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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

面接

2008-04-14 05:05:09 | Weblog
ここのところ天気が良い。雲は多いが、青空が覗き、強い陽射しに身体は火照る。それが夜間になると空気がひやりと冷たくなる。というのも、サンパウロの標高は800メートル弱ある。熱帯夜で寝苦しいということはない。雨の多い地域なので、天候に一喜一憂することになるが、運良く好天が続けば3月のサンパウロは過ごしやすい。青空に浮かぶ雲は大地に近い。

3月5日、水曜日。私は公衆電話を前にしてじっと立っていた。その間、前口上を頭の中で暗誦し、不安と緊張で塞がる気持ちを和らげようと試みた後、プッシュボタンを押した。

電話の相手先はサンパウロ新聞社という。日系人の購読者を対象とした日本語で書かれた新聞を発行している。私はそこの編集局長を呼び出し、面会の約束を取り付けた。

私は日本を発つ前に、父の友人でブラジルに長年住み、一財産を築いたという人と会い、彼の経験談を伺っていた。彼は20世紀の激動のブラジルを生き抜いてきた面構えの厚さとともに、原野に眠る財宝を巧みに嗅ぎ付ける機知と、儲け話にはいつも抜け目なく仲間に紛れ込むことのできる愛嬌を備えた表情をしていた。

彼が若い頃、アマゾンで盗賊団の一味に加わり、あるとき襲った集団が、実はチェ・ゲバラのゲリラ部隊で、ほうほうの体で逃げ出した-などと言う、破天荒な話しを聞いたりした後、彼は私にブラジルで行き詰った時の連絡先を教えてくれた。それがサンパウロ新聞で、彼は自分の名前を出したら大丈夫だと太鼓判を押したが、ここを頼るのはあくまでも最後の切り札として、にっちもさっちも行かなくなった時にしろと、念もまた押した。

目の前にいる偉大なガリンペイロ(山野で貴金属や宝石を探し回る人。山師)に担保された言葉から、私は直ちに学生時代に教科書で読んだ、ナチスに捕まったユダヤ人の若者が収容所に連行される途中脱出を企て、ある者から食べるのは極力後にしろと言われ手渡されたパンのおかげで空腹の絶望に打ち勝ち見事逃亡することができたが、最後に布切れに入ったそれを開けると実はパンではなく石ころであったという、『一切れのパン』という小説を思いだした。

午後3時、サンパウロ新聞社を訪問する。会社の所在地がある通りはミツト・ミズモトと言い、サンパウロ新聞の創業者の名前を冠している。功成り名遂げ、サンパウロの名士となったのだろう。だが建物は、新聞社のビルというよりは町の小さな印刷所といった風の古い質素な建物で、入るとこれまた印刷所の事務方の、気の利かないおばさんといった女性が愛想なく私を眺め、用件を伝えるとたどたどしい日本語で「中へどうぞ」と言った。

30分後、私は新聞社を辞した。父の友人が名を挙げた編集局長には会えた。話しを聞いてもらえた。だが仕事の口は無かった。切り札はあっけなく潰えたかに見えたが、一縷の望みが残されていた。彼は別の新聞社の編集長の名を挙げ、そこでは現在求人しているはずなので、彼を訪ねてみたらと言った。

電話を掛け、編集長に事情を話すと、さっそく面接に応じてくれるという。もはや失敗は許されない。私はこの日のために日本から持ち込んだとっておきの仕事着、すなわち革靴を履き、ワイシャツを着て、ネクタイを締め、スーツを着て-といっても上着は持って来ておらず、ズボンだけであるが-、午後5時過ぎ、サンパウロ新聞と比肩する日本語新聞のもう一方の雄である、ニッケイ新聞社を訪れた。

編集長は予想していたよりずっと若く、40代に届かないように見えた。他のスタッフも日本人で、さらに若い。面接時間を5時以降に指定したのは定時の退社時間後に行いたかったのだろう。ひとり、またひとりと退社してゆく。日本の新聞社はべらぼうに忙しいと聞いているので、ここサンパウロのニッケイ新聞がずいぶんのんびりしたものに見えた。

編集長はいくつか私に質問し、その中心はなぜブラジルに来たかということであったが、そして自社の活動内容を簡単に説明したが、それらの語勢に覇気が無い。

業務内容は取材と記事作成ということだが、それならば私の語学力や文章力についてもっと突っ込んだ質問があっても良さそうなものなのだが、まるで新幹線の車内で偶然隣り合わせになった遠縁の者に義理で話しかけているといった調子で、表面的な話のみで面接を切り上げようとする。サンパウロ新聞の編集局長の紹介でやむなく相手はするが、人物にはとうに興味を失っているといった雰囲気が漂っている。

彼が唯一語気を強めたのが、ニッケイ新聞の購読者は日本語の読める高齢の日系一世なので、人口の減少とともに発行部数も減る一方であるため、将来どのような事業を新たに進めていけばいいかということであった。そのような社命を左右する重大な問題に私がとっさに答えられる筈もなかった。

会社を辞した時、通りはしっとり薄暗くなっていた。求人募集を始めたばかりなので、結果は再来週まで待てとのことであったが、面接の感触から、まず採用は望めないと思った。切り札はあっけなく川に流されていった。



再来週の週末が過ぎてもニッケイ新聞から連絡がないので、その次の週明けに電話で問い合わせてみた。編集長は恐縮しながら、今本命からの返事を待っており、結果はその動向によって決まるので、もう少し待って欲しいと言う。

私は、ならば私にも採用の可能性がないわけではないのかと尋ねると、まあそうだと言う。本命が採用を承諾すれば仕方がないが、もし採用を拒否するといった事態になれば、私にも採用のお鉢が回ってくるかもしれない。

少し気を取り直し、駄目でもともと、ならばやるだけの事はやろうと思い、面接時に編集長が尋ねた将来の事業計画について、私のアイデアを書き、Eメールで送った。新聞社の情報収集力とネットワークを活用し、人材派遣業を行うのはどうかといった内容であった。自分でもこの案が採択されるとは思ってもいなかったが、彼に私のやる気と発想力を見てもらいたかった。

メールを送った翌日、謝意とともに現時点では実現は難しいとの返事が届いた。

さらに数日後、再び編集長からEメールが届いた。開封を待たずして内容は明らかであった。タイトルに「残念なお知らせ」と書いてあった。日本を出発前に手渡された布切れの中身はやはり石ころであった。

サンパウロ

2008-04-06 05:06:22 | Weblog
サンパウロに来た。

市の人口1千百万、大サンパウロ圏全体では1千9百万もの人々が生活する巨大都市の表情は、ブラジル第二の都市であるリオのそれとは明らかに違う。

林立する高層ビル。道路を埋め尽くすおびただしい車の列。信号が青に変わると、車はいっせいに目が覚めたように動き出し、車間は短く、その動きに隙がない。ようやく車群が途切れたと思うと、すぐに次の車群が後方から猛スピードで迫ってくる。歩行者はそのわずかな空隙をぬって駆け足で横断する。

リオではどうだったか。こちらは信号が変わっても、先頭の車はそれに気付かずぼんやりしていることが多く、また、車が動き出しても、まず数台先には流れについていけない車が現れるので、その間歩行者は容易に横断することができる。要するに先へ先へと進もうとするドライバーの緊張感がリオとサンパウロでは圧倒的に異なる。

歩行者であってもその違いは一見して分かる。サンパウロの歩行者はとにかく足が速い。ごく一部のお年寄りを除くと、皆せかせかと早足で移動する。若い女性の速力に、日本では早足を自負していた私も追いつけないことしばしばである。

歩き去る彼等の表情の多くは眉間にしわを寄せて、目はひたすら進行方向を凝視しながら、口をむっつりと閉じている。時間に追われる都会の生活のなかで、ストレスが彼等の体内に蓄積しているのが分かる。なかにはストレスの重圧に押し潰されたかのように、顔をゆがめながら歩いている人もいる。

ここサンパウロでは、肌の色が異なる他は、人々の動きも表情も東京に似ている。すなわち大都会で生活する人間の標準的な特徴であるスピード、ストレス、ストーニネス(無表情)が、サンパウロでも顕在する。



2月26日火曜日、私は持てるだけの荷物を抱え、リオからバスで6時間かけてサンパウロに到着した。当面はペンション荒木という、日本人旅行者の間では割と知られた安宿に滞在することにした。そこは1ヶ月の費用を前払いすると、短期滞在と比べて大分割安になるのであった。

過去に2回ほど泊まったことがあるので、オーナーのおばさんとは顔馴染みであり、宿の勝手も知るところであった。うっかり予約を入れ忘れており、満室で断られたら重い荷物を抱えてどうしようと心配であったが、幸い空室があった。

ペンション荒木はリベルダーデという地区にある。ここは世界で最も大きな日系人コミュニティがあるところで、ガルボン・ブエノという通りを中心に多くの日本食材販売店や和食レストランがある。近年中国人が急増し、彼等が経営する店が増えてはいるが、日本語の看板が立ち並ぶ商店街の風情はブラジルにいることを忘れさせてしまう。

そして、私がここに移った目的は、仕事を得て生活費を稼ぐことだ。残念ながらリオでは職を見つけることができなかった。私の友人達は知人に口利きをして、仕事を斡旋するよう尽力してくれたりもしたのだが、私は就労ビザを持っておらず、それがいつもネックとなり仕事を得るに至らなかった。

サンパウロに来たからといっても私の立場は変わらない。だが、ビザがなくてもここで働いている日本人はいるし、昨年この街を訪れた際知り合った若者がいたが、彼もそんなひとりであった。リベルダーデでは年配の日系1世をはじめ日本語が通じる人が多く、言葉の壁が小さい分仕事も捜しやすいだろう。そして、苦労して日本から渡り、生活の基盤を築き上げていった日系人のことだ。むろん当時の彼等と同じ境遇とは言い難いが、異国の地で困っている私の状況を知って、同情心や同邦のよしみで助けてくれるかもしれない。

私の所持金は尽きかけていたが、このブログをつけることを私に勧めた友人ogawa氏より望外の援助をいただき、あと数ヶ月は生き延びることができた。彼の好意に応えるためにも何としてもブラジルに留まる手段を見つけなければならない。



まずはサンパウロを知ろうと思う。金がない私にできることは、とにかく歩き回ることだ。リオでもそうして街の表情をつかんでいった。

リオの街を歩くのは楽しかった。海岸から湖畔、高級アパート群、ショッピングセンター、閑静な住宅街、丘沿いに連綿と続くファベーラ、現在はホステルと芸術家の住みかに転変したかつての高級住宅街、そしてオフィスビル群と風景が移り変わる。山の頂にはキリスト像が聳立している。

だがサンパウロは余りにも巨大だ。東京23区を徒歩で巡ろうとするようなものだ。ここでは、むやみやたらに歩いても、現れるのはありきたりのビルやアパート、住宅ばかりで、風景の変化が緩慢だ。道路も南北に沿って碁盤の目のように整備されたリオとは違い、右から左へと道が入り組んでおり、すぐに方向を見失ってしまう。

