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●『更級日記』『蜻蛉日記』

2014年02月28日 18時26分25秒 | 色んな情報

●『更級日記』『蜻蛉日記』
◆さらしなにっき 【更級日記】
日記。一巻。菅原孝標女(たかすえのむすめ)作。1059年頃成立。物語に傾倒した少女時代から、宮仕え、結婚生活を経て、寡婦(かふ)となった晩年までの約40年間を回想的に綴る。浪漫的な少女の精神形成が跡づけられ、夢に関する記事が多い。
 
◆『更級日記』(さらしなにっき / さらしなのにき)http://p.tl/aSCL
平安時代中ごろに書かれた回想録。作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女菅原孝標女。
母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母である。
作者13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間が綴られている。全1巻。
平安女流日記文学の代表作の一に数えられる。江戸時代には広く流通して読まれた。
・内容
東国・上総の国府に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したので寛仁4年9月京の都(現在の京都市)へ帰国(上京)するところから起筆し、源氏物語を読みふけり、物語世界に憧憬しながら過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、30代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教傾倒までが平明な文体で描かれている。製作形態としてはまとめて書いたのだろうと言われている。

源氏物語について最も早い時期から言及していたとされ貴重な資料となっている。光源氏物語本事に伝えられる、定家本にはない逸文からは譜と呼ばれる、おそらく注釈書のようなものの存在も知られる。

・書名
書名の「更級」(更科)は、作中の「月も出でで闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ」の歌が、『古今和歌集』の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て(雑歌上、よみ人しらず)」を本歌取りしていることに由来すると言われている。作中に「更級」の文言は無い。

御物本の外題に「更級日記」とあるが、それ以前に題があったかどうかは不明である。

・写本と錯簡
東山御文庫に伝えられてきた 藤原定家による写本、通称「御物本」が現存する。他の現存する写本は全て御物本の系統である。すなわち異本の類は一切なく、その点において例外的な古典である。一方で以下に書くように、定家以前にも一部(もしくは全体)が写された事があり、断片的には定家本以外のテキストも知られる。

いつしか御物本は順序を誤って綴じられていて(錯簡)、他の写本は全て、この錯簡を含む御物本に由来していたため正しい順番で読むことは困難だったが、大正13年(1924年)の御物本の発見に続き、佐佐木信綱・玉井幸助によって錯簡が発見、整理・訂正され、それ以降は正しく読めるようになった。
 
◆更級日記
作者は菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(むすめ)。本名不明。父の孝標は菅原道真の子孫、兄・定義は大学頭・文章博士、母の姉は『蜻蛉日記』の作者(藤原道綱の母)という文学的環境で成長した。
 作者の夫が亡くなり、火葬にしたのが康平元年(1058)10月23日で、日付がわかる最後の記述である。作者はその後、悲しみのうちに孤独な日々を過ごしたことなどを書き記しているため、日記が成立したのは康平2~3年、作者52、3歳のころとされる。
 『さらしな』の書名の由来は諸説あるが、日記の終わり近くに「月もいでて闇に暮れたる姨捨(をばすて)に何とて今宵たづね来つらむ」とあるのが、『古今集』巻17にある「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」をふまえており、姨捨山は夫の任地・信濃の国の更級の近くでもある。書名はおそらく後人がつけたとされるが、作者自身を「をばすて」と観じ、その縁をふくんで『さらしな』としたのではないかという。
             内容は、作者が13歳の年から52,3歳の年まで、およそ40年間の自己の人生を回想的に綴った自叙伝となっている。少女時代の、『源氏物語』や様々な物語の世界へのあこがれが、宮仕え・結婚・二児の母などの現実の厳しさを経るうちに、信仰生活に傾き、最後は彼岸へと夢を託した。 

 
◆更級日記門出 現代語訳 - 楽古文  http://p.tl/1t9i
          あづま路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、
          いかに思ひ始めけることにか、世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、
          つれづれなる昼間、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、
          ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。
          いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗いなどして、人まにみそかに入りつつ、
          「京にとく上げ給ひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せ給へ。」と身を捨てて額をつき、
          祈り申すほどに、十三になる年、上らむとて、九月三日、門出して、いまたちといふ所に移る。
          年ごろ遊び慣れつる所を、あらはにこほち散らして、立ち騒ぎて、日の入りぎはの、
          いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、うち見やりたれば、人まには参りつつ、
          額をつきし薬師仏の立ち給へるを、見捨て奉る、悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。
 
◆更級日記に関するQ&A-Yahoo!知恵袋  http://p.tl/xWKK
Q. 更級日記の物語ってどんな話ですか?
A. 更級日記は、菅原孝標女によって平安時代中ごろに書かれた日記です。東国・上総(現在の千...
 
