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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

ブラジル社会でのビジネス

2008-08-08 23:07:51 | Weblog
雑誌の広告取りの仕事を始めて3ヶ月が過ぎた。仕事に慣れてきたこともあり、少しずつ新規の顧客も獲得し始めた。給料は一部コミッション制なので少しずつ増えてきており、5月頃のように、1レアル(65円)のお菓子を買おうかどうか悩む必要がなくなったのはうれしい。

私の顧客の大半は日系1世、つまりは日本人なので、日本語も通じれば、考え方も日本的であるため、仕事上特に困ることはない。私が日本で培ってきた従来のやり方でいいわけだ。

だから私は営業マンとして、誠意のある対応と失礼のない振る舞いを心がけている。直接の広告効果だけではなく、営業マンの態度いかんで広告を出すかどうかの決定が左右されると私は考えている。

ところが顧客が日系1世以外になると、私のそんな努力が何の役にも立たないと感じるケースもある。

あるとき広告依頼の連絡があった。聞くと従来の広告主である美容整形医院の紹介で連絡したという。

商談はスムーズにまとまった。近々ホテル内にバーと家電店を開くという若い社長はドクターの友人であり、かつドクターは社長の仲人であった。私が苦労せずに商談をまとめた背景には、ドクターの推薦が強力に作用していたに違いない。

バーや家電店の広告掲載は効果も見込める。だが、その後ドクターが彼の友人である防音サッシの業者を引き合わせてくれた時、私にはサッシの広告がいかほどの顧客獲得効果をもたらすか皆目分からなかった。それはわが雑誌の主要な読者は在サンパウロの日本企業の駐在員なので、彼等が持ち家に住むケースはまずないのである。

私が思案に暮れながらサッシの社長に対面するも、社長の関心はもっぱら広告料であり、広告効果のあるなしについては全く触れてこない。結局ある程度の値引きをして商談は成立した。

ここに述べた私の顧客は日本語があまり話せない日系2世ないし3世である。縁故や知人による紹介がものをいうのは日本も同様かもしれない。しかし、サッシの社長のように盲目的といおうか無批判に薦めに従うのは、さすがに今の日本ではあまり見られないのではないか。

その一方で、いくら広告効果が認められることを力説しても、非日系ブラジル人は決して私の話しに乗ってこない。まあ、私の言語能力で力説したところでどこまで相手に伝わっているか自信は持てないが、だが、これまで多くのブラジル人と話した中で、私が壁を感じているのは言葉以上に彼等との接点が見つからないことだ。

突然日本人がやってきて、彼等の読めない雑誌の広告効果を説いたところで、信じるまでに至らないのは当然かも知れない。ブラジル人は無碍に追い返すことをせず、ひととおり話しを聞いてはくれるが、説明の後には判で押したように、興味があれば電話すると言って話しはおしまいになり、もちろんその後はなしのつぶてである。

これが日系人であれば反応はやや異なる。彼等が日本語を全く知らない場合でも、私のポルトガル語の説明が彼等の関心を喚起した時には、彼等は質問をするなど興味を示す。

日系人にとっては、日本人は彼らのルーツであり、接点も多い。ところが非日系ブラジル人にとって、日本人は全く階層の異なるグループに過ぎない。

異なる階層に属する連中に対して、いきなり金銭を信託することなど考えられないのではないか。一流企業のようにネームバリューがあれば話しは別なのかも知れないが。

この国ではネポチズモと呼ばれる縁故主義が幅を利かせる。歴史的に家父長制の拡大家族による相互依存社会が展開され、利権は全て一族内で分配される。現在でも政治・経済における縁故主義は健在のようで、例えば一族の誰かが有力な官職に就くと、その一族の他の人間も有利なポストが与えられる、企業にはコネが無いと入社が難しい、国内大企業の多くが未だに家族経営の形態をとっている等である。

ブラジル人は一般に明るい人柄で、他人とすぐに打ち解けて話しをすることができるが、ことビジネスに関しては非常に閉鎖的のようだ。

販売業であれば、彼等のニーズが満たされるか否かであり、客は商品を自分の目で確かめることができるが、広告業では信頼関係が全てであり、日本人であれば営業マンの人柄や態度によってある程度の信頼を得ることが可能であるかもしれないが、ブラジル人には通用しない。

ブラジルでビジネスを展開するにはコネをつくるか有力者の一族になることを必要とする。それがないとノーチャンスだ。だが、コネをつくるためにはいったいどうすればいいのだろう。また、どれだけの時間がかかるのだろう。ビジネスの成功を目論みブラジル人社会にどっぷりと入り込んでいきたいのだが、彼等と私の間に立ちはだかる層は黒雲のように厚く、ずっしりと横たわっている。

狂気のブラジル

2008-07-23 22:06:22 | Weblog
とある平日の昼下がり。仕事でモエマという住宅街の高層マンション区域を歩いていた。すると私の約2メートル前方で不意に上から物体が私の目を掠めて地面に落下するのを見た。それは小さな植木鉢であった。

落下時の猛烈なスピードと稲妻が弾けるような衝撃音から、植木鉢はかなり高い位置から落ちたに違いなかった。
上を仰ぎ見るとマンションの階上に連なるベランダは既に人気が無かったが、建物は敷地に奥まって建てられており、道路からベランダは少々離れていた。

状況を推測すると、人が誤ってベランダから植木鉢を落としたとしたら、道路よりさらに建物に近い位置に落ちた筈である。人が投げつけるなど勢いを加えない限り、私が歩いていた道路には届かない。

その時付近を歩いていたのは私ひとりだった。すると上階に住むマンションの住人が私めがけて植木鉢を投げつけたというのだろうか。

もしも頭を直撃したとすれば命にかかわる程の威力であった。だが私は身の危険を感じてぞっとするわけでもなく、不届き者に対して不愉快に思った程度で、そんな気分もやがて平常心に戻った。

不惑の歳になったからというわけではない。危機一髪の出来事が起きても一大事に思わない理由は、この国ではそのような出来事が身近に転がっているからだ。

テレビのスイッチを入れると、ニュースは毎日殺人、強盗、誘拐、交通事故の報道を繰り返している。ついこの間通った街道で強盗殺人事件が発生している。見覚えのある風景がテレビに映し出され、レポーターが深刻を装った表情でレポートしている。

なにしろサンパウロは殺人事件の数が交通事故死亡者の数に匹敵する。それどころか、5年前は現在の3倍に及ぶ6千人に届かんとする人間が殺されていた。想像を絶する数である。
(Jornal Destakより)

警察に治安の向上を期待したいところだが、この警察がまた物騒である。4ヶ月間にブラジル国内で約500人が警官に射殺されている。おいそれと発砲も許されない日本の警察と比べると驚くべき凶暴さである。この中には誤射や流れ弾によって殺された民間人も多く含まれる。その手のニュースもよく報道される。

ニュースで報道される強盗事件は氷山の一角もいいところだ。サンパウロの強盗件数は東京の250倍である(在サンパウロ日本総領事館ホームページより)。私のように被害に遭っても届け出ない(届けられない)者もいるので、実際の数は公表値よりもはるかに多いだろう。

日常の生活においても落とし穴は多い。前々回のブログで紹介した鉄道沿線のある駅では、電車とホームの間がゆうに50センチは開いており、大人があっさりとホームに転落できる幅だ。段差もひどく、だから幼児や老人は絶対にひとりでは降りられないし、もちろん案内放送は無いので油断すると大けがのもとだ。

おまけに、先日その路線はサッカーの試合で興奮した暴徒に襲われ、電車は毀損し、乗客が避難する騒ぎがあった。

朝、たまにランニングをすると、前を歩く人々が私の足音を聞いたとたん、はっとした顔で振り返る。物取りに間違われるのだ。そんな油断のならない世界に住んでいるのだが、さすがこの地で生まれ育ったブラジル人は悠然としている。不測の災難が彼等の身に降りかからない限り。

住めば都という。私にしても、ブラジルに住み始めて間もない頃は、慣れぬ治安面での気遣いに神経がささくれ立つ思いがしたが、今はそれほど神経質にはならない。気を使わなくなったというよりは、恒常的に治安の悪い土地で神経を尖らせる習慣が付いたというか、生命の危険に晒されることに慣れたというか、自分の生命など鴻毛の如く軽いものと諦観したか、まあだいたいそんなところだろう。

いつの頃からか、「人間到る所青山あり」という言葉が心に届いていた。人生どこで朽ち果てようと、それがその人の生き方なのだからいいではないか。今の私はそれの実践者であろうか。ブラジルという陽気な戦闘地域にはまり込み、この地で命を失うかもしれない。まあ、それも人生だ、などとうそぶきたくなる。

ところがどっこい、人生そうそう簡単に達観などさせてくれない。リベルダーデを歩いていると、すれ違いざまに中年のおばさんからいきなり肩に肘鉄砲を食らわされたときは泡を吹くほど面くらった。小太りの日系人のおばさんは振り向きもせず片手を挙げ、そのまま去っていった。ブラジルの狂気にぞっとした。

じっさい、自分が痛い目に遭ってはじめてこの国の狂気に恐れおののくのだろう。最愛の奥さんを暴漢に殺され、以来精神が不安定になり酒に救いを求めるリオの友人セルソのように。