そのため絶えず地図で位置を確認しなければならないが、路上でぼんやり地図を眺めているとどんな輩に狙われるか分からない。勝手知らない街では、たとえその付近の雰囲気が悪くなさそうでも気の抜けないものだ。事実、リベルダーデはサンパウロの中でも治安が良い地区といわれるが、到着して数日後、宿泊客のひとりがすぐ近所で強盗に遭い金を脅し取られた。

到着して2日、3日と過ぎ、私はただ歩き続けていた。最初の頃こそ新しい風景に楽しみを感じていたが、すぐに飽きがきた。ないものねだりをしても始まらないが、サンパウロには海も奇岩もなく、風光明媚な景観は皆無である。せいぜいありふれた公園が広い街に点在する程度だ。

地元の人達と知り合う機会にも乏しい。リオではビーチに行けば簡単に人と話す機会が持てるが、この街でひとり公園のベンチに座っていても誰も話しかけてはくれない。スタンドバーに行けば話し相手が見つかるかもしれないが、頻繁に行くだけの金はないし、健康上酒は控えなければならなくなっている。

宿に戻れば日本人旅行者と話す機会はあるが、私の偏狭な性格として、ブラジルにいながら日本人と日本語で会話しても時間の無駄のような気がしてしまう。それに彼等は旅行者であるが、私は旅行者ではないと思っている。だから彼等の話には興味がなかったし、また自分が旅行者に見られるのを嫌った。そんな意識が知らず知らずに雰囲気に漂わせていたのか、彼等の方でも見えない壁を感じたようであまり積極的に話しかけようとしてこなかった。

到着初日こそ2段ベッド1組が据え付けられた部屋に私ひとりが使用していたのだが、翌日には旅行者が到着、同室となった。私も旅をしていた時分はドミトリーの相部屋はいつものことであり、とりたてて気にすることはなかったが、リオではずっと個室に住んでいたので、同室者の存在がむやみに疎ましく感じられた。

特にスエリーのファベーラの家は静かで、部屋もバス・トイレも清潔で申し分なかっただけに、突然環境が劣悪になったように感じられた。孤独感も募り、落ちぶれたようで惨めな気分であった。

街を歩きながら気付いたことは、例えばこの街では音楽を耳にする機会が少ないように思える。リオではスタンドバーやレストランで楽器を奏でるミュージシャンをよく見かける。観光客の集まる海岸沿いもしかり、その辺の路地を歩いていても、地元の人々が集まる古ぼけたスタンドバーから生演奏が聞こえてくる。

ところがサンパウロではなかなかそういう機会に出くわさない。普段往来するリベルダーデは東洋人街なので、他の地区をくまなく歩けばそのような光景に出くわすということも考えられるが、ブラジルでは人の住むところ音楽ありと思っていた私にとっては意外であった。

また、リオと比べてこの街では人目をはばからず濃厚なキスを交わすカップルの姿が少ないように思える。全くいないわけではないのだが、あけすけなカリオカに比べて、パウリスタ(サンパウロの住人)はおとなしいように見える。

後日リオで知り合った友人とその彼女にこの街で再会したのだが、地下鉄駅のホームで到着を待つ間も、彼女は気分に応じて軽くリズムをとり、身体をくねらせて踊る格好を見せた。カリオカにとっては自然な姿だと思うのだが、その後もサンパウロで公共の場所で踊り出す人にはいまだお目にかかっていない。

パウリスタは仕事に神経がゆきすぎてしまい、踊りを忘れてしまったのだろうか。それとも都会人の洗練さをもって、人前で体裁の悪いことをしないようにしているのだろうか。

サンパウロの救い-と言うとおおげさだが-は、この街のブラジル人女性は綺麗に見える。その原因はふたつ考えられる。

ひとつは、パウリスターナ(サンパウロの女性)は平均的にリオの女性に比べてスリムであるため、全体的な評価が高くなる。リオの女性も顔立ちは悪くない人が多いのだが、残念ながら肥満型が多く、私の目から見ると彼女の美しさを相殺してしまっている。ブラジル人女性は腹さえ出ていなければ、プロポーションは素晴らしい人が多いので、日本人である私は彼女達のスタイルの良さに目が釘付けになり、実際以上に評価が高くなるのかもしれない。

もうひとつは、これは日系人女性に失礼な言い方になってしまうのだが、日系人女性とブラジル人女性が並んで歩いていると、どうしてもブラジル人女性の方が引き立ってしまうのだ。背丈も、目鼻立ちも、体つきも、外見の全てがブラジル人女性に軍配が上がってしまう。

リオでは日系人が少ないので比べようがなかったが、サンパウロは街のいたるところに日系人がいる。そして、これは私のみならず、他の日本人の感想でもあったのだが、こちらに住む日系人女性で美人はあまりお目にかかれない。垢抜けしないのだ。移民者は地方出身者が多く、そのため都会の洗練された美しさをそなえた女性が少ないのでは-といううわさを私も信じたくなる。

ともあれ、ブラジル人女性と日系人女性が並んで歩いていると、日本人でありながら、私もついブラジル人女性の方に視線が行きがちになってしまうのである。

と、愚にもつかぬ事をつらつら思いながら街を歩いて1週間がたちまち過ぎてしまった。早く仕事を見つけなければならないというのに困ったものだ。いよいよ切り札を使うことになる。これで長年の私の懸案である就職問題が解決できればいいのであるが。

リオ スケッチ (2) レクレイオ

2008-03-22 23:44:47 | Weblog
ブラジルはコントラストの国であると、あるフランス人研究者は言った。(※) 富と貧困、華麗な祭りと陰惨な犯罪、家族や友人への慈愛と疎外者への無関心、まばゆいばかりの未来への希望とドブ板に這いつくばってその日その日をしのぐしかない絶望の日々と。南回帰線より照りつけるブラジルの太陽が、事物を光と影とにくっきりと分けるように、ブラジルの日常生活には、鉈で割ったような明暗がいたるところに転がっている。
(※)Roger Bastide 1898-1974

リオの美しさは、かように強烈なコントラストがあるゆえの美しさだと私自身思い至ったのは、リオに住みはじめてまもなく盗難や強盗に遭い、この街が危険な街であることを身をもって体験し、日々の生活を平穏無事に過ごすために特別な配慮を払わなければならないことにうんざりしていた時期を経て、やがてそんな神経を使うことが日常生活における身だしなみのように当たり前の習慣として自分の生活に溶け込んできた頃である。

まったく、この街では命の危険に晒されたり、怪我を負ったり不具となる状況が容易に実現されうる。日本では気分転換のため夜中によく散歩をしたものだが、ここでは自殺行為に等しい。日中街を歩いていても、車はフリックナイフのようにビルのガレージからいきなり飛び出し、歩行者の心臓を縮み上がらせる。近所の通りではホテルのひさしが突然崩落し死傷者を出す事故が起こる。銃声を聞くなど日常茶飯事で、裏山のファベーラで十数分間撃ち合いがあったというのに、表に出ると近所のおばさん達が何事もなかったかのように立ち話をしている。

街を歩くと、路上に横たわるホームレスをいたるところに見かける。彼等はあらゆる機会を奪われている。雨露をしのげる家に住む機会、腹いっぱい食べる機会、病気や怪我をした時に病院に行く機会、人としての心を取り戻す人情や愛情に触れる機会等々。彼等は社会的にはもはや死んでおり、肉体的な生命もやがて尽きることになる。彼等の寿命は快適なアパートに住む他のカリオカ達に比べるとはるかに短いことだろう。

死が隣り合わせでありながら、それが空気のようにありふれた日常。

そんな街リオに住み続け、死が身近に転がっていることを実感しつつも、かように冷厳な環境が着慣れたパジャマのように身体に馴染んできた時、人は生きることそれ自体が目的となり、命あることそれだけで歓びとなる。生を謳歌する自分がいとおしく感じられ、魂が輝き始める。

風光明媚な自然と華やかな街並みを持つ美しい表情の影で、死と貧苦と絶望が舌を覗かせるがゆえに、カリオカはこの街に、ひときわコントラストの強い、艶やかで鮮烈な美を見いだすだろう。都会のサバンナ、リオ・デ・ジャネイロ。



リオの中で私がもっとも気に入っている場所のひとつがレクレイオだ。レクレイオはリオ市の西端にある地区で、コパカバーナから市バスで一時間半ほど。遠いけれど、バス運賃は130円で行ける。だから私はたまに出かける。

レクレイオにはビーチがある。周知の通り、リオにはコパカバーナやイパネマをはじめとする有名なビーチがいくつかあるが、レクレイオはリオ市の外れなので、週末でも人で込み合うということがなく、浜辺には人がまばらに散在し、サーフボードを担いだサーファーがちらほらと浜際の遊歩道を歩いているという程度の、田舎町といった風情の静かなビーチである。

東西に延びる浜辺の中間付近に、大きな一枚岩が砂浜からせり上がっている箇所があり、その頂からレクレイオの海岸が見渡せる。東側には、海岸に近接して古墳のような円錐形の島がひとつそびえている。そして西に目を向けると、砂浜が続く先に半島が湾曲して海にせり出し、その向こうには島々がラクダのこぶのように点々と連なる。

私はワインやカシャーサを持参し、岩の頂で酒を呑みながら、ウォークマンでクラシック音楽を聴くのを楽しみとしている。酔いが回ると、赤茶けた岩の広場が野外コンサート場と化し、ショパンやモーツアルトの孤高な魂を共有した気分で、打ち寄せる波や夕暮れの空の色の移ろいに運命の転変を感じ、人生の不思議さに胸を衝かれる。

酔いが昂じて感傷的になる時もある。ここしばらく体調のすぐれないこともあり、また仕事の見つからないこともあり、こうして優雅な時を過ごせるのもあとしばらくで、いつかは終局を迎えるのではないかと思うことがある。

そう思うと、この今の瞬間がかけがえのないものに思われ、もし単なる旅行として訪れたならば、ありふれた浜辺の景色として眺めたであろうレクレイオの風景が、ため息をつくまでの美しさをもって私の胸に迫る。



去年の8月のある週末のことである。

海岸から一区奥まった通りに面して一軒のバーレストランがある。その店の前を通りがかった際、バンドによる生演奏が行われていたので、誘われるようにステージ向かいのテーブルに座り、ビールを注文した。

料理は量り売りなので、鶏腿肉一片を皿に取ったのだが、ここはリオの郊外ということもあり単価が安く、ボリュームがあるにもかかわらず150円なので嬉しくなった。

バンドは若い男性4人グループで、黒人ふたりに混血と白人がひとりずつの構成であった。彼等の演奏は、場末の素人バンドそのもので歌唱はお世辞にも上手いとは言えず、がなり声が質の悪いスピーカーから響くが、音楽はサンバ系で、海辺の街にふさわしい明るく溌剌としたリズムとメロディであった。

音楽に合わせてむっちりした混血の娘達がステージの傍で踊っている。私の右側のテーブルでは、でっぷり太った白髪のおばあさんがこれまた巨体を揺すって踊っている。ブラジル人として生まれついた以上、音楽と踊りが彼等の遺伝子の中に備わっているかのように、音楽を奏で、踊る光景がブラジルにある。

