『夢の小筥』

再び廻り来る事のない、この刻(いま)を、そっと筥に納めてみました。

 和みの庭

2008-08-31 10:47:41 | Weblog

              
 ツバメオモト     錦木      紫紺野ボタン

 

 例年なら、ツバメオモトの実がキラキラと瑠璃色に輝いているのに、今年はどうした事でしょうか?輝きがないのです。
これは、やはり天候のせいでしょう・・・か
でも一生懸命咲いている姿がいじらしい。
錦木の実もまだ固く着いている実の数が少ないです。
紫紺野ボタンだけは、鮮やかな色で咲いています。

 心身ともに、一寸疲れたようです。

が、そんな弱音をはいちゃいけない・・・

庭の花々は、優しく受け止めてくれる・・・

この、蒸し暑さがよけい切ない・・・

         
    大山蓮華       槿          山萩

 大山蓮華もこのように咲くはずなんですけど、今年は咲ききれず、蕾のままです。
槿と、山萩だけが咲いてます。

 萩は優しく、何ともいえない風情で和ませてくれます。
吾亦紅も未だ咲く気配がありません(どうしちゃったのかな?)

 我が家の庭は、やっぱりいいです。どんなに荒れた気分でも優しく~やさしくうけいれてくれます。

 

 

 

 

 


 

 

 


「袈裟と盛遠」

2008-08-25 15:31:00 | Weblog

 またも、昔話ですが”ずしん”と心に響くものがありました。

 平安末期、京に遠藤盛遠という、気性の荒々しい武士がおった。

 ある日のこと、町に出た盛遠は、前を通り過ぎる一人の女性を見るなり、その美しさにすっかり心奪われてしもうたそうな。
ところがその人は、盛遠とはいとこにあたる「袈裟」という女性、しかもいまはすでに、「渡辺渡」という若武者の妻となっておるという。

 盛遠はその日から、寝ても覚めても、袈裟のことばかり考えるようになってしもうたそうな。
そうして悩みに悩んだ末、盛遠は袈裟の母、衣川を訪ね、
 「袈裟を妻にほしい」
ときりだした。

 驚いたのは衣川じゃった。すでに娘は人妻の身、きっぱり断ると、盛遠は太刀を抜いて一目だけでもあわせろとしつこくせまってくる。
仕方なく承知し、盛遠を帰らせた衣川は、さっそく袈裟に事情を話した。
そうして 「あの男は、いずれ私を殺すに相違ない、どうせなら可愛いお前の手にかかって死にたい、どうかひと思いに私を殺しておくれ」と、短剣を差し出し、泣きながら訴えたそうな。 思い余った袈裟は、死ぬ気になって一度だけ盛遠に会うことにした。
ところがいざ会ってみると、盛遠はどうしても袈裟を返そうとはせん。それどころか、またも太刀をひきぬいて、袈裟をおどす始末じゃった。
袈裟は途方に暮れてしもうたが、やがて何やら思い切ったように顔をあげると、
 「私を妻にしたければ、夫を殺して下さい。今夜夫に酒をのませ髪を洗わせて寝かせますゆえ、濡れた髪を探って首を討って下さいませ」
 と言うたそうな。

 これを聞いた盛遠は、とび上がって喜んだ。
夜になるのを待って袈裟の屋敷に忍び込むと、濡れた髪を探って首を討ち落とし、着物にくるんで家に持ち帰った。

 ところが、帰って首を見るなり、盛遠は驚きの声をあげ、その場にうち伏した。
なんということか、盛遠の討った首は「渡」のものでなく、あの優しい袈裟の首だったんじゃ。
 自らを犠牲にしてまで夫への貞節を貫いた袈裟の心に、さすがの盛遠も深くこころを打たれた。

 そうして再び渡辺の屋敷を訪れると、一部始終を物語り、静かに自分の首をさし出したという。

 これを聞いた渡は、大そう驚き、色を失って怒ったものの、
 「今さらそなたを切ったところで何になろう、それより今となっては、そなたも私も、亡き袈裟の霊を慰めるのが、一番の供養ではないか」
と言うてな、静かに自分の髪を下ろしたそうな。
続いて盛遠も出家し、名も”文覚”(もんかく)と改めて、ひたすら袈裟の供養に明け暮れたと言う。

 今、京都の恋塚寺には、「袈裟御前」・「渡辺渡」の像と共に文覚上人の像も安置されている。

 

