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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

ドトール

2012-03-30 15:43:32 | Weblog
普段めったに鳴ることのない携帯電話が唐突に鳴った。相手は日本人男性である。その男の名は記憶していたが、半年以上前に一度ソデさんより紹介され、彼の店でテーブルを囲んで呑んだきりである。50歳前後のマッサージを生業とするワイン好きの男、そんな程度しか思い出せなかった。

今は5月の頃である。収入の途として期待していたヨウ化カリウム販売については全く望みがなく、無収入のまま時ばかりが過ぎてゆき、蓄えも底を突きかけていた。さりとて別途生計を立てる手段については何ひとつ浮ばない。

ブラジルで生き延びるためには再就職先を探す他はないが、これまで働いてきたレストランのような業務に再び就く気はおきない。最低限の生活すら維持困難な低賃金に甘んじながら、ワーキングクラスのブラジル人と丁々発止とやりあう気力がもはや湧かない。

いっそ帰国してしまおうかという考えが頭をもたげていたが、その一方で、ここまで粘ってきて、永住ビザ獲得までもう一歩というところで投げ出してしまうのも癪である。さりとてこの国で住んで間もない頃のような、ブラジルで生き延びてやろうという腹の底から湧きあがる闘志が枯渇している。そんな魂の火がぶすぶすとくすぶっているような気分で過ごす日々のなか、その電話が鳴った。

挨拶の後、彼は「カイロプラクティックをやってみないか」と切り出した。治療所を経営しており、日本人のスタッフを探していると言う。彼は私が勤めていたサンパウロの出版社の社長と交流があり、人材探しの件で相談したところ私を紹介してくれたとのことである。

だが、カイロプラクティックの名前だけは耳にしてはいるものの、そこで何が行われるかについては一切知らない。仕事のイメージを掴みかねる私に対し、近日治療所内でスタッフの親睦会を催すので、一度顔を出したらよいと言われ、当日訪問する約束を交わした。

カイロプラクティックとは、要は手技によって背骨を中心に姿勢を矯正し、腰痛などを治す技術らしい。私はその治療を受けたこともないし、ましてやそのような技術を習ったこともない。彼より「肝心なのはこの仕事が好きになれるかどうかなんだよね」と言われても、見当のつかないものに対して答えられる筈もない。私のもっぱらの関心事は明日に飯が食えるかであり、永住ビザを習得できるかである。

数日後の夕刻、彼の治療所を訪れた。こじんまりした建家だろうという私の想像以上に広大な敷地面積を持つ一軒家であった。受付と待合室の他に治療室は大小合わせて5室、さらにパーテーションとカーテンで仕切られた簡易治療室を合わせると最大7名を収容できる。スタッフも5名の施術家がおり、彼等は全て日系人であった。受付係と事務員を合わせると総勢10名を抱えるそれなりの生業であった。

スタッフは彼のことをドトール(先生)と呼ぶ。会話はポルトガル語が主体のなかに、ときおり日本語も交わる。フェルナンドという20代の、田舎田楽の猿田彦のような顔をした日系人は日本語が堪能で、彼とドトールは日本語で話すのが常である。ビールやワインを飲みながら、フェルナンドはこの治療所のことや、カイロプラクティックについて説明してくれた。

ドトールによると、彼の事業は二つの柱があり、ひとつはカイロプラクティックの治療所の経営であり、もうひとつは健康器具の販売である。彼はそのための会社を別に立ち上げており、もっぱら治療所を訪れる患者向けに腰のサポーターや枕、腰椎を伸ばす運動器具等を販売しているのだ。

彼は事業の拡張に並々ならぬ関心があるようで、かつては本業の他レストランの経営を手掛けたが失敗し、手放したという経緯はソデさんから聞いていた。その熱は未だ冷めやらずで、新事業、それもエノキ栽培について熱く語り始めた。あのシコシコとした食感はブラジル人の好みに合う筈でありながら、ブラジルにはエノキが流通しておらず、もし販売したならば一気に広まる筈であると主張した。確かにブラジル人はマッシュルームの他にも日系人の栽培するシイタケやシメジを好み、日本料理屋ではシイタケ料理は定番料理のひとつである。だが、健康産業とは無縁なエノキビジネスがそう簡単にできるのだろうかと私はやや訝った。

ドトールは私の任務としてエノキ栽培の研究をして欲しいと言い、駐車場の裏手に放置されているビニールハウスを圃場とし、栽培のために必要なものをリストアップしてもらいたいと言う。また、健康器具を治療所に訪れる患者に販売してもらいたいと言い、インターネットから日本の健康器具に関する情報を調べ、ブラジルで販売できそうな商品を探して欲しいとも言う。さらにはマッサージを覚えて、ゆくゆくはカイロプラクティックの技能も習得してもらいたいとまで言う。要するに何でもやって欲しいということであり、実際そんなことがいっぺんにできるのかどうか私には皆目想像がつかない。

私としてはもともとブラジル国内で何か日本製品の販売を手がけたいという願望があったので、ドトールの提案は興味をそそり、後学のためにも役立ちそうであった。ブラジル生活に疲れを感じており、身体の芯には倦怠が巣食っていたが、降って湧いたこの機会はまたとない幸運であり、それを活かさない手はないと思った。

後日給与についての打ち合わせをし、1000レアル(5万円)という生活維持最低水準ながら生き延びられる目処がついたので、ドトールの元で働くことになった。その際、ユニフォームは自前で揃えるよう申し渡され、エノキ栽培のために圃場用の長靴も揃えて欲しいと言われた。

5月23日より勤務開始。なけなしの金で買った新品の白衣をまとうと、ドトールは「おお、貫禄が出るなあ。君はこの業界に生まれついている運命なんだよ」と調子のいいことをのたまう。私は「一式揃えた甲斐がありましたね。白い長靴も買ったのですよ」と言うと、「長靴?なんだそりゃ?」 驚いたことに、彼は数日の間にすっかりエノキ栽培についての関心を失っていたのだ。

さらにドトールは「まがみ君をスタッフに紹介するわけだが、施術のできない君をいきなり迎え入れたとなれば少々具合の悪いことがあるかもしれない。君は東日本大震災の被災者ということにして、私を頼ってブラジルまで逃げてきたということにしようじゃないか」と言い、私をいっそう唖然とさせた。数日前に治療所のスタッフとは飲み会で顔を合わせており、私がブラジルで5年近く生活していることを皆知っているのである。ドトールの気まぐれな思いつきの数々に早くも当てられて、私はソデさんに続き、これまたブラジル暮らしが似つかわしい御仁の下で働くことになったと嘆息した。