雑賀孫市(まごーん)の中の人ブログ

まごーん(中の人)が独りでぼちぼち呟く。

汪精衛工作

2014年02月25日 21時49分14秒 | 中華民国南京政府
こんばんはー。まごーんやー。
今日も汪精衛について。
蒋とともに南京政府で務めていた汪は1935年11月1日、国民党六中全会の開会式の記念撮影で狙撃されます。汪は翌年、療養のため渡欧し、1937年1月に帰国します。
この年の7月には日本軍の北平攻撃により日華事変が勃発。汪はこの事変で徹底抗戦を唱える蒋とは逆に和平グループの中心を担います。
この汪に目をつけたのが今井武夫陸軍中佐や影佐貞昭陸軍少将を中心とする日本側の中国との和平を目指すグループです。日本の中国和平派は汪との接触を開始、汪兆銘工作を始めます。
汪は1937年11月13日に起こった長沙大火で蒋を批判し、彼との対立が決定的となります。今井武夫によると、16日の蒋との会談で決別を決意したらしいです(今井武夫著・支那事変の回想より)。11月20日、汪は満州の承認や日本軍の2年以内の撤兵などの内容が盛り込まれた日華協議記録に署名、調印しました。この合意の実現のため、汪側は「我々が重慶を脱出するかわりに日本は和平解決条件を公表し、我々はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定しました。この計画に基づき、汪らは重慶を脱出することになります。

本日はここまで。明日は2月26日。二二六事件が起こった日なので、事件に遭遇した親戚の昔話をやります(つまり一時休憩)。

國民政府の重職を歴任した汪精衛

2014年02月24日 13時40分49秒 | 中華民国南京政府
こんにちはまごーんです。お昼はラーメンでした。
今日も昨日に引き続き、南京政府について話します。
まず、南京政府の中心となる

汪精衛についてですね。イケメンです。汪は南京政府主席として、戦後は漢奸とされてますが、彼は中国建国の父である孫文の愛弟子で彼の遺言などを起草するなど、大変な信頼を得ていました。
1925年に孫文が亡くなると広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任します(広東國民政府)。つまりNo.1です。余談ですが毛沢東(マォツォトン・もうたくとう)もこの政府に参加してました。
1926年にはいわゆる北伐が開始され、政府が武漢(ウーハン)へと移りますが、ここでも汪は主席となっています(武漢國民政府)。しかし、次第に蒋介石と衝突し汪はフランスへ亡命します(翌年に蒋介石の招電で帰国し中央常務委員、組織部長に就任)。
1932年に蒋と汪を中心とする南京國民政府(汪の南京政府とは違います。ややこしいですね)が発足し、汪は行政院長、鉄道部長などを務めます。

本日はここまで

あゝ、二つの國民政府~中華民国南京政府~

2014年02月23日 21時31分54秒 | 中華民国南京政府
こんばんは、夜は寒くて震えるまごーんです。
ネタがないのはいつものこと。しかし、わたしには歴史という話のタネがある!
ということで(どういうことかは気にしない)今回は中華民国南京政府、いわゆる汪精衛政権についてかる~くお話しようと思います。
先ず、中華民国と言われても分からない人も多いと思います。一般的な中華民国は孫文(ソンウェン・そんぶん)が1912年1月1日に成立させた国家です。
これは現在も続いていて今の台湾です。観光地ですね。
学校で習うのは蒋介石(ジャンジェンシー・しょうかいせき)の頃が殆どでしょう。
しかし、私が話したいのは蒋介石ではなく、汪精衛(ワンジャオミン・おうせいえい)の中華民国です。これも話すと長いのでぶつ切りにして話して行こうと思います。
本日はここまで、長々話すと飽きちゃうしね。 (´・ω・`)

こちらが南京政府の国旗。上に載ってる和平・反共・建國は南京政府の標語である。