峻しゅん日記

産まれつき呼吸器の付いた峻也。
病名はミトコンドリア呼吸鎖複合体欠損症
現在8歳です♡

入院生活

2010-10-08 10:07:10 | 峻也 妊娠~出生まで
入院生活は本当につらかった。。

主治医の先生から羊水過多の時の赤ちゃんの病気のことを説明され正直絶望でした。

絶望って言い方はおかしいのかもしれないけど
この時の私はまだまだ母親としての自覚も薄く
お腹の子のことを、どう受け止めればいいのかわからなかったように思います。
なんか漠然と健康な子が産まれて当たり前みたいな考えが自分の中にあったのは確かだし
先生から説明されても『うちの子はきっと大丈夫』って思ってたんだよね。

エコーで赤ちゃんを見た時に先生から
「横隔膜の動きが少ない」「羊水の嚥下をあまりしてない」と指摘を受けました。
でも胎動はすごく活発だったし食道閉鎖とかの所見もなくて
先生から言われたのは『産まれてみないとわからない』
ただ『羊水過多症の9割は障害をもって産まれてきます』ということだった。

毎晩毎晩泣いて泣いて、でもどこかでまだ『うちの子はきっと大丈夫』って信じてた。
その頃から自分が妊娠したこと、赤ちゃんを産み育てる事、自分は母親になるんだということを真剣に考え始めた。

新生児科の先生からも赤ちゃんのことについて説明を受け
『きっとなんらかの障害はおありだとは思います』と言われた。

産まれる前から‘あなたの子供は障害があります‘と言われることは、やっぱり辛かった。

いろんな気持ちと葛藤しての入院生活。

でもそうやって毎日お腹の赤ちゃんのことを考えていく中で、なんか次第に気持ちの転換ができ始めて
(私この子の母親なのにこんなくよくよしてどうするん!障害があっても私の子には変わりないがん!)
って思えるようになってきた。
この流す涙は何なんだろって・・・

双子の一人がダメになって、でも峻也はそれでも生きようとしてくれて。。
私の子供として産まれてこようとしてくれて、私を母親としてえらんでくれたんだなって思って。
私が母親としての自覚が足りなかったから、少しは僕のこと考えて!ってお腹の中で叫んでたのかも。。

今思えばあの頃が懐かしい・・ちょうど1年前ぐらい。。
でもあの頃はただ必死だったよね。


妊娠発覚~羊水過多発覚まで

2010-10-08 09:26:56 | 峻也 妊娠~出生まで
今日は私たち親子の生い立ちを書いてみよっかな。。

振り返りたい過去なのか振り返りたくない過去なのか・・・
でもこうやって文章に表すことで自分の中でも気持ちの整理ができるような気がします。

私が妊娠に気付いたのは2009年の4月でした。妊娠3カ月。
パパになる人とは結婚を考えている最中の妊娠でした。
看護師2年目の私は仕事がやっと楽しくなってきた時期だったからすごく戸惑ったのを覚えています。

もともと生理不順でホルモン剤を飲んでいたけど、ホントまさか妊娠するなんて・・って感じだったかな。

つわりは超ひどくって仕事どころじゃないぐらい・・でも看護師長には妊娠は病気じゃないからと休みをもらえず。。
本当にあの頃は仕事がしんどくてしんどくて。

初めは双子だったんです!
でも一人の子は気付いたときには死んでしまっていました。。
もしかしたら、もう一人の子もダメかもしれないと言われました。

それでも峻也は生き延びてくれました。

そして妊娠5か月。。の頃から臨月並にお腹が大きく仕事がさらにしんどく、、
でも産科医には赤ちゃんが大きいだけと言われ続けました。

6か月の時に仕事を退職。

羊水過多が判明したのは妊娠8か月手前。。
すぐに大きい病院で精査が必要と県南の病院へ送られました。

それから出産までその病院での入院生活が始まりました。。