goo blog サービス終了のお知らせ 

臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

ナイトライフ

2008-01-12 04:16:52 | Weblog
ブラジル人だからといって、揃いも揃ってサンバが好きで、ダンスが好きで、カーニバルの熱狂が好きというわけではない。高級住宅地レブロンに住む年金暮らしの友人セルソは、カーニバルが始まっても決して彼の生活スタイルを変えることはない。

すなわち、昼間はイパネマのビーチでバレーボールに興じ、ビールやカイピヴォチカ(カイピリーニャはサトウキビの焼酎ピンガに柑橘果汁と砂糖を入れた国民的カクテルだが、カイピヴォチカはピンガの代わりにウォッカを入れたもの。口当たりがマイルドだがとても強い)を呑みながら友人達と歓談し、陽が傾く頃に自宅に戻り愛犬ラッキーを散歩に連れて行き、夜、パーティの約束がある日はそれに備えて一眠りし、無い日は酔いつぶれるまでウィスキーコークを呑む。

それが彼の日常で、カーニバルであろうとなかろうと変わらない。それにしても、ほんの数行で書き尽くしてしまう彼の生活は、カリオカにとっての理想であるかもしれないが、日本人にとっては理想といえるかどうか。

おおむね白人系の人達の中に、サンバにさほど興味を示さず、カーニバルの到来にも醒めた顔をする者がいる一方、黒人系の人達の中から、それらを好まない人を見つけるのは難しいだろう。

サンバは奴隷制廃止後、奴隷貿易の中心地であったバイア地方からリオ・デ・ジャネイロに移り住んだ黒人達が持ち込んだ音楽が変化して生まれたものであり、リオのカーニバルは、20世紀初めに黒人居住区のパレードが規模を広げ、豪華絢爛な仮装行列エスコーラ・デ・サンバ、その舞台であるサンボードロモと呼ばれる巨大な直線型のスタジアムの登場と、現在に至るスタイルを創り上げるに至った。サンバとリオのカーニバル、このふたつはリオの黒人の誇りであり、黒人としての意識の表現形態である。(※)


大家のスエリーが、サンボードロモでエスコーラ・デ・サンバの予行パレードがあるから見に行かないかと、彼女の電話を受けた従姉妹のクリスチーナが私に伝えた。大晦日3日前の金曜日のことである。

昨今、私は金欠のため出不精になっていて、週末になるとスエリーから踊りに行こうという誘いを何度か受けたが、全て断っていた。今回その気になったのは、エスコーラ・デ・サンバの予行パレードが入場料無料で観覧できると聞いたからだ。彼女達はその後踊りに行くだろうが、私はパレードだけ見て帰るつもりで、クリスチーナに私も同行すると伝えた。

スエリーが勤め先から帰ってくる間、クリスチーナは鏡に向かって入念に髪を整え、丹念に化粧を施している。まるで革靴を磨けば磨くほど輝きが増していくように、彼女の姿が徐々に艶やかになってゆく。

おそらく1時間以上費やしただろう。ようやく完成したと見えて、彼女は鏡から離れ、私の方に身体を向けた。背が高く、スタイルは良いのだが、顔の輪郭が強いので、素顔だと男性的な印象を受けていたが、化粧によって彫りの深い容姿が華やぎ、いっそう端整になった。

「リュウイチ、どう私?」とクリスチーナは単刀直入に尋ねる。「ベレーザ(美しい)!」と私は大仰に答える。彼女ははちきれんばかりに笑みを浮かべ、ありがとうといいながら私に抱きつく。単純である。

ボーイハントの予行演習のつもりか、彼女は白のショートパンツをはいたお尻を揺すりながらリズミカルに歩く。黒い肌を露出したふくらはぎ、腿、腹、肩、そして顔には銀色のラメが光っている。

「君とすれ違う男が皆振り向くよ」と私がお追従を言うと、彼女はハスキーな声をくぐもらせ、「私は男に見られるのは好きではないのよ」と言う。可笑しさあほらしさで舌がにゅうと伸びそうになったので、それ以上からかうのを止めて部屋に引っ込んだ。

スエリーが戻った頃には辺りも薄暗くなっていた。今度は彼女のお手入れの番かと覚悟したが、彼女はさほど化粧には関心が無いようで、黒く縮れた髪を整えたに留まった。

とはいえ彼女も自分のアピール・ポイントを心得ていた。小柄で痩せ型の彼女は、普段のGパンにTシャツ姿では人目を引くタイプではないが、短い丈のシャツとショートパンツに着替えた彼女は、ジムで締まった腹を露出し、ぴっちりした紺のパンツは玉のようなお尻の輪郭をなぞっていた。

「イエーイ、サンバ!」と腰を振ってはしゃぐスエリーのお尻はなるほど可愛らしい。ブラジル男性がもっとも重視する女性の外見はお尻であり、それは女性とすれ違う際に視線をお尻に定めて振り返る男性が多いことで証明されるが、スエリーのお尻を見ながら、私もブラジル男性に共感を覚え始めた。

彼女たちふたりとスエリーの友人のベルギー人ペーターを加えた4人で出発するはずが、私がトイレに入っている間に彼らは先に出かけてしまった。そういえばスエリーに私も同行するということを伝えていなかった。

だが、クリスチーナは私が行くということは知っている筈なので、彼女に対して腹が立つとともに、自分の語学力の欠如から、全てが曖昧のままに進行するこの世界に腹が立った。

幸いバス停で彼らに追いついたので、私はクリスチーナを一喝し、それで気持ちを切り替えることにした。ブラジルで暮らしながらいつまでも根にもっても仕方がない。クリスチーナも他のメンバーも初めは気を使っていたようだが、すぐにそんな気配は霧消し、ざっくばらんな雰囲気の中、バスは目的地へと向かった。

ところが、大勢の観客で賑わっているはずのサンボードロモに人影は無かった。今日パレードがあるというスエリーの情報はガセネタだったようだ。私としても、ここで皆と別れるわけにはいかないので、呑みに行く分には付き合うことにした。

フェリーの船着場があるプラサ・キンゼは、港湾都市リオ・デ・ジャネイロの発祥ともいえる場所で、界隈の車歩道は石畳が敷かれ、石造りの古い建物が軒を連ねている。夜になると車は通行禁止となり、バーのテーブルと椅子が車道を占領する。我々はそんなバーの一軒に入り、ビールを呑んだ。

週末なので、周囲は若者を中心とした客で賑わっていたが、皆ビールをひたすら呑み、声高に仲間としゃべっている。カリオカはおつまみなしで酒を呑む者が多い。ビールで私の腹は水っぽくなり、こんなときに、酒のつまみに事欠かない日本が懐かしくなる。