 人を好きになるのは、致し方ありませんが、もっと理性があっても?・・・
 でもこれが、人を好きになる!ということでしょうか・・・


 

 


 ”三十三間堂の棟木”

2008-08-22 15:11:56 | Weblog

 只今、まだ昔話の間を行ったり来たり・・・

 その昔、三浦半太郎吉勝という人が、紀伊国、熊野権現の近くを通りかかったときのこと。
大きな柳の木を囲んで、大勢の人がなにやらワイワイと騒いでおった。
何でも、殿様の鷹が足の綱を柳の枝にからませてしもうたげな。
またその木があまりにも大きくて、誰も助けに行く者がいないので、木を切ろうと騒いでおるところじゃった。

 「立派な木なのに・・・」
かわいそうに思うた吉勝は、狙いを定め、ひょうと矢を放った。
と、見事に矢は鷹の足の綱を射切り、鷹は無事に殿様の腕に飛び戻ってきたそうな。
それからしばらくたったある晩のこと、吉勝のもとに、一人の美しい女が現れた。
女は何かと吉勝の身の回りの世話をやくようになってなぁ、いつしか二人は夫婦になったんと。
やがて二人の間には元気な男の子も生まれ、毎日幸福に暮らしておった。

ところがそんなある夜、妻は悲しげに吉勝を見ると、こんなことを話出した。

 「実は私は、あなたに助けられた柳の木、御恩返しにとお側においてもらいましたが、今夜でお別れせねばなりません。京の東山にお寺が建てられるそうですが、その棟木に私が使われることになったのです。どうかこの子をよろしくお願いします」

そしてそれだけ言うと、すうっと姿を消してしもうたそうな。
吉勝はあまりのことに涙も出ず、ただぼんやりと幾日かを過ごしておった。

やがて妻の言うた通り、あの柳の木が切られる事になった。ところが無事に木を切り終わり、都に運ぼうというときになって、不思議な事が起きたんじゃ。
どんなに大勢の人がいくら頑張っても、木はびくともせん。
この話を聞いて思うところのあった吉勝は、さっそく子供を連れて熊野へとかけつけた。
そして切られた木の上に手をおいて、なにやら優しく言葉をかけたんじゃと。
するとどうじゃ、びくともしなかったあの大木が、まるで枯れ枝のようにするすると動き出したではないか。

 こうして柳の木は無事、京へと運ばれてなぁ、東山に、三十三間堂という立派なお寺が完成したそうな。

 その後、吉勝は僧となり、このお寺の住職に任じられた。

 そうして、棟木となった柳の木のため、熱心に供養を続けたと伝えられている。

 

 お終い。 昔話といっても、考えさせられることがいっぱい・・

 

  

 

 

 

 

 


お墓参り

2008-08-18 15:53:26 | Weblog

 お盆と言う事で、お墓参りに行ってきました。

 往復850キロ、今は、高速と言う便利な近道がありますが、それでも、随分遠く道路は結構込み合っていました。

 往きは旭川・比布を通って、白滝・遠軽・紋別・北見と順調に走りました。
 天気も良く、緑の濃い山々が素晴らしく、5年振りに通る道は快調で窓を全開・・・ 「あぁ、爽やかな風」

 北見で一泊。
 翌15日、弟夫婦と一緒に網走で妹を乗せ、お墓のある「小清水」へ直行です。
 お盆の15日はご先祖様がみな、お家へ帰って居る筈ですが、そんなことも言ってはいられないのでしょう、沢山の人がお参りしてました。
今はお供え物をお墓に置いてきては、いけないと言われています。が、その昔はお供えしたのを持ってきてはいけないでした。何もかも、持って帰るにはチョッピリ抵抗はありますが、これも環境の美化のため、致し方のない事と、諦めの気持ち !

 今は、この町に私の係累はいません。
お墓参りにしか、来ない町で淋しいのすが、やはり懐かしさがいっぱいです。
 学生時代の友達も殆どが他の所のようです。

 帰りは、川湯・弟子屈・横断道路を通り、足寄・上士幌・鹿追・日勝峠をぬけて、日高町です。
 ここで、小休止。

   「あぁ疲れた・・・」私
   「眠ってばかりいるのに、疲れるかい?」 夫

 どうでも、いいんです、早く家について足をのばしたい・・・ところが、これからが、延々と続く渋滞です。
日高から、栗山くらいまで・・・夫のイライラ顔。とても、外の景色を堪能出来る状態ではなく、お互い口数がすくなくなりラジオのボリュウムだけ大きくなります。 

 それでも、我が家に着いたのが、6時頃。
そそくさと、食事を済ませ、お風呂に入り、私、9時には寝てしまいました。そのせいでしょうか、4時には起きて洗濯・掃除とまことに、手際よく出来ました。

 これが、850キロの全行程で、疲れは徐々に、出てくる事と、思います。

  夫に一言
 「長時間の運転お疲れ様でした。楽しかったですよ・・・」
 

 

 

 

 

 
 


むか~し昔のお話

2008-08-10 15:35:59 | Weblog

 平家物語を読むということの大変さを、身をもって感じています。
疲れた頭を癒すため、昔話の本を繙き(ひもとき)ました。

 子供が小さいころの本です。和紙を使って黒のタコ糸(のような)で綴じてあります。

 初めは「あら、懐かしいな‥」と思いながら、読み進むといつの間にかすっかり、填まってしまい、ただ今、五冊めに突入。それで、その中から心に残った物語をいくつか、書いてみます。

         大江山の鬼たいじ

 その昔、丹波の大江山に、酒呑童子(しゅてんどうじ)という恐ろしい鬼が住んでいました。その酒呑童子が、酒をのんでは、五人の手下と一緒に、京の都で大暴れするので、いつのまにか、都の通りは、夕方になると人ひとり通らない、寂しい都になってしまいました。

 ある日、大臣からの依頼で鬼退治をする事になった源氏の大将、源頼光は、長男、頼国の率いる六百の兵と共に大江山へ行きました。
やがて、六百の軍勢が山を取り囲んだという合図の白旗があがると、山伏し姿の六人の武士が、大江山へと向かいます。

 先に立つのは、道案内の藤原保昌、次に頼光、そしてそれに続くのは、坂田の金時、渡辺の綱、卜部の季武、そして碓井の貞光の四天王たちでした。
ところが、一行が橋の向こうの関所にさしかかったとき、小さな酒つぼを持った、一人の老人が現れました。
そして、 「これは、鬼がのめば酔いつぶれ、お前たちがのめば力百倍になる不思議な酒じゃ。これで鬼どもを退治するがよい」 と言うと、すっと姿を消してしまったのです。

 老人のくれた不思議な酒を持って、いよいよ頼光たちは、鬼の住み家へとやってきました。
 「たのもう、私たちは、道に迷った山伏しの者、今夜一晩宿をお願いしたい」
 鬼の岩屋の門の前で、季武が大声で呼ぶと、恐い顔をした鬼が出てきて、一行を睨みつけました。
と、すかさず金時がポンと酒つぼのふたをとると、うまい具合に、匂いをかぎつけた酒呑童子が出てきて、一行を奥へと通したのです。
こうして頼光たちは、うまく鬼の住み家に入ることができました。

 さて、それからは酒盛りが始まり、飲めや歌えの大騒ぎ、ところが、しばらくすると、鬼どもはすっかり酔いつぶれ、ぐうぐういびきをたて始めたのです。
 さぁ、この時とばかり、頼光たちは、鎧兜(よろいかぶと)に身を固めると、鬼どもの足を鎖でつなぎ、刀をふりあげました。
 「起きろ、酒呑童子、我こそは源氏の大将、源頼光なるぞ」
ふいを突かれた酒呑童子は、あわててはね起きようとしますが、足が自由にならず、ひっくり返ってしまいました。
 と、そこを、グサリと季武が胸を刺し、頼光がすばやく首をはねたのです。
 怒り狂った童子の首は、天井までとび上がると、頼光めがけてかみついてきました。
しかし、八枚の鉄板を重ねて作られた兜に守られ、頼光は、危うく命拾いをしたのでした。

 こうして一行は、逃げる鬼をも一人残らず退治し、一晩のうちに戦いは終わったのです。

 かっては鬼の住んだと言う大江山も、今は静かにねむっていますが、ふもと金山の里では、このお話が、何代にもわたって語り継がれ、二十五年ごとに、賑やかにお祭りが行われています。

      お終い。

 
 

 


 

 

 

 


 何となく・・

2008-08-03 14:17:22 | Weblog

  

 今日も、どんよりと重い雲が垂れ込めています。時々思い出したように、雨の雫が落ちてくる。

 嫌だナァ~と思ってもどうしようもなく、ボンヤリと外を眺めています。

 何を勘違いしたのか?木蓮の花が咲いてます。今頃咲いても、誰も褒めてはくれないのに・・・

 今日も昔話を一つ

   道真の登天石(水火天満宮)

  その昔、都で藤原氏がたいそう盛えておった頃のことじゃった。
 蒸し暑いある夏の日、急に空が曇ったかと思うと、紫色の大稲妻が走り、途端に天地も割れんばかりの雷が鳴り出した。
京の人々は生きた心地もせず、口々にこんなことを囁き合った。

 「これはきっと、筑紫の大宰府で亡くなられた道真さまのたたりに違いない」
                  
 「何でも右大臣じゃった道真様が、太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されたのは、左大臣、藤原時平様が、讒言(ざんげん)されたためらしいぞ」

  その年、延喜3年、2月25日、大宰府に流された道真が亡くなってから、都で不思議な天変が起こると、人々はみな、それを道真のたたりだと信じこんでおった。
大雨や落雷、そして水害、それだけならまだしも、道真の左遷に一役かった藤原菅根が、雷雨の中で変死し、相次いで噂の張本人、時平が死んだとなると、京の都では、誰一人として道真のたたりを信じぬ者はおらん、とうとうしまいには、時平の讒言を聞いて道真を大宰府に流した醍醐天皇までが、不安を抱くようになったそうな。
 そこで天皇は、道真が生前師と仰いでおった延暦寺の尊意僧正を呼んで、祈祷を命じたんじゃと。

 さて、命を受けた僧が、雷雨のなか、宮中へと向っておると、途中で不思議なことが起こった。
 加茂川にさしかかった頃、突然川の水が増え始めると、みるみる土手を越えて町に流れこんだんじゃ。
 僧はそれを見ると、少しもひるまずに持っておった数珠をひともみ、川に向ってお経を唱え始めたそうな。
するとどうしたこと、水の勢いはたちまち弱くなり川の中から一つの石が現れた。
しかもその上には、道真が立っているではないか。
道真はじっと僧を見ると、やがて静かに雲の中へと消えていった。
と、途端に今まで荒れ狂っておった雷雨も、ぴたりとやんだという。

 後、僧は道真の立っておった石を持ち帰ると、その霊を懇ろに供養した。

  これが、今、水火天満宮にある”石”だと伝えられている。

     お終い。

 

  


   

  

 

 


雨降りです。

2008-08-02 12:19:15 | Weblog

  

 昨夜来の雨降りです。何もしたくないので本を読みます。
偶々、童話の本が置いてあったので・・。
 柳田国男さんと一味違う昔ばなしです。

  清水寺のお話(洛東)

 今からず~っと昔、まだ都が奈良にあった頃のことです。大和の国、高市の小島寺で仏の修行をしていた延鎮(えんちん)という坊さんが、あるとき音羽山で、一人の不思議な翁に会いました。
 翁は、「ここの霊木で観世音の像を彫ってはくれまいか。ここは寺を建てるには、またとない良い場所じゃ、わしはここに立派な寺を建てて、その像をまつりたい」
 と言うと、かき消すようにいなくなったのです。
延鎮さんは、狐にでもつままれた様に、ぼんやりとそばの高い杉の木を見上げていましたが、その日から、音羽山にこもってお経を読み始めました。
やがて20年の歳月が流れ、都は今の京都へと移されましたが、翁との約束は、まだ果たされていません。
 それからまた10年。まだ観音様を彫れない延鎮さんは、毎日思い悩んでいました。
 そんなある日、坂上田村磨(さかのうえたむらまろ)という偉い将軍さまが延鎮さんのいる山へやってきたのです。
二人は、心打ちとけて話合いましたが、将軍が奥方の安産を願うために、鹿の肉をとりに来たと知り、延鎮さんは、仏の教えを話して、生き物を哀れむようにと諭しました。
 感銘した将軍が、射止めた鹿を供養してやると不思議に、奥方は軽々と子を産んだのです。
 将軍は、それから深く観音様を信仰するようになって、音羽山に、それは立派な寺を建ててくれました。
そして、大喜びの延鎮さんは、さっそく音羽山の霊木で、観音像を彫ったのです。

 その後、大同6年、平城天皇の御代となり寺では、長岡京の御台所の紫宸殿に使っていた材木をもらって、高いがけに、立派な桟敷を組み立てました。これが今も有名な
 「清水の舞台」  と言われるものです。

 また、清水寺の奥の院の建っているところは、はじめに延鎮さんと翁とが顔を合わせたところだと言われており、いまでもそこには、高く大きな杉の木が立っています。

       お終い・・・