雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

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収集品をネット展示してみる~橋本敬之所蔵の皇紀二千六百年記念章と証書~

2015年09月26日 23時31分23秒 | 収集品
ども、まごーんやで。
今日は皇紀二千六百年祝典記念章と証書を紹介。二つとも同一人物の所持品。

記念章の箱

中身。

証書。受章したのは橋本敬之という人です。
この橋本敬之は徳島士族の衆議院議員だった橋本久太郎の血筋です(恐らく息子と推測)。
下記に詳しい履歴を記します。(国立公文書館デジタルアーカイブの「鉄道軌道統制会理事任命ニ関スル件」を基に作成)

橋本敬之 徳島県生 橋本久太郎息子
明14.2.21 生まれる
明39.3 東京帝国大学土木工学科卒業
明42.12.28 任鉄道院技師
大7.12.2 鉄道事業研究のため欧米及びアフリカへ一年半留学
大10.6.18 帰朝
昭3.6.11 中国へ出張
昭3.7.1 帰朝
昭4.7.12 東京第一改良事務所長
昭6.7.3 陞敘高等官一等
昭6.7.4 依願免本官
昭6.7.31 敘正四位
昭6.8.13 敘勲三等瑞宝章
昭6.9.11 任大阪市技師
同 電気局臨時高速鉄道建設部次長
昭7.4.30 任大阪市理事
昭10.5.24 電気局臨時高速鉄道建設部長
昭13.10.25 電気局運輸部長兼電気局臨時高速鉄道建設部長
昭16.4.15 電気局高速部長を解く
同 電気局自動車部長兼務
昭17.4.1 大阪市局長
同 電気局長
同 電気局運輸部長事務取扱
昭18.1.23 電気局運輸部長事務取扱解除
昭18.9.14 鉄道軌道統制会理事

恐らくは鉄道軌道統制会理事を終戦まで務めたと思われます。
橋本敬之は戦後、鉄道に関する寄付で紺綬褒章を受章してます。戦後も鉄道に関心があったのでしょう。

個人的には正四位の人の(正四位と書いてある)証書は珍しいので気に入ってます(?)

石田保忠中将

2015年09月18日 09時58分41秒 | 歴史
どうも、まごーんやで。
前回、石田保忠中将の写真を紹介しましたが、折角なので、石田中将の最期についても触れようかと思います。(例によって石田文枝さんの自伝を参考に)。
昭和16年に開戦以来、石田少将は北支に第32歩兵団長として奮戦し、昭和18年、ソ満国境の最北、海拉爾に拠点を置く第8国境守備隊長となります。
海拉爾着任後まもなく、石田少将は腹痛に襲われます。腸捻転でありました。
この時は軍医が診断できず、緊急輸送で新京に送られました。
新京では手術とのことでしたが、日数がかかるからと東京(おそらく大本営)から許可が出ず(!)高圧浣腸のみで、あとは無理せぬよう。とのことでした。
このあとも腸捻転は何度も起こり、妻の文枝も息子に宛てた手紙の中で「お父様またお腹を悪くなさってここ四五日三十八度から熱があひご飯もおもゆと牛乳ですけれど、やはり演習にもいらっしゃってるの」と記しています。
昭和19年10月、樺太赴任の電話を受けた石田少将は「前任者がいないため」速やかに赴任するため海拉爾から新京、朝鮮を鉄道、船を乗り継ぎ、東京へ一旦帰りました。
この時(10月17日)も激しい腹痛に襲われ、10月18日にタクシーで陸軍軍医学校へ行くも会議中を理由に断られ(将官を陸軍病院の上層部は特別扱いしないのかと驚き)、隣の陸軍病院で治療したそうです。
10月19日、石田少将は陸軍省に退職願を提出しました。
しかし、陸軍はこれを却下し、「速やかに赴任し任地に於て静養せよ」と樺太着任の命令を下しました。また、北部軍(第五方面軍?か北部軍管区司令部と推測)から家族を携行するのは不許可とされました。
妻の文枝は夫の死を覚悟したそうです。
10月26日、石田中将(同日昇進)は上野駅から青森行の列車に乗り、日ソ国境の最北へ向かいました。
この時、石田中将は妻の手を握り、「ありがとう」と言ったそうです。
石田中将も己の死を覚悟してたのではないでしょうか。
青森から、船か飛行機かはわかりませんが、おそらく11月頃に札幌に到着し、第五方面軍司令部へ着任挨拶をしたと思われます。
11月5日、石田中将は釧路の阿寒で演習を行いましたが、10日夜に腸捻転が再発。12日の演習終了を待って病院へ搬送されましたが、夜間の下山は困難なので、翌日帯広の病院に搬送されました。
しかし帯広に外科医がおらず、千島まで迎えに行き。手術をしたものの、心臓衰弱が激しく。万事休すでした。
妻は13日に北部軍から「石田保忠腸閉塞にて北海道帯広市旭川陸軍病院帯広分院に入院し手術は無事すみたるも来られたし」と電報を貰い、15日、軍参謀長(第五方面軍参謀長木村中将か)に迎えられ病院へ急行したようです。
石田中将は妻に「一年一回の演習をすっかり終までやり通して心残りなし」と語ったそうです。
第8国境守備隊長時代もそうでしたが、やはり石田の軍人としての誇りか、石田家という軍人の名門がそうさせるのか、何れにせよ私は感服せざるを得ないです。
石田中将は11月20日、その生涯を終えました。享年50。
陸軍葬をもって小樽の寺に葬られました。
個人的に石田中将は妻想いの軍人だったと見ています。
妻に、欧州出張から帰った後、絵葉書帳を見せながら「将来年をとって暇になったら、この絵葉書順に二人で旅行しようね」と申したのには柔和な笑みを浮かべる石田中将が想像できます。
また、軍務を合間をぬって子供の学校の行事や運動会、学芸会にも参観していたというし、石田中将は現代的に共感が持てるのではないでしょうか?
妻の文枝さんの文からして、私の持っている軍人家庭は亭主関白なイメージでしたが(辻政信とか)、石田中将にはそのようなイメージは出てきませんでした。
また、海拉爾に妻を呼ぶのも驚きでした。前線に芸者を呼んだ軍人はいますが、前線に妻を呼んだ軍人は石田中将だけではないでしょうか?
しかし、病が原因で亡くなりましたが、コレはもしもあのとき…と、思う場面が多い気がしました。少なくとも2回は陸軍中央のせいですが。
やはり、石田家の名が大きかったのでしょうか?父兄みんな陸軍将官。そして兄達はみんなドイツ駐在を経験し、保忠自身も欧州出張を経験してますから。
満ソ国境の海拉爾や日ソ国境の樺太(上敷香)に配属されたのもそれがあったのでしょうか?
しかし、あのまま無事快復しても、ソ連軍の侵攻があったのでなんとも言えないですね。捕虜になってシベリアで…なんてよりは良かったのかもしれません。
戦後70年、いま石田中将は妻の文枝さんとあの世でヨーロッパを旅行をしてることでしょう……長男の保久さんも連れて。