バーを後にし、4人ともほろ酔い気分でシャッターの閉じた大通りを歩いていると、加速しながら我々の傍らを走り抜けていったタクシーが、我々の50メートル程先で急ブレーキの大きな音を立てたかと思うと、一人の男が車の正面で跳ね飛ばされ、路上をうめきながら悶絶している姿が見えた。

運転手がドアを開けて男に駆け寄ったと同時に、暗く人気のない通りのどこに隠れていたのかと思うほど大勢の人が事故現場の回りに集まり出した。

スエリーとクリスチーナは生々しい光景に度を失い、私やペーターの腕にすがりついたが、私は一大事が起こったという感情が湧かず、この事故が日常の光景の延長のように感じられた。それはこの事故が、ひょっとしたら被害者が金目当てで故意に仕掛けたかもしれないという疑念が生じていたからだ。

『これまでの長い人生で2度しか事故の瞬間を目撃していないのに、リオに来て1年と少しでそのような偶然に出くわすものだろうか。偶然の確率を高める要素が働いているのではないか。それは、この街でよくあることだが、狙われたということではないか。あたかも私が強盗に狙われたように、あのタクシーも狙われたのだ。』という思いが、そのときは漠然とではあるが浮かんでいた。

むろん私には真相は分からないし、事故に遭遇した私が、偶然という受け入れ難いものに対して、無意識につじつま合わせをしたのかもしれないけれど。


ビルの谷間を抜けると、ひときわ広い空間と、おびただしい人の群れが我々の視界に飛び込み、我々は先ほどの事故のことなど脳みそから消し飛んだ。ラパに来た。

かつてのラパは高級住宅街であったが、20世紀に入りスラム化が進むとともに、金持ちの住人は他に移ってしまい、街はさびれた。しかしながら近年、古い建物を改装してサンバや若者向けの音楽を流すクラブやバーが現れ、忘れ去られた街は一躍音楽と踊りが好きな若者達の聖地となった。今でも決して治安が良いとはいえないが、週末は真夜中であっても真昼のショッピングセンターのように若者で賑わう。

人の波をかき分け、我々は路地裏の一軒のスタンドバーに立ち寄り、ビールを注文した。椅子もなく、軽食を置いたショーケースがせり出した狭苦しい店内に人々がぎっしり詰まっており、人垣の向こうに楽器を持ったバンドがサンバを演奏している。息をするのも苦労するような狭い空間の中でも、集まった人達は思い思いに身体を揺すらせ、サンバを踊っている。

クリスチーナとペーターはまるで鎖から解き放たれたかのようにショーケースの前で踊り始めた。黒い肌のクリスチーナがハイヒールを履いた足を小刻みに動かし、お尻を揺すらせるその姿は、サンバの女王の称号を贈りたくなるほど堂に入っている。

ところが彼女を上回るダイナミックな踊りで人々の注目集めたのはベルギー人のペーターであった。彼は休暇となれば必ずブラジルを訪れ余暇を過ごす、この国の魅力に取り付かれた男である。ブラジルを楽しむには女と踊りが欠かせないことを彼は十分に心得ている。だから彼にはブラジル人の彼女もいる。彼を見ていると、いったい何のために私がこの国に居るのか分からなくなる。

と、男の二人連れが近づいてきて、そのうちのひとりがショーケース越しに店主に何か注文しようとしたが、我々のダンスに遮られて注文ができない。残ったひとりが何か叫びながら手でこっちに来いというしぐさをする。

てっきり我々が彼らの注文の邪魔になるのでショーケースから離れろと言っているのだと思い、私は横に退いたが、ペーターとクリスチーナはかまわず踊っている。どうなるのかと思い様子を伺っていると、実は手で呼び戻したのは彼の相棒の方で、踊りの邪魔になるから離れろということらしい。ダンスが全てに優先する国、ブラジルである。


ひとしきり踊り、呑み、串肉を食べた後、彼らはサンバクラブに行くことになった。彼らにとってのメイン・ディッシュである。そして私にとっての宴の終わりである。

ふと気付くと、私の持っていたずた袋が軽い。調べてみると一箇所大きく切り裂かれており、中身を調べると手帳がなくなっていた。おそらく誰かが手帳を財布だと思い、ナイフを使って盗んだに違いない。現金は取られなかった。

それでもこまごまとしたことを書き留めていた手帳を失った無念さと、酔いで注意力が散漫になっていた自分の迂闊さに対する後悔と、もしかすると私がカモにしやすいアジア人であるために狙われたのかも知れぬという屈辱が、静かに私の横腹に染み出してきた。

彼らと別れ、ひとりで人々がたむろする広場を徘徊しつつ、酔った頭で「来るなら来い、相手になってやるぞ」と二の腕をまくり、周囲を見回した。

(※)参考文献 ブラジル日本商工会議所編 現代ブラジル事典

クリスマス

2008-01-05 06:02:34 | Weblog
12月になると街はがぜん慌しくなる。すでに11月にはスーパーやショッピングセンターをはじめ、街中がクリスマスの装いに包まれているのだが、12月に入り、週末になると、街角ではサンバの演奏が聞かれる。2月のカーニバルで地区の主役をつとめるバンドが始動するのだ。

クリスマス、新年、そしてカーニバルに向けて人々の気持ちがはやりだす。ショッピングセンターはプレゼントを探す人々で賑わい、スーパーはクリスマスならではの食べ物-ブドウ、栗、七面鳥、パネトーネ(菓子パンの一種)、干しダラ-を求める人々で混み合う。

クリスマスがやってきた。

24日の夜9時半に、高級住宅地バハ・ダ・チジューカのとある場所でジョアンと待ち合わせた。彼の叔父の家で行われる、彼の一族のクリスマス会に招待されたのだ。

門番が遮断棒を上げ、私有地の小径に入り、やがて車は止まり、外に出ると、周囲は森閑としていたが、まもなく高い塀の一部が開き、扉の向こうから満面の笑みをたたえた白人の中年おばさんが出迎えた。ジョアンの案内に従い、屋敷内を進みながら、青年、老年、少年、美女と次から次へと挨拶を交わしていると、いつの間にか応接間の中にいた。

広い。壁画を描く前の広大な純白のキャンパスを思わせる白壁につながる、斜めに切れ込んだ半切妻の天井はさらに高々とせり上がっている。
部屋の奥には清潔なテーブルクロスに覆われた長テーブルと、その上には1ダースほど並んだ赤いシャンパングラスと氷が詰まったワインクーラーに入った本物のシャンパン。
庭に面した間の左右にはそれぞれテーブルとソファー、椅子が置かれ、部屋の右袖は庭に沿って伸び、小テーブルとシュラスコを焼くかまどがある。
庭には柔らかな芝生と青いプール。
そして来客に混ざり屋敷内をうろつく大型のシェパード。申し分のない上流階級の佇まいである。

