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続 昔の日本人は天才だった

2011年11月23日 17時08分40秒 | 色んな情報
続 昔の日本人は天才だった
前の日記で父の事を書いた。
還暦過ぎて年金まともに貰える年になってもあの人は超えられない。
母の面影が一般的には印象きつくて影響されたというけど私は父からのものが多い、

工面 工夫 都合
しっかりとしていた人。

高等小学校 中退で12くらいに貧乏百姓の家を飛び出して流れモンになった。
土方をシテイて型枠を組んでいたようだ。
セメントを流しこんでそのものの基本になる部分を作り出す。
だからコレがしっかりと頭の中にないとできない仕事。
基礎は一番下っ端のものが作っているけど一番大事な仕事。
基礎がダメならいくら偉い先生でも技術者でもその上などに立派なものは作り出せない。
小さい時からそのへんはしっかりと身に付けたいたのだろう。
生物学者の名前は忘れたけれども子供の頃から虫や草花に興味を持ち年行ってから学者になった人がいた。
ファブルだったかな。
日本ではフンコロガシをズット研究していて学者になった人も居る。

子供の頃の興味は大事なんだろうね。


そんな岳も無い父がシバラクと言われて素直にそれ受けて屋号にした。
はじめはひらがなであった。
いつからか漢字を当てて志葉楽にした。
ヤハリ何らかのセンスがあったのかな。
のれんも下屋の上に乗せた木目がしっかり出た生地に書かれた文字が目に浮かぶ。
横幅さんメートル有る看板で自分で付けたのだろうと思うけど横幅の小さな屋根がついていた。

今思い起こしても服装などのセンスはこれっぽっちもないけれど意匠などのセンスは抜群の人だと思う。
店の内装も相談はアチコチでしただろうけど自分の頭の中で設計図組み立てをシテイて一人で総てこなしていた。
大工と指物師が何人も客として(飲み屋もしていた)来ていていつも感心していた。
うちの町内は色んな職人が沢山居るところだった。
迎えには造り酒屋もありそこの酒は殆ど置いてないのに旦那が嫌な顔ひとつしていなかった。
なんか人に好かれる人間だった。
いつの頃からか警察署長まで出入りするようになり賭場まで我が家の二階で開帳シテイた。

よく 内弁慶の外すぼりと言われていた。
家の中では常に威張っていた。
他人にはいい顔ばかりシテイた。

でも長年 麺類組合やクリーニング屋の組合長をシテイた。
あとで聞いた話で曲がったことが大嫌いでいつも突っ込むからトップにしておいた方がトラブルがなくて良い。
だからだと聴いた時にとても先の話とは違う人だと思った。
他人に良い変えばかりしていればそんな立場に成るわけがない。
あれは家のものの前だけのパフォーマンスか。

家族には厳しくて食事は八人家族全員で食卓を囲む。
70センチくらい有る鍋に芋なら芋ばかり 茄子なら茄子だけを煮る。
現在のようにおかずにバラェティは無かった。
それに店で使うために作ってある白菜漬けやたくあんなど。
いつも大きな樽に(直径80センチくらい)いくつも付けていたから。
38や56豪雪の時はこれだけで一ヶ月以上は飢えをしのいだ。

食べていて喧しくなると箸が飛ぶ。
ギュッと握りそのままお膳を叩く。
そうすると箸の根っこを持つことになり握り部は空間に位置するからそのまま下ろせば頭の重みと反動で頭へ当たると結構痛い。
何度されたことか。
皆食事時間は行儀が良かった。
肘などついていようものなら脳天に振り落とされる。
今でもこの作法は生きている。
大分ダラしなくはなって来ているけど。

大分話はズレてしまったけど

昔の人は色んな物に  工夫 工面 都合を付けて生活していた。
だから危機管理も現在のようなことは無かった。

オカズなければ隣へ行って醤油を借りたりしたもの。

承和は良かったというけれども一人ひとりの役割分担をしっかり身付けて思いやりを持ち生きていた。

プライバシー法を否定するわけではないがそんなことを皆持っていたのではないかな。
だから工夫ができて天才ばかりではなかったのかな。

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