演奏はいっときの休みもなく曲を繰り出している。後から来た若い娘達が踊りはしゃいでいるので、手持ちのカメラを向けると、5人の娘は一斉にカメラの枠に集まりポーズを取る。ノリがとてもよい。ひとりの娘はたどたどしい英語を話し、Eメールで写真を送ってくれと言うので諒解した。

その後しばらくはひとりで演奏を聴いていたのだが、日も暮れたのでそろそろ帰ろうと腰を上げて、先ほどの英語を話す娘に別れの挨拶をと思い話し掛けると、彼女は一生懸命英語で会話を続けようとする。私はすぐに立ち去るつもりでいたのだが、話が弾み、おしゃべりが楽しくなってきた。

いつの間にか曲がサンバからファンキ(ファンキ カリオカ。リオのファベーラ発祥の音楽。起源は70年代米国の黒人音楽からとされる。セクシャルな歌詞と踊りを特徴とする。ファベーラでは定番の音楽ではあるが、上流階級の子女にも人気があり、パーティの宴たけなわな頃にこの音楽が流れ出す)に変わった。娘達は一列になり、中腰となって腰を前後に振って踊り出した。私にも踊りを指南してくれるというので、私も列に加わり、腰を振り、両手の指先をピストル形にして空に向かって突き上げると、彼女達から喝采が起こった。

私はビールを彼女達におごり、彼女たちは美味しそうに呑み、たちまちボトルを空にしたが、私のコップが空だと気付くと、自分たちのコップからビールを注いでくれた。優しくノリのよい娘たち。

いつの間にか生演奏は終わり、音楽は録音演奏に変わっていた。彼女たちは別の場所に移動すると言って、私に別れを告げ、波が引くように去っていった。日が沈み、すっかり暗くなった海岸を歩きながら、私は心地よい余韻に浸っていた。日本でいうと高校生から大学生に当たる年代の娘たちと簡単に仲良くなれるなんて、ブラジルはなんて素敵なところだろうか。

同時に私の胸のうちにほのかな明かりが灯っているのを感じた。それは彼女達のような若い娘をずっと惹き続けていたいという欲求である。

しばらく体調がすぐれなかった私は、エネルギーを煌々と燃やして女性を獲得しようとする意欲が失われていた。溌剌たる気力なしにブラジルに住み続けていても、厳しい生存競争の中で、やがて私を捉えるものは死でしかないとの観念が纏わりついた。

だが、今日会った娘達は私に生きる意志を与えてくれた。彼女達のような魅力的な女性を惹きつけるために、命ある限りエネルギーを絞り出し、燃やし続けたいと思った。性への欲求はすなわち生への欲求である。所詮私はひとりの人間で、一介の単純な生き物に過ぎない。ならば自然の法則に従おう。命ある限り。



半年後。再びヘクレイオ。

夕刻となり、雲の切れ間より差し込む太陽の光が波に反射し銀色の光の波となり、浜辺に打ち寄せている。半島へと続く海岸は遠ざかるにつれ靄にけむり、半島の向こうに連なる島々にはオレンジ色の斜陽が映えていた。私は浜辺の遊歩道にあるスタンドバーのベンチに座り、ビールを呑み、ショパンのバラードを聴きながら、海辺の景色を眺めていた。

時は過ぎ、リオにおける私の時間が残り少ないことが予感されていた。何度となく訪れていたレクレイオだが、果たしてこの先この場所で至福の時を再び迎えることがあるのか、もはや分からなかった。

ふと傍らをふたりの混血の娘が通り過ぎた。ひとりは紐状のTバッグのビキニを穿いている。私は彼女の典雅なお尻の曲線美に釘付けとなった。すれ違うサーファーも振り返って彼女の後姿にみとれている。自転車に乗る少年も自転車を漕ぐのを止め振り返る。

彼女達が彼方に去り、私は再び海を見る。コバルトブルーの水面はライトパープルに変わっている。強く差し込んでいた光線も和らぎ波が柔らかく光を弾く。半島側から海に張り出した雲は陰影がかかり、渡り鳥がブーメラン型の編隊を組み、空高く雲を横切っている。神々しいまでの色彩の転調。涙が滂沱と流れた。

リオスケッチ(1) テレーザ

2008-03-10 22:47:43 | Weblog
私がブラジルに来て間もない頃の話しだ。

私がコパカバーナにある友人ホムロのアパートに引っ越す前、彼の家へちょくちょく遊びに行った時、ホムロ夫妻の他にふたりの住人が同居していた。ふたりが一見して母子と分かるそのわけは、彼らの姿が揃って折り紙でこしらえた雛人形のような三角形、すなわち肥満型の体型だったからだ。

母親のテレーザはしわだらけの土褐色の顔で、絶えずタバコをふかしながら、相手が聞いていようがいまいがおかまいなしに、間延びしたしゃがれ声でいつも何やらしゃべっている。ときおりテレビドラマのワンシーンに大仰な笑い声を上げる。その声はまるでポパイの悪役ブルートが腹を抱えて笑っているかのようだ。

会うといつでも彼女は私を抱き寄せ、「ケリード、ケリード(かわいいかわいい)」といって頬にキスをする。彼女のオーバーな表現とヤニ臭い体臭に閉口しながら私はじっと彼女から解放される時を待つ。

息子のファービョは年のころは30位だろうか、母親よりも肌の色は黒く、普段は無口で、私の姿を認めると満面の笑顔をつくって応えてくれる。だがいったん彼がホムロと話し込むといつでも話しはヒートアップし、怒鳴り声ともとれる大声が部屋に響きわたる。私には彼らの会話の仔細は分からないが、ファービョはとても理屈っぽい人間のように思えた。

彼に職業を尋ねると詩人だという。詩で食っていけるほどブラジルがやわな国とは思えないので、私には彼が無職で暇をもてあましている人間と映った。私が日本でそうだったのでよく分かるのだが、仕事もせずに理屈をこね回している人間ほど周囲にとってうっとうしい者はいない。言葉には出していないが、ホムロも奥さんのホッサーナも、彼の存在にややうんざりしているような気がした。

ホムロからこの家に住むことを勧められた時、テレーザとファービョとの同居は疲れるにちがいないと予感した。



それからしばらくして私はホムロのアパートに引っ越したのだが、その時に彼等の姿は見えず、故郷のサンパウロへ帰って行ったと聞き、内心私はほっとした。その安堵もつかの間、その日にテレーザひとりがひょっこり戻ってきた。傷心の体である。サンパウロでファービョとけんかして、別居していたという。彼女は車の中で寝泊りしていたらしい。

彼女は始終最愛の息子を思い出しては悲痛な声で誰彼となく悲しみを訴え、さめざめと泣く。と思うと次の瞬間にはテレビのワンシーンにブルートの笑い声を上げる。ホムロはそんな彼女を指差し、笑い声まじりに「リュウイチ、見ろよ、彼女は惨めなものだな。」と茶化す。私は彼のテレーザに対する無慈悲な接し方が、一家の長として正しい態度であるとすぐに悟った。もしもテレーザの調子に合わせていたら、この家の住人すべてが憂鬱になってしまうだろう。

私は言葉が分からないのを幸い、努めて彼女に理解を示さないように視線をそらせた。ホムロは適当にからかいながら、ホッサーナは時折苛立った声で諭しながら、私が入居した翌日にここの住人となったチャーゴはほとんど無視の態度で各々テレーザと接していた。

私はもうひとつ懸念があった。路上のボディ・ペインティングを仕事とする彼女だが、最近彼女がビーチへ働きに行くということがない。ひいき目に見ても彼女がお金に余裕があるとは思えない。ファービョとのトラブルで切羽詰った彼女が、突然思いがけぬ行動を取るかも知れないという疑念が私の心に浮かんだ。ある日忽然と消え失せて、その際私の所持品を失敬しないとも限らない。そのため私はバックパックをベッドの脇に固定するための鎖状の鍵を買った。

彼女が戻ってから1週間が過ぎたある日、私が買い物から戻りアパートに入ろうとすると、1台の車が停まり、車内にはテレーザの姿があった。隣にはファービョがいる。彼女は昨日アパートを空けていたのだが、彼と一緒だったのだ。

私は車に近寄り、小さなリッターカーから彼女の巨体を引っ張り出すのを手伝った。テレーザといつもの抱擁を交わすと、タバコのヤニの臭いに加え、息が止まるようなすえた臭いがした。ファービョに声を掛け、手を差し出すと、彼は無言で握手に応じた。

テレーザと私はアパートに戻ったが、家には誰もいなかった。彼女は自分の部屋に入り、私は買ってきたオレンジを絞っていたのだが、間もなく彼女は両手にビニール袋をどっさり抱えて部屋から出てきた。彼女は涙を流しながら、「ボウ・エンボーラ(私は行くわ)」と低い声で言った。私は彼女がこのアパートから去ってしまうことを察した。

「どこへ行くの。サンパウロ?」と訊くと「分からない」と言う。突然の別離に私は戸惑い、「ちょっと待って、今オレンジジュースを作っているからちょっと待って。」と彼女を引き止めた。彼女は「ケリード、ケリード」と低い声でつぶやきながら、何やら祝福の言葉を私にかけながら微笑んだ。

私は絞ったオレンジにレモンを加え、砂糖をどっさり入れてシェイクし、グラスに注いで彼女に渡した。目を覆うばかりの量の砂糖を入れたつもりではあるが、彼女にはまだ物足りないような気がして、「砂糖足りてる?」と尋ねると、テレーザは優しい顔で「充分だよ」と言った。「あなたの誕生日にマラクジャジュースを作ったんだけど、あなたが眠っていたので飲んでもらうことができなかったんだ。」と私は言い添えた。一昨日は彼女の誕生日だったのだが、ホムロとホッサーナは店の商品の買い付けに隣州まで出かけてしまい、アパートに残された私とチャーゴは簡単な料理と飲み物を用意したのだが、テレーザはソファに腰掛けたままぐっすり眠り込んでしまった。そのため私たちは彼女に祝いの言葉をかけることができずにいたのだ。

私の言葉に彼女は微笑みながら涙ぐんだ。

テレーザはオレンジジュースを飲み干すと、私を抱きしめ祝福の言葉をたくさんかけてくれた。私はじっと黙っていた。荷物が多いので一緒に階下に降りると、ファービョが車の中で待っていた。彼はたどたどしい英語で「Thank you very much.」と言い、私は彼に適当な別れの言葉をかけた。

別れ際に私が「たまにはここに遊びに来いよ」と言うと、彼は黙って笑顔を向けた。車は去り、私の胸には一抹の寂しさが漂っていた。そして彼等の行く末を案じた。

テレーザにとって息子のファービョは心の支えであるとともに、彼女の日常生活面での支えであろう。高齢になり身体に多くの疾患を抱える彼女がひとりで生活するのは難しい。彼等には車の他に財産があるとは考えにくく、当面の収入は彼女の手仕事に頼ることになるのだろうか。これからの彼等の生活がどのようなものになるのかは知るよしもないが、何となく、ホムロのアパートから出ることは、彼女にとって生きていくことがいっそう困難な状況になっていくような気がした。