しかしながら、集まったのは身内とごく親しい友人達なので、服装はポロシャツだったりTシャツだったりする。当主であるジョアンの叔父もポロシャツにバミューダであった。

彼が私に勧めた、ブラジルのサトウキビの焼酎であるカシャーサを呑んで驚いた。これまでに出会ったことのない豊かな香りと味であった。それはフルーティーで芳醇なアロマを漂わせ、舌に乗せると舌の四方にかぐわしさが広がり、余韻が鼻へとゆっくり抜ける。まるでボルドーのグラン・クリュを味わったかのような円熟であった。

ただちに彼に銘柄を尋ねたのであるが、残念ながら返事はあいまいで聞き損ねてしまった。

集まった人数は20名程である。全ての人たちと親しく会話したわけではないが、日本人と見て、自分が得た日本の知識を私に紹介するなど、気軽に話しかけてくる人が多く、肩が凝るような雰囲気ではない。

どの階級に属そうと、ブラジル人が好きな話題はやはり男女のきわどい話で、酒が回った親父連中は、私に猥語を教えてけらけら笑っている。屋敷こそ違えど、大阪の下町出身である私の親戚連中と変わらぬ、ざっくばらんで気さくな人々である。

日付が変わる時刻が近くなった頃、プレゼント交換が行われた。ただ相手に渡すのではなく、皆の面前で渡す相手の特徴や長所を述べた後で名を呼び、呼ばれた者はさも嬉しそうに前に出て、皆の祝福を受けながらプレゼントを受け取る「アミーゴ・オ・クルト」というゲーム形式をとる。

傍から見てちょっと白々しい感じがしたが、その中に私も参加するはめになり、ジョアンの誘導で私が販売を目論むウォシュレットの宣伝を手短かにした後、見ず知らずなジョアンの友人の長所をやみくもに並べ、名を忘れたふりをしてちょっと笑いを取り、ジョアンが購入したプレゼントの差出人に私の名を連ねることに少々気恥ずかしさを感じながらも、後に数名の人から、なかなかサマになっていたよと言われ、まんざらでもない思いをした。

時計が午前零時を指したところで「フェリス・ナタル(メリー・クリスマス)!」を皆で言い合い、各人それぞれ祝福の握手とキスを交わす。そしてようやく食事が運ばれ、遅い夕食をとる。我々が呑み、騒いでいる間に女中さんたちが食事を用意していたのだ。

料理の主役は七面鳥。オーブンで焼いた肉は特別凝った味付けをしているわけではないが、塩加減が絶妙で美味い。ワインに合わせてゆっくり楽しみたいところだが、不思議なことにブラジル人は料理に合わせてワインを楽しむという習慣がない。

一同、一心不乱に料理をむさぼり、デザートのケーキをごっそり皿に盛り、コーラもしくはガラナと一緒に胃に流し込む。食べ終わった者はそそくさと退出の準備を始める。あっけない幕引きである。

私がプレゼントを渡したジョアンの友人が立ち去ろうとするので、私は社交辞令のつもりで彼のEメールアドレスを尋ねたのだが、彼は困った顔をして、うやむやのうちに立ち去ってしまった。パーティの終わりとともに、身分の違う者に纏わりつかれたくないといった風であった。

ジョアンは家族の乗った車に私を乗せる際、「リュウイチさん。申し訳ないけれど、近くのバス停まででよろしいでしょうか。リュウイチさんの住む場所に家族を連れて行くのはとても危険ですから。」と、本当に申し訳なさそうな顔で言った。私の家とジョアンの家は正反対の方向ではあるが、彼の叔父の家から私の集落まで車で10分程度であった。

私はもちろんそうしてくれと言い、車が門番の開けた遮断棒をくぐり、小径から大通りに出たところで降りた。

夜の1時は過ぎているだろう。街灯のオレンジ色の光がめっきり通行量の減った車道のアスファルトを照らしていた。人影はなかった。酔いはまだ残っていたが、私は意識を覚醒させながら周囲に目を配りつつ、早く私の住むファベーラ行きのバンよ来いと念じた。

ブラジルの接客サービス

2007-12-28 07:12:09 | Weblog
リオのレストランは高くて不味くてサービスが悪い。

まあ、「不味くて」というのは主観的なことなので、人によって評価は異なるだろう。私の場合、味そのものを評価するというよりは、レストランは「高くて」「サービスが悪い」から、まなこを見開くような美味しい料理でない限り、「不味い」と総括してしまいたくなるという話だ。

実際、友人の家で振舞われる、「タダで」「心のこもった」手料理は、レストランの料理と比べても遜色なく、しばしばそれを凌ぐ。そのため「美味しい」手料理に比べて、レストランの料理は「不味い」と、私は決めつける。

日本からの旅行者がリオに来て、まず感想をもらすのが、リオの物価は高いというものだ。おそらく、たいていの人は、ブラジルは発展途上国だから、物価も日本と比べたら安いだろうという先入観があると思う。私もいまだにそれが抜けない。

生鮮食料品などは、たしかに日本と比べたらずっと安い。肉や野菜は日本の5分の1ほどの値段だ。だが、ホテルやレストランの価格設定は先進国と変わらない。

オープンテラスのレストランはリオのどの地区にも普通に見られる。特別高級ではないが、歩道にせり出した屋根の下で、白人を中心とした客が楽しげにビールやワインを傾けながら、フライドポテトが山盛りに添えられた肉料理を頬張っている、そんなレストランの値段は想像以上に高価だ。

デバッサというレストランチェーンのメニューは、日替わり定食が1000円前後だ。さらにサービス料が10%かかる。パンやライス、飲み物は別途注文なので、ひとり当たり1500円程度の出費は必須だ。通常メニューの肉料理を注文すれば、2000円以上の請求が来るだろう。

日本であれば、ランチでそれだけの金額を払うようなレストランであれば、接客サービスは行き届き、従業員はきびきびと動き、絶えず客に目を配っていることであろう。だが、リオのレストランでそのようなサービスは期待できない。もし、期待するとしたら、本当に高級なレストランに行かなければならない。

たいていのレストランのウェイターは、まるで客を邪魔者のように扱うのが最高のもてなしと心得ているかのように、仏頂面をして愛想が悪く、呼んでも動かず、いつも注文を忘れてけろっとしている。

ところがカリオカ(リオの住人)は、そんな彼らの態度をぜんぜん意に介さない。まるでサービスの悪い店ほど伝統があってよろしいと心得ているかのようである。

接客サービスに対する感受性の違いは、ブラジル人と日本人では大きく異なるように思える。

日本では、スーパーやコンビニはどこでもレジ係がきちんと挨拶し、お金をていねいに受け取り、お釣りをていねいに渡し、挨拶をもって客を送り出す。これらの動作のひとつでも省かれたら、客は不快に感じる。