それでもほとんどの人は毎日を平穏に過ごしている。あたかも自分は一切の厄災とは無縁であるかのような顔をして、恋人達は壁際にたたずみキスを交わし、おばさん達はお喋りしながら往来をゆうゆうと歩く。

彼等には次の辻に待ち構えている不幸が見えていないかのようである。しかしながら、この国では不幸の当事者はいつでも周辺をさまよい、声を上げて、不幸の存在を世に問いかける。

生まれどころが悪かったというだけで、生涯人間らしい暮らしとは無縁な浮浪児たちが小銭をねだる。両足をなくした物乞い、失明した物乞い、ふんぷんたる悪臭とともに往来をぶつぶつ呟きながら徘徊する宿無し。誰彼と無く悪態をつく宿無し。頭を抱えて号泣する宿無し。3人の小さな子どもを抱え、お腹の中にさらにもうひとりを抱えている女の宿無し。

これだけ経済が上向き、瀟洒なショッピングセンターや高級マンションが次々に街に現われているというのに、ひとかけらのおこぼれにも与れずに打ち棄てられている浮浪者の存在は、この国の狂気を最もよく物語っている。

だが、いったい誰がこの現実に対峙し、変革の楔を打ち込むのだろう。

社会を変えようとする前に自分の境遇を第一に考えるブラジル人。だから結局は自分の利益を呼び込むための綱引きばかり演じているので、ちっとも社会は変わらない。

そんなこの国の歴史を否応無しに見てきた彼等は、いくら考えても悩んでも、なるようにしかならないことを知っている。だから狂気に囚われた運命に甘んじつつも、生命のある限り明るく生きようというカーニバル的刹那主義に生きる。

彼等にしても私達と同様に、心の奥底深くに薄紙のように張り付いた不安を抱えながらも、それが暗雲のように胸中を包みこむようなおそれに至ることなしに、陽気さという甘いパイの皮に包み込んで、同じパイの皮を持つ隣人と付き合うことでその日を楽しく過ごせば良いと思っているのではないか。

ブラジルで生きるからには全てにおいてブラジル流を学ばなければならない。歩行者が道路を横断中に突然右折してきた車に轢かれそうになるのを見ると、この国に住み続ける限りわが身の破滅は遠からずと思われるので、なおさらカーニバル的刹那主義でいきたい。

とはいうものの、歩行者が轢かれそうになりながら、運転手とお互い笑顔で親指を突き上げて挨拶する光景は、私の生存中にブラジル修行で到達できる境地を超えている。まさか本当に轢かれてしまっても親指を突き上げ笑顔で死んでいくわけではないだろうが。

社会主義国ブラジル?

2008-07-04 22:53:32 | Weblog
毎朝パンを買いに近所のパン屋に行くが、そこの主人の愛想が悪い。家族経営なので奥さんと息子も一緒に働いているが、家族揃って愛想がない。

はじめのうちは顔を合わせると私は挨拶をしていたが、挨拶が返って来ないので近ごろは私も一緒にぶすっとしている。

その店の斜め向かいにもう一軒大きなパン屋があり、そこでは雇われ店員がたくさん働いているが、彼等も特別愛想が良いわけではないので、値段の安い家族経営のパン屋で買うことが多い。

昔は日本でもがんこ親父の店などがあって、味さえ良ければ愛想は要らぬとばかりにむっつりとした、気に入らない客を叱り飛ばすような主人がいて、それでも客は付いていたものだが、競争が激しい今の時代ではそのような店は消えてしまった。

サービスが発達途上のブラジルだからこそ昔の日本のような商売が成り立っていると私は思っていたのだが、もうひとつ思い当たるのは、この国は社会主義の影響を受けているのではないかということだ。

2002年よりルーラ現大統領率いる労働者党が政権の座に着いたが、労働者党は社会主義を標榜し、政権担当以来労働者に対する権利や保護が強化された。

最低賃金の上昇や不当解雇の禁止など労働者の支持が集まる政策を打ち出す一方で、ある美容院のオーナーが、「日曜日に営業したくても、手当てを払って営業時間を延ばしたくても、国が従業員の労働時間を強制的に決めているから営業ができない」と嘆いていたように、我々から見ると行き過ぎに思えるような政策もある。

従業員にとっては、雇用が保証されるならば、クビにならないために必死になって接客サービスに励むという必要が無くなる。与えられた仕事だけこなしていればそれでよい、といったような風潮が現われ始めているのではないか。

複数のレジを一列で待つような店で自分の番が巡ってきた際、無愛想な顔をした店員に「プロッシモ!(次!)」と呼ばれると、なんだか職安で保険金給付の順番を待っている失業者のような気持ちになる。買い物をしても愛想のない態度を取られるたびに、「客はどっちだと思ってんだ、バカヤロ」と、帰り道ひとり毒づく。

だが、社会主義的傾向が強まってきたから従業員の態度が悪いと本当に言えるのだろうか。

先日セ広場近くの生演奏のあるスタンドバーで呑んだ。酔いが回ってくるとさまざまな思いが綿雲のように頭に浮かび、それを書き留めるのを常としている。後になって読み返すとたいてい意味不明な内容であったりするのだが、呑んでいる時分は素晴らしい着想を得たと思っているので、性懲りもなくせっせと書いている。

そのときも画期的な考えが浮かんだので書き留めようとしたが、あいにく筆記具を忘れてしまった。そこで若いボーイに紙とペンを貸してくれるように頼むと、彼は快く自分のオーダー用の紙とペンを差し出した。

思い付きをしこしこと紙に書いていると彼が近づき、これから自分が使うからペンを返してくれと言ってきた。てっきりずっと持っていられると思い込んでいたので意外であった。

もし日本で客がそのように申し出たとしたら、客が返すといわない限り、引き取りには来ないだろう。日本では接客サービスのなかで、直接教え込まれなくても「この場合にはこうするべきだ」という型があり、全てのサービス提供者はその通りの行動が一律要求される。

ところがこの国ではそんな暗黙のマニュアルのようなものはない。彼は私の申し出に対し、彼の好意で紙とペンを貸し与え、そして彼は私がすぐに使い終わると判断したから代わりのものを用意しなかった。そして彼が必要になったため、私に返せと言ってきた。そこには彼と私の対等な関係がある。

ブラジルでは「客-従業員」という関係でコミュニケーションを築くのではなく、両者は常に対等であり、一対一の関係の上で、友人をつくるが如くにコミュニケーションを図るのがブラジル流接客サービスである。だから互いに知らない者同士のうちは店員であっても無愛想であるのが当然であり、それから時間をかけて、何度も店に通っていくうちに相手と打ち解けてゆくのだ。

心地よい接客サービスを受けたいと思ったら、同じ店に通い常連になるしかない。そして友と語り合うように従業員に接することで、相手も友をもてなすような温情ある態度で迎えてくれる、と、安ワインを傾けながらそんな風に考えが及んだので、私は先の店員が奥から持ってきたペンでそのようなことを書き留めた。果たしてほろ酔いのうちに浮かんだこのアイデアは正鵠を得たものであろうか。

小さな旅

2008-06-21 23:58:30 | Weblog
このごろ遠出をしていない。一昨年に南米諸国を3ヶ月間巡ったのを最後として、リオに戻ってからは市街を檻の中のトラのようにぐるぐる回るだけで、なにせお金を使いたくないものだから、行動範囲は130円で乗車できる市バスの運行範囲と一致していた。

今年の2月下旬に、リオからバスで6時間かけてサンパウロに来たのが最近唯一の大移動であった。手持ちの金がいっそう逼迫したので、頼れるのは自分の足とばかりにサンパウロ市内をせっせと歩いて、徒労と引き換えにこの街がいかに不毛の地であるかを知った。

仕事が始まり、毎日バスや地下鉄で営業先を回り始めると、周囲の情景は仕事を遂行するための単なる記号として認識するに過ぎず、それ以外の感興など沸き起こらない。したがって、池袋の雑居ビル街を歩いていた昔も、パウリスタ大通りの高層ビル街を歩いている今も、べっとりと日常というペンキに塗りつぶされた私の心境にさほどの違いがあるわけではない。

たまにはサンパウロの日常を離れて、見知らぬ土地を歩いてみたい。

リクライニングシートのデラックスバスの旅は望めないが、サンパウロでは近郊都市を結ぶ鉄道網が東西南北に延びており、料金は全て一律だ。

中には距離が60キロメートルを超える路線もあり、終点まで行っても料金は160円程度だ。始発のターミナルは地下鉄に接続しており、乗り換えても追加料金は不要だ。

マニアの域に片足を突っ込むほど鉄道が大好きな私にとって、この僥倖を利用しない手はない。私の使命はサンパウロの全ての鉄道路線を走破することと勝手に合点し、折を見てはせっせと電車に乗り、子どものように流れる車窓の風景をじっと見入っている。

CPTMと呼ばれるサンパウロの郊外鉄道は7路線あるが、興味深いことに路線毎に車両も異なれば沿線の雰囲気も異なる。

各路線が個性的であるのは結構ではあるが、中には私がいくら鉄道ファンといっても乗り続けるのに辟易するような路線もある。

C線と呼ばれる路線は川幅の広いピニェイロス川に沿って延びているが、この川が、まるで70年代の隅田川のように耐え難い臭気を発している。電車はひたすらその川に寄り添い、だらだら走っては駅に停まり、走っては停まる。