やがてホムロが戻ってきた。私は彼にテレーザの出発を伝えると、彼はすでに知っていたようで、眉をひそめながら何度か小さくうなずいた。ファービョも一緒だったと伝えると、彼は慌てて「ファービョはこの家に入ったのか」と尋ねた。いや、家には入っていないと答えると、彼はほっとした表情を見せた。

私はファービョがこの家で問題を起こして、そのためにここから出て行ったのだということを悟った。それ以上私は尋ねなかったが、ホムロの態度からファービョが彼の財産を脅かしたことは明らかであった。すると、テレーザ親子のいざこざは、そのことが原因であるに違いない。私はテレーザをとても気の毒に思った。そして私は彼女を疑ったことで、彼女の不幸に加担したような気がした。

サッカー

2008-03-01 04:07:35 | Weblog
サッカー王国、ブラジル。ワールドカップ優勝5回、ロナウジーニョ、カカといった今日におけるスーパースターをはじめ、これまで多くの逸材を輩出してきたその背景には、全人口1億8千万人の熱狂的なサポーターの存在がある。

まあ、中にはサッカーに興味を示さぬ者も無きにしもあらずではあろうが、少なくともリオの男性でサッカーには興味がないなどと言う者は皆無であると断言したい。

社会階層によって生活スタイルが大きく異なるブラジルではあるが、ことサッカーに関して言えば、金持ちも貧乏人も分け隔てなく好きなサッカーチームを応援する。

主な都市はサッカーチームを持っているが、最もレベルの高いセリエAに属するチームは全国に20チームあり、リオはそのうち4つを占めている。中でも赤地に黒帯のユニフォームカラーのフラメンゴはとりわけ人気が高く、リオ・デ・ジャネイロのみならず全国区の人気を誇る。

元日本選抜チームの監督を務めたジーコはフラメンゴのかつての花形選手で、彼の活躍でフラメンゴは黄金時代を築いた。そのため今でもジーコはフラメンゴのサポーターから崇められており、サポーターが着るユニフォームは彼の背番号10番であり、日本人を見てすぐに連想する言葉はジーコである。



サンパウロに引っ越すことを決め、リオでやり残したことを考えた時、真っ先に心に浮かび、必ず実行しようと決意したことは、サッカーの試合を観にマラカナンスタジアムに行くことであった。

マラカナンスタジアムは最大収容人員約10万人、世界最大級のサッカースタジアムである。いつかは行ってみたいと思いつつ、いつでも行けるからと観戦が延び延びになっていたのだが、リオを去ることを決めた時、すでに残された観戦のチャンスは2回、そのうちひとつは別の用事ができて潰えてしまったので、もはや最後のチャンスは週末に行われるフラメンゴ対ボタフォゴの試合であった。

友人ジョアンはフラメンゴのサポーターで、彼はその試合を観に行くというので、一緒に行きたいとメールを打ったが、今となっては、チケット入手は難しいので無理というつれない返事。入手はダフ屋頼みとなる。周囲の隣人達に相場を聞いたが、どうも金額がはっきりしない。一応30レアル(約1800円)までと考え、単身ダフ屋と交渉に臨むことにする。



2月23日(日)午後2時、アルト・ダ・ボア・ビスタの我が家を出発。バス停留所に向かって歩く道の途中、ひときわ目に付くのはフラメンゴのユニフォームを着た隣人達である。スタンドバーで仲間内が集まり、ビールを片手に談笑する姿はいつもの光景だが、今日は何か空気が違うように感じる。笑顔の中に、微妙な緊張感を漂わせている。

ミニバスに乗り込み、マラカナンスタジアムに向かう。私の住む集落を通る道はマラカナンの方角に直接向かう道だ。したがってこの時間に通る車の一部は試合を観に行く者達であり、そんな連中は皆浮かれ気分である。

窓から巨大なフラメンゴの団旗をにゅうと突き出した中古のボロ車がバスの前を走る。別の車は反対車線に飛び出したまま、前の車を抜かそうとするわけでもなく、ただ対向車が来ないのをいいことに反対車線を走り続けている。はずむ心の、迷惑この上ない表現方法である。

車中の世間話が耳に入った。彼等も試合を観に行くようだ。ダフ屋と35レアル(約2100円)という言葉が聞こえたので、ひょっとしたらそれが相場なのかもしれない。私は外国人なので、まず相手は吹っかけてくるだろう。相場を知ることは、特に私のような立場の者にとっては絶対に必要だ。

ミニバスから降り、スタジアムに向かい歩き始める。人の流れが徐々に大きくなる。そして、皆に従い街角を曲がった時、巨大なマラカナンスタジアムの円形状の一部が我々の眼前に現れた。

私が辿り着いた地点は赤い集団に埋め尽くされていた。この位置はフラメンゴサポーターの観客席に当たるようだ。私はさっそくダフ屋を捜し始めた。

私の予想では、もっと道のいたるところにダフ屋がたむろしていて、通行人に片っ端から声をかけて来るものと思っていた。ところが通りを行ったり来たりしても誰も私に話しかけて来ない。私は焦りはじめた。

ようやくひとり、すれ違った際に何事かつぶやいたので、思い切って声をかけると、果たして彼はダフ屋であった。その後すぐにもうひとりのダフ屋が見つかったが、彼らが提示する金額は50~60レアル(3000~3600円)と高い。交渉は成立しなかった。

フラメンゴは人気チームで相場が高いかも知れぬと考え、ならばボタフォゴ側に行こうと思い、スタジアムの外周を歩き始めてまもなく、後ろから「チケット」と声をかけてくる者がいた。値段は50レアル、高すぎると言うと40レアルと値を下げてきた。35レアルなら買ってもよいと言うと、OKと言い、交渉は成立した。

私がチケットを入念に観察し、財布を取り出すのにもたついていたら、ダフ屋は警察に見つかることを恐れて焦り出し、財布から出した金が1レアル少ないのにも関わらず、それをつかみ取り、そそくさと立ち去った。15レアルが正規の金額であった。

ゲートへと続く道は、赤い大河のような人込みで埋まっている。一度に人が押し寄せることのない様、警備員による入場制限が行われており、断続的に人の流れをせき止めていた。一刻も早く中に入りたい入場者は前に圧力をかけるので、警棒を横にして押し留める警備員達は必死の形相だ。

直前でせき止められたひとりの黒人の観客が警備員の横をすり抜けて前に進もうとした。警備員は両手で持った警棒を彼の身体に強く何度も叩くように突き出した。まるでデモ隊と警官との衝突のようだ。娯楽という雰囲気ではない。

子ども連れのグループは安全面での配慮からか、並ばずに入場することができる。待ちぼうけを食わされている一般入場者は彼等にブーイングを浴びせる。皆表情にゆとりがなく、眼差しが真剣である。

私は自分の身に危険を感じた。というのも、相手チームのボタフォゴのユニフォームカラーは白地に黒帯で、今日たまたま私が来ているシャツも、模様は異なるものの、色の組み合わせはボタフォゴカラーであったのだ。ご丁寧にも私の靴の色もそれであった。言いがかりをつけられてもおかしくない格好であった。

前後左右からもみくちゃにされながら、牛歩の如き行進を続けた末、ようやくゲートに到着。回転棒により仕切られる入場ゲートはブラジル流にその多くが故障しているため、棒の下を潜り抜けてスタジアム内に入り、階段を登り詰めた先に広がる光景は、私のまなこを瞠目させ、私の胸を感動で満たした。

まさに圧巻であった。長い間奴隷船の船内に閉じ込められていた奴隷が今鎖を解かれ、大海が広がる甲板の上に立っている、そんな感動を伴った空間の広がりがマラカナンにあった。

すり鉢状をしたスタジアムの右側は赤、白、黒の、左側は白黒の点描で染まっていた。その生きた点描は歌っていた。ひとつひとつの点が発する声は、本来ならば右側と左側は歌が異なり、また耳に届くまでの距離によって音差を生じるはずであるのに、完全に一体化していた。まるでスタジアムそのものに生命が宿り歌っているかのように、生きとし生けるものの魂を揺さぶっているのだ。

私はこの感動が身体を包んだ瞬間、34レアル払ってマラカナンに来た価値が十分にあったと思った。来て本当によかったと思った。

私は通路に面した席を見つけそこに座った。フラメンゴの応援歌が始まる。鼓膜がびりびりと震え、痛いほどだ。歌の歌詞を知るものは皆、声をあらん限りに張り上げ、叫ぶように歌うのだ。

私が入場した当初はわずかな空席が残っていた観客席も、やがて通路に至るまでぎっしりと人が埋まっていった。試合開始が近づくにつれ、座っている人はいなくなり、全員立ち上がった。スタジアム内がうだるように暑い。今日は雨模様で外気は涼しいはずなのに。

いきなり後方からプラスチックのコップが飛んできた。私のすぐ横の男性に命中し、液体が飛び散った。私は誰かがビールの飲みさしを投げつけたのだと思ったが、後日友人と話していて、それはビールではないことを知り愕然とした。

不届き者の中には、便所に行く手間を省くため、コップに小便をして、それを投げつける者がいるという。事実、私にもその飛沫がかかったのだろう。家に戻った時、私のシャツがどうも小便臭いことに気付いたのだ。

だから友人は試合を見に行くときは、必ず席を最後列に取るという。それを先に聞いて置けばよかったと思う。

その後も、ビールの空き缶を投げつける者など、キリまで混じったブラジル社会のなかでは、マナーもへったくれもあったものではない。

危険といえば、こんな超満員な観客席で、花火を赤々と灯した応援をすること自体が常軌を逸している。幸い私の周囲に花火はなかったが、他の場所では火花が前列の人々に降りかかっているように見える。スタジアム内は霧がかかったように煙がこもっている。

そしてカーニバル同様、ここでも当然けんかは起こる。周囲の人々が後方を振り向き出した。何か騒ぎが起こったのだろう。大事には至らなかったようであるが。

フラメンゴとボタフォゴの応援合戦が続いているうちに、ゲームはいつの間にか始まっていた。観客の歓声、歌声、ブーイングの中では、笛の音など全く聞こえない。

周囲の観客の誰ひとりとして、サッカー観戦をゆとりを持って楽しむという態度の者はいない。チームの勝敗が、全ての観客の生死の行方を握っているかのように、全員の目が血走っている。

フラメンゴが攻め込む。観客も怒涛の如く沸き返る。だが、シュートに失敗、観客は口々に「なんてこったい!」と叫び、両腕を挙げて悔しがる。が、すぐに拍手を送り選手を鼓舞し、再び訪れるチャンスに期待する。

だが、最初に得点したのはボタフォゴであった。相手選手の放ったシュートがフラメンゴのゴールを揺らす。悲鳴ともため息ともつかない驚愕の声の塊り。張り詰めていた糸が切れてしまったかのようなこころの揺らぎ。でもサポーターはくじけない。泉が再び湧き上がるように、応援歌がサポーターによって歌われ、それは選手に勇気と力を与えるとともに、サポーター自身にも新たな闘志を湧き起こさせる。

前半戦が終わった。試験が終わった直後の受験生のように、皆放心したような顔になり、ある者は椅子や通路の階段に座り込み、そして多くの者はトイレや飲食のために通路を下っていった。