客の機嫌を損ねぬための慇懃な接客態度。だが、そこには従業員の人間的な感情が感じられない。全てマニュアル通りで、ロボットと変わらない。

いや、まだロボットの方がましかもしれない。レジ係のテープレコーダーのような声の裏側に、彼らの腹の奥底に閉じ込められた鬱屈した感情の残滓が見え隠れし、それは自分自身が持つ鬱屈した感情に共鳴し、人生のむなしさを誘い、はからずもその真実を露呈させた彼らの存在を疎ましく思うようなる。

不愉快な気分を押し隠すかのように、客のほうも一言も言葉を交わさず、そこにはモノと金の交換以外のコミュニケーションは徹底的に排除される。

ブラジルではレジ係の対応は千差万別だ。ていねいに挨拶する人もいれば、一言も挨拶しない人もいる。こちらはいつもの習慣で、お釣りを受け取るときに「ありがとう」と言い、無愛想な店員が何も言わずにお釣りを差し出すときなど、いったいどちらが客だかわからなくなる。一方、愛想のよい店員は、客と打ち解けた話しをして、列の後ろの人々のため息を誘うことになる。

良くも悪くもブラジルはひとりひとりの顔が見える。先の、一見無愛想なレストランのウェイターも、あるきっかけから打ち解け、彼の人なつっこい一面を見せることもある。マニュアルという人間性を圧殺する、ロボット取り扱い仕様書がない分、客と従業員の垣根が取り払われ、人間同士の付き合いになる。その方がお互いに肩の力も抜けるし、雰囲気もカラッとして明るい。

数ヶ月前、携帯電話を購入したが、販売店の担当スタッフは、私が言葉も分からぬ外国人で、説明が面倒なので、おざなりな説明で席を立ってしまった。言われたとおりに操作しても通話ができないので、しかたなく、私は再度説明を求めに出向くはめになった。ところが、別のスタッフは、「外国人は携帯を購入できない」と出し抜けに私に言う始末。そんなことを言われても、買ってしまったものをどうするのだと文句を言うと、ひどく待たされた後、預けた携帯を渡され、「はい、これで大丈夫!」

やれやれ、マニュアルが全くないというのも困りものである。

引越し

2007-12-18 05:31:03 | Weblog
リオ・デ・ジャネイロの地形は起伏に富んでいる。広範な市域一帯に山があり丘があり平野が見られる。

日本では、平野が尽きる頃に山間部が現れるといった地形が一般的だが、リオでは、平地と山と丘が混在している。

例えるならば、山岳地の模型を水槽内に作り、その中に山が半分隠れるくらいの水を注いだとしたら、水面にところどころ山が突き出ているように見えるだろう。水面を平野だとすると、リオはおおよそそのような地形である。

ただし、リオ南東部の内陸一帯は山間地である。そこは広大な森林地帯であり、国立公園に指定されている。大都市圏内にある森林(アーバン・フォレスト)としては、世界最大規模と言われている。


ところで、ブラジルのスラム街のことをファベーラという。ブラジルは地域間の格差が激しい。東北地方(ノルデステ)は特に貧しく、最貧州のひとり当たりのGNPは、最も豊かなサンパウロ州の6分の1以下である。

だから、貧しい地域の人々は、豊かさを求めて移動する。

土地も金も持たない彼らは、人の住まない山の傾斜部や山間の土地を不法占拠し、粗末な建物を建て、電気や水道を無断で引っ張り、そこに住みつく。次から次へと移住者は押し寄せるので、家屋はさらに山の上へ上へと建てられる。

リオ・デ・ジャネイロもそんなファベーラがいたるところにある。夜、街から山々を眺めると、ファベーラの明かりが、まるで星のように山の麓から中腹まで散りばめられて美しい。命のある星。

チジューカ国立公園内の山間の地、アルト・ダ・ボア・ビスタ(良い眺めの丘の意)に私は引っ越すことになった。荷物の運搬をしてもらうため、友人のジョアンとジョゼに車を出してもらった。

私はジョアンの車に同乗し、2台の車は沿岸部から山間部に向かう。道は上り坂になり、右に左に蛇行する。山壁に左右の視界を遮られるが、ときおり視界が開け、鋭角に突き出す山々が見渡せる。

そんな山道を15分ほど走ったところで、前方右手に集落が現れた。私が次の道を曲がるように指示すると、ジョアンは「ファベーラだ!」声を引きつらせた。

赤茶けたレンガをむき出しにした家と、レンガの表面に灰色のコンクリートを塗り固めた家が混在し、しかしどの家も薄汚れ、殺伐としている。路上には黒人や混血の子どもや若者がたむろし、我々の車を注視している。彼らの脇をのろのろと通り過ぎる。

ジョアンはこわばった表情で、「引き返そう」と言った。ここで引き返したら私の荷物が宙に浮いてしまうので、私は敢えて彼の言葉を無視して道を指示した。だが、道は入り組んでおり、私も新居への道順を忘れてしまった。ジョアンはいよいよパニックとなり、しきりに「ここは危ない。こんなところに住んではいけない」と繰り返すなか、私は電話を掛け、大家のスエリーに迎えに来てもらい、彼女の家に誘導してもらった。

荷物を運び出すにも、ジョアンはいちいちドアの鍵を開閉し、車から離れるときは必ずドアがロックしているように用心した。携帯が鳴り、私が応答していると、ジョアンは「荷物を運んでください!」と温厚な彼にしては珍しく、声を荒げた。

そんな彼がようやく落ち着きを取り戻したのは、荷物も運び終わり、車の向きを戻し、いつでも脱出できる準備も整い、スエリーの家の中で、薄汚れた外観からは想像もつかない、清楚な白い壁と、清潔なタイル張りの床が敷かれた室内で冷水を飲み干してからであった。

私は彼に「びっくりした?」と聞くと、彼は深くため息をついた。ファベーラに住むということを別に彼に隠そうとしたわけでもなく、説明するまでもなく見れば分かるだろう位に考えていたのだが、これほど彼が恐れるとは思ってもいなかった。

日本への留学経験がある彼は、たどたどしい日本語で、「リュウイチさん、ここに住むのは危険だ。1ヶ月住む間に何かある確率がとても高い。ここは無法地帯です。麻薬密売人もいるし、日本人が住んでいるという情報はあっという間に伝わり、狙われる。あなたは外国人だからとても目立ってしまう。だからすぐに移った方がいい」と私を説得した。


