ここのところ天気が良い。雲は多いが、青空が覗き、強い陽射しに身体は火照る。それが夜間になると空気がひやりと冷たくなる。というのも、サンパウロの標高は800メートル弱ある。熱帯夜で寝苦しいということはない。雨の多い地域なので、天候に一喜一憂することになるが、運良く好天が続けば3月のサンパウロは過ごしやすい。青空に浮かぶ雲は大地に近い。
3月5日、水曜日。私は公衆電話を前にしてじっと立っていた。その間、前口上を頭の中で暗誦し、不安と緊張で塞がる気持ちを和らげようと試みた後、プッシュボタンを押した。
電話の相手先はサンパウロ新聞社という。日系人の購読者を対象とした日本語で書かれた新聞を発行している。私はそこの編集局長を呼び出し、面会の約束を取り付けた。
私は日本を発つ前に、父の友人でブラジルに長年住み、一財産を築いたという人と会い、彼の経験談を伺っていた。彼は20世紀の激動のブラジルを生き抜いてきた面構えの厚さとともに、原野に眠る財宝を巧みに嗅ぎ付ける機知と、儲け話にはいつも抜け目なく仲間に紛れ込むことのできる愛嬌を備えた表情をしていた。
彼が若い頃、アマゾンで盗賊団の一味に加わり、あるとき襲った集団が、実はチェ・ゲバラのゲリラ部隊で、ほうほうの体で逃げ出した-などと言う、破天荒な話しを聞いたりした後、彼は私にブラジルで行き詰った時の連絡先を教えてくれた。それがサンパウロ新聞で、彼は自分の名前を出したら大丈夫だと太鼓判を押したが、ここを頼るのはあくまでも最後の切り札として、にっちもさっちも行かなくなった時にしろと、念もまた押した。
目の前にいる偉大なガリンペイロ(山野で貴金属や宝石を探し回る人。山師)に担保された言葉から、私は直ちに学生時代に教科書で読んだ、ナチスに捕まったユダヤ人の若者が収容所に連行される途中脱出を企て、ある者から食べるのは極力後にしろと言われ手渡されたパンのおかげで空腹の絶望に打ち勝ち見事逃亡することができたが、最後に布切れに入ったそれを開けると実はパンではなく石ころであったという、『一切れのパン』という小説を思いだした。
午後3時、サンパウロ新聞社を訪問する。会社の所在地がある通りはミツト・ミズモトと言い、サンパウロ新聞の創業者の名前を冠している。功成り名遂げ、サンパウロの名士となったのだろう。だが建物は、新聞社のビルというよりは町の小さな印刷所といった風の古い質素な建物で、入るとこれまた印刷所の事務方の、気の利かないおばさんといった女性が愛想なく私を眺め、用件を伝えるとたどたどしい日本語で「中へどうぞ」と言った。
30分後、私は新聞社を辞した。父の友人が名を挙げた編集局長には会えた。話しを聞いてもらえた。だが仕事の口は無かった。切り札はあっけなく潰えたかに見えたが、一縷の望みが残されていた。彼は別の新聞社の編集長の名を挙げ、そこでは現在求人しているはずなので、彼を訪ねてみたらと言った。
電話を掛け、編集長に事情を話すと、さっそく面接に応じてくれるという。もはや失敗は許されない。私はこの日のために日本から持ち込んだとっておきの仕事着、すなわち革靴を履き、ワイシャツを着て、ネクタイを締め、スーツを着て-といっても上着は持って来ておらず、ズボンだけであるが-、午後5時過ぎ、サンパウロ新聞と比肩する日本語新聞のもう一方の雄である、ニッケイ新聞社を訪れた。
編集長は予想していたよりずっと若く、40代に届かないように見えた。他のスタッフも日本人で、さらに若い。面接時間を5時以降に指定したのは定時の退社時間後に行いたかったのだろう。ひとり、またひとりと退社してゆく。日本の新聞社はべらぼうに忙しいと聞いているので、ここサンパウロのニッケイ新聞がずいぶんのんびりしたものに見えた。
編集長はいくつか私に質問し、その中心はなぜブラジルに来たかということであったが、そして自社の活動内容を簡単に説明したが、それらの語勢に覇気が無い。