写真は死去する20日ほど前の石田中将。

参考
石田文枝『知らず知らずに九十五歳 元女医の人生ひとり歩き』博文館新社、2001年。

収集品をネット展示してみる~石田保忠中将旧蔵の写真~

2015年09月05日 13時15分06秒 | 収集品
こんにちは、9月とはいえまだ暑いですね。
今日は、少し情報が欲しいもの。

石田保忠陸軍中将(写真はまごーん所蔵)
この方、石田保忠さんの旧蔵写真を私の持っている中から少しと、幸い、石田保忠の妻・石田文枝が自分史『知らず知らずに九十五歳 元女医の人生ひとり歩き』として記録に残されておりましたのでその中にあった写真を交え紹介します。
石田保忠略歴
陸軍中将 士27大39 東京
1915(T4).5 陸士卒
1915.12.25 歩兵少尉
時期不明 久居連隊付(1926年頃と推測)
1927.12.1 陸大卒
1928.12 千葉陸軍歩兵学校・長男誕生
1931.6 歩兵第一連隊
1932.8 千葉陸軍歩兵学校
1936.8 教育総監部
1937.8.30 欧州視察へ出発
1938.3.1 歩兵大佐
1938.3.25 第8国境守備隊第2地区歩兵隊長
1939.3.9 第16師団参謀長
1941.3.1 少将・第32歩兵団長
1943.6.10 第8国境守備隊長
1944.10.14 樺太混成旅団長
1944.10.26 中将
1944.11.20 戦病死・正四位
秦郁彦編『日本陸海軍総合辞典』第2版、東京大学出版会、2005年。
石田文枝『知らず知らずに九十五歳 元女医の人生ひとり歩き』博文館新社、2001年。
をもとに作成。
石田保忠は明治27年、陸軍少将石田保謙の五男として生まれました。
石田家はもとは加賀藩士の家であり、陸軍の名門一家でありました。
保忠の父、保謙は加賀藩士・林家から養子に来たのでした。当時の石田家は加賀藩目付家老本田家が嫁におりましたが、夫は鳥羽伏見の戦いで戦死したため、養子をとったのです。
石田保謙はその後陸士1期となり、少将まで登りつめました。
彼の子供は夭折した四男を除き、皆、陸軍へ入りました。
長男の石田保道は陸士18、陸大27で陸軍少将までになりましたが、折しも市川の野戦重砲第3旅団長の時、二二六事件において、部下数名が参加したため、予備役編入されてしまい、昭和42年死去。
次男の石田保秀は陸士20、陸大29で陸軍中将。陸大の成績は優秀でドイツ駐在も経験しました。昭和5年から侍従武官を務め、旭川の第7師団の留守師団長となりました。昭和44年に死去。
三男の石田保政は陸士23、陸大30で陸大を優等で卒業。類稀なる戦術家でその著書『欧州戦史』は有名です。しかし、病により昭和11年死去。死後少将となり、陸軍大学校内に胸像が作られました。これはメッケルと二つだけで、彼が如何に優秀だったかわかるでしょう。
そして、五男が石田保忠でした。彼もまた陸士27期で陸大39期でした。
2人の息子も陸士予科、陸軍幼年学校へ入っています。
陸士の卒業写真帖が出品されてましたが、私は手に入れられませんでした。