今は本国に帰ってしまったが、私には2人のフランス人の友人がいた。彼らは最初コパカバーナのアパートに住んでいたが、家賃が高いので、やがてアルト・ダ・ボア・ビスタからバスで15分ほど離れたサン・コンハードのファベーラに移った。

彼らは大家の黒人女性ベロニカと同居生活し、私はしばしば彼らのファベーラに訪れ、一緒に酒を呑んだ。ベロニカいわく、ファベーラにもいろいろあるが、この地区は安全だとのこと。海岸に近い山の中腹に、積み木のような家がぎしぎしと積み重なった集落で、狭い階段状の通路が上下、左右、奥へと迷路のように続き、ゴキブリがちょろちょろ這い回るところであったが、住民は気さくで、日本の下町のような雰囲気であった。

フランス人達は1年そこに住んだが、結局一度も危険な目には遭わなかった。彼らが去った後、ドイツ人男性が入居し、ベロニカの恋人役を務めていたが、やがて本国に戻った。彼の後釜を狙ったわけではないが、私もベロニカに入居を申し出たが、設備面で折り合いがつかず、彼女の従姉妹の家を私に紹介した。それが現在の私の大家のスエリーである。

アルト・ダ・ボア・ビスタの私の住む地区は、ファベーラとはいえ、道も整備され、家の一軒一軒は他のファベーラと比べて大きい。ジョアンが言ったような麻薬組織があるかどうかは知らないが、スエリーに言わせると、ここは発砲事件も起きず、全く心配は要らないとのことだ。


新居から車ですぐのところに国立公園の散策コースがある。私とジョアン、ジョゼはワインを持ってその場所へ行き、車を止め、遊歩道を歩いた。

深緑の木々がうっそうと茂り、小さな薄紅色の花を咲かせた低草が道に沿って連なっていた。程なく滝が現れた。30メートル程の切り立った岩肌に沿って水がほとばしり落ちる。滝観賞のための休憩場があり、数名の観光客が滝を眺め写真を撮っている。我々はベンチに腰を下ろし、ワインの栓を開けた。

ジョアンが「私の勇気に乾杯」と、ちょっぴり皮肉を交えた乾杯の音頭をとった。彼は、もし私が場所を移るのであれば、自分の家の一部屋を提供してもよいと申し出てくれた。やがてジョアンは約束があるため我々と別れ、私とジョゼは腰を落ち着け2本目のワインを開けた。

私はジョゼに「あなたは私の新居が危険な場所だと思うか」とあらためて尋ねた。ジョアンの慎重な意見に対して表立っての反論は難しいが、ジョゼの本音はどこにあるか知りたかったからだ。

彼は「たぶんあまり問題はないだろう」と言った。彼も街を観察して、私の住む地区が、ジョアンが言うほど危険ではないと感じ取ったようだ。

彼はしかし、「だけどくれぐれも気を付けるように」と付け加えた。彼に念を押されて、私は不安がちょっぴり心をよぎった。彼の車で集落の入り口にあたる小路まで送ってもらったが、小高いその場所から眺める私の集落は、こころなしかいっそう深い陰影をたたえ、ぽっかり黒い口を開けて獲物を待ち受けているかのようであった。


それから3日後、雨が強く降りしきる午後、雨音に混じり銃声が聞こえた。雨音に消されかねない程の遠い音だが、数分間銃声は続いた。

私はひとつ息をついた。この出来事が今後の私の生活にどう繋がるのだろうかと考えた。この集落で発砲があった訳ではない。だから安心していいのだろうか。それともやがて身近に起きる出来事の前兆なのだろうか。

道が続く限り

2007-12-07 23:25:23 | Weblog
最近寿司屋を廃業した。9月末から2ヶ月間の営業であったが、その間の売上から費用を差し引いた経常利益を計算してがっかりした。

儲けたお金が116レアル。たったの7,500円。利幅が少ないうえに売れ残るとアシが出るので、収益があがらなかったのだ。多大な時間と労力を費やし獲得した金額は、日本で1日の日給を稼ぐ程度に過ぎなかった。

もっとも私は起業家であるからして、成功もあれば失敗もあることは承知している。だから、単に賃金労働者と比べた金額の多少で、事の有益無益を決めることはしない、と、そうひとりごちて自分を納得させることにしている。かくして、リオで唯一無二であった路上の寿司売りは消滅した。


次の仕事で、今考えているのが、簡易ウォシュレットの販売だ。日本で広く普及しているウォシュレットをブラジルに売り込むのだ。日本からの輸入製品はとてつもなく高いものになるが、サンパウロの日系企業が簡易、廉価版のそれを製造している。

リオからフェリーで15分のところにニテロイという街がある。そこに40年以上住む、ひとりの日本人がいる。私の誕生会に来ていただいたこともある山下将軍だ。

なぜ彼が将軍であるか。

誕生会(2)の章でご登場いただいた菊池氏が、彼の名を第二次世界大戦時の陸軍大将山下奉文にひっかけ、そう呼んでいるからであるが、山下氏の、自説を頑として曲げない我の強さ、そしてこれまで何度も命を脅かす病や怪我にも打ち勝ってきた強靭な肉体と精神力は、たしかに将軍という称号をつけるにふさわしい。

ニテロイに長年住んでいるうち、街の中心部にごく近いかつての一等地は、ガン細胞のように増殖したファベーラ(スラム街)に囲まれ、いまや彼の自宅を訪れるのに勇気を要する。

その山下将軍が簡易ウォシュレットのリオでの取扱者である。まだ代理店を引き受けたというだけで、本格的な販売は行っておらず、この地域での販売実績はない。

したがって、どれだけ売れるのか、カリオカ(リオの住人の愛称)が日本発祥のこまっしゃくれた器具を受け入れるのかは皆目分からない。

将軍は私の窮状をよく知っているので、このウォシュレットを売って儲けろという。当初は自分の利益は薄くてもいいから、製品を普及させるとともに、私の生活基盤をこれでつくったらいいとおっしゃる。

そのお言葉は大変ありがたいのであるが、いったいどのように売ればいいのかが分からない。第一私のポルトガル語の実力ではセールストークは難しい。相手の質問も満足に理解できないし答えられないだろう。全ては慣れるまでの苦労といえばその通りだが、いったいそれまで私の生活が維持できるか心もとない。

いよいよ金が尽きかけているので、今私が住んでいるところを引き払って、山下将軍同様ファベーラに住むことにした。家賃倹約が第一の目的だ。

今住むリオ市街、ラランジェイラスのアパートと比べて、1万円程度の節約になり、それは良いことなのだが、移転先はリオ山間の集落で、リオ市街に出るにはバスを乗り継がなければならない。これまでのように気軽にコパカバーナやイパネマに遊びに行くことが難しくなる。

