雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

歴史に埋れた高官たち

2014年10月28日 21時44分33秒 | 収集品
とも、まごーんです。
歴史というものは色々な人物を輩出し、後世に名を残す者がいます。
近代以降で言えば伊藤博文、桂太郎、山縣有朋、原敬、東條英機…沢山おります。
また、史料も豊富であります。
しかし、その近代以降であっても名が埋れてしまった人物も多々あることもまた然りです。
下記に私の所蔵している写真を3枚掲載します。
↑勲二等陸軍中将(陸大卒)昭和5年頃撮影
2018.2.14追記:金谷範三陸軍大将でした。
↑功二級・勲三等陸軍中将(大正期に撮影)
2018.2.14追記:柴五郎陸軍大将でした。
↑勲一等の文官(明治22年頃撮影か?)

彼らは何れも、当時は地位を極めた高官で有りますが、今現在になっては名前すら分からない人たちです。
後世に名を残すのは難しい…



収集品をネット展示してみる~戦艦武蔵乗組員名簿原簿~

2014年10月25日 15時31分11秒 | 収集品
こんにちは、まごーんです。
今日はウチの収集品の中でもかなり貴重な物を紹介します。

昭和19年10月24日に沈んだ戦艦武蔵の乗組員名簿の原本(部分)です。
これは米海軍からの鹵獲品だと聞いております。
そして、この原簿には戦艦武蔵とは書いておりません。私の推測で戦艦武蔵の乗組員原簿だと思っています。
理由は

まず、乗組の日。原簿の一部の写真を上げたましたが、昭和19年5月25日乗組みとなっています。
次に分隊。名簿は第22分隊となっています。個人的にはこれが一番の推測の決め手となっております。
海軍の分隊は艦艇の規模により数が違います。
例えば一等駆逐艦なら第四分隊まであり、駆潜艇なら一艦一分隊でした。
これは少なくとも22分隊まであったというのが分かります。かなり大きな艦艇なのは言うに及びません。
では大型艦艇の分隊はどうか?と言うと、かつての連合艦隊旗艦だった戦艦長門は21個分隊ありました。そしてミッドウェイで沈んだ空母赤城は24個分隊です。(出典は雨倉孝之『帝国海軍下士官兵入門』光人社NF文庫 2008年 213頁~217頁)
この名簿の艦艇の規模が分かると思います。少なくとも長門以上赤城レベルです。
そして、昭和19年5月25日現在でのそれほどの大型艦艇かつ比島海戦で沈められた艦は、戦艦武蔵、空母瑞鶴の2艦と考えます。
ですが、空母赤城は海軍の空母で加賀と一二の大きさを争う大型艦。瑞鶴はどうなのだろう?と思い、戦艦武蔵の乗組員名簿と推測しております。
本来でしたら、コレを展示しようか悩みましたが、昨今の艦これによる影響を鑑み、また情報提供者を求めて展示することに致しました。


2014年12月9日追記
手塚正己『軍艦武蔵』に「1943年ごろになると、30~40代の徴兵された男達が武蔵に乗り込んできた。」という旨の記述があり、この名簿が戦艦武蔵のものの可能性が確実となりました。

ここからは読みたい方だけどうぞ。多少主観が入りますので

現在は艦これの影響であらぬことの知識がまことしやかに広められてるのは大変残念であります。あの戦争や帝国海軍を知るのはもちろん良いことでありますが、良いことだけを注視せず、また帝国陸軍が悪という考え方が広まりそうで勝手に心配してたりします。
艦これから一度離れて、客観的に見ることを切に願います。
帝国海軍が決して褒められる存在ではないのであります。
帝国陸軍が決して褒められない存在ではないのであります。

織田信奈の野望12巻買ってきた

2014年10月18日 23時21分23秒 | 織田信奈の野望
こんばん、まごーんよ。
今日は織田信奈の野望最新刊である12巻を買ってきたで
とうとう、越後のちりめん問屋が動いた!オマケに甲州タイガースも動いた!さぁ大変!
あ、阪神タイガース、クライマックスから日本シリーズ行ったんやっけ?なんでオリックス勝たんだんやろうなぁ…。

と、冗談はさて置き。史実であれば上杉不識庵が能登に攻め込んで行くだけですが、武田信玄まで来るから大変ですね。
内容はもっぱら上杉メインやけど。
あと、個人的に村上義清とか出るかなぁ…思ったけど出なかった。
真田は苗字だけでたから出るかな。
因みにウチの祖の一人は、一説には真田幸隆の父と言われる真田頼昌の大叔父にあたったりします。まぁ、海野一族括りやと絶対繋がるけど。
今後の信奈に期待やねぇ。

あと、まごーんは出てきません!残念やーー!