線路のもう一方の側には10車線はあろう幹線道路が平行し、トラックや車がビュンビュン猛スピードで走っている。電車のドアが開くと河川の悪臭と車の騒音がいっせいに車内の乗客に襲いかかる。

ドアが閉まり、騒音が遮断され一息つくと、弱々しい音色のクラシック音楽が聞こえてくる。なぜかこの路線の車内に限り拡声器を通じて音楽を流しており、乗客が味わっている苦痛を和らげようという苦肉の策なのかも知れないが、取って付けたような音楽は歯医者の待合室にいるようなしらじらしさがあり、悪臭に加えて、消毒液の臭いまで流れてくるようだ。

対照的に、乗っているのが楽しい路線もある。北部に向かう路線だ。

車両は古ぼけた、何の変哲もない通勤型の車両だが、始発駅を出た電車は、重々しい吊り掛けモーターの音を響かせながら加速する。もはや日本ではほぼ消え去ってしまった、西岸良平の「三丁目の夕日」に登場するような低く唸るような電車の音だ。

平野部を電車は快走する。モーター音を轟かせ、走行性能いっぱいに疾駆する電車に乗ると胸がスカッとする。

やがて車窓の風景が起伏を見せはじめる。丘のゆるやかな斜面に広々とした邸宅が散在している。進むうちに高級住宅地は途切れ、代わってレンガ造りのファベーラが姿を見せ始める。

電車の速度が遅くなる。勾配に差しかかったのだ。山の切通しを抜けると、視界が一気に開け、緑樹林に覆われた山間の風景が現れる。都心からわずか15キロ程のところにこれほど緑豊かな場所があるとは驚きだ。

再び住宅が出現する。ファベーラが吹き出物のようにぽつぽつと山の斜面にへばりついている。丘陵地の脇を通り過ぎた先に視界に飛び込むのは、浅鉢状の地形一帯にはるか広がるファベーラである。赤茶けたレンガ造りの四角い家が隙間なくびっしりと立ち並んでいる。

広大なファベーラ居住地を電車は縦断する。駅はない。電車は住人を刺激するのを恐れるかのように速度を落としてファベーラ地帯を通過し、やがてファベーラが途切れ、普通の住宅地となったところでほっと一息吐くがごとく駅に停車する。

電車に乗って40分ほどでカイエイラスという駅に着く。緑に囲まれた静かな街だ。

息を吸い込むと露草の匂いがする。都会暮らしで忘れていた匂いだ。ここから次駅のフランコ・ダ・ホッシャまで歩くつもりだ。

人や車の往来の少ない道路を黙々と早足で歩く。左側は樹木が生い茂る森林、そして右側にはファベーラ。住人はこの地区は安全だというが、場所柄やはり緊張する。

道は登り坂になり、公営アパートのような5,6階建てのアパートが数棟連なる傍らを歩き続けると、やがて道は果て、小さな広場にはバスが数台眠るように停まっている。広陵地を切り開いてつくられた住宅地も、ここで開発はおしまいのようだ。

バス停の向かいに小さなスタンドバーがあり、店の脇には石造りの椅子とテーブルが置かれている。年配の、顔には深い皺が刻まれた黒人がその席でビールを呑んでいる。彼の肩越しには、丘の連なりと木々に埋もれるように点在する集落の風景が広がる。ここは高台になっており、酒を呑んだらさぞ美味いに違いない。

山中に入る。人の往来により自然に踏み固められた山道を行く。坂を登りきった地点から眺める風景は、スタンドバーとは反対側の方角で、未開地である。森林が広がる丘がうねうねと連なる景色はとても美しい。

緑の大地に記された一筋の赤茶色の小径をひたすら下ると、やがて病院の敷地内に行き着く。院内は、古めかしいロココ調の建物が広大な敷地に点在し、療養所といった趣がある。すでに陽は落ち、人の気配は薄い。


私はベンチに腰を下ろし、ウォークマンを耳に当て、ペットボトルに詰めたワインをぐびりと呑む。心地よい疲労感を覚える身体にアルコールが沁みわたる。

酒と音楽は私に特別なビジョンを与えてくれる。夕闇が訪れ色を失ったはずの木の葉の緑がつややかに輝きはじめる。風の息吹に木々の梢がそよぎ、揺れる葉は私の魂に共鳴する。命宿るもの全てにエネルギーが還流されたかのようだ。生きていることの素晴らしさよ。

ほろ酔い気分になったところで腰を上げ、フランコ・ダ・ホッシャの駅に向かう。線路を横切るとガソリンスタンドが見えるが、その敷地の一角から煙が昇っている。

火事ではない。串焼肉を焼いている屋台があるのだ。給油する場から離れているとはいえ、ガソリンスタンドの敷地内で火をもうもうと焚くなんて常識外れも甚だしいが、誰もそれを危ないと思う人はいない。

無論私もそのひとりであり、主人のフランシスコと奥さんに挨拶して、串焼肉を食べる。彼等の串焼き肉は焼き加減が絶妙で、美味さが五臓を震わせる。最高の味だ。

屋台の串焼肉などファベーラの貧乏人の食べ物として口にしない人も多いが、私はリオのヘジーナの串焼肉と、ここフランコ・ダ・ホッシャのフランシスコの串焼肉の味は死ぬまで忘れることはないだろう、おそらく。

仕事帰りにこの屋台に立ち寄る客と談笑する。サンパウロの都心部と比べて、ここは人も気さくですぐに打ち解けた話しができる。都心からわざわざ美味しい串焼きを食べに来たということにしてあるので、集まった客たちは興味しんしんになり、フランシスコは鼻高々だ。この町はしみじみ温かい。



郊外の町に比べるとサンパウロは乾パンのような無味乾燥したところだが、街を歩いて、例えば通りがかりにアスファルトが焼けた匂いをふと嗅いだ時、かつてその匂いがした中南米のある街の光景が雷に打たれたように脳裏に浮かび上がり、そして、今私がいる場所が南米であるという現実を思い出すことがある。

そのとき私はサンパウロにいながら、どこか遠いところを旅しているような錯覚に一瞬陥る。それが錯覚といえるのかは定かではないのだが。

バガブンド

2008-06-09 22:40:09 | Weblog
私は20代の頃、ガソリンスタンドの建設を手がける会社の名古屋支社に所属したことがある。ガソリンスタンドのサインボード(看板)関係では業界で大きなシェアを占めているので、経営は安定しているといえる。

入社してまもなく、私の人生は典型的なサラリーマン人生を送る以外にないことを悟った。ここの社員が望んでいるのは会社内における出世もしくは平穏無事な生活であり、そのために毎日のルーチンワークをそつなくこなすことに努力を傾注していた。

朝7時過ぎに社宅より出勤し、夜9時頃に仕事を終え、10時過ぎに帰宅するという毎日を支社のほぼ全員が送っていた。安定した生活と引き換えに人生における大半の時間を会社に捧げ、プライドを打ち棄てて注文主である石油会社の担当者にペコペコ頭を下げる道を歩み続けなければならなかった。

中途入社の私が出世を望むべくもなく、入社して日も浅いうちに自分の将来の姿が眼前に浮かび上がり愕然とした。生涯賃金も余暇の過ごし方も結婚も子育ても処世術も何もかも平均的サラリーマンのコースを辿るに違いなく、20代にして早くも定年を迎えた自分の姿に直面し、ぞっとした。

その会社は4ヶ月ほどで退社した。退職した直接の理由は別の出来事によるが、去るきっかけとなったひとつに将来の見えた自分の姿に嫌気がさしたということはあったと思う。

30代の頃、アジア・ヨーロッパを9ヶ月かけて旅した。この世に生まれ、自分が本当にしたいことは何であるのか、それを見つけるためのいわゆる自分探しの旅であった。もちろん答えなど見つかる由もないが、旅はその後の我が人生の方向を決定付けるのに大きな影響を与えた。

最近は減少気味だと聞くが、親方日の丸で安定した公務員を志望する若者がいる一方で、私のような動機で旅をする若者もまた多く、1年半前に南米を旅したときも、そんな日本人に出会うことがあった。欧米人のバックパッカーは観光、食、出会いという旅自体を楽しむとともに、世界を知ることにより自分を高めるという、向学やキャリアアップを目的とする人々が多いのに比べ、日本人は内面的な動機で旅をしている人々が多いように感じる。

そんなわけで、日本人の中には、安定した生活を望む人々がいる一方で、私のように先の見えた人生を選択したくないと考える人々もまた少なからずいるようであるが、ブラジル人はいったいどうであろうか。

私が付き合った限りのブラジル人においては、彼等の人生においてあらかじめ定められたコースを進み続けることに疑問を感じるということが少ないようである。

リオやサンパウロのような都市部においては、人々が属する階級の違いからくる学歴や職種の差は大きいにせよ、一般に人々は皆、恋愛を楽しみ、結婚し、家庭を持つことを望み、そのため定職に就き安定した収入を求める傾向があると思われる。私が知る中流以上の家庭の子息は揃って両親に対し素直で、日本のように親の求める進路に反発してグレるということがなさそうである。

