ニッカウイスキー
竹鶴政孝History 『竹鶴の夢』
竹鶴はただ一つの夢を追い求めた。
その一念の元に多くの苦労を乗り越え、ついに自分の夢を叶えたのである。
ウイスキーづくりへの誇り
昭和37年、英国のヒューム副首相が来日した際、当時の池田首相に、こう話したと言われる。
「50年前、頭の良い日本の青年がやってきて1本の万年筆とノートで英国のドル箱であるウイスキーづくりの秘密を盗んでいった」
これは日本のウイスキーの品質を誉めた上でのユーモアでありながら、実は日本のウイスキーの品質の良さに対する本音であった。
これを聞いた“頭のよい日本青年”は冗談まじりにこう言った。
「世間には、スコットランド専売のウイスキー造りを持ち帰った私に、英国人がよい感情を抱いていないのではないか、と危惧する人がいる。とんでもない。スコットランドでしかできないウイスキーを日本で造ったおかげで、今ではどんな田舎でもウイスキーが飲まれている。
日本はスコッチの大きな市場となったのだから、私の方こそエリザベス女王から勲章をもらってもよいくらいだ。」
事実、日本のウイスキーはイギリス人に脅威に思わせるぐらい、本場スコッチと肩を並べるレベルまで高まったのである。
それから7年後の1969年7月12日、イギリスのデイリー・エキスプレス(The Daily Express)は『日本、スコッチの市場に侵入』という見出しで大きな記事を掲載した。
これはデイリー・エキスプレスのニューヨーク駐在記者たちが、ニューヨーク・タイムスに載ったニッカの広告を見て、どんな味がするのか興味を持ち、本場スコッチのウイスキーとニッカを目隠しで飲んでみたもので、記者たちが「これが日本製だろう」と思ったものは本場スコッチで最高の12年ものだったという。記事は“英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、今度は英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴りこみをかけてきた”と続き、大変な反響を呼んだ。
日本で本物のウイスキーを育てることしか頭になかった竹鶴にとって、これほど痛快なニュースはなかった。
また竹鶴には、ウイスキーづくりの功労者として勲四等叙勲の申し入れがあった。
しかし彼はこの申し出を丁寧に断った。
その弁として、
「わたし個人としては、いただくことになんら異存はない。
ただ、ビール会社の社長は勲三等をもらっている。わたしが勲四等をいただいてしまったら、ウイスキー業界関係者は将来とも勲四等ということになる。業界のためにお断りいたします。」
その後、再度受勲の打診があった。
このたびは勲三等である。竹鶴が勲三等ならばと快諾したことはいうまでもない。
まさに竹鶴は頑固なまでにウイスキーづくりに誇りを持っていたモルトマンであった。
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