業務内容は取材と記事作成ということだが、それならば私の語学力や文章力についてもっと突っ込んだ質問があっても良さそうなものなのだが、まるで新幹線の車内で偶然隣り合わせになった遠縁の者に義理で話しかけているといった調子で、表面的な話のみで面接を切り上げようとする。サンパウロ新聞の編集局長の紹介でやむなく相手はするが、人物にはとうに興味を失っているといった雰囲気が漂っている。
彼が唯一語気を強めたのが、ニッケイ新聞の購読者は日本語の読める高齢の日系一世なので、人口の減少とともに発行部数も減る一方であるため、将来どのような事業を新たに進めていけばいいかということであった。そのような社命を左右する重大な問題に私がとっさに答えられる筈もなかった。
会社を辞した時、通りはしっとり薄暗くなっていた。求人募集を始めたばかりなので、結果は再来週まで待てとのことであったが、面接の感触から、まず採用は望めないと思った。切り札はあっけなく川に流されていった。
再来週の週末が過ぎてもニッケイ新聞から連絡がないので、その次の週明けに電話で問い合わせてみた。編集長は恐縮しながら、今本命からの返事を待っており、結果はその動向によって決まるので、もう少し待って欲しいと言う。
私は、ならば私にも採用の可能性がないわけではないのかと尋ねると、まあそうだと言う。本命が採用を承諾すれば仕方がないが、もし採用を拒否するといった事態になれば、私にも採用のお鉢が回ってくるかもしれない。
少し気を取り直し、駄目でもともと、ならばやるだけの事はやろうと思い、面接時に編集長が尋ねた将来の事業計画について、私のアイデアを書き、Eメールで送った。新聞社の情報収集力とネットワークを活用し、人材派遣業を行うのはどうかといった内容であった。自分でもこの案が採択されるとは思ってもいなかったが、彼に私のやる気と発想力を見てもらいたかった。
メールを送った翌日、謝意とともに現時点では実現は難しいとの返事が届いた。
さらに数日後、再び編集長からEメールが届いた。開封を待たずして内容は明らかであった。タイトルに「残念なお知らせ」と書いてあった。日本を出発前に手渡された布切れの中身はやはり石ころであった。
3月5日、水曜日。私は公衆電話を前にしてじっと立っていた。その間、前口上を頭の中で暗誦し、不安と緊張で塞がる気持ちを和らげようと試みた後、プッシュボタンを押した。
電話の相手先はサンパウロ新聞社という。日系人の購読者を対象とした日本語で書かれた新聞を発行している。私はそこの編集局長を呼び出し、面会の約束を取り付けた。
私は日本を発つ前に、父の友人でブラジルに長年住み、一財産を築いたという人と会い、彼の経験談を伺っていた。彼は20世紀の激動のブラジルを生き抜いてきた面構えの厚さとともに、原野に眠る財宝を巧みに嗅ぎ付ける機知と、儲け話にはいつも抜け目なく仲間に紛れ込むことのできる愛嬌を備えた表情をしていた。
彼が若い頃、アマゾンで盗賊団の一味に加わり、あるとき襲った集団が、実はチェ・ゲバラのゲリラ部隊で、ほうほうの体で逃げ出した-などと言う、破天荒な話しを聞いたりした後、彼は私にブラジルで行き詰った時の連絡先を教えてくれた。それがサンパウロ新聞で、彼は自分の名前を出したら大丈夫だと太鼓判を押したが、ここを頼るのはあくまでも最後の切り札として、にっちもさっちも行かなくなった時にしろと、念もまた押した。
目の前にいる偉大なガリンペイロ(山野で貴金属や宝石を探し回る人。山師)に担保された言葉から、私は直ちに学生時代に教科書で読んだ、ナチスに捕まったユダヤ人の若者が収容所に連行される途中脱出を企て、ある者から食べるのは極力後にしろと言われ手渡されたパンのおかげで空腹の絶望に打ち勝ち見事逃亡することができたが、最後に布切れに入ったそれを開けると実はパンではなく石ころであったという、『一切れのパン』という小説を思いだした。