日本のように世界の中でも職が見つけやすく、また業種間の収入の格差が少ない国では親の力を頼らずともそれなりの生活を営めるのに比べて、就職に際し親のコネがモノをいい、業種によっては収入の格差が著しく仕事の選択肢が少ないブラジルでは、子どもが親に反抗してグレるのは難しいのではないだろうか。

もっとも、日本の子ども達は働く親の姿を見て、多少金銭的ゆとりがあったところで、彼等の人生の中に幸せが見出せないことを直観的に見抜いてしまうので、親が押し付ける進路に疑問を持つということもあるだろう。一方ブラジルではお金があればあらゆる面で人より有利であり、稼ぎのある家庭は幸せであることを実感できる環境にあるため、子どもは親が進んだコースをなぞることに疑問を持たないのだといえるのではないか。

ともあれ、大多数のブラジル人は同階級の他の人と同じような道のりのなかで、恋愛、結婚、家庭を築くというお定まりのコースを進む。なかにはその後離婚、恋愛、悠々自適の生活という第二のコースを進むカリオカやパウリスタもいるが。

ひょっとしたら音楽家や画家といった芸術家の道をめざし、親のスネをかじり続けるというスタイルがブラジル流のグレ方なのかも知れない。この国にゲイが多いというのも、既存の恋愛のあり方に飽き足りない人々の反抗の一種であり、仕事よりも恋愛に重きを置くブラジル流のアンチテーゼであるという見方はいかがであろうか。



ところで、私はいったいなぜブラジルに来たのだろう。

単に物質面の豊かさを追求するだけなら、さっさと日本に戻り、今私が働いているような営業の仕事に就くことで、今より何倍も多くの収入を得ることができる。でも、冒頭に述べたように、私は決して安定した収入と引き換えに自分の人生を墨で塗りつぶすような生き方はしたくない。

かといって、貧しいながらも清く、正しく、美しくといった清貧に甘んずる生活で一生を終えるのにも忍びない。結果的にそんな人生になってしまったというのなら諦めざるを得ないが、清教徒でもない私がはじめからそのような人生を選択しているわけでもない。

服従と忍耐を強いる日本の社会に耐えかねて、私は海外に飛び出したわけだが、その動機の根っこにあるのが、保守的で度量の小さい日本に対する反抗であることは間違いない。齢四十を越えて未だに私は社会から外れ、グレているVagabundo(バガブンド。放浪者、やくざ者の意。英語ではVagabond)である。

今やブラジルに住み、これからもこの地で生活を続けようという私にとって、これからどのようなライフスタイルを求めればいいのだろうか。残念ながらブラジルでグレたくても、かじる親のスネはもはや存在せず、さりとてゲイに走るほど恋愛を極めようという意思があるわけでもない。

ならば平均的なブラジル人が憧れているライフスタイルを私も同じく追求することが、正しい道となるのであろうか。ブラジル人の憧れはいうまでもなく上流階級のライフスタイルであり、現実には物質的に恵まれた生活を送ることである。

リオではバハ・ダ・チジューカ、サンパウロではイタイン・ビビやバルエリといった新興の住宅地では高層マンションの建設が盛んで、10階建て、20階建てのスマートなマンションが林立している。付近には巨大なショッピングセンターがあり、おしゃれな中・高級店がテナントに入り、女性の購買意欲をくすぐっている。

そのような地区に移り、高層マンションに住み、車でショッピングセンターに気軽に買物できるようになるのがブラジルの若い世代の憧れなのであろう。

ただし私の目に映るこれらの地区はどれも画一的であり、オリジナル性に欠けている。ショッピングセンターにしても外見のきらびやかさだけが取り柄で中身の店舗は一向に代わり映えがしない。車がないと著しく不便なところも同じである。

私自身としては、そんなところに住みたいと心底願っているわけではないのだが、今のところそのような生活を送るなど夢物語であり、現時点の貧しい生活から逃れ、生活水準の向上を目標とすることに異存はない。

今の私が住む、台所や便所が共同で街路の騒音に悩める小さな寝室だけの住居ではなく、明るい色調のモダンな油彩画が飾られ、液晶大画面のテレビが備え付けられたリビングルーム、台所はピカピカに磨かれた食器やクリスタルのグラスと銀色に輝くステンレス製品に囲まれ、書斎に据え置かれたワインセラーにはチリ産のワインがいつでも数本横たわっている、そんなところに住んでみるのも悪くない。

それはおそらく全人口の過半数を占めている、住環境が劣悪で貧困生活を送るブラジル人が憧れるライフスタイルと同じであろう。

ひとつ彼等と私が違うのは、私は日本人であり、飽食を知った人間であるということだ。

彼等は好きで貧乏をしているのではなく、生まれながらに貧乏生活が宿命付けられており、そのため貧乏から逃れることが絶対的な命題となっている。

選択肢のない彼等と違い、私は自分の意思で今の生活を選択し、敢えて彼等と同じ夢を追いかけようとしている。そんな回りくどいことをするのは、私はすでに日本でそれなりの豊かな生活を享受してきたので、次には精神的な充足を求めているからに他ならない。

私と彼等とのこの違いこそが、私をこの地ブラジルに踏みとどまらせている大きな原動力になっているのである。


ブラジル酔夢譚

2008-06-09 22:00:07 | Weblog
タイトルを「夢想」から変えてみることにする。中年の域に差しかかった男が徒手空拳でブラジルに渡るという行為自体、夢想癖のなれの果てのように思われるので、この現実離れしたおかしな人物の話しという意味合いを込めたが、想像上の話しとも取れそうなので「酔夢」とし、あたかも酒に酔ったか思い入れに酔ったか、浮世においてしらふでいられぬ男が千鳥足で歩きながら見た世界の話しということで、これまで通り書き連ねてみる。

旅人と生活者の違い

2008-05-30 23:19:46 | Weblog
旅の醍醐味はハプニングであると私は信じている。これまでの旅を思い返して懐かしいのは、ハプニングの中で出会った人々との様々なやり取りである。

東南アジアのラオスで船が途中で運行を中止し、メコン川流域の小さな集落に置いてきぼりを食ったとき、一緒に乗り合わせた日本人カップルと協力、ついに目的地への到着を果たし祝杯をあげ、三人ともひっくり返るまで呑んだことや、パキスタンの白タクの運転手がしつこく料金を誤魔化そうとするのに腹を立てた私と韓国人の青年が、協同して運転手と助手を逆に脅迫し、日韓友好ナラズモノ連合が勝利したこと、メキシコでホテルの劣悪なサービスに憤慨、真夜中のヒッチハイクを敢行し、メキシコ陸軍の協力により無事ヒッチハイクが成功したことなど、どれもかけがえのない思い出である。

命に関わる出来事や、所持品を全部失うなどで旅を続けられなくなってしまったら大変だが、同じ旅をするなら変化のない順風満帆な旅より、右に転ぶか左に転ぶか分からないような波乱万丈の旅のほうがずっと価値があるというのが私の持論である。

これから3泊5日のパリ、ローマ、マドリード駆け足ツアーに参加しようというのであれば話しは別だが、もしバックパックを背中に担いで1ヶ月以上外国をさすらうつもりなら、旅先で起こるハプニングを恐れてはいけない。

もっとも、これはあくまでも旅のはなしである。日常生活においてはハプニングがないに越したことはない。突然思いがけない事態が発生し、仕事に支障をきたすことになれば自分の立場が危うくなるし、ストレスもいっそう増す。それが己を鍛えると言われればそうかもしれないが、やっぱり平穏無事な生活を送りたいと思うのが人情である。

ところがブラジルは平穏無事な生活を私に約束してはくれない。強盗、停電の多さ(特にリオ)、恐怖の断水、路線バスは頻繁に事故を起こすか故障してスムーズに目的地にたどり着けず、アパートは雨漏りする、故障だらけの機械類(公衆電話、銀行のATM、スーパーのレジにあるクレジットカード読み取り機等)、翌日の約束をすっぽかす友人からお菓子を買ったお釣りを間違えるおじさんまで、日本ではめったに起こり得ないことがこちらでは日常茶飯事であり、物事がまともに進まない。

旅人として、やがて日本に帰る身であるのなら、日本とは異なる非日常の世界に楽しみを見出し、退屈しない毎日を過ごせるのかもしれない。不便ながらもいつもと違う環境下での生活は新鮮で興味深い。ところが、いまや私を取り巻くブラジルの環境そのものが私の日常の世界になってしまった。

この国で生まれ育ったブラジル人であれば、この社会におけるあらゆる出来事は習慣として身についているから、不便を不便と思わないで生きているのだろう(行政に対する不満は多いようだが)。しかしながら、ここに生まれ育ったわけではない私にとっては、ここでの出来事全てが暗黙の了解として納得できるわけではない。

スーパーや地下鉄の券売機は行列ができているのにもかかわらず、開いている窓口はわずかで傍らで従業員が暇そうにしているし、歩道は縁石がめくれてデコボコで、通行人はしょっちゅうつまずき、私もよくつまずく。ブラジルではおなじみの光景である。だが、彼等にとってはそれが当たり前であっても、私にとっては納得がいかない。なぜ改善しないのだろうと思う。

