姜吉云氏は『倭の正体』(2010年 三五館)において次のように主張している。
(1)天皇は駕洛(任那)または百済出身
●『紀』は駕洛国史をもとに百済史を織り交ぜて作り上げた史書である。
●諡号を言語学的に分析すると、崇神天皇は駕洛国初代の金首露王、応神天皇は同じく第5代の伊尸品王、仁徳天皇は坐知王、允恭天皇は銍知王に対応する。
●神武天皇は『姓氏録』によれば、新羅出身であり、新羅の初代朴赫居世の弟。つまり、崇神以下の河内王朝とは別の系統である。
●継体天皇23年に日本に来た任那王の己能末多干岐(第10代の仇衡王)は任那に帰国したことになっているが、任那(駕洛国)には帰国した記録がない。駕洛国は532年に滅び、新羅に降伏したのは仇衡王の弟の仇居亥王である。己能末多干岐は第29代の欽明天皇になった。(継体と欽明の間の安閑天皇と宣化天皇はどうなったのか?)欽明が任那再興の詔を8回も発しているのは、彼が任那の最後の王だったからである。
●『紀』には百済と倭の交渉記事が65回と異様に多く、また倭国に関係がない百済対新羅・伽耶諸国・高句麗の記事も多い。これは百済系の元明天皇の勅撰によって編纂されたからである。
●663年における白村江での大敗以降、数千人規模の百済人が倭国に亡命、それぞれ百済での官位に鑑み官位を授けられた。すなわち、百済は倭国に分国を建設したのである。
●舒明天皇は百済の威徳王の王子、阿佐である。宮殿を百済川のほとりに建て、百済宮と称した。渡日してから、田村皇子の名で、百済系の蘇我馬子と協力して、駕洛系の聖徳太子を殺害、同じく駕洛系の推古天皇が亡くなるや皇位についた。
●継体天皇は百済の東城王である。皇極天皇は百済系の王女。孝徳天皇は百済の武王の王子、智積である。天智天皇は加羅系の百済の王、義慈王の王子、翹岐である。
●孝徳天皇になり代わった武王の王子、智積には、百済から連れてきた二人の王子がいた。その一人、達率長福が天武天皇になった。『紀』には智積と長福が百済に帰ったとか、死亡したという記述がない。
●天智は今来の百済人を統合して、百済の後身たる近江朝を築いた。天武は古参勢力を統合して皇位を奪った(壬申の乱)。
(2)倭人と任那
●新羅に倭人が攻め入った回数は、初代の朴赫居世王から第21代の炤知王までの間(BC57~AD500)に36回あるが、『日本書紀』では雄略紀9年(465年)の1回だけ。
●『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人は新羅と国境を接していたという記述がある。
●倭が東晋」の安帝に朝貢したとき献上した品に朝鮮人参と貂皮があり、これは朝鮮半島の産物。
以上からして、5世紀までは半島南部に倭人がいたと結論づけられる。
●倭人が住んでいたのは任那(駕洛国―伽耶―加羅)周辺であり、倭王珍は宋朝に朝貢して「使持節都督 倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」の官位を授けられた(425~443年)。任那の場所は、現代の金海のあたり。なお、倭王武も同様の官位を授けられた。泰韓(辰韓)・慕韓(馬韓)が含まれているにもかかわらず、弁韓が含まれていないのは、弁韓が倭のルーツだからである。
●「任那日本府」とは、任那滅亡後、大和倭が任那の再興をはかる連絡機構だった。
●伽耶と大和倭には、同じく竪穴式石室の大型墳があり、その墓から出土した副葬品にも同じものがある。したがって、任那と大和倭の権力者は同族である。
●西日本には、伽耶―加羅に由来する地名が、新羅・百済・高句麗のそれより圧倒的に多い。例:加良、可良、賀良、韓、唐、軽、etc.
●『継体紀21年』に、「倭国が6万の大軍を半島に派遣した」という記述があるが、一艘に百人乗ったとして6百艘が必要で、当時の倭国としては不可能な動員力である。663年の白村江の戦いでも、日本が派遣したのは170艘だった。
●『紀』には「高麗王遣使朝貢」(応神紀28年)「呉国・高麗国並朝貢」(仁徳紀58年)など、半島側が朝貢したという記事があるが、これは単なる修好の遣使であって、当時の力関係からして、「朝貢」という用語を使用したのは誤り。
●有名な好太王碑文には、高句麗が391年に倭軍と交戦したという記述があるが、その当時の倭国に半島奥深く攻め込むほどの軍事力があったとは思えない。大和倭も多少は混じっていたかも知れぬが、この時の高句麗の相手は任那加羅を中心とする加羅族の集団だった。
コメント:
① 崇神から允恭までの天皇は駕洛国の王だったとして、『紀』に記述がある事跡は半島で起きたことを日本に置き換えたのか、それとも捏造ということか?
② 『紀』にはその他の古文書(古事記など)と同じことを記述した部分がある。編者が違うのに、同じ史実が述べられているのは矛盾ではないか?