陸軍図嚢

2014年10月18日 00時01分18秒 | 収集品
こんばんは、風邪引きました。まごーんです。
今日は図嚢を紹介します。
図嚢は簡単に言えばマップケースですね。将校の私物なので色々なものがあります。

これは腰に掛けるやつです。小型の部類に入ります。

両脇には鉛筆がはいるようになってます。これは手に入れた当時から付いてました。
かなり皮がひび割れてますが、使えます。

裏面。

所有者のイニシャル。と今井政男の文字。名前とイニシャルが違うので途中で別の人に渡ったのでしょう。

実物を収集する意味とは何だろう?

2014年10月13日 04時01分43秒 | 日記
ども。まごーんよ。
今日はなんとなく深そーな題名。
ウチは趣味で当時の軍装品や旧軍関連の紙ものを集めている。
勲章、電報、名刺、新聞etc…
それらを集める意味、というか、怖くないか?というのがTwitterの話題であがりましたので。少し考えてます。
ウチが収集してきた資料は大体100点前後。その半分は名刺が占めますが、なかには軍服。階級章などいわゆる当時の方が身につけていた物も多少なりと含まれます。
ウチはそういうのを集める時、その人の経歴等を調べてます。この所有者はどういう人物だったのか、どのような人生だったのか。そして所有者が分からなくてもコレを持っていた方は一体何処でどんなことをして居たのだろう。と思いを馳せると言いましょうか。感傷に浸るともうしましょうか…。
ウチの収集した物の中で戦死した人の遺品は少なくとも3点。そして戦犯として処刑された人の旧蔵品が1点、少なくともおります。
ですが、枕元に立ったとか、そういうことは一切ありません。ウチに霊感が無いからかも知れませんし、身内に戦死者も戦犯容疑者もいるからかも知れません。勝手な推測ですが。
ウチは幽霊の類は信じません。もしそんなのが居るならウチは戦死した祖父の兄に生きている弟に会って欲しいです。と言いたい。
さて、少し私事が入りましたが、ウチは実物を収集するのは慰霊のためとか、そういう高尚なことまで頭が回りません。ただ、たまたま見かけて欲しいと感じたから買った。というのが正解に近いです。
ですが、買って満足ではなく。当時の方に思いを馳せるのがウチなりの礼儀と勝手に思っております。要するに、忘れるということをしないことです。
約100年、約70年まえに、この物を持っていた人はどれだけ苦労したのだろうか?無事に寿命を終えたのだろうか?戦死されてしまったのだろうか?楽しんだのだろうか?
ウチは時々そう考えるのです。
勿論、資料を見てる時などは、忘れている時はあります。人間ですから。
ですが、ウチの収集しているものは”かつて所持していた方の歴史の足跡なのだ”と心に刻み、ウチは今日も収集を続けているのです。
正直、申せば現在はオークションなどでバラ売りにされることが目立ちます。本来はそれらは纏めて保存されているからこそ、歴史的価値があると言いますか(物に価値をつけるのは厳禁ですが)重要なことなのです。
散逸は最も悲しいことなのです。
ウチは出来る限り、それらを纏めて所持し、彼らの足跡をとどめることが、収集の重要なことと思っております。

以上、長々な駄文ですが、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
これを読んで下さった資料を集めている方も、歴史の波の一抹の泡と消えた方々の足跡を時々、思い出してあげてください。

まごーん

そういえば、一回。軍刀(拵えだけ当時ので中身は模造の切断)を抱いて寝てしまったことがあります。
その時見た夢は何処かの森か、ジャングルのようなところでウチは彷徨い、そして異常な空腹感に襲われておりました。
目が覚めました後、軍刀を見て、もしかしたらこの軍刀もニューギニアなどで彷徨っていたんだろうか…。と考えました。