マナーや習慣の違いにも戸惑う。終着駅に着き電車の扉が開くと、降車する人などおかまいなしに、折り返し反対方面へ向かう乗客が席を求めて殺到する。道路における歩行者用信号は、青になり歩き始めて4,5歩進んだところで点滅し、小走りに走り切らないとただちに車が怒涛となって襲いかかる。信号のない交差点では歩行者は前後左右をウサギのようにきょろきょろ見回しながら渡らないと、スピードを落とさず右左折する車の餌食になる。

旅であるなら、「遅れているなあ」という感想を持つだけでおしまいであろう。でも、今の私はその国に住み着いているのだ。日本の社会通念からすると民度が低いとされることがまかり通り、それを一笑に付しておしまいにするというわけにはいかない。もはや高みの見物では済まされないのだ。

しかもくやしいことに、かように民度の低い多くの連中より、私の生活水準は低いときているのだ。自家用車を乗り回す身分ではなく、はらはらしながら車の攻撃を避けなければならない弱い立場なのだ。

「もう少し国民全員で社会のルールをつくり尊重すれば、社会がより良くなるだろうに」と、ひとりごちても何にもならない。ましてやブラジル国民ではない私の立場では、なおさら何にもならない。

糖尿のせいか脱力感で力が入らない中、坂の多いサンパウロの市街をとぼとぼと登りながらそんなことを考えていると、やり場のない怒りが乾いた脳をいっそう干し上がらせる。

この間の月曜日もそんな一日であった。

私の下宿の前を頻繁にトロリーバスが通る。日本ではなじみが薄いが、ここサンパウロでは市民の足となっている。排気ガスが出ないので環境には好ましいが、バスを戦地向けに装甲仕様したような重たい車両が、我が下宿の面する通りをビュンビュン通過し、地響きが私の部屋を揺らし、野太いモーター音が私の安眠を妨げる。

何でも壊れやすいブラジルの製造物のことだ。一台のトロリーバスが故障したらたちまち後続のバスは動けなくなり、交通が麻痺してしまうだろうなあ、という懸念を抱くにいたる前に、路上で立ち往生しているトロリーバスに誰しも遭遇するであろう。

その日、朝の通勤途中に見かけたバスは、集電器が架線より外れ、運転手が誘導ひもで滑車を架線に引っ掛けようと四苦八苦しており、そんな光景に出くわして朝一番から何か情けない気分になった。

仕事では新規顧客獲得のため、日系企業や商店をリストアップし訪問する。サンパウロには日系企業、商店専門の電話帳「サンパウロなんでも便利帳」というのがあり、我々のような仕事をする者にとっては重宝する-はずなのだが、日本の電話帳のようには信用できない。

ピニェイロスという地区の日系人の店を重点的にあたるため、事前に地図上に数軒チェックしておいたのだが、いざ訪問してみるといくつかの店は存在せず、比較的新しい版にもかかわらずデータが更新されていないことがうかがわれる。

暗くなったので帰社しようとバスに乗る。サンパウロでは「ビリェッジ・ウニコ」という、JR東日本であればSUICAにあたるカードが発行されており、地下鉄、バスが利用できる。バスの乗り継ぎであれば、2時間以内なら1回分の料金で何度も乗り継ぎできるため重宝する。

バスに乗り、会社から支給されたカードを読み取り機にかざすと「×」と出て前に進めない。この前チャージしたはずなのにおかしいなと思いながら、仕方なく私のプライベートのカードでゲートを通過する。

後にすぐ判明したのだが、「ビリェッジ・ウニコ」が使えなくなった原因は、カードの磁気がなぜか突然機械に反応しなくなったためであった。さらに理解に苦しむことに、まるで眠りから醒めるかのように、突然カードが元通りに使えるようになると我が社の編集長は断言し、翌日実際その通りになった。

午後6時半という時間はラッシュたけなわで、バスは徒歩のスピードにも達していない。車内はほぼ満員で、乗客はまるで東京のサラリーマンのように皆疲れ果てて放心したような顔をしている。

およそ3キロの道を進むのに40分近くを費やし、ようやく広い通りを右折し、さあ目的地まで後わずかの時間と思ったところで再び渋滞に引っかかった。ところが渋滞しているのはバス専用レーンだけで、となりの車線では車が流れている。バスのレーンのみ、バスがずらりと連なり動かない。

10分経ち、15分経ち、ようやく渋滞の原因がわかった。前方に信号機のある交差点があり、交差点の手前にバス乗り場がある。バスは客を乗降させるため、ひたすら前のバスの乗降が完了するのを専用レーンに沿って待っている。ところが前のバスは乗降が完了しても交差点の信号が赤なので動けない。信号が青になり、乗降が済んだバスが3台ほど発車し、後続のバスが前進するが、それらのバスはまた乗降客を扱わなければならない。だから信号が青でもバス乗り場の位置でバスが停まらなければならず、乗降が済んだ時には信号が赤になり、次の青まで待たなければならないというわけである。

20分待ち、30分待ってもまだバスは停留所にたどり着かない。ブラジル人の乗客は皆諦めきった顔をしている。そんな彼等を見ている私はとうとう我慢できず、「ブラジル人は本当に馬鹿じゃないのか」と日本語で吐き出すように言った。

こんな馬鹿げた交通システムなど、素人の私でも容易に改善の方法がひらめいていた。バス乗り場は道路中央の分離帯にあり、反対車線も同じつくりとなっているので、交差点手前のみ乗降場所としている現行を、反対車線の乗り場も柵を撤去し両方向に解放し、路線別に停車場所を振り分けるだけで停車スペースが二倍となり、ずっと流れるスピードが速くなること請け合いだ。交差点の先の停留所に停まるバスは、バスレーンの隣りの車線から進路を変えればいい。他にもいくつかの解決方法があるに違いない。

一体どこの世界にバスレーンを設置して、バスの通行をいっそう滞らせてしまうシステムがあるのだろう。アイデアを考案し作った都市計画者もさることながら、日常利用するブラジル人の乗客が黙々と時間が過ぎるのをただ我慢しているだけというこの愚かしさが、私の怒りにいっそう火をつけた。

まるで奴隷のように沈黙と忍耐で乗り切ろうとする無策。日本ならば抗議の嵐であっという間に改善されるだろう。こんな馬鹿げた施策に彼等は何の文句も言わず、何年も同じように過ごし、おびただしい時間を損してきているのだ。ブラジル人は時間の損失を痛恨の極みと感じる感覚が欠如しているか、物事を改善するために皆で力をあわせて努力するという意識が欠如しているに違いない。私はこんな住人が作り上げた世界に住み続けることに虫唾が走る思いであった。

直線距離にしてわずか6キロの場所の移動に1時間30分をかけた後、私はサンパウロの中心部である、レプブリカ広場からセ広場に向かって歩いていた。このあたりは高層ビルが林立し、またサンパウロ市立劇場などいくつかの歴史的建造物も立地している。そのような建築物はライトアップされており、暗い夜空に美しく映えている。

馬鹿げた時間の浪費に空腹も手伝い、私はかっかと腹が煮えたぎる思いで街路を急ぎ足で進んでいた。ある小路に差しかかったとき、懐かしい音楽が聞こえた。サンバである。ステレオではない生演奏である。リオでは黒人や混血によるバンドを街のいたるところで目にしたものだが、サンパウロに来て3ヶ月が経ったというのにこれまで出会ったためしがなかった。パウリスターノ(サンパウロの住人)のバンドは安スタンドバーの店の前で、十数人程度の客を相手に打楽器を打ち鳴らし、弦楽器を奏で、陽気な歌声を出していた。

ここはブラジルであった。

まるで憑きものが落ちたように、腹の中でうごめいていた怒りのマグマが消えていった。今度の水曜日あたり、仕事の後にゆっくりと聴きに来るとしよう。ビール1本程度なら身体もふところもさほど痛むまい。私はわくわくしながら会社に向かって歩き始めた。

付記

次号の雑誌「ピンドラマ」の特集に、「日本人移住者の今昔」と題して現在老年に差しかかった日系一世の渡航当時の写真と現在の写真を合わせて並べ、簡単なインタビューに答えてもらう企画がある。インタビューの項目に、「ブラジルに来て苦労したこと」という質問があるが、意外であったのは、苦労など無かった、あるいは苦労を感じなかったという答えが多かったことだ。

自力で生活を切り開いていくしかなかった彼等である。苦労が無いはずがない。だが、そう実感する彼等の境地を忖度するに、まるで人生が長い旅であるかのように、苦労やハプニングがやがてかけがえのない思い出として彼等の心の内で昇華していったのだと思う。

旅においてハプニングを楽しむという私の考え方が、ブラジル生活においても主張できるようになれば本物に近づいた証しであろうが、道のりはまだまだ遠いようである

広告取りの仕事

2008-05-18 01:19:45 | Weblog
サンパウロでの仕事が始まった。

私の勤める会社は出版社だ。リベルダーデにある雑居ビルの小さな一室内に、社員4名プラス別グループの社員が2名、そしてたまに顔を見せる社長と毎日ふらりと来ては忽然と消える謎の青年が集まる。営業が外回りに出て事務所が閑散としている時もあれば、夕方になり皆が事務所に顔を出す頃は、小さな金魚ばちに押し込まれた金魚のような気分になる。

