頃」と頷きたくなる・・・。
ベルボトムのズボンをはいて闊歩したことや、海水浴や、様々な場所に出没した作者が、しっかりと自分を主張しているように思えた。
写真はその年にその場所で、確かに写真を撮っていた自分がいたということの証になる。

また、あとがきに書かれた作家、角田光代さんの文章がすごくおもしろかった。
飾り気のない文章で、これを読んだとき、時代の持つ特性や人々の生活がよみがえってきて、懐かしさが込み上げてきた・・・。
思わず、私の青春時代を書いてくれたのか、子育てに入った我が家のことかと思ってしまった。

心温まる写真集です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月は

2015年11月05日 | 日常
 天気の良い日があったり、急に冷え込んだりですね。

9月に高校のクラス会があって、群馬の河原湯温泉に宿泊、近くの八ツ場ダムの見学をしてきました。

  水木館 総勢20名の女子会です。 
 宿も以前の場所から上に上がって、とても雰囲気が良く、泉質もよし、料理も良しです。
原子力に頼りたくないのですが、川の水が少なく感じ、ダムができるのか不安が残るところです。
 
  説明会も聞いてきました。

  展望台に上がった人で記念写真。
私たちの高校も、女子高ですが遂に近くの男子高との合併が決まったとのこと・・・。
子どもの数が少ないのは全国的な傾向で、これもこのままでいいのか疑問。なんだかいやな気分・・・。
しかし、楽しく遊んできました。

10月に入り、2日は仲間の秋の食事会。 これは主人も一緒、久しぶりです。

同じ日の夜、ピースインツアーの添乗員、佐々木さんと撮影ツアーの最終打ち合わせ・・・。

3日、孫の運動会。お天気が良くて良かった・・・。珍しく校庭が芝生です。
 

4日、グローバルフェスタ。世界で活躍するNGOの集会でお台場海浜公園。
   アンコール小児病院を開院させた「フレンズウイズアウト・ア・ボーダーJAPAN」のブースに行き、他のブースも見学してくる・・・。
6日はフレンズがラオスに開院した小児病院の報告会がありました。
ラオスで活躍する看護師の赤尾さんと、ラオスから看護師のお客様を迎えての報告会。
 
 
7,8,9日は写真展巡り、どうしたら効率よく会場に足を運べるか研究しながら・・・。

10日は新橋の街、撮影会。
   線路わきの飲み屋街。

連休は家で掃除洗濯。

13日、近くの病院で乳がんの検査。念のためですが異常なしでした。

その後も写真展が続く・・・。
カンボジアへご一緒した方のグループ展、キャノンOB会。

17日、私が指導する「みずほ会」のいつもの例会。
    皆さんの写真が楽しみで、みんな良く出かけ良く撮影しています。

19日、大正大学で大西みつぐさんの写真展へ。
    巣鴨界隈、庚申塚界隈の街歩き撮影。
  懐かしさが残る街。

20日~24日まで、安曇野へ。
   お天気が良く最高の日よりでしたが、紅葉はまだ里に下りで来ない状態でした。
  この時期、すでに遅れ花ですが、きれいでした。


25日、お仲間になっている写真家根本タケシさんの写真展へ。
26日、写真家、HARUKIさんの写真展、キャノン銀座へ。

27日、JPSのセミナーの参加「学ぼう動画の著作権」正しい知識。
     写真の著作権、肖像権に続く講座です。

28日、横木安良夫写真展へ。ラムダプリントの話を聞いてきました。
    プレミア付の写真集をゲット。
    その足で渋谷の映画館へ。「ヴィヴィアンマイヤーを探して」。 この映画は一人の女性写真家の物語だが写真を撮る人にはお勧めの映画。

29日、カンボジア大使館へ2人分のVIZA申込み、
     帰りにカンボジアへ同行する木所さん、奥山さんが参加する四ツ谷ゼミのグループ展へ。
     グループのテーマと一人一人のテーマがおもしろかった。

30日、翌日の街歩き撮影会の資料作り。

31日、中野街歩き撮影会。午後から7名参加。

  

そうこうしているうちに、10月が終わってしまいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする