こんにちわー、まごーんやで。
今回からしばらく、同じものからの紹介です。
陸軍士官学校の卒業写真帖です。今回から数回に分けて、ここに載ってる陸軍軍人を紹介します。一応、簡単な経歴は書きますが詳細を知りたかったら検索するなりしてください。だいたいサクラタロウDBさんとこで出るから。
本日は第一弾。陸士校長および、幹事、学生隊長。副官、前副官、第一学生隊長、前第一学生隊長、第二学生隊長、第三学生隊長、前第三学生隊長の10名を紹介。一部の人は恐らく日本初公開でしょう。あと今度から転載防止のため、当ブログの名前が写真と一緒に出るのでご了承くだしあ。サイトに載せたい人とかは必ず連絡及び載せる際にこのブログからの引用を記載。また載せるブログを教えていただければ、ほぼ許可いたしますので。なんやったらTwitterからでも良いし、Twitterにしかいないけど。
それでは紹介していきます。
まずは陸士校長。
末松茂治中将(階級は最終)です。末松中将は陸士14・陸大23。中将進級とともに校長となり、その後は第14師団長。予備役となります。日華事変勃発に伴い、召集され、第114師団長として、南京攻略戦などに参戦しました。
次は幹事。
酒井鎬次少将(のち中将)です。陸士18・陸大24優等。フランス駐在武官、平和条約実地委員や国際連盟陸軍代表随員を務めた国際派。陸士幹事のあとは第24旅団長。そして日本初の機甲部隊である独立混成第一旅団長となりました。
次は生徒部長。
村井俊雄歩兵大佐(のち中将)です。陸士20。
生徒部長のあとは戦車第4大隊長。独立混成第16旅団長になり日華事変へ出征しました。
次は前副官。
浅野憲一郎輜重少佐(のち輜重大佐)です。陸士29・陸大専科5。
最終軍職は第41軍参謀副長兼第8師団参謀長を務めました。輜重兵科としては珍しく要職です。
次は副官。
甲斐隆之助輜重少佐(のち輜重大佐)です。陸士29。第50野戦輸送司令官を務め、最後は第10方面軍司令部附。
次は前第一生徒隊長。
堀静一少佐(のち少将)です。陸士29・陸大専科5。第109師団参謀長。しかし栗林忠道と対立し更迭され混成第2旅団司令部附として硫黄島に於いて戦死しました。同師団参謀だった堀江芳孝氏曰く
「鉄道畑の人で陸大専科出身であった。他人の話をよく聞いて小さな手帳にメモをとる習慣を持つ、きわめて温厚に見える堀大佐が、なぜ長いひげを伸ばしていたのかわからない。また、かなり親しいように見えていた兵団長との仲が、どうして悪くなったのか私にはわからない。8月、私が硫黄島に行ったときはすでに二人の仲はどうにもならないところまできていた。
両方とも他に求められない長所を持ちながら、どんな家庭でも、どんな司令部でも米軍でも同じことではあるが、特に離島においては、昼の夜も一緒に生活するため深刻になるわけである。12月30日付けで混成第2旅団司令部付となった。誠に気の毒な人である。戦闘にあたっては3月9日朝、混成旅団の万歳攻撃で戦死したとも、5月ころまで洞窟内に生きていたともいわれている。私個人から見ると、親しい、親切な、控えめな上官であり先輩であった。悲劇の人であった。」(こちらのサイトに掲載されているのから引用)
次は第一生徒隊長。
寺尾務歩兵少佐(のち歩兵大佐)
陸士30・陸大専科3。第81師団参謀長や第19師団参謀長を務めました。
次は第二生徒隊長。
山本勇歩兵大尉(のち歩兵大佐)
陸士不明。最後は歩兵第258連隊長。
次は第三生徒隊長。
宮脇幸助歩兵少佐(のち少将)
陸士28。仙台予備士官学校長を務めました。
最後は前第三生徒隊長。
平桜政吉歩兵少佐(のち少将)です。
陸士27。歩兵出身でありながら、水戸飛行学校生徒隊長や仙台飛行学校生徒隊長を務めております。最後は独立混成第117旅団長を務めました。功三級金鵄勲章叙勲。
とりあえず第一弾は以上です。次回は学校本部将校を紹介します。
今回からしばらく、同じものからの紹介です。