毎月「ピンドラマ」というA5版のフリーペーパーを発行し、サンパウロ市内で配布している。記事は全て日本語で書かれ、ブラジルの歴史、文学、グルメ、旅行、経済、暮らしと健康、ポルトガル語講座、日系人インタビュー等々あらゆるジャンルにわたる情報が掲載された、ブラジル情報のごった煮といった内容である。収入源はもちろん広告で、私はこの雑誌の広告取りを任されている。

「ピンドラマ」の読者は日本企業の駐在員など日本語の読める人が対象となるので、広告主も日本人を顧客とする企業や商店主がほとんどだ。おもな広告主は日系人が経営する旅行会社、医院、レストランや美容院、語学学校などで、オーナーはたいてい日本語ができるため私でも大丈夫である。

地下鉄のリベルダーデ駅から南に向かってガルバン・ブエノという通りがあり、日系の商店が軒を連ねている。広告を出してくれそうな商店に飛び込み営業をするのも仕事のひとつだ。

若い頃に日本で分譲マンションの飛び込み営業をした経験があるが、たいていの訪問先は営業マンに対し冷ややかだったりつっけんどんだったりするので、精神的にかなり厳しい仕事だ。ところがこのガルバン・ブエノの商店街では、いきなり訪問しても皆さん丁寧に応対してくれて、今のところ不快な目に遭ったことが無い。

商店は客商売だからということもあるかも知れないが、この街ならではの理由があるとしたら、ひとつは日本の昔ながらの人付き合い感覚を今だに持ち合わせているということと、もうひとつはブラジル人気質が浸透し、客もセールスマンも分け隔てなくアミーゴ感覚で接するのかしらとも思ったりする。

訪問先の中には、オーナーが2世に代替わりして日本語の話せないオーナーや、ブラジル人のマネージャーを相手に営業をすることもある。まともなポルトガル語のレベルには達していないため、そういう場面では冷汗三斗と思われるであろうが、さにあらず、どうせダメで元々と開き直り、ジェスチャーを交え、間延びしたリズムでいい加減な文法のポルトガル語で対応する。

相手は言葉遣いにうるさい日本人ではない。日系2世以降になると顔は日本人でも心はブラジル人なので、かなりいい加減な説明でもちゃんと聴いてくれる。だから私はポルトガル語を練習するつもりで気安く話しをする。また、こういう時こそ私はブラジルで仕事をしているのだという充実感を味わうことができる。

もっとも、彼等は最後に必ず、「わかった。もし君が必要になったら電話するよ。」と言って話しを終えるのが常だ。無論その後電話を受け取る確率はゼロパーセントであるが。




今でこそ裕福な暮らしをしている日系1世は多いが、成功への道のりは険しく、たいへんな苦労を経て今日の地位を獲得してきたようだ。農業移住者の記録を読んだりしてそのあたりの事情は承知しているつもりだった。

だから仕事を始めたとき、私は内心自負があった。ブラジルに単身乗り込み、苦労を耐え忍ぶ生き方をする私に対し、日系1世は自分の生きざまに重ね、温かい目で見てくれるかもしれない。そして私に対し同情や共感を覚え、「がんばれ」と注文のひとつでもポンとくれることもあるだろうと皮算用をしていた。

勤め始めて10日程経った頃、ある宝石商を訪問した。その宝石商は、かつてはリベルダーデに店を構えていたが、昨年の年末に泥棒に遭い大変な被害を被った。新聞に大きく載ったので、そのことはリベルダーデの日系人で知らぬ者はない。最近別の地区で店を開けたという情報があり、広告を依頼するためその店を訪れた。

店はサンパウロで随一のビジネス街のビルの一室にあった。ドアのチャイムを押すと、中から細身で温厚そうな老紳士が現われ、にこやかに私を迎え、中に招き入れた。

部屋の壁沿いに備え付けられた棚には、宝石がきらびやかに並んでいた。なかでも多く目に留まったのは青いアメジストであった。紳士は私に椅子を勧め、ショーケースを挟んで向かい側に彼が座った。

物静かで落ち着いた外見とはうらはらに、いったん話しをはじめた紳士はひたすらしゃべり続けた。「あなたもご存知でしょうが」と昨年末の泥棒の件に自分から触れると、彼の悔しさと怒りが半年経った今でもなまなまと思い出されるのであろう、話し続けることが理性を保ち続ける唯一の方法といわんばかりに話しがとめどもなく続く。

彼はえんえん1時間半の間、まるで10年の間独房に閉じ込められていた懲役囚のようにこんこんとしゃべり続け、私自身、ブラジルの苦労話の講談を一席持てるのではないかという程、彼の話をそらんじるまでに聞き続けた。

彼が18歳の時に単身ブラジルに渡ったが、旅行社にだまされ農場に奴隷の如く拘束されて、食事も足りず、睡眠もままならぬ4年間を過ごしたこと。宝石商を志し、鉱山の採掘坑に潜ってガリンペイロ(採掘師)の信用を得、宝石の鑑定眼を磨いたこと。品質の高い宝石を安く提供することで顧客を増やし、裸一貫から財を成したこと。そしていよいよ将来も安泰だと思った矢先に悪夢の盗難に遭ったこと。泥棒は16人組で、道具も極めて大掛かりでドイツ製の金庫の扉を焼ききったこと。証拠を驚くほど残しているのにもかかわらず賊が捕まらない理由は、警察が背後で関係しているというブラジルならではの疑惑があること。もはや立ち直れないほど根こそぎ奪い取られてしまったが、多くのお客様による暖かい励ましによって再び店を開けることができたということ等々々。

紳士は新聞記事の切り抜き広告を私に見せ、若い頃の写真や鉱山にいるときの写真、お得意様である知事や高官の写真を見せ、名刺を見せ、客からの感謝の手紙を見せながら、彼のおしゃべりは延々と続いた。

「ところで!」と半ば声を裏返しながらようやく私は彼の話しを遮り、広告の件を切り出した。膝を突き合わせた1時間半のアドバンテージは、彼の意識を儀礼的に広告に向かせる効果はあったようで、価格、サイズ、色の有無、イメージ効果などを尋ねてきたが、即決できると踏んだ私の一押しに対し、息子に問い合わせてみると言って即答を避けた。

それが単なる逃げ口上なのか、考える時間が本当に欲しかったのかどうか、今はまだ分からない。とはいえ、もはや注文が取れるかどうかはたいした問題ではなかった。

店を辞し、帰宅に急ぐ勤め人が行き交う大通りを歩きながら、彼の口から怒涛のようにほとばしった波乱万丈の人生物語を、書物で読んだ日系一世の半生記から受けた印象とは比べものにならないほどありありと思い浮かべることができた。

それは、私の目の前に腰掛けていた小柄な紳士のドキュメンタリー映像のようなものだった。彼の憤怒、辛苦、野望、矜持、絶望、復活が証言されたのだ。初対面の人間に口を歪め、眼底を充血させ、憑かれたように写真や切抜き記事を見せる紳士の姿は、アカデミー賞の主演俳優以上に人に訴える力を持っていた。

そして、彼の経てきた苦労に比べて、私の苦労など大海と水溜り程の違いがあるように思えて、もはや私が苦労と思っていたのは何だったのかも思い出せなくなった。


マーフィーの法則

2008-04-30 02:34:29 | Weblog
この世の不幸を一身に背負うことで救われる殉教者でない限り、誰しもツキに恵まれたいと思うし、自分の思う通りに物事が進むことを願う。

だが、世の中ままならない。誤って落としたコインが「ホールイン・ワン!」とやけくそで喝采したくなるほどの小さな溝に落ち込んでしまったり、テレビのスイッチを付けるとちょうど大好きなシルクロード紀行を放映中…と思ったとたんエンディングテーマが出てきたり、誰かに用事を依頼した後で、「あ、もしやとは思うが誤解しなかったらいいが」と思うような言い方であればたいてい誤解されていたりする。

そう、世の中順風満帆に行かないばかりか、不条理に満ちあふれている。

おのれの願望とは裏腹に、理不尽で合点がいかないように物事が進行する現象を「マーフィーの法則」と呼ぶ。米国では50年代から使われ出したようで、日本では90年代に「マーフィーの法則」を集大成した箴言集ともいうべき書籍が翻訳・出版されているのでご存知の方も多いと思う。

かくいう私も典型的なマーフィー的人間だ。スーパーのレジに並べば、流れはじめるのは必ずとなりの列であり、パソコンをネット販売で購入した1週間後に保証期間1年間プラスのキャンペーンが始まり、そのサービスを受け損なった挙句、そのパソコンは正規の保証期間1年をほんの少し過ぎたとたんに壊れ、マザーボード交換で6万円を支払わされた。

「マーフィーの法則」を読まれた方の中には、本書をつらぬくペシミスティックな判断性向に、確率論的な錯誤や帰結の偏りを見出すかもしれない。それはご指摘の通りに違いない。

それでも私は数週間前にこの本を読み、たいへん有益であった。というのは、本書が単純明快な真理に気付かせてくれたからである。それは、「私に起こっていることは他の誰にでも起こっていることである」だ。

多くの人にとっては当然過ぎるであろう世の中の常が、なぜ私には気付かなかったか、そして気付くことが重要であったかといえば、私のこれまでの環境が、孤島にいるかのごとく疎外されていたからである。