後半戦が始まり、周囲の空気は再び緊張感を帯び始めた。やがてフラメンゴに決定的なチャンスが訪れる。相手ペナルティエリア内でボタフォゴの選手が反則を取られ、ペナルティキックが与えられたのだ。

沸き返る場内。そしていよいよ高まる緊張。大声で叫ぶ者、悲鳴を上げる者、固唾を呑んで見守る者、念力を送るように両手を振りかざしてわめく者など、各人がまとまりのない奇声を上げ、これまで団結して声援を送っていた観客の歯車が、突如狂い出したかのようだ。

シュートが決まった瞬間、観客はいっせいに爆発した。全員が両手を挙げて歓喜に沸く。轟々たる歓声はやがて手拍子に変わり、ゴールを決めたフラメンゴの選手の名が連呼される。観客が再び一体となった。

これまでの重苦しい展開が払拭され、押せ押せムードのフラメンゴ陣営はボタフォゴに襲いかかる。そして待望の勝ち越し点がフラメンゴにもたらされる。フラメンゴサポーターの誰もが願い、思い浮かべ、待ち続けていた勝ち越しゴールが決まると、観客は全員躍り上がって誰彼となく抱きつき、歓びを分かち合う。周囲の男女が次々と私に抱きつき、「ジャパン、ジャパン」と叫ぶ。全てのフラメンゴサポーターが友情の絆を結んだ瞬間である。

試合が終わった。結局2対1でフラメンゴが勝った。終了と同時に膨大な数の観客がいっせいに出口に殺到するのではと危惧していたのだが、ほとんどの観客は動かない。私は立ち詰めで腰が痛く、疲れも限界に達していたため、試合後何が起こるか知りたい気持ちを後にスタジアムを去った。フィールド上には表彰台が組まれていた。

お祭り気分はスタジアムを出ても続いていた。フラメンゴサポーターをぎっしり乗せた乗用車がクラクションを鳴らしまくる。そんな連中に徒歩のサポーターが大声で声をかけ、勝利を祝っている。白地に黒帯のユニフォーム姿のボタフォゴサポーターは黙って家路に向かう。

実は私はニュースを見るまで知らなかったのであるが、この試合に勝った方が、この時期リオ市内の有力チーム間で争われていたグアナバラ杯に優勝するという大一番であったのだ。結果的に私はブラジル人の熱狂がよく発揮された試合を観に行ったことになる。

だが、彼らの行動をつぶさに見ながら、私は疎外感を感じつつ帰路に向かっていた。私はブラジル人になりきることはできないと悟った。たかだかサッカーの試合で人も殺しかねないような真剣な表情を浮かべる彼等に、私は完全に距離を感じていた。

友人でいつも温厚なジョアンやジョゼにしても、ことサッカーになるとあのような表情を浮かべるのだろう。そう思うと、彼らと私の間に流れる血が決定的に違っているように感じた。そしてこれから先ブラジル社会の中で生きていくことができるのかと自問して、その答えに暗雲がかかっていることは、帰り路の雨に濡れた街路を覆う空のように明らかであった。

宴のあと

2008-02-20 02:05:34 | Weblog
盛大に火炎を吹き上げていたドラゴン花火が急に消えてしまうように、カーニバルは突然終わりを告げるというわけではない。今年の暦上のカーニバル最終日である2月5日(火)が過ぎても、バンダやブロッコは街に現れ、スエリー達は毎日のようにラパへ行き、踊り、朝方になって帰ってくる。アルト・ダ・ボア・ビスタのファベーラも、真っ昼間から多くの住人がスタンドバーでビールを呑みつつよもやま話しに興じている。

それでもその頃から近所のスーパーマーケットはシャッターを開け、インターネット・カフェも営業を再開した。停車していた貨物列車がゆっくりと動き出すように、日常に向かって時が動き始めた。

そしてカーニバル週間が過ぎ、翌週になると、人々は宴の余韻を残しながらもいつもの日常に戻っていった。クリスチーナは隣州エスピリト・サントに戻り、スエリーの恋人レオはイタリアに帰っていった。スエリーは仕事と夜間大学の授業が始まった。

隣人達と同じようにカーニバルの夢幻の世界に浸っていた私も、カーニバルの終焉とともに、その間眠っていた現実が目を醒まし、私の背中を突つき始める。私にとっての現実は、すなわち金銭の問題である。

ついに貯金が底を尽いてしまい、翌月のクレジットカード代金を払えるかどうか覚束なくなってしまった。簡易ウォシュレット(イージー・ウォッシュ)の販売を手がけてはいるが、いまだ売上がない。ブラジル人にとって新奇なこの製品が受け入れられるまでには恐ろしく時間がかかりそうだ。

昨年末以来、イパネマ海岸に行く時には必ずイージー・ウォッシュのパンフレットを持っていく。海岸中を露骨に売り歩くわけではないが、ビーチの常連達との会話の中で仕事の話が出た時にはパンフレットを見せ、相手の反応を見て脈がありそうだったら詳しい説明を行う。

だが、相手の反応を正しく見抜くのは難しい。ブラジル人は、お世辞はいくら言ってもタダだと心得ているので、さも関心があるように相槌を打ち、その製品が彼らのハートを射止めたかのように大仰に褒める。私はこれなら買ってくれること間違いないと意気込むが、いざ具体的な購入へと話を向けると、とたんに壁を回転させて姿を消す忍者のようにスルリと話をかわされる。彼らの「また今度」は金輪際やって来ないということは、寿司販売の時に身に沁みている。

いつでも酔っ払っていてろれつが回らないので、聞き取るのに一苦労する年配のおっさんがビーチにいるが、小遣いを稼ぎたいのか、コミッションを支払う条件でイージー・ウォッシュの販売を手伝いたいと言ってきた。

見るからに期待できそうにない酔態ではあるが、この際使えるものはハチの頭でもとお願いし、彼はビーチの友人をひとり、またひとりと連れてくるが、こちらのご友人方は、お世辞を言う気力も持ち合わせていない無関心な人ばかりで、予想通りというか、やはり期待できそうにない。

ともあれ、彼のようなディストリビューターを増やすことが販売実績をつくる早道と考え、金儲けに関心を示す友人達に声を掛け、これまでに数名が協力してくれることになっている。

本来ならば、製品を販売するために、実際に彼らが購入し使用して素晴らしさを体得することで、セールス・トークが真実味、真剣味を帯び、販売に結びついてゆく。ところが、彼らの財布のひもはなかなか緩まない。すなわち皆半信半疑なのだ。ユニークで面白そうで、儲かればそれに越したことはないが、自分の財布をはたいてまで販売に専心したいとは今のところ思っていないのだろう。

イージー・ウォッシュの販売が軌道に乗るまでに、私の資金が持ちこたえられないのは明白で、何とか収入の途を見つけなければならない。だが、正規に就職しようとすれば、就労ビザもしくはブラジル国民であることを示すIDカードを取得しなければならない。私がブラジル渡航以来ずっと悩み続けている問題である。

これまで何度か友人達が私に就職先を紹介しようとしたことがあるのだが、いつもその件で引っかかり、立ち消えになってしまう。現状では、就労ビザの取得は個人ではまず不可能であり、おそらく私にとって唯一であろう就職への道は、結婚によりIDカードを取得することだ。

資金の枯渇が差し迫ってきたある日、助け舟を出してくれたのが、ニテロイ在住の山下将軍の奥さんである。私の窮状を知ってか、ある時、彼女の娘と結婚したらどうかと話を持ちかけてきた。

現在その娘は小さな子どもを連れて実家に帰ってきている。奥さんは本心から私を助けようと思っているようで、結婚は単なる書類上のことであり、将来身分が保証されれば、その時は離縁の手続きをすればよいと言う。

日本人であれば、そう簡単にくっ付いたり離れたりなど、権利上の問題が発生することもさることながら、心情的にもそう易々と許されるものではないが、ブラジル人である彼女は、国の定める結婚制度が与える権利上、慣習上の意義よりも、友情を第一義に考えてくれたのである。

ところが、この話は彼女の胸の内でもっぱら温められてきたようで、奥さんからこういう提案があったと私から聞かされて面食らったのが日本人である山下将軍であった。

彼は私が就労できない状況を常に憂慮してくれ、知人にビザ取得の方法を尋ねて回るなど親身になって考えてくれるのだが、こと実の娘に累が及ぶとなると、内心穏やかならざる事であったに違いない。

後日将軍より、娘の実子の権利が錯綜してしまうという理由でこの件は無かったことにして欲しいと言われ、私としても家族全員の賛成がなければ受けられないと考えていたので、もとより異存はなかった。

この時期私にとって残念だったのは、もし結婚によりIDカードが取得できれば、確実とはいえないが、収入を得られる可能性が大幅に増え、例え就職が数ヶ月先のことで、その間資金がなくなっても、日本にいる友人に借金を申し込めば、引き受けてくれるだろうと考えていたのである。

結局、就労の問題は今に至るまで解決せず、返せる目処が立たないまま借金を申し込まなければならない状況になった。

それでも私は一種の余裕があった。私の友人のひとりで、出発前に資金援助を申し出てくれた人がいる。その時私は多少資金があったので、自力でなんとかすると言って彼の申し出を断った。だが、人間とは都合よくできているもので、その時の彼の言葉は頭に残っており、それが「いざとなれば何とかなる」という甘えにつながっていた。

そして彼に借金を申し込んだが、返ってきた答えは「不可」であった。私の状況云々というより、この1年半の間に彼を取り巻く状況が変わってしまったようだ。

借金を断られて初めて私は夢から醒めて、肌を刺す冷たい風にさらされている自分に気が付いた。

自分は直ちに決断を迫られていることを悟った。このままリオに留まるべきだろうか。女友達に頼んで偽装結婚を申し込んでみるのはどうか。謝礼を出せば引き受ける人がいるかもしれない。

だが、もし偽装結婚できたとしても、就職が決まるまで資金が持つだろうか。それに結婚の協力者への謝礼金をどこから工面したらいいのだろう。

残された選択肢は少ない。私の頭に浮かび、すぐに大きく膨らんだ考えが、サンパウロに行くということだ。

サンパウロには世界最大の日系人コミュニティがある。以前日本人街に滞在した折りに知り合った、私と同じ志を持つ青年がその街で働き口を見つけている。給料は安いだろうし、第一そううまい具合に勤め先が見つかるか分からないが、賭けてみるしかなさそうだ。

そして私にはもうひとつ、最後の切り札がサンパウロに残されている。この切り札がはかない幻-友人から借金が叶うと勝手に信じていたような-である可能性は大いにあるのだが、ともあれ、私は最後まで夢を見続けていたい。希望という名の夢を。

カーニバル (2)

2008-02-12 23:55:52 | Weblog
そもそもカーニバルはヨーロッパを発祥とするもので、中南米でも初期は白人植民者の行事として行われていたらしい。だが、アフリカ人奴隷を日常の過酷な労働のガス抜きをさせる必要から、カーニバルの時だけは彼らを解放し、自由を与えるようになった。これが今日の中南米におけるカーニバルの起源であるとされる。
(※)参考文献 ブラジル日本商工会議所編 現代ブラジル事典