ウォシュレットを売り歩くためには、市街地での活動が必須なので、そういう点でも不便になる。自分自身にとって最善となる行動をどうとればいいのか、金欠の焦りで混乱して分からなくなっているのだが、とりあえず短絡的に目先のお金の節約と、環境を変えることによる新たなチャンスの到来を期待し、まもなく移り住むことになる。


ところで、私は歩くのが好きだ。知らない場所を歩いて、初めて通る街や田園の風景を身体で味わうのが好きだ。

リオは散策するには絶好の景勝の地であるが、最大の問題は治安が悪いことだ。夜間の外出は大変な危険が伴うし、日中でも人通りの少ない街路は警戒を怠れない。日本のように、頭を空っぽにして気ままにふらふら歩くというわけにはいかない。

だから、いつも買い物や散歩で歩いてはいても、心の奥底に、あまり歩き回るのは危険というブレーキが絶えず掛かっているようで、何となく欲求不満なのだ。

へとへとになるまで歩きたいとの欲求が胸の中から喉元まで突き上げてきたので、歩くための小旅行に出た。

リオのセントラル駅から鉄道が郊外に延びている。日本でいうと西武鉄道や東急電鉄のようなもので、リオ都心と郊外に広がる市街地を結んでいる。

セントラルから電車で1時間半程乗った終点にサンタ・クルースという街がある。ここから南に向かい、海岸沿いの街レクレイオまで歩こうと思う。距離は定かではない。地図も持ち合わせていない。以前見た電話帳巻末の地図によると20キロ以上はあったと思う。
サンタ・クルースもレクレイオもリオ市内ではあるが、緑が多くのんびりとした環境だ。だからといって安全であるとは言い切れないが、日中歩く分には大丈夫のようにみえる。

その区間にはバスが頻繁に運行されているので、バス通りをそのまま辿ればよい。交通量は多く、自動車の通過音が耳障りではあるが、心おきなく歩けるというのは気分がよい。

市街地内では周囲の目を気遣いカメラの使用は極力控えていたが、やがて緑が広がる田園風景となり、気に入った景色があればそのつど立ち止まり、カメラに収めた。空き地にはよく馬が繋がれており、たまに馬に曳かれた荷車が通過する。ブラジルの地方の農村地帯のみならず、リオ市内にもいまだ馬が活躍していることに感銘した。

周囲数キロ先の遠景には小山が連なり起伏があるが、私の歩く道はほぼ平坦だ。空気はからっとして、風が吹くとひんやりする。絶好のハイキング日和だ。だが、歩き続けるうちに体温が上がり、汗が噴き出し、日差しが厳しいと感じるようになる。

それでも歩くことは楽しい。自分の足で進み、草の香りを嗅ぎ、汗をたっぷりかく。私の自由なる意思の発露。生きていることの体感。汗とほこりにまみれながらも、私の魂はつやつやと輝き出す。

三叉路に出くわした。スタンドバーに座っていた30代とおぼしき女性にレクレイオ方面の道を尋ねた。

女性はびっくりして、「レクレイオだって?歩いて行くなんて、夜になっちゃうよ。途中には峠もあるんだよ。バスがあるから案内してあげるよ」と私を引っ張って連れて行こうとする。私がいくら、「いや、歩くことが目的で、もし疲れたらそのときにはバスに乗るから、それまでは歩きたいんだ」と言っても、ちっとも耳を貸さず、「あそこがバスの停留所だよ」と、道を教える代わりにバス乗り場の方ばかり指差す。

最後は彼女を振り切るように別れたが、彼女には私の「歩く歓び」がとうとう理解できなかったようだ。

3時間ばかり歩き、疲れも溜まり、レクレイオまでまだまだありそうなので、丘の中腹に教会の尖塔が見える集落に辿り着くと、今日はここまでにしようとスタンドバーに入り、ビールをあおった。バーのおかみさんに、サンタ・クルースから歩いて来たというと、目を丸くして驚いていた。

日を改めて再開する。教会のある集落まではバスに乗り、そこから再び歩き出す。

前回歩いた道路は交通量が多かったが、この集落からバイパスが分岐しているため、私の歩く旧道は交通量が少なく、静かで歩きやすい。だが、この日の気温は高く、とても暑い。カバンに入れたペットボトルの水がたちまちお湯となる。

サンタ・クルースでは、温度計は35度を指していた。リオ市内はいたるところに大型の時計兼温度計付きの広告塔が設置されている。

中には「そこまで暑くはないだろ」と突っ込みたくなる誇大表示気味のものもみられ、テレビの天気予報で報道される気温もまた誇張がみられるのは、派手好みのブラジル人らしいご愛嬌である。

もっとも、ここは湿度が低いので、この日の暑さも、日本の、あの天を呪いたくなる程の不快感はない。

広い農場、高い塀に囲まれた地主の家、荷馬車が行き交う田園風景はブラジル農村地方を思い起こさせるが、数キロも歩かないうちに集落が次から次へと現れるところに、リオ都市圏の一部であることが伺える。

だが、同じリオ郊外でも、都市部に近い小集落の多くはファベーラであるが、このあたりの集落は一軒一軒が独立して整然と建てられており、屋根も美しく、みすぼらしいというイメージがない。ファベーラでは、住民は圧倒的に黒人もしくは混血だが、ここでは白人、混血、黒人バランスよく住んでいるという感じだ。

前方左手にはこんもりと盛り上がった丘が、ブルゴーニュのコート・ドールのように低く連なっている。雑木林の緑が陽に輝き眩しい。暑さのせいで足取りは重いが、先をめざして歩き続ける。

やがて私の歩く道はバイパスに合流し、その道は山に向かい、勾配となる。峠越えである。

幹線道路なので、カーブは緩く、傾斜はきつくないが、その分ひたすら上り勾配が続く。

だが、最大の懸念は勾配ではなく、自動車の通行だ。これまでは側道が広かったり、交通量が少なかったりして車の危険を感じたことは少なかったが、この道路はどの車も飛ばしているうえ、側道が十分広くとられていない。無論専用の歩道などない。

疲れも溜まり、つい意識を散漫にしがちであるが、側道をバイクが高速で通過することもあり、うかうかしていられない。高速道路に放り出されたような心細い気分だ。

周囲は雑木林で視界を塞がれており、高所からの眺めも楽しめない。途中一ヶ所だけ木々が途切れて視界が開けた場所で撮影を行い、後は山登りに専念し、やがて分水嶺にさしかかった。

足取りが軽くなったのはよいが、側道はいよいよ狭くなり、場所によっては幅がほとんどないところもあり、そのような箇所は走って通過した。山道の峠越えならばのんびり景色を楽しむこともできようが、幹線道路上では何の楽しみもない。車に怯えながら、ひたすら下り下って、やがて道が平らになった。