陸軍士官学校の卒業写真帖です。今回から数回に分けて、ここに載ってる陸軍軍人を紹介します。一応、簡単な経歴は書きますが詳細を知りたかったら検索するなりしてください。だいたいサクラタロウDBさんとこで出るから。
本日は第一弾。陸士校長および、幹事、学生隊長。副官、前副官、第一学生隊長、前第一学生隊長、第二学生隊長、第三学生隊長、前第三学生隊長の10名を紹介。一部の人は恐らく日本初公開でしょう。あと今度から転載防止のため、当ブログの名前が写真と一緒に出るのでご了承くだしあ。サイトに載せたい人とかは必ず連絡及び載せる際にこのブログからの引用を記載。また載せるブログを教えていただければ、ほぼ許可いたしますので。なんやったらTwitterからでも良いし、Twitterにしかいないけど。
それでは紹介していきます。
まずは陸士校長。
末松茂治中将(階級は最終)です。末松中将は陸士14・陸大23。中将進級とともに校長となり、その後は第14師団長。予備役となります。日華事変勃発に伴い、召集され、第114師団長として、南京攻略戦などに参戦しました。
次は幹事。
酒井鎬次少将(のち中将)です。陸士18・陸大24優等。フランス駐在武官、平和条約実地委員や国際連盟陸軍代表随員を務めた国際派。陸士幹事のあとは第24旅団長。そして日本初の機甲部隊である独立混成第一旅団長となりました。
次は生徒部長。
村井俊雄歩兵大佐(のち中将)です。陸士20。
生徒部長のあとは戦車第4大隊長。独立混成第16旅団長になり日華事変へ出征しました。
次は前副官。
浅野憲一郎輜重少佐(のち輜重大佐)です。陸士29・陸大専科5。
最終軍職は第41軍参謀副長兼第8師団参謀長を務めました。輜重兵科としては珍しく要職です。
次は副官。
甲斐隆之助輜重少佐(のち輜重大佐)です。陸士29。第50野戦輸送司令官を務め、最後は第10方面軍司令部附。
次は前第一生徒隊長。
堀静一少佐(のち少将)です。陸士29・陸大専科5。第109師団参謀長。しかし栗林忠道と対立し更迭され混成第2旅団司令部附として硫黄島に於いて戦死しました。同師団参謀だった堀江芳孝氏曰く
「鉄道畑の人で陸大専科出身であった。他人の話をよく聞いて小さな手帳にメモをとる習慣を持つ、きわめて温厚に見える堀大佐が、なぜ長いひげを伸ばしていたのかわからない。また、かなり親しいように見えていた兵団長との仲が、どうして悪くなったのか私にはわからない。8月、私が硫黄島に行ったときはすでに二人の仲はどうにもならないところまできていた。
両方とも他に求められない長所を持ちながら、どんな家庭でも、どんな司令部でも米軍でも同じことではあるが、特に離島においては、昼の夜も一緒に生活するため深刻になるわけである。12月30日付けで混成第2旅団司令部付となった。誠に気の毒な人である。戦闘にあたっては3月9日朝、混成旅団の万歳攻撃で戦死したとも、5月ころまで洞窟内に生きていたともいわれている。私個人から見ると、親しい、親切な、控えめな上官であり先輩であった。悲劇の人であった。」(こちらのサイトに掲載されているのから引用)
次は第一生徒隊長。
寺尾務歩兵少佐(のち歩兵大佐)
陸士30・陸大専科3。第81師団参謀長や第19師団参謀長を務めました。
次は第二生徒隊長。
山本勇歩兵大尉(のち歩兵大佐)
陸士不明。最後は歩兵第258連隊長。
次は第三生徒隊長。
宮脇幸助歩兵少佐(のち少将)
陸士28。仙台予備士官学校長を務めました。
最後は前第三生徒隊長。
平桜政吉歩兵少佐(のち少将)です。
陸士27。歩兵出身でありながら、水戸飛行学校生徒隊長や仙台飛行学校生徒隊長を務めております。最後は独立混成第117旅団長を務めました。功三級金鵄勲章叙勲。
とりあえず第一弾は以上です。次回は学校本部将校を紹介します。
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