つまりカーニバルは、日ごろは人間とみなされていなかったアフリカ人奴隷に、人間としての権利が与えられる時なのである。そのため、カーニバルでは平時とは違う価値基準を受け入れることになる。価値の逆転現象が起き、日常とは異質の世界が出現する。

リオのエスコーラ・デ・サンバの中心は黒人達である。「ナイトライフ」の章で述べたように、リオのカーニバルは黒人によって今日のスタイルが形成された、パレードには混血も白人も一緒に踊ってはいるが、主役は黒人であり、黒人によって興隆した文化である。以前知り合った白人系のダンスの好きな女性に、エスコーラ・デ・サンバで踊らないのかと水を向けたことがあるが、「だってエスコーラ・デ・サンバでは黒人の方がいいのよ。私は白人だから…」と、悔しそうに言っていたのが印象的だった。



暦ではカーニバル最終日にあたる2月5日火曜日、イパネマ海岸沿いの大通りを行進する「バンダ・デ・イパネマ」を見に行った。リオでも有名なバンダのひとつで、大勢のゲイが参加することで知られている。

行進する集団の中に入る。女装している男性がひときわ目に付く。集団の中心付近になると、身体を動かす隙間を見つけるのが困難になるほどびっしりと人が群れをなし、手を上げて歌い、歓声を上げている。この日は気温が27度前後と涼しかったのであるが、集団内はうだるような熱気に包まれ、息が詰まった。

私のすぐ前にいた髭面の男性が、彼の横にいた同じく髭面の男性と突然キスをし出した。ふたりの男の顔が余りにもむさくるしく、正視に堪えられるものではない。汗の臭いのこもった熱気が彼らによって作り出されているかと思うと、たまらなくなって外に逃げ出した。

それまでスエリーたちと一緒だったが、私は早々にバンダの流れから脱落したので、彼らと別行動をとることにし、別の友人のジョゼに電話した。電話に彼が出るなり、開口一番「ナンパしましょう!」とうれしそうに言う。私もよし、カーニバルだからということで、ひそかな期待とともに彼に同意する。

ジョゼの行動は迅速だった。いや、手当たり次第と言えるほど躊躇がなかった。ビールを買った露店で、そこにたむろしていたふたりの20代とおぼしき女性に、「バンダはもうここを通過した?」と声をかけたかと思うと、ふたりに私を紹介し、彼が日本語を少し話すことや、日本についての話題、彼女達の職業についてなど、自然に話しが進んでいく。

事前に「おい、あの子達どう?」「そうだな、いっちょ声をかけてみるか」などという日本人的(?)な談合は一切なく、彼女達がとりわけ美人というほどでもなかったので、はじめにジョゼが女性に話しかけた質問が、知り合いになるための単なる口実であったことに私が気付くまで、少々時間がかかった。その間早くもジョゼはスリムな看護婦の方に狙いを定めたようで、体を看護婦に向けて熱心に話しこむ姿勢を見せた。自動的に私は「ちょっと太目のジュディ・オング」という感じの女性の相手をすることになった。

正直ポルトガル語で話題を切らさぬよう話し続けたり、相手の話しの内容を正確に理解する自信はなかったが、人間覚悟を決めると何とかなるもので、会話は一応成立している。すると、後からふたりの女性-ひとりは年配者であったが-が現れた。ジュディ・オングの妹とお母さんであった。妹の方は姉よりもさらに大柄で腹まわりが膨らんでいる。

彼女は私をみるなりかすれた声で「シンギ・リンギ!」と意味不明な言葉を叫び、それが私の呼び名になった。ハイテンションの彼女に私も調子を合わせ、彼女をシンガ・リンガと名づけ、姉のジュディよりもデブでタヌキ顔で少々イカレたシンガ・リンガの方が気安く感じたので、会話の相手はシンガ・リンガに移っていった。

雨が降り出したので街角のスタンドバーのひさしの下に移動しながら、ビールを片手に1時間ほど雑談した後、バンダ・デ・イパネマが終着地の公園に到着したというので、皆で公園に向かう。ジェネラル・オソリオ公園の入り口に差しかかった時、シンガ・リンガが突如立ち止まり、口をポカンと開けて指差すのでその方向を見ると、5人の男達がひとかたまりになって集団キスをしている。

ブラジルで同性愛者がどれだけ社会から迫害されているかは知らないが、少なくともからかいやさげすみの対象になっていることは感じられるので、カーニバルの間は普段の鬱憤を晴らすかのように、ことさらゲイ・パフォーマンスに努めるのかも知れない。

ゲイや、あるいはノーマルの人々も混ざっているかも知れないが、様々なコスチュームで女装した男達の行き交う姿を眺めながらシンガ・リンガと何やら話していると、横にいたジョゼがいきなり看護婦に強引にキスを迫り、「おい、早過ぎやしないか?」と私が彼の行動に不安を覚えたのもつかの間、抵抗していた様子に見えた彼女は一転彼を受け入れ、濃厚なキスが始まった。

出会って1時間あまりでものにしてしまう彼の行動の速さに再び意表をつかれ、同じくポカンとするシンガ・リンガとともに言葉を失い、頭の片隅から「おい、今がチャンスじゃないか。彼女にキスしろよ」という声が聞こえてきた頃にはもはや時節を逸していた。

べったりとくっ付いたまま離れないジョゼと看護婦の傍らで、冷蔵庫の中で忘れ去られ、すっかりスが立った大根をかじった時の気まずい味気無さを、私とシンガ・リンガが過ぎ行く時間に味わっているうちに、長い小用からジュディ・オングとお母さんが戻ってきた。

スエリーの従姉妹のベロニカとペーニャが偶然通りがかったので、彼女達とその男友達が仲間に加わった。男のひとりはベロニカが連れて来たアルゼンチン人で、ものすごいハンサムだ。

「君、英語できる?」と彼が私に尋ねたので、「多少ならね」と答えると、「多少ってことはあまりできないってことかな」と言う。往々にして英語を母国語としない国の人間は英語にコンプレックスを持っているので、自分より英語のできない奴を馬鹿にする傾向があるが、20世紀初頭の栄光を引きずった没落貴族のアルゼンチン人はいっそうその傾向が強いのかと内心むっとしたが、話してみると彼の英語の方が私よりも下手なので、私は安心して彼を小馬鹿にするような早口の英語で彼を困惑させた。

鬱屈した英語へのコンプレックスを発散し合っている分にはまだかわいいが、鬱積した人生への不満をけんかで発散することがしょっちゅうあるのがカーニバルだ。

ペーニャが連れて来た混血のブラジル人は粗暴そうな顔つきだったので話しかけずにいたのだが、雨が強くなってきたので木陰に移ろうと皆で移動した際、何が起こったのか突然言い合いが起こり、その男が他の見知らぬ男につかみかかろうとして、周囲から止められ、その周りには人だかりができた。

後でペーニャに聞くと、別の男が自分に言い寄ってきたので、連れの男が怒り出したと、喜びと得意に満ちた表情で話すので、私は心底むなしくなった。

雨足が強くなり、髪の毛から雫が滴るほど濡れながらも公園でビールを呑み、話し、冗談を言い、けらけら笑い、その間もジョゼと看護婦はベタベタとキスをしながら、どのくらい時が経ったかも判別しなくなった頃、ラパに行こうと言い出す者がいて、とりあえず一次会はお開きということになった。

それにしても驚いたのはシンガ・リンガのお母さんだ。50歳をゆうに越えているはずであろうに、数時間の間ずっと立ちっぱなしで、雨に濡れながら若者達と一緒にビールを呑み続けて、冗談を言い合うエネルギーには感心した。

日本人ならば、50歳を過ぎてまで、そんな真似などしたくないという人が圧倒的だろうが、頭に飾りを着けて、外見も行動も若者と同じく振舞うブラジルのおばさん達は、ある種の尊敬に値すると思う。



ジョゼと看護婦、お母さんとけんかっ早いブラジル人を除くその他の者はラパに行くことになった。ジョゼたちがこの後どうなるのかは知らないが、ともあれ彼は目的を達成しつつあるわけだ。

いまだ振り出しなのが私。身体が疲れていたのでラパに行くのは気が進まなかったのだが、ジョゼの励ましと、カーニバルには何かが起きるかも知れず、それを最後まで確かめたいという好奇心がかろうじて勝ったということだ。

深夜のラパ。だが、空は地上に満ち溢れる光が雲に反射し紫に映え、街路そして広場はひとつの巨大なスタジアムであるかのように、膨大な数の人々が集まっている。そして眠りを完全否定するサンバの轟き。この夜は野外コンサートが行われていた。

バスから降りるやいなや、シンガ・リンガとジュディは駐車している車の間に入り、しゃがみ込んだ。リオでいつも悩みの種となるのがトイレの問題だ。公衆トイレがなく、スタンドバーのトイレを借りるにせよ、今日のようなイベントがある日にはとても収容しきれるものではない。したがって、おびただしい量のビールが消費された後は、路上のいたるところで排出される。

悲しいかな、リオの街のにおいは小便の臭いだ。ラパでは酔っ払いたちの後始末のせいで、そしてその他の街では路上生活者の生活臭のために。

それにしても、閑静な住宅地フラメンゴに住む白人の彼女達が、男のように道端で用を足すという行為には驚いたが、酒と音楽と踊りと愛欲が渦巻くラパの街では、羞恥心などねっとりした雰囲気の中に溶けてしまう。そして頭上に落ちる雨がそれを完全に洗い流してしまうだろう。

私も羞恥心を洗い流して所期の目的を遂行することを決意し、シンガ・リンガを楽しませるために野外コンサート場で踊りまくった。

青い目をくりくりとさせて踊るシンガ・リンガ。白い彼女の肌が雨に濡れてつやつやと輝く。丸いはずの彼女の顔が徐々に端整な顔立ちに変わり、鼻筋が通った美女に見える。そう見えるのは酒とダンスによる幻覚症状であることに気付くのは、翌日写真に写った彼女を見た時の話しだ。

踊りながら、彼女の顔に自分の顔を近づけ、キスしようとしたが、彼女は許さない。なぜだめなのと聞くと、ボーイフレンドがいるからと言う。なぜ彼は君を放ったらかしにしているんだと尋ねると、あそこにいると言って指差す先に、ビールジョッキ型のハットをかぶったデブ男がいる。嘘つき、私は信じないと言うと彼女はうっすらと笑い、再び踊り始めた。

彼女の機嫌をとるため、ロック音楽に合わせて猛烈にステップを踏みながら、私の身体は徐々にきしみ始め、疲れが背骨を伝わり全身に広がり始めた。歯を食いしばって踊りながら、なぜ私はこんなことをしているのだろう、という思いが脳内に膨れ上がった。

時が経つにつれ、我々の頭を狂気が支配し始めたかのように、物事が判別しづらくなった。彼女の口からのでまかせだと思っていたジョッキハット男と彼女が交わす会話から、彼らが旧知の間柄のようであり、すると本当に彼女の恋人のようにも見えたし、元恋人のようにも見えた。

ふいに彼女が、ジョッキハット男の友人が着けているネクタイを口にくわえ、もぐもぐと口の中に入れ始めた。周囲にはマリファナのべったりと甘い臭いが立ち込めている。私は吐き気をもよおした。もはや一刻も早く帰りたかった。