陸大時代の石田保忠と妻の石田文枝さん。(両人は大正14年2月11日に結婚)石田文枝の著書より。
陸大時代の石田保忠は昼も夜も勉強していたようです。
石田保忠は昭和2年12月1日に陸大を卒業。元隊の久居に帰ったとあるので、歩兵33連隊にいたのでしょう。
その後、千葉の陸軍歩兵学校、教育総監部を経て、欧州視察となります。
陸大卒業の翌年・長男である保久さんが誕生します。

長男誕生時の石田保忠。

千葉時代の石田保忠。抱えられているのはのちにインド史研究家の石田保昭さん。

1937年のときの石田保忠。
石田は昭和13年に第8国境守備隊第2地区歩兵隊長として羽田から満州へ渡ります。
そして翌年、武漢三鎮で活躍した第16師団の参謀長に就任し8月に内地へ凱旋。
当時の師団長は石田保政と陸大で同期だった石原莞爾でした。陸軍において秀才と言われた石原莞爾と石田保政が陸大同期だというと中々同期も肩身が狭そうですと勘ぐります。
石田保忠の妻である石田文枝は石原莞爾から中華料理などを教わったと回想してます。石原が女性に料理を教える……想像もできません。
さて、第16師団参謀長を務めた後、石田保忠は少将となり、第32歩兵団長で太平洋戦争を迎えました。

第32歩兵団長のときの写真(文枝さんの著書より)
その後、第8国境守備隊長となりました。
文枝さんの著書にその頃の手紙が載ってますので一部引用します(115ページ)
「(前略)文君は死ぬ迄めったに満州にも来れないだろーし、こちらでも色々整理を要するものもありますから、その頃一度海拉爾(まごーん註・ハイラル)に来ませんか(後略)」
(読みやすいよう、カタカナを平仮名に。句読点を挿入しました)
文枝さんは、夫・石田閣下からのお誘いで満州へ行くことにしました。この時、東京発下関行きの列車に甘粕正彦が同じ車両にいたと証言してますが、また確認する必要がありますね(116ページ)。
駅についたら石田閣下が文枝さんを迎えに来てたようですが「この三年余りの間にすっかり痩せて年をと」っていたそうです(120ページ)。
今回、私が所蔵しています写真はこのすっかり痩せた第8国守隊長時代の写真です。
それでは、少し公開しますので比べて見てください。

石田閣下(中央)

右側が石田閣下。

文枝さんの著書より。

石田閣下。
どうでしょうか?最後の写真がすこし疲れてるようにも見られます。
さて、まだまだ文枝さんの著書には石田閣下との話がありますが長くなるので割愛させていただきます。

私の所蔵しております、この写真数葉は、石田閣下旧蔵ですから、文枝さんが亡くなったのか、それとも次男の保昭さんか…と気になっております(長男保久さんは平成3年に亡くなっております)。

保昭さんは、wiki情報によれば現在もご存命でありますが、このような通常遺族が保管されてるものが出てくると、気になってしまいます。しかし、連絡をとろうにも取れないので、困っています。
もし、このブログを見たどなたか、保昭さんと連絡が取れるのであればご一報いただければ幸いです。よろしくお願いします。

また、偕行社に聞こうにも「亡くなりました?」とは聞けないので、なにか良いアドバイス等でもいただければと思います。

生ける伝説・辻政信の自筆葉書(第23師団長・小松原道夫中将弟宛)

2015年09月02日 16時11分23秒 | 書簡・葉書(所蔵品)
こんにちは、まごーんよ。
今日はまた。凄い人の葉書。

今回はあの大本営参謀としてアニメやマンガに起用されてる有名小説家、辻政信さんの衆議院議員時代の自筆葉書を紹介します。
先ず、辻政信さんの経歴を紹介。
M35.10.11 石川県生
弟・理は海軍大尉
弟・政良は陸軍中尉(少尉候補生24期)
T6.9 名古屋陸軍幼年学校入学
T9.4 中央幼年学校へ
幼年学校を首席で卒業(21期)
T11.3 陸軍士官学校予科を首席で卒業
金沢歩兵7連隊に配属
T11.10 本科入学
T13.7 陸軍士官学校本科を首席で卒業(36期)
T13.10 歩兵少尉・7連隊付
S2.10 歩兵中尉
S3.12 陸軍大学校入学
S6.11 陸軍大学校を3番*で卒業し恩賜の軍刀組(43期)・第7連隊第2中隊長
T7.2~T7.6 同連隊第2中隊長として上海事変へ出征し戦傷
S7.9 参謀本部付
S8.8 歩兵大尉
S8.12 参謀本部編成班
S9.8 陸士本科生徒隊中隊長**

S10.2 陸士付
S10.4 歩兵第2連隊付
S11.4 関東軍参謀部付
S12.8 北支那方面軍参謀
S12.11 関東軍参謀
S13.3 少佐
S14.9 第11軍司令部付
S15.2 支那派遣軍総司令部付
S15.8 中佐
S15.11 台湾軍研究部員
S16.7 参謀本部兵站班長
S16.9 第25軍参謀
S17.3 参謀本部作戦班長
S18.2 陸軍大学校教官
S18.8 大佐・支那派遣軍参謀(第3課長)
S19.7 第33軍参謀
S20.2.13 緬甸方面軍司令官より個人感状
S20.5 第39軍参謀
S20.7 第18方面軍参謀
S20.8 地下に潜行
S20.11 バンコク発
S21.3 重慶着
S21.7 南京(国府国防部第2庁勤務)
S23.5 佐世保上陸
S24.8 復員
S27.10 衆議院議員
S34.6 参議院議員
S36.4 ラオスで行方不明
秦郁彦編『日本陸海軍総合辞典』第2版、東京大学出版会、2005年をもとに作成。
*毎日新聞社『別冊1億人の昭和史 陸士・陸幼 日本の戦史別巻10』では2番目の卒業となっている(62頁)。
**同中隊にはのちの三笠宮こと澄宮崇仁親王殿下が配属され、辻政信が教育にあたった(写真はまさに陸士時代の三笠宮崇仁親王/まごーん所蔵)。


神出鬼没すぎぃ!


これが幼年学校・陸軍士官学校を首席で卒業したエリートなのか…!
中尉になって僅か数か月であの圧迫面接のメッカたる陸軍大学校入学してる時点で頭良すぎますし。
そんでもって、いくら陸軍大学校を卒業して10年は特別扱いされてもらえるとはいえ、彼方此方の参謀を務めすぎです。しかも殆ど歴史の陽が当たるところに行き過ぎです本当にありがとうございました。

ちなみに、彼は陸軍大学校教官を務めてますが、評判はすこぶる良かったです。
『ビルマ戦記』を著した元緬甸方面軍後方参謀の後勝さんや、『歴史群像』のインタビューで元第18軍後方参謀の堀江正夫さんが陸軍大学校教官の辻政信について評価しています。


戦後は八路軍(有馬哲夫『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』文藝新書)と戦ったり、日本に帰って衆議院議員を4期、参議院議員を1期務めた辻政信、元気すぎる。
彼の所属政党は自民党です。

主な著作は
『これさえ読めば勝てる』
『潜行三千里』
『ノモンハン秘史』
『十五対一 運命の戦場』
『ガダルカナル』
『シンガポール攻略』
『私の選挙戦』
など多数。
しかもベストセラーとなる。

では、そんな辻政信の自筆葉書を見てみましょう。

宛先は小松原遡男。この人は陸士28期で陸軍大佐。緬甸方面軍の遊撃隊長や司令部付など歴任してます。(アジ歴で「小松原遡男」検索)
この人の兄はノモンハン事件で有名な小松原道夫陸軍中将です。現在はソ連のスパイだったという論文が日本でも発表されましたね。

裏面。辻政信の名前があります。
完全に文が最初の賀と最後の幸しか読めない。まぁ。年賀状なので深い意味はないと思いますが…。

ここから分かるのは小松原氏と辻政信が関係を持ってたということでしょう。
小松原の兄がノモンハンで同じ、遡男氏も緬甸方面軍時代に辻政信と会ってたこともあるでしょう。

小松原道夫はソ連のスパイだったのかもしれませんが、弟も関係してたのか、そして辻もその繋がりで関係を持ってたのか、議員時代、とくにこの葉書を出した前年、辻政信はソ連へ行ってますから、妄想が膨らみますね。



ところで私は辻政信はまだ生きてると思ってますからね!カムバック!つじーん!