今でこそ仕事が決まりひと息つけるが、それまでは仕事も無く、友人とも離れてしまい、砂時計のように刻一刻と減っていくお金を憂慮するサンパウロの生活であった。うさを晴らす友人が身近におらずひとりきりでいると、知らず知らずに自分ひとりが不運を被っていると思い込んでしまう。

いったんそのような思い込みに捉われてしまうと厄介である。努力をしても結果が出ないと、やりきれない思いがツンドラのように積もり重なり溶けることがない。気持ちが塞がり、たとえ周囲に話しかけられる人がいても口を開くのがおっくうになる。するとますます自分ひとりのことしか考えられなくなる。

それでもこころがこびり付いた霜を落としたいと叫んでいるときに「マーフィーの法則」に出会ったところ、ふっとこころが軽くなるような気がした。この本が存在するということは、私と同じ経験を味わった人々が存在した証しである。うまくいかない時があっても、それは自分だけではないと思えるだけでずいぶん違うものだ。

私の精神的危機を大きく和らげてくれたのはOgawa氏のメールとともに、本書の効果もはたらいているように思える。前回のブログの顛末でのオチはあまりにも「マーフィー的」であったが。



ところで、貧乏、貧乏と書き連ねている昨今の有様であるが、いったい日本で同じく身の貧寒をかこつ御仁と比べてどれだけ耐え忍んできたかとなると、出てきた舌が羞恥で引っ込んでしまいそうである。

日本の貧乏生活の悲劇は、食料品が高いので、節約するとなるとまず食を削らなければならないことだ。料理の中の肉を減らし、野菜も限られ、果物などはもってのほかだ。摂取カロリーに占める炭水化物の割合がぐんと跳ね上がる。

幸いなるかな、ブラジルは食料品が格段に安い。煮込み用牛肉は1キロ360円、鶏腿肉は1キロ240円である。最近リンゴを買ったら1キロ60円であった。「キロ」である。日本のスーパーの標準単位である「100グラム」ではない。

だから我が食卓から肉や果物を削る必要は無い。レストランは高くて入れないかわり、その気になれば毎日ボリューム満点の肉料理を頬張ってもたいして財布には響かない。

酒については好物のワインが高価なのでそうそう呑めない。ビールは日本に比べて安いが、今のふところ具合では存分に呑むというわけにはいかない。ただ、呑もうと思えば安ピンガでカイピリーニャを作っていればたいした出費にはならない。

ところがふところ具合とは別の理由で最近の我が食卓には大きな肉の塊はみられないし、酒もひんぱんに登場しない。それは健康上の理由からである。

どうやら糖尿病の気があるようだ。

2年前位からさして理由も見当たらず身体がだるいことがあった。1年前より身体中の痒みと喉の詰まりを覚えはじめた。それはだんだんひどくなり、やがて症状は飲酒に関係していることに気がついた。起きがけにふくらはぎがつることもたびたびである。

糖尿病は不治の病だという。病気の進行を抑えるには食事を節制し、適度な運動をすることだ。運動は普段より筋トレを自分の部屋で行なっているので苦にはならないが、問題は食事制限である。

欲しい服も靴もCDも買えないが、食事だけは腹いっぱい食べられる環境にありながら、病気であるためにそれもままならぬというのは相当こたえる。

特にサンパウロに来て、とりたてて楽しみもない中で酒も呑めないとなると、鬱積した欲求不満のはけ口がない。また酒が呑めないことが不満をさらに募らせる。もっとも完全に酒を断つことなど私にはできない。呑む頻度を減らすことにしたのだが、するといったん呑み始めると自制できなくなり、とことん呑んでしまう。

5月より始まる仕事が決まった後のある日、社長が呑みに連れて行ってくれた。2軒目のカラオケバーで出されたジョニ赤が無性に美味しく、無意識のうちに杯を重ねていった。

どのように社長と別れたのか覚えていない。深夜である。酩酊しておぼつかぬ足取りで帰宅する途中、強盗に襲われた。

何人いたのか、どんな顔だったのかも覚えていない。倒されてひっくり返ったが、金はないと言ったような気がする。本当は胸ポケットに申し訳程度のお金とクレジットカードが入っていたが、強盗は素直に私の言葉を信じたのだろうか、それらは無事であった。だが携帯電話を盗られた。

翌日になって、強盗に遭ったことより、酒の席で社長に対して無礼をはたらかなかったかどうかが心配であった。社長と別れたところの記憶が完全に抜け落ちている。今のところお前の採用を取り消すとメールで送り付けられていないのが救いではあるが。

思うに、こうまで酒癖が悪くなった理由は、日本では経験したことのない耐乏生活と、生活の不安から来る精神的不安定さ、そして病による死の恐怖があるのかも知れない。明日の不安と忍耐の辛さから逃れるために、うたかたの快楽に縋りつこうとしているのだ。

貧乏でありながら、さらに病に冒され、それこそマーフィーの法則にある、「あまりに最悪なので、それ以上悪くなりようがない、という事態はない」ではないか。

だが、この世の不条理をありのままに綴った「マーフィーの法則」を知ることにより、私を押し潰そうとしていた不条理の呪縛が取り除かれたのだ。だから、私を底なしの不幸に引きずり込もうとする病がかえって私を天上の幸福に導く、そんなことがあってもいいのではないか。

こじつけのようであるが、実はうすうすそれを予感しているのだ。

もし私がこれまで通り健康であったならば、私は少なくとも2日に1度は酒を呑んでいるだろう。人生の半分の夕べは酒と共に流れてゆく。おびただしい時間の浪費。

為すべきことはたくさんあるのだ。ポルトガル語の習得、ビジネスチャンスをつかむための準備、それに世界はどのように動いているのか、歴史はどのように刻まれてきたのかをもっと知りたい。

病によって、人は誰でも死へのカウントダウンが始まっているのだということに気付き、これまで無限にあるかと思われた時間の観念を改め、私の生き方を改める。そういうことがあるかも知れない。

私がブラジルに渡ったのは、日本での生活の延長を繰り返すためではない。ブラジルで全く新しい生活を始めるためだ。日本で打ちひしがれた精神が再び跳躍するための挑戦である。奇しくも病がそれに私を導くのは皮肉ではあるが、私の心がけひとつで、それが復活への大きな足がかりとなる。

苦しみは尽きないが、歓びもすぐ隣りに眠っているのだ。

決断

2008-04-23 07:56:44 | Weblog
オーナーのホーザがかつて買い求めたのか、旅行者が置いていったのかは分からない。サンパウロの日本人宿、ペンション荒木には雑誌、コミックスや文庫本のたぐいが居間の本棚に置かれている。どれも相当古い。

旅行者が10数年前の少年ジャンプを熱心に読みふけっている光景を見ると、「サンパウロまで来て他にやることがあるんじゃないの」と呆れてしまうのだが、かくいう私もある日一冊のコミックス「ナニワ金融道」(青木雄二著)をつい開いてしまい、そのまま書棚を背にして立ち読みしてしまった。

おそらく一度読んだことがあったかもしれない。一介の小学校の教頭がサラ金に手を出したばっかりに泥沼に陥っていくという内容だが、家を追い出された教頭が慣れぬ一人暮らしを始めるくだりが、自分の境遇とうりふたつであることに気付きうんざりした。

レストランで食事をすることもままならず、全て自炊で、一円でも安く上げようとスーパーで値札のにらめっこをしている姿は、家から追い出された惨めな教頭の生活と変わらなかった。「私が当たり前に暮らしているこの姿は、他の日本人から見れば惨めこの上ないことであったか。」読むんじゃなかったと後悔しても、もう遅い。

ペンション荒木にはこんな冊子もあった。「工業移住40周年、ブラジル工業移住者協会」というものだ。

初期のブラジルへの移民は主として農業を目的とした移民であった。1908年に第一回移民船「笠戸丸」が日本からの移住者を乗せてサンパウロ近郊のサントス港に入港した。これがブラジル移民の始まりとされる。以後太平洋戦争勃発で両国の国交が断絶されるまで約19万人がブラジルへ入国した。今年2008年は日系移民100周年である。

戦争で途絶えてしまった移民が再開されたのは1953年であるが、戦前の移民と比べて、戦後の移民は農業移民に加え、技術移住者、商業移住者が加わり多様化された。ブラジル工業移住者協会もその頃にできたのだろう。冊子には工業移住で成功した人々の体験談が載っていた。彼等の中には会社の経営者となった者もいた。私はそれらの人達の名前と概要を書き留めた。



4月1日(火)、私はスーツを着込み、3月下旬にペンション荒木より移った宿泊先から数キロ南へ行ったある会社を目指して歩いた。

ブラジル工業移住者協会の冊子に登場した社長の会社である。貿易業を営んでいる。もちろん面識はない。電話でアポを取る自信がなかったので、直接訪問することにした。当たって砕けろという心境であるが、砕けてしまうといささかショックは残るので、気分は重い。

会社に乗り込む前に、近くのスタンドバーで60円のコーヒーを飲みながら、どのように切り出すべきかあれこれ考える。雇ってくれという無茶なお願いをするわけだから、相手の心をガチッとつかむ殺し文句が必要だ。自分に何か自信のあるものがあれば、それを前面に押し出せばいいのだろうが、無芸の悲しさ、大言壮語も上滑りするのがオチである。