峠を通過するのに1時間。その間、車やバイク以外にすれ違ったものといえば、歩行者はゼロ、坂道のせいか車の突進のせいか、目を剥き歯を食いしばってペダルを漕ぐ自転車の通行者が一名、側崖にぶつかり車が大破して、携帯電話で助けを呼んでいる運転手一名の以上であった。

歩き始めて3時間40分後、レクレイオの街に到着。陽は傾き、気温も当初に比べるとだいぶ下がったようだ。浜に近い小さなハンバーガー屋でビールをぐいっとひと呑み。砂漠と化した身体に水分が染みわたる。


サンタ・クルースからレクレイオまで推定30キロと少々。特筆すべき風光明媚もなく、暑さに耐え、ただ歩いた。

その行為に意味があろうとなかろうと関係ない。ただ私は歩きたかっただけであり、道が続いているがゆえに歩いただけである。歩くこと自体が目的であり、歓びである。

人生もそのようなものではないのか。しんどくても、馬鹿らしくても、それでも歩き続けるより他はないのではないか。

もしも道を見失ってしまったらどうするか。身体を壊してしまい歩けなくなったらどうするか。取るべき道はひとつだ。生きている限り、道を探すのだ。這ってでも前に進むのだ。

たとえ道が狭くとも、歩みが蝸牛に劣ろうと、命という道が続いている限り。

リスクの許容度と社会の包容力

2007-11-30 21:27:47 | Weblog
ブラジルは日本から比べると危険な国だ。犯罪件数はものすごく多く、日常に犯罪が蔓延している(リオの殺人件数比は東京の35倍!)。

私はここに来て2回強盗に遭った。銃声を聞くことなど日常茶飯事だ。

以前コパカバーナに住んでいたころ、部屋で友人に便りを書いていると、突然丘の向こうから銃声が轟き、連射、単射の音が15分ほど続いた。丘の中腹から頂にかけてファベーラ(スラム)が広がっており、そこを根城とするマフィアと警察との撃ち合いであったということを後ほどテレビで知った。この街では白昼から銃撃戦が行われるのかと感動した。外に出ると、ご近所のおばさん方が何もなかったかのごとく、にこやかに井戸端会議をしている姿にますます感動した。

交通事故も多い。車優先がこの国の慣習なので、歩行者は常に前後左右に気を付けていないと危ない。

不慮の事故もある。ある日、私もよく利用する大通りに面するホテルのひさしが突然落っこちて、7人が死傷した。そのホテルは、現在何事もなかったのかのように営業している。

歩道はいたるところに穴ぼこや段差があり、しじゅう足元に気を配る必要がある。犬のウンコもあちらこちらに落ちている(場所によっては人糞も!)ので、ついうつむき加減に歩いていると、上からクーラーの水滴が頭に命中する。ひさしの落下にも気をつけないと!

こんなところなので、もし仮に私がここに定住することになり、老いた私の両親のことを考えたときでも、リオに呼び寄せ、住まわそうという気がおきない。好奇心の旺盛な父はともかく、母はまず心安らかに過ごすことはできないだろう。ブラジルで生活するに当たり最大の障碍は安全に関するリスクがとてつもなく高いことだ。


安全面では、日本はブラジルに比べて住みやすいことは間違いない。だが、私は別の意味で日本は住みにくいと感じるところがある。それは、安全であろうとするがゆえに、社会が一人一人に安全を強いる。ルールを押し付け、小さな安心の枠に閉じ込めようとするので、それが窮屈だと思う人間にとってはストレスを感じてしまう。

日本の海岸には遊泳禁止の場所がある。波が荒い、急に深場になるなど、理由はあるだろうが、一律禁止になるということは、自分の意志で泳ぐという権利を剥奪されることなのだ。

世の中がすべからく役人の責任逃れのために「あれもダメ、これもダメ」となったら、つまらない社会になるだろう。だが、実際に事故が起こると、世論は行政を非難する。だから禁止の立て札には世論の後押しがあるのだ。

日本の電車やバスの車内における案内放送が過剰だという意見がある。安全を追求するあまり、言わずもがなのことを言い、乗客をいらいらさせる。しばしば新聞の投書欄に、「うるさい」「大人を幼児扱いするな」「西洋を見習え」といった苦情や意見が載る。

日伯の市内バスを比べてみよう。リオのバスにはマイクや音声案内の類はない。運転は言語道断だ。バスのドライバーは皆レーサーである。アクセル全開で急発進し、レットゾーンからギヤを素早くつなぎ、進路変更を繰り返し他のバスと抜きつ抜かれつのデットヒートを繰り広げたと思うと、突然急停車し停留所の客を拾う。信号も無視する。中には追い越し車線にいるため、停留所に近付けず素通りしてしまう不届きなバスもある。

いっぽう日本。ドアが開くと音声テープが「足元にご注意ください」と繰り返す。後方からの車を全てやり過ごした後、そろりそろりと動き出し、運転手は案内放送のスイッチを入れ、さらに自分で「揺れますのでご注意ください」「急停車にご注意ください」「右に曲がります。手すりにおつかまり下さい」「携帯電話のご使用はご遠慮ください」云々とひっきりなしに放送する。停留所の客を拾いこぼすとすぐ苦情が来るので、そういうことはまれだ。

さて、どちらがいいか。それは言うまでもなく日本の方がいいに決まっている。ブラジルと比べること自体が間違いである。だが、日本の流儀は最善か。乗客は皆満足しているか。安全ではあるけれど、ある種のストレスを感じることはないか。

ブラジルのバスの車内では、腰の曲がったおばあちゃんも、必死の形相で手すりにしがみつき、足は外またに開き踏ん張りながら、一歩一歩奥へと進む。停留所に止まる前からドアは開き、停まりきる前に降りる者もいる。だが、こんな最悪な環境でも、私はこれまで一度も乗客が転んだ場面を見ていない。乗客は皆、バスの運転が荒いことを知っているので、それに対応する心構えができているのだ。一度転びそうになった場面を見たが、それはブラジル人ではなく、私の友人の日本人であった。

乗客に自己防衛の意識があれば、実際ある程度までは身を守ることができる。覚悟の乗車。ブラジルは論外だとしても、他の西洋諸国のバスのように、節度のある発進、停車をしていれば、案内があろうとなかろうと事故件数に大差はないのではないか。

一方、案内放送の現状を擁護する立場もある。とりわけ、身体障害者の視点から、放送は必要だという意見がある。そのような意見には、絶対的な説得力がある。

ノーマライゼーションという言葉があるが、身障者や老人にも、健常者と同じ普通の生活を送ることができる社会が理想であり、そのような社会をつくることを我々は目指さなければならないと思う。では、具体的にはいったい誰がそれを担うのか。