結局シンガ・リンガはジョッキハット男と、またジュディ・オングは間際になってパートナーを見つけ、彼らは一台のタクシーに乗り込み去っていった。

私は重く疲れた足を引きずるように歩き始めた。疲れてはいたが、とにかくこの熱狂から解放されたいと思い、歩き続けた。

悔しさもむなしさも特に感じなかった。ただ、疲れ以外に何も感じない自分に対し、若くないということだけが実感できた。

サンボドロモの裏手の道で、10名位の人々がエスコーラ・デ・サンバの山車を押していた。晴れ舞台の後で、役目を終えて全ての電源を消した山車が、暗い夜道にぼんやりと浮かび、音もなくゆっくりと進んでいた。

さらに歩き続けると、ふたりの黒人が道の両側に広がって、伏し目がちにゆっくりと歩いていた。私はとっさに身の危険を感じ、きびすを返して引き返し、近くに停まっていたパトカーに近づき、駅への道順を尋ねることで彼らの接近をかわした。私は自分の身を守ることに集中した。いつもの緊張感が体内にみなぎり始めた。

カーニバル (1)

2008-02-08 04:34:56 | Weblog
リオのカーニバルが始まった。

カーニバルは、聖週間に始まる復活祭を基準とした民俗行事のひとつで、復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日)に先立つ4日間を中心に行われるが、復活祭の日決めには月の暦が用いられるため、カーニバルもまた年によって開催日が異なる。2008年のリオのカーニバルは2月2日(土)から5日(火)までの期間ということになるが、実際には更に長きにわたり様々なイベントが繰り広げられる。

リオのカーニバルと聞いて、誰しもまず思い浮かべるものは、あの、壮麗な山車と絢爛な仮装のパレードであろう。エスコーラ・デ・サンバと呼ばれるチームが、直線形の会場サンボドロモでパレードを行い、優劣を競う。

日曜日と月曜日には12チームからなるトップグループによる競技が行われる。出場するエスコーラ・デ・サンバは1チームあたり4千人あまりを擁し、持ち時間の中で、サンバに乗って会場を行進、それぞれがテーマを持ち、踊り、装飾、ドラムス、全体の調和等を各チームが競い合う。

会場内に響き渡るサンバの歌声。身体をびりびり震わせる打楽器。薄い飾り衣装と大きな羽をつけたパッシスタと呼ばれる女性達が鮮やかで艶やかなダンスを披露し、カラフルなコスチュームを着た一群がコマのようにくるくると踊る。巨大な山車がそろりと動き、停まり、また動く。山車の形は船、馬車、城、塔、人形、怪獣、得体の知れないものなど千差万別だ。煙や火を噴き出す山車もある。

初めて観る者は怒涛のように押し寄せるエネルギーに圧倒され、興奮、陶酔するに違いない。ただ楽しむために壮大なムダを創り上げる人間の底知れぬパワーの発露。

カーニバルの楽しみはエスコーラ・デ・サンバだけではない。この期間は街中が浮かれ騒いでいる。主な地区にはブロッコもしくはバンダと呼ばれる打楽器と歌を中心とする音楽隊があり、地元の通りを行進する。踊りたい者はその行進の列にくっついて踊ればよい。

カーニバルにおけるもうひとつの楽しみはナイトクラブである。酒とダンスと男女の出会いの場であるのだが、カーニバル期間中のナイトクラブは極端にはめを外したものとなるようだ。

リオ近郊ニテロイに住む山下将軍の話しによると、かつて彼が上流階級の集まる高級ナイトクラブに行った時、平時の紳士淑女がカーニバルになると男女の欲望をあらわにして、クラブ内のところかまわず狂態が繰り広げられたという。

私が旅行で訪れた2年前のカーニバルの時、友人Ogawa氏とコパカバーナの「ヘルプ」というディスコに入った。フロアはブラジル音楽とヒップ・ホップのふたつの部屋に分かれていて、洒落た雰囲気の店であった。

カーニバルなので、踊っている女性の多くが仮装しているが、中には大胆に胸をさらけ出している娘もおり、踊る姿はストリップそのものであった。そして男性が声を掛けなくとも、女性の方から次々と私や友人に声を掛け、夜の約束を取り付けようとする。驚いたことに、ここに集まったほとんどの女性が娼婦であった。あるいはカーニバル中だけ娼婦に変身する女性もいるのかもしれない。

世界の歓楽地事情を知るOgawa氏も、これだけ開けっぴろげな光景を目にしたのは初めてだという。カーニバルは人間の抑圧された本能的欲求を開放させる。そして、カーニバルの本場リオ・デ・ジャネイロだからこそ、入道雲の如く立ち昇る欲望に対する巨大な受け皿が用意されているのだろう。


金曜日の夜、仲間達とラパに出かけた。前回同様スエリー、クリスチーナと一緒だが、ベルギー人のペーターは帰国した代わり、彼の女友達でベルギーとブラジルの両国籍を持つパトリシア、そしてスエリーの彼氏でイタリア人のレオが加わった。

時間が若干早かったせいか、広場や通りに人がぎっしり埋まっている週末の入りの7割ほどの混み具合であろうか。いつもと違うのは、多くの連中が仮装していることだ。

突起状のアクセサリーが付いたヘアバンドを着けた女性、シンデレラのようなティアラを頭に載せた女性、アイマスクを着けレイを首から掛けた女性、アラブのローブを着た男性、女装した男性等々。道端には仮装用の小物を販売する露天商が連座している。通りのどこからか、打楽器の打音が聞こえる。

仲間達は通りをさまよい歩き、私は缶ビールを片手に彼らの後をついて行く。移動には人込みをかき分けなければならないこともある。私は人込みと集団行動が苦手なので、たちまち疲れを感じ始めた。

彼らがめざしていたのはラパのブロッコであった。激しく打ち鳴らされるドラムス。がなるように歌う男性歌手。銀色に光り輝く衣装を着け、華麗にサンバを踊る踊り子たち。彼らの後に続くのは音楽に合わせて踊り浮かれる人々の大群であった。

集団に交わろうとしたとき、私の横2メートルほどの距離にいた若者が突然ビール缶を地面に叩きつけた。彼の顔は憤怒に歪んでいた。彼の怒りの原因は定かではなく、そのことが私に恐怖心を与えた。

ゆっくりと進む行列の中で、人込みに息が詰まりそうになりながら、ステップらしきものを踏みながら前進する。私のかかとをぐさりと踏みつける女性。酔った目をした若者達が次から次へと隣のクリスチーナやパトリシアに声を掛けているが、彼らの行動は本能丸出しといった風である。彼女達はその気がなさそうなので、私が彼女達の友人であることを示すために無理やり会話に割って入るが、酔った彼らが何をしでかすか危なくて仕方がない。

もし彼らが私に危害を加えようとすれば、私も我を忘れそうだ。激しいリズムで鳴らされる打楽器が、人々の潜在的な暴力の欲求を増幅させているようだ。この私も含めて。

たまらず私は集団から脱出し、彼らも私の後に続いた。こんな状況では危なくて踊れないと言うと、彼らは音楽隊の先頭部に行こうと言い私を導いた。そこは砂利を敷いたような人込みではなく、息がつける空間があった。

頭蓋を突き抜けるようなドラムスの音。リズムに身体を委ね、ステップを踏みながらゆっくりと行進する。空間にゆとりができたので、恐怖と苛立ちは徐々に静まり、今度は打楽器のリズムが陶酔感をもたらし始める。

まるでウサギが跳ねるように小柄な身体を軽やかに回転させ、丸い尻を振って踊るスエリー、高いヒールを履き、プロポーションの良さを衆人にアピールしながら女王のような貫禄で踊るクリスチーナ、大柄な身体にもかかわらず、足を小刻みに動かし、しなやかにステップを踏むパトリシア、左右に大きく身体を振り、熟練した踊りを見せるレオ。

パトリシアが私を呼びとめ指差すので目を向けると、側道から若い娘ふたりが私に向かって愛してると大声で叫んでいる。何事が起こったか頭が理解する前に投げキッスを送り、行進とともに彼らはたちまち視界から消えた。大柄な混血の男性がパトリシアとすれ違いざまに声を掛けたかと思うと、突然ふたりはキスを交わした。そして男は立ち去った。皆が欲望のままに動いている。

乱痴気騒ぎに天がしびれを切らしたかのように、雷鳴がとどろき始め、やがて大粒の雨が降り出し、たちまち土砂降りとなった。今夜の浮かれ騒ぎはお開きとなったが、カーニバルはまだ始まったばかりだ。

イパネマの娘

2008-01-29 00:48:40 | Weblog
ブラジルにあまり関心の無い人、リオ・デ・ジャネイロを知らない人でも、コパカバーナ、イパネマという名は耳にしたことがあると思う。リオ市南部に位置する地区名で、ともに海岸で有名である。

今でこそ山間のファベーラに引っ込んではいるが、かつて私はコパカバーナの高層アパートに住んでいた。とは言っても、居候よろしく友人の所有するアパートの一部屋を間借りしていただけなのだが。

アパートに面した大通りを横断し、次の街角まで歩くと、にわかに高層アパート群に塞がれていた視界が開け、薄肌色の砂浜の向こうに空が抜けたように広がっている。部屋からほんの3分ほどの距離にコパカバーナの海岸があった。

広い波目模様の遊歩道には、ビキニ姿の女性、Tシャツ姿の初老男性、上半身裸でジョギングする中年男性、カップルの観光客などが皆思い思いに闊歩している。時の刻み方の調子が1オクターブ低くなる。平日であろうと休日であろうと、海岸の雰囲気はいつもバカンスだ。

海岸を歩いて目に付くのは、やたらに筋肉隆々の男性が多いことだ。中南米では男性優位を示すために、肉体的な男らしさを誇示するマッチョ思想が広く浸透しているらしい。

それにしても、リオにはマッチョがやたら多い。いつでも裸でいられる海岸では、自慢の筋肉を見せびらかしたい連中がたくさんいるのだろう。そのため、この街にはいたるところにフィットネス・センターがある。

広いビーチのいくつかの地点には、鉄棒や腹筋台といった簡単なウエイト・トレーニング用の器具が設置されている。いつでも誰でもマッチョになりたい者はなれますよというリオ市役所のマッチョ増産計画(?)のおかげで、フィットネス・センターに通う金の無い私も、将来はマッチョ・カリオカの一員となるべくトレーニングに励んでいた。

ところがある日、時の経つのを忘れてトレーニングに励むあまり、マッチョと並ぶ、これまたリオ名物の強盗が出没、被害に遭ってしまい、私の肉体マッチョ改造計画は頓挫した。今から1年半程前の話である。



コパカバーナ海岸が比較的幅広い階層の人々にとっての憩いの場であるのに比べて、イパネマ海岸はワンランク階層の高い人々が集う場所と見られている。海岸に面するイパネマ、レブロン地区はリオでも屈指の高級住宅地であり、畢竟、その住人達は近所のイパネマ海岸に集い、同階層の友人達との閑談に時を費やす。

