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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

バグンソ

2016-11-04 22:38:29 | Weblog
日本からリオに到着し、住み始めたエスタシオのアパートメントを紹介してくれたフランス人のミシェルはミュージシャンである。2m近い長身がサクソフォンを吹く。彼のバンドが奏でる音楽のジャンルは当人もはっきりとしない様子だが、スカの無い東京スカパラダイスのようなレトロっぽい感じだ。結構忙しいようで、毎日のように演奏に出かけるが、勤め人のように定時に出勤し、定時に戻るということはなく、その日その時によって居たり居なかったり、居間でアコーディオンの練習をしていたり、パソコンを一心に打ち込んでいたりしている。何かをしている時の彼は、外界の一切が存在しないかのように、返事を求めても反応がない。だから朝の挨拶はたいてい二度おこなうことになる。

彼にはバーバラという混血のガールフレンドがいる。売れない画家である彼女の絵は白黒を基調とした、重厚な筆致の人物画を描く。部屋に飾るには存在感が強すぎて向かないのだが、強烈な個性を発散する絵からは彼女の才能の豊かさを思わせる。画風とはうらはらに、性格はブラジル人女性には珍しく内にこもるタイプで、アニメオタクである。日本語も多少習得している。

フェルナンド。ドレッドヘアーの彼は常に居間を占拠している。ミシェルの親友であり、家賃は払っていない。ソファで寝起きし、料理を作るか、たまにふらりと外出する他は、部屋の片隅のパソコンの前に居座り、ゲームをしているか、競馬サイトを見ながらメモ帳に細かい数字を書き込んでいるか、あるいはユーチューブの音楽を聴いているか、ほぼそれらで彼の人生の一マスにあたる一日が閉じる。

30歳代後半のミギェルは高校の社会科の教師である。財政危機下のリオ州は教師の給料が遅配し、それに対してストライキが起こり、従ってミギェルは学校に行く代わりに恋人のマリーナと一緒に過ごすか、バンド仲間と集いドラムを叩いている。ブラジルでは起こってしまっている事に対して深刻になる必要などないことは、彼のスト中の時間の過ごし方から学ぶことができる。

3LDKの間取りに6人が暮らすだけでも賑やかであろうことは容易に想像しうると思われるが、まともに勤めていない者だらけが住まうアパートメントの騒々しさはすさまじい。ミシェルのアコーデオンの練習に始まり、フェルナンドのロックからクラシックまでの幅広いジャンルを網羅する大音量の音楽がパソコンの増設スピーカーから建物中に響き渡る。フェルナンドが外出しホッとするのもつかの間、さらなる大音響が勃発し、さてはもう戻ってきたかと思ったら、音の洪水の中でバーバラが涼しい顔をしてスケッチしている。深夜に酔っぱらったミギェルとマリーナが帰宅し、歌手志望のマリーナは、ドラッグがキマリ過ぎて失神寸前のエイミー・ワインハウスのような声を張り上げてR&Bを歌う。ひとり私は自室に引きこもり、東洋医学の勉強に励もうとするが、脳内には音楽ばかりが沁み込んでくる。

どんちゃん騒ぎのことをポルトガル語でバグンサというが、ミシェルの属するバンドはそれをもじってバグンソと称す。彼は私を招く際、賑やかだが構わないかと尋ねたのではあるが、彼の取り巻く環境は正にバグンソであった。

我慢を重ね2ヶ月が経ったが、必死に授業に付いていかざるを得ないなかで、この環境はまことに厳しい。私は引っ越しを決意した。ミシェルには金銭的理由で安い場所に移ると説明した。察しの良い彼は真の理由を知っており、賑やかな環境を詫びた。幸いに告知してから引っ越すまでの1ヶ月の間に新入居者も見つかった。

出発前に世話になったお礼と友誼を深める意を兼ねて、同居人達に簡単な和食を振る舞った。一杯やりながら彼等と座を囲んでいると、彼等の人の良さがしみじみと伝わる。フェルナンドが彼得意の造語で皆を笑わす。彼は未明まで音楽を聴いているので、その音漏れに対し苦情を言ったことも度々であるが、音楽は彼の人生にとってかけがえの無いものであり、私の苦情は彼にとってストレスであったかも知れない。もちろん一座の中で一杯やる際の音楽は心地良い。このアパートメントは人生を楽しむ場であり、苦学の場は別に探すのがやはり正解であったかと思う。

6月上旬、私は持てるだけの荷物を持ち、地下鉄に乗ってイラジャへ向かった。