いくつかの言葉が堂々巡りになって脳内をうごめき、文句がちっとも決まらないので、結局社長に面会した上で、彼のおそらく波乱万丈であろう人生から一本琴音を探り出した上で、それに触れる言葉を探すことにした。

その会社は貿易業を営む傍ら和食の仕出しを行っている。玄関前には配達員が数名手持ち無沙汰にしている。玄関の鉄格子に近づくと日本人がひとり出てきたので、社長に会いたい旨告げると、社長は今日本に帰国中でいないと言う。いきなり期待がガラガラと音を立てて崩れていった。

店長はいると言うので、とりあえず会うだけ会おうと思い、門をくぐる。入口をすぐ右に折れると受付のカウンターがあり、壁に沿って長椅子が備え付けられている。入口正面は奥行きがなく、開き戸があり、その先は調理室となっている。従業員が狭いスペースを慌しく行き来している。日系人の受付嬢に日本語とポルトガル語のどちらで話しかけるのが適切か迷いつつ、言葉はすでに日本語で衝いて出ており、幸い彼女は理解したようで店長に内線で取り次いだ。

店長が現れたので、私は意を決して事情を説明した。彼は長椅子に座るよう私に勧め、ひざ小僧を擦ろうかというほど間近で人が出入りしている狭いロビーで、私はこれまでのブラジル生活の経緯と、ここサンパウロで仕事を見つけたいという意思を彼に伝えた。

工業技術者としてブラジルに渡ってきた店長は50代の温厚そうな顔つきをした紳士であった。だが、彼が発する言葉は正論であるが建前に準拠しており、私のような立場では煮ても焼いても食えないものであった。「働くには就労ビザかブラジルに住んでもよいという身分証明書の取得が必要である」「結婚して身分証明書を得るにも仕事がないと結婚も無理だろう」「日本に戻ってもう一度合法的に働ける方法を考えてみたらどうだ」

それでもブラジルに居続けたい思いを苦心惨憺して伝えると、やがて店長は熱意に根負けしたのか、明日になれば仕出し部の店長が出社しているので、彼にアルバイトで厨房内の仕事をやらしてくれと頼んでみたらどうかと言う。君のことは伝えておくし、きっと大丈夫だろうと付け加えたので、私は一気に雲間が切れ青空が広がったような気持ちになり、明日の訪問を約束した。

翌日、今度は電話を入れアポを取り、指定した時間に訪問した。仕出し部の店長は私と同年代のように思われたが、やり手を予感させる顔つきと身のこなしであった。

昨日の店長から受け取っていた私の履歴書を片手に、彼は質問を発した。なぜ前の会社を辞めたのか、次の会社に就職する間何をしていたのか等々、日本の企業で面接する際にお馴染みである質問事項である。私はそのような質問をこの国で私のような立場の者が受けること自体に違和感があったとともに、「大丈夫だ」と聞いていた雲行きがおかしくなるのを感じた。

結局仕事をさせてはもらえなかった。彼が、不法就労では万一警察の取締りがあった際、会社は高額の罰金を支払わなければならないと言い及んだとき、全ての芽が摘み取られた気がした。就労ビザもしくは身分証明書を得ない限り、いつまでも同じ壁でぶつかってしまう。それを再び思い知らされた。



仕事は見つかりそうになかった。一応この先訪問予定の人物や場所をノートに列挙した。ブラジル工業移住者協会に登場した社長、一年前サンパウロを訪問した際知り合った商店主、リオで販売を試みた簡易版ウォシュレットの工場、山下将軍とつながりがあるキリスト教系団体、日本を出発する際名前を伺った立正佼成会の支部長等々。9つ列挙できたが、どれも見込みがあるとは思えない。

もしこれらが全て駄目な時には日本に戻るしか道はないのだろう。ブラジルで生きる手段が見つからない以上、帰国するより他はない。

だが、いったい日本に戻って、それこそ私に何ができるのだろう。呼吸器にセメントを流し込まれるような閉塞感に耐えかねて日本を飛び出したのだ。ブラジルで挫折したという傷を新たにつくるとともに、いたずらに歳を加算させて、それでも日本に戻って人並みの生活が送れるとはどうしても思えない。わが身の絶望とともに、成功した人間への嫉妬が加わり、針のむしろに座る毎日を過ごすことになったら、到底耐えられるものではない。

八方塞がりである。だが決断の期限は4月25日。つまり次回の家賃支払日までに白黒をはっきりさせなければならない。

4月の第2週の頃である。友人Ogawa氏からメールが届いた。彼のメールは私のこころを大きく揺さぶった。

曰く、このままブラジルに住み続けていても、たとえ頭を下げ愛想笑いをして仕事を得たところで日給数千円にも満たず、貧乏から抜け出せない。貧乏には自由がないのは事実である。今すぐ日本に戻り、金融と海外投資術の勉強をして、3000万貯め、それの運用益で生活した方がよい。日本に生まれたアドバンテージを活かせとある。

さらに届いたメールには、就職ならば相談に乗ってもよいとある。彼は経営者なので、むろん彼の口利きがあれば、その会社への就職はぐっと有利になる。

3000万円と日本での就職。なんという眩しい希望の光だろう。ブラジルでこれまで職も無く、窮乏生活を続け、さりとて日本に戻っても生活の当てのない身とすれば夢のような話しである。

たまに美味しいワインを呑むことすら許されず、レストランで食事もできず、日本製品は高嶺の花と、我慢に我慢を重ねていた貧乏から脱出できると思うと、まるで氷点下の寒さでこわばっていた身体が、暖かい部屋のストーブの前でゆるゆると融けていくような感覚を覚えた。

日本に帰ろう。私はそう決意した。

不思議なことに、その後小さな幸運が続いた。品物をまけてもらったり、落ちているお金を拾ったりした。ついている事を意識するなど、最近久しくなかった。運の流れが変わったように思えた。そしてある日、一通のメールを受け取った。

列挙した9つの訪問先のうちに、出版社というのがあった。ペンション荒木に住んでいた頃、同室の旅行者から、「ピンドラマ」という無料の情報誌に求人広告があったという報告を受けた。でも、それがいつ発売された号か分からず、当てにならないのでそのままにしていた。今回訪問予定先を列挙するにあたり、その出版社も頭数には入っていたので、メールで問い合わせる分には手間もないと思い、まさにダメモトで求職の件書き送ったのであった。

メールには、簡単な履歴を送れとあった。さっそく送ってみると、数日後電話があり、面接に来てくれと言う。その事務所は以前不採用通知を受けたニッケイ新聞社と同じビルにあり、ワンルームの小さな会社であった。

私は気が楽であった。落ちてもいい、いや、落ちた方が望ましいとも思った。面接を受けた私と同年の編集長には、取り繕う必要もないので気楽に受け答えをした。就労ビザについては、編集長自体ビザ無しでやってきたというので、私についても問題ないと言った。

仕事は広告取りの営業である。なんとか生きていけるだけの固定給に歩合が付く。2年前に創刊し、最近ようやく事業が軌道に乗り、その勢いで新しい事業も推進したいので、アイデアがあればどんどん出して欲しいという。

「ここが問題なのですが…」と編集長は続けた。「私達が探しているのは短期ではなく、ブラジルに骨を埋めたいと思う人なのです。つまりこれからも仕事をずっと共にやっていくパートナーが欲しいのです。」

これまでの私であれば、理想的な呼びかけである。迷うことなく「はい」と答えていただろう。だが、今の私には3000万円の夢がある。どう答えようか一瞬躊躇した後、「はい、そのつもりです」とややくぐもった声で答えた。

面接が終わった。編集長は採用の意向を伝えていた。私は複雑な気持ちであった。これがOgawa氏のメールの前であれば小躍りして喜んだことだろう。

だが、今の私は、3000万円が入ったつづらがどちらにあるのか知っていながら、ガラクタの入ったつづらを選んでしまった間抜けな爺さんの心境であった。日本に戻るといったん決意していただけに、いっそう未練が募った。せっかく友人が私のために用意してくれた成功者の道から外れて、泥だらけの赤貧街道をわざわざ選ぼうとするなんて正気の沙汰ではない。

もしOgawa氏のメールと出版社のメールを受け取った時期が重ならなければ、悩むことはなかっただろう。「世の中は実際ままならぬものだな」そう思いながら、私の意思は固まっていた。ブラジルに住み続けよう。給料は安く貧乏生活は続くけれど、これが私のしたかったことなのだから、と。

翌週には出版社の社長に会い、採用が決定した。これまで仕事探しに協力してくれたブラジルの友人達、そしてかけがいのないチャンスを与えてくれたOgawa氏に対し、仕事が見つかり、引き続きブラジルに住み続ける旨報告するため、文章を自宅のPCで作成し、ネットカフェで送信するためペンドライブに記憶した。

近所のネットカフェに向かっていると電話が鳴った。ニテロイの山下将軍からであった。私は興奮気味に、仕事が見つかったという報告をちょうど将軍に伝えようと思ってネットカフェに向かっていた途中だと言うと、将軍はびっくりしつつも持ち前の押しの強い声で、「近くに良い物件が見つかったんだ。そこで鉄板焼きの店を開きたい。就いてはこちらに戻って来て店を手伝って欲しい。まあ、考えといてくれや。」

その知らせがあと10日早ければ躊躇しなかったのに。本当に世の中ままならぬものである。