Q. 更級日記の現代語訳がのっているサイトを 教えて下さい
A. 自分で調べろよな。。。http://eva.genji.cc/boujin/sarasinanikki.htm
 
Q. 更級日記の門出の文法について... 更級日記の門出の文章の中で「なる」の識別をや...
A. ===1=×ここは、「伝聞」。「...あると聞いている」の意。2=○「つれづれなり」.
 
◆文化系女オタの始祖?「更級日記」が共感を呼んでた - NAVER まとめ  http://p.tl/ethx
(´-`).。oO(いつの時代もオタクって変わらないな…
 

 
◆●
◆かげろうにっき  かげろふにっき 【蜻蛉日記】
日記。三巻。藤原道綱母作。977年成立か。藤原兼家との結婚に始まり、夫との不和、子への愛情など21年間の生活をつづる。女性の筆になる最初の日記文学。
 
◆蜻蛉日記   歴史民俗用語辞典
読み方:カゲロウニッキ
平安時代の自伝的日記。藤原道綱の母著。
 
◆『蜻蛉日記』 http://p.tl/eZpC(かげろうにっき、かげろうのにっき、かげろうにき)
平安時代の女流日記。作者は藤原道綱母。天暦8年(954年) - 天延2年(974年)の出来事が書かれており、成立は天延3年(975年)前後と推定される。上中下の三巻よりなる。題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。

夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。

歌人との交流についても書いており、掲載の和歌は261首。なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首にとられている。女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学の嚆矢ともされている。

なお兼家に対する恨み言を綴ったもの、ないし復讐のための書とする学者もあるが、今西祐一郎は、兼家の和歌を多数収めているので、兼家の協力を得て書いた宣伝の書ではないかという説を唱えている

 
◆藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)http://p.tl/mi5a
平安時代の公卿。妻の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。

右大臣藤原師輔の三男であり、出世では次兄の兼通の上を行った。円融天皇のとき長兄の摂政伊尹が早世すると、次の関白を望んだが、次兄の兼通に奪われてしまった。関白となった兼通は兼家を憎んでことごとく出世の邪魔をし、死に際に兼家を降格させることまでした。兼通の死後は右大臣に任じられて次第に朝廷内での権勢を得る。策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後、兼家の系統が摂関を独占することになる。
 
◆蜻蛉日記(かげろうにっき)
作者は夫の愛を求め、「30日30夜は我がもとに」を目標に「寂しい」「待ってる」としおらしい手紙を送る。

しかし夫が作者宅を訪れると、彼女は嫌がらせ連発で不満タラタラ。「手紙」と「実際の態度」がいつも違う。不満がたまり過ぎて、顔を見るとそうなってしまうのだろうけど、でも、夫はうんざりする。

貴族の男性は妻と同じ屋敷には住まず、妻が複数存在する。貴族の女性は、そんな夫を毎日じっと待つだけという立場。
 
◆「蜻蛉日記」について  右大将道綱の母  http://p.tl/tIrS
「かげろふのあるかなきかにほのめきてあるはあるとも思はざらなん」
 《かげろうがあるかないかにほのめいているようなわが身のたよりなさでは、たとえ生きていても、生きているなどとは思って欲しくない》
作者の右大将道綱の母は、この歌を借りて「蜻蛉日記」という題を取りました。千年の昔、身分の高い貴族の結婚生活をたいへん晴れがましい、派手なものだと思いがちですが、実は平安時代の貴族の女性にとって、結婚生活とは物語にあるような晴れがましいものではけっしありませんでした。作者は、実人生の不平不満「こんなに精一杯生きているのに、どうしてこうもあはれなの?」という思いで、自分のはかない人生を振り返り、この日記を書いたのです。


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