私はブラジルに来て間もなく、友人セルソと知り合ったおかげで、週末には彼と一緒にイパネマ海岸で時を過ごすことが多い。

別に特別なことをするわけでもない。ビーチ・パラソルの下、缶ビールを呑み、ぽつぽつとしゃべり、後はボーッと海を眺め、若い娘たちを眺め、浜の向こうに屹立する山を眺めているだけだ。

週末の天気の良い日は、ビーチ一帯がパラソルとデッキ・チェアとビーチ・ブランケットに埋め尽くされる。大勢の人々が集い、おしゃべりに興じ、砂浜に寝そべり、ビーチ・バレーに汗を流し、そして気が向けば海に飛び込む。

物売りも甲斐甲斐しく人々の隙間を歩き回る。アクセサリー売り、マテ茶売り、カイピリーニャ売り、焼きチーズ売り、ビスケット売り等々。異彩を放つのが白いアラビア風のローブを着た物売りで、キービというアラブ伝来の肉団子を売っている。ぼやけた味の多いブラジル料理の中では、このアラブの間食用おつまみにかろうじてスパイスの風味が感じられる。とはいっても本場と比べたらものすごくマイルドに違いないけれど。

ビーチであるから当然男も女も肌をさらす。男はマッチョも多いが、腹回りの大きい男性も多い。先のマッチョ思想からすると、ガリガリに痩せているよりは、まだデブの方がましと考えられているかもしれない。実際、はっとするような美人と気の抜けたデブのカップルも珍しくない。

ところが女性に関していえば、多少の例外があるとはいえ、総じてお腹が引っ込んでいる。これは特筆すべきことだ。普段街を歩いていればすぐに気が付くことであるが、残念ながらたいへん多くの女性が腹に脂肪を溜めている。皆さん丈の短いシャツを着ているので、太いお腹が堂々とシャツから飛び出している。ところがイパネマ海岸ではそのような女性は姿を見せなくなる。これは明らかに自分の身体に自信のある女性が集まっている結果である。淘汰されたと言ったら言葉が悪いが、少なくともここでは自分の身体を見せるに値すると考えている女性のみが、イパネマ海岸の砂浜に身体を横たえているように見える。

セルソの女友達の多くは50歳代であるが、一般にその歳で下腹に肉を付けない体型を保つのは難しい。だが彼女達はおそらく不断の努力を積み重ねているのだろう。均整の取れたプロポーションをお持ちである。それどころか、皆さん幾つになられても自分のチャーム・ポイントを顕示されたいようで、ある女性はTバッグを穿いたボディをうつ伏せに横たえ、大胆に晒されたその発達したお尻は衆人環視の的となっている。

50代の熟した身体も結構ではあるが、やっぱりというか、老若問わず、全ての男の視線を一点に集めるのは、若い、弾けるような肌を持つ娘が目の前を通り過ぎた時である。

「リュウイチ、あの青いビキニの女性を見ろよ」と、セルソが囁く。「どこ?あの女性?」「馬鹿、指を差す奴があるか。さりげなく見るもんだよ。」「おお、彼女ね。いいじゃない。」「最高だね。」と、たわいない会話が繰り返される。

美しい娘が目の前を通る際のセルソの視線は、注視はしているけれども、相手に過剰な意識をさせないような、薄い絹のスカーフが肩にそっとかかるような、さりげない視線である。カリオカの50年の年季がこもっている。

そのような男達の期待を娘達は裏切らない。彼女達は関心の無い風を装い、我々の許を通り過ぎるが、歩き方は優雅に、ゆっくりとしたモーションで、見せるということに対し配慮の行き届いた動きである。無造作でありながら、そこにはだらしの無さは感じられない。

彼女達がビキニの上からショートパンツを穿く仕草を眺めてみるとよい。お尻の下で止まったショートパンツが、小刻みにお尻が振られるごとに、数ミリごとにゆっくりと引き上げられ、100%お尻にフィットするまでお尻を最後まで振りながら、時間を掛けてパンツを穿くその仕草は、彼女達が観客の存在を何より知っている証拠ではないか。



陽が傾き、やがて山の向こうに太陽が隠れる頃、あるいは天候がにわかに変わり、雲が空を覆い、風が冷たくなる頃、人々はビーチを後にする。

私達のビーチから歩いて数分の、海岸から一区画奥に入った街角にガロータ・デ・イパネマというバー・レストランがある。1962年、ボサノバ作曲家であるアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)と作詞家のビニシウス・デ・モラエスがこの店で時間を潰していたところ、ブロンドの美しい娘が通り過ぎるのを目にして、その印象から、イパネマの名を一躍有名にした名曲「イパネマの娘」が生まれたという。当時ベローゾという名であった店がその後改名して「ガロータ・デ・イパネマ(イパネマの娘)」になったという次第である。

このバー・レストランはテーブル席もあるが、店の脇に小さなカウンターがあり、店に入らなくてもそこで飲み物を注文し、通りで立ち呑みができる。気が向いた時に、私達はそこでさらに時間をつぶす。

友人のひとりにシュラスコ用のコンロを持っている者がいて、たまに店の前でシュラスコを焼き、肉を食べながらビールを呑むこともある。日本ではレストランの前で勝手に肉を焼き始めることなど考えにくいが、リオではよくあることだ。店としては、ビールの売上げが伸びる分には悪くはないと考えているのだろう。

私がこの店で飲食するのは月に1度以下なので、この有名店の常連客とはいい難いが、別の件でこの店にたいへんお世話になっている。

イパネマの海岸沿いには一定区間ごとにトイレが設置されているが、有料なので私は利用したくない。だからガロータ・デ・イパネマのトイレをいつも借りている。

セルソや他の友人達はそんな私を嗤う。彼らカリオカは便所までわざわざ足を運ぶということはしない。セルソは時が来ればおもむろに足元の砂を掘り、窪みの上にまたがり、足を軽く組みその上にリュックを乗せてなにやらごそごそまさぐる。傍目からは彼はただしゃがんでいるように見えるが、その時彼は用を済ませているのだ。そして、立ち上がり、周りの砂で穴を埋めてそれでおしまいだ。

私はいつも彼の真似をしようと考えているのだが、どうしても勇気が湧かない。一番の原因は、ズボンを汚さずきれいに用を足せる自信のないことだ。女性を眺めるときのさりげない視線同様、これまたカリオカの高度なテクニックが要求される。カリオカへの道はまだまだ遠い。

日本のモノはブラジル人垂涎の的!?

2008-01-18 06:14:58 | Weblog
東京の実家から小包が送られてきた。中には4枚のトランクスが入っている。リオの衣料品店で捜したがブリーフしか置いていなかったので、両親にトランクスを送るよう頼んでおいたのだ。

新品のトランクスを穿く。下ろしたての生地のざらざらとした粗さが肌を擦り、濃紺の染料が鮮やかに映える。これまで1年半にわたって穿き続けてきた3枚のトランクスの、くたびれて破れて色落ちしただらしのなさに比べて、心身が引き締まるようだ。

久しく新しいモノを手に入れることが無かったので、ぴたっと自身の下半身に収まったトランクスを眺めながら、私は生まれ変わったような歓びを覚えた。

齢四十三にもなってパンツ1枚で感動している私の姿を見たら、こんな小人物に育てた覚えは無いと両親は嘆くであろう。まあ、育ってしまったものは仕方がないと諦めてもらうしかない。



日本ではたいがいのモノを贈っても喜んでもらうのは難しい。新婚生活を始めるというならともかく、各家庭にはモノがあふれている。あらかじめ相手が必要とするモノの情報を仕入れておかないと、気の利いたものを贈ったつもりが、相手に粗大ゴミをひとつ提供するという結果に終わる。

人にモノを贈って喜んでもらうことが生きがいであるという奇特な人がいるとすれば、その人はブラジル人を友人に持つべきだ。ニッセンのカタログから当てずっぽうに指差した商品をブラジル人に贈ったとしても、彼は大喜びするだろう。

ブラジル人が大喜びすると思われる理由はふたつある。第一に、ブラジルの家庭は日本ほどモノにあふれていないということだ。

もっとも、ブラジルは貧富の差が極端であり、生活スタイルも多様であるため、十把一からげにまとめたとしてもその枠からはみ出る例が多い。ここでは一般論を述べるにとどめる。

近年日本人の一人当たり所得額が減少しているようだが、それでもブラジル人平均に比べたらはるかに購買力は高い。加えて、日本で販売されているモノは概して安価で良質である。すなわち買い求めやすく長持ちする。その結果、家の中が徐々にモノに占領されるという現象が起こる。

一方ブラジルでは、モノのコストパフォーマンスは極めて悪い。

家電、PC関連製品、エレクトロニクス製品は国産よりも輸入に依存している。輸入品には関税がかかるため、末端価格はべらぼうに高い。あるスーパーで買った単3アルカリ電池は4本で650円もした。デジカメのキヤノンA460が28,000円。日本ではこの半額で買える。しかもこの値は安売り店を探しに探して見つけた値段である。ショッピングセンターで買うと6,000円程さらに高い。

国産の価格の安い品物もある。だが、ここでは安物イコール粗悪品だ。ポリエステルのシャツを300円で買ったが、たちまち襟元がほつれ出した。900円のサンダルは、1ヵ月たたないうちに両足の靴底が割れた。鍋やフライパンは把手が取れ、本体価格3000円の携帯電話はすぐフリーズする。

結局、品質のよいモノを揃えようとしたら、輸入品に頼らなくてはならない。したがって多くのブラジル人にとっては、何でも容易に揃えるというわけにはいかない。

だから例えば、日本では各家庭の物置に当たり前のようにある工具キットが、ブラジル家庭では当たり前ではない。そのため私のフライパンはいまだに把手が取れている。

ブラジル人が喜ぶ理由の第二は、日本製品はかゆいところに手が届くようなアイデア商品がたくさんあり、彼らはそれを珍しがり、面白がると思うからだ。

日本では必需品である電気炊飯器の便利さを考えてみると、米を常食にするブラジルにあってもおかしくないが、一向にそのようなものは開発されない。ご飯の作り方が日本米と違うので、日本と違う製法を採らなければならないが、直火で炊いた場合の、焦がしてしまうリスクを考えると、炊飯器があってもおかしくない。

もし日本のご飯がブラジル式の、最初に米を炒めるという作り方であったとしても、日本人はきっと何らかの製品を開発していたに違いない。

私が販売を目論んでいるウォシュレットも堂々たるアイデア商品である。パーティの席でおシモの話しをするのはふさわしくないように見えるが、ブラジル人は珍しいモノ好きで、冗談好きなので、ウォシュレットを紹介するとけっこう受ける。

もっとも日本製品は現地のニーズを度外視して余計な機能をくっ付けたがるので、最近では韓国など新興工業国に販売シェアを食われている。機能満載の携帯電話も、日本以外のシェアはさっぱりである。

日本の数々のアイデア商品をギフトとして受け取る分には、珍しいし話題になるのでたいそう喜ばれるだろうけれど、だからといって金を払ってまで欲しいかといえば、それは別問題ということになる。私のウォシュレットが単なる話題としての価値しか受け取ってもらえないとしたら困るのだが。