午後3時、サンパウロ新聞社を訪問する。会社の所在地がある通りはミツト・ミズモトと言い、サンパウロ新聞の創業者の名前を冠している。功成り名遂げ、サンパウロの名士となったのだろう。だが建物は、新聞社のビルというよりは町の小さな印刷所といった風の古い質素な建物で、入るとこれまた印刷所の事務方の、気の利かないおばさんといった女性が愛想なく私を眺め、用件を伝えるとたどたどしい日本語で「中へどうぞ」と言った。
30分後、私は新聞社を辞した。父の友人が名を挙げた編集局長には会えた。話しを聞いてもらえた。だが仕事の口は無かった。切り札はあっけなく潰えたかに見えたが、一縷の望みが残されていた。彼は別の新聞社の編集長の名を挙げ、そこでは現在求人しているはずなので、彼を訪ねてみたらと言った。
電話を掛け、編集長に事情を話すと、さっそく面接に応じてくれるという。もはや失敗は許されない。私はこの日のために日本から持ち込んだとっておきの仕事着、すなわち革靴を履き、ワイシャツを着て、ネクタイを締め、スーツを着て-といっても上着は持って来ておらず、ズボンだけであるが-、午後5時過ぎ、サンパウロ新聞と比肩する日本語新聞のもう一方の雄である、ニッケイ新聞社を訪れた。
編集長は予想していたよりずっと若く、40代に届かないように見えた。他のスタッフも日本人で、さらに若い。面接時間を5時以降に指定したのは定時の退社時間後に行いたかったのだろう。ひとり、またひとりと退社してゆく。日本の新聞社はべらぼうに忙しいと聞いているので、ここサンパウロのニッケイ新聞がずいぶんのんびりしたものに見えた。
編集長はいくつか私に質問し、その中心はなぜブラジルに来たかということであったが、そして自社の活動内容を簡単に説明したが、それらの語勢に覇気が無い。
業務内容は取材と記事作成ということだが、それならば私の語学力や文章力についてもっと突っ込んだ質問があっても良さそうなものなのだが、まるで新幹線の車内で偶然隣り合わせになった遠縁の者に義理で話しかけているといった調子で、表面的な話のみで面接を切り上げようとする。サンパウロ新聞の編集局長の紹介でやむなく相手はするが、人物にはとうに興味を失っているといった雰囲気が漂っている。
彼が唯一語気を強めたのが、ニッケイ新聞の購読者は日本語の読める高齢の日系一世なので、人口の減少とともに発行部数も減る一方であるため、将来どのような事業を新たに進めていけばいいかということであった。そのような社命を左右する重大な問題に私がとっさに答えられる筈もなかった。
会社を辞した時、通りはしっとり薄暗くなっていた。求人募集を始めたばかりなので、結果は再来週まで待てとのことであったが、面接の感触から、まず採用は望めないと思った。切り札はあっけなく川に流されていった。
再来週の週末が過ぎてもニッケイ新聞から連絡がないので、その次の週明けに電話で問い合わせてみた。編集長は恐縮しながら、今本命からの返事を待っており、結果はその動向によって決まるので、もう少し待って欲しいと言う。
私は、ならば私にも採用の可能性がないわけではないのかと尋ねると、まあそうだと言う。本命が採用を承諾すれば仕方がないが、もし採用を拒否するといった事態になれば、私にも採用のお鉢が回ってくるかもしれない。
少し気を取り直し、駄目でもともと、ならばやるだけの事はやろうと思い、面接時に編集長が尋ねた将来の事業計画について、私のアイデアを書き、Eメールで送った。新聞社の情報収集力とネットワークを活用し、人材派遣業を行うのはどうかといった内容であった。自分でもこの案が採択されるとは思ってもいなかったが、彼に私のやる気と発想力を見てもらいたかった。
メールを送った翌日、謝意とともに現時点では実現は難しいとの返事が届いた。
さらに数日後、再び編集長からEメールが届いた。開封を待たずして内容は明らかであった。タイトルに「残念なお知らせ」と書いてあった。日本を出発前に手渡された布切れの中身はやはり石ころであった。