狭い歩道や電柱などの障害物の改善は行政が担わなければならない。現状では、公共交通の利用に関しては、サービス主体である鉄道会社などが全面的に担っている。では、利用者である我々は何もしなくてもよいのか。

もし、「右に曲がる」だの「左に曲がる」だのうるさいと思うのであれば、それを絶対的に必要とする、身体に障害を持つ人に対し、彼らを座らせることを前提として、議論を進めるべきだろう。携帯電話云々という放送を不要だと思うのならば、車内放送が注意する代わりに、身近な乗客が注意する、そしてその行為が特別な勇気を必要としなくても済む社会の形成を前提とするべきだろう。

だが、現実にはそのような社会ではなく、ほとんどの人々は無関心だ。責任を外に押しやって、文句ばかりを言っている。行政や企業は責任逃れのために機械的に規則や案内を押し付け、社会は殺伐とし、がんじがらめのために人々はストレスを溜め、ささいなことに目くじらを立て、ますます攻撃的になる。

少なくともブラジルでは、よれよれのおばあちゃんを立ちっ放しにさせることはしない。行き先案内が不確かでも、気安く隣りに尋ねるという習慣がある。携帯電話の車内の使用が禁止されているわけでもなく、そんなこと位では誰も不快に思わない。もし仮に、ペースメーカー使用者と隣り合わせになったとしたら、その人は携帯使用者に直接注意を促すだろう。そうしたとしても、それからトラブルが発生するような社会ではない。

民度が低いと笑われるかも知れないが、以前乗ったバスがスピードを落とさず路面上の障害を通過したので、衝撃で乗客の身体が20センチほど跳び上がった。さすがに驚きの声が車内に上がったが、人々の表情に非難の色はない。私と、私の隣りに座っていたブラジル人女性は、まるでジェットコースターから降りたときのような愉快な驚きといった表情で見合わせた。

危険がいっぱいで、行政は何もせず、バスに乗るのも一苦労ではあるが、どうもブラジル人の顔を見ているとストレスとは無縁のように思えて、日本のストレスにまみれた人々の顔を思い出すたび、そして私自身その顔をしたひとりであったことを思い出すたび、今の生活は危険と隣り合わせでありながらも心安らぐのだ。

日本の安全に関するリスク許容度をブラジル並みにしろとは絶対に言わないが、行政やサービス主体任せで、監獄のようにガチガチのセキュリティ・ブロックを受け入れるのではなく、ある程度のリスクは自分たちで引き受け、自分たちで解決するという方向に向かうことで、社会に包容力が生まれ、人々にとってもストレスの少ない、住みやすい社会となるのではないか。


ブラジル人とは?

2007-11-20 22:41:17 | Weblog
ブラジル人は多様だ。

人種、階層によって様々な生活スタイルがあり、例えばファベーラ(スラム)に住む色の濃い人達と、ジョゼのようにイパネマに住む実業家の息子の生活・行動様式は全く違う。学校、職場、交友関係、購買行動のいずれもお互いに接点をあまりもたず、各々独自の生活スタイルを有している。

したがって、私はこの国の人々の特徴を一口で言い表す、「ブラジル人は○○だ」のようなステレオタイプの表現は、社会のある階層に属する人々には当てはまっても、他の階層の人々には当てはまらず、意味がないと思っている。

思っているのだけれども、それでもここで生活していると、日本人の私から見て、「ああ、ブラジル人だなあ」と思うことはやっぱりあり、彼らを十把一からげにまとめて言い切りたい衝動に駆られる。

そういうわけで、これから述べることは、私が見聞したブラジル人の表面的、一面的な傾向であり、日本人の行動様式と比べて異なるので、ブラジル人的であると述べたものに過ぎない。

将来、さらに私の見聞が広まるとともに、その信憑性を裏付けていきたい。


ブラジル人は快を求め不快を避けるという基本的な人間の性向に対して、直截的に行動する。すなわち、本能に忠実で、自分の欲求を常に優先させる、ストレスの少ない生き方を実践していると言える。

以前私は日本料理のデリバリーサービスを始めようと思い、友人達を呼んで和食の試食をさせた。用意した料理は天ぷら、海苔巻き、茶碗蒸しなど7品。

食べ始める前に彼らに注文したことは、招待を受けたということに遠慮することなく、はっきり美味いか不味いかの意見を言ってくれということだった。

だが、そんな気の回し方は全くの杞憂で、彼らは美味ければばくばく食べ、不味ければ残す。実に正直だ。

白身魚のフライには、まるで飢えたストリートチルドレンのように、フライめがけてフォークが刺さった。ちなみに彼らは富裕層に属するジョゼとジョアンである。そして私が手間ひまかけて作った海苔巻きは、いつまでもオブジェとして食卓に残った。

それ以前にも、別の友人の家族に和食を振舞ったことがあるが、態度は全く変わりなかった。

「のうそん」という70ページほどの小冊子が発行されている。日本語の読める日系人向けに作られた、素朴で飾り気の無い装丁ながら、小説から時事評論、ドキュメンタリーに随筆、俳句と、内容は濃い。

興味深いのは、一般対象の投稿小説である。素人の、年配と察せられる日系人からの投稿が多いので、失礼ながら文章の多くは稚拙、古色蒼然として、語彙はポルトガル語と日本語が混ざり読みづらいこともあったりするが、瑣事にこだわらなければ、彼らの小説 -というより、彼らの波乱万丈の半生を綴った自叙伝に近い- は、日系人の歴史、生活、思想をくっきりと映し出している第一級の資料だ。

ある投稿小説のなかに、このような一文があった。「日本人の女房であれば、旦那が出張で数ヶ月家を空けていても家を守ってくれるが、ブラジル人の女房には難しい。なぜなら、必ず男性問題を引き起こすからだ。」

ブラジル人女性は結婚した後も本能に忠実であるようだ。どうりで絶えず男性が奥さんのご機嫌を取ろうと奮闘努力しているわけだ。

ところでブラジル人男性は嫉妬深いという。そりゃ女房が尻軽なら、旦那は絶えず疑心暗鬼になるにちがいない。

そういえば、串焼肉売りのヘジーナの夫ゼジーニョが、いっとき私によそよそしかった時があった。思えばそれはゼジーニョの私に対する嫉妬の感情だったのか。うーん、その誤解は勘弁してもらいたいのだが。


その人が自己中心的であるかどうかと言うのは、その人を評価する視点やテーマによって議論は分かれるので断言はしづらいのであるが、公共空間の中で、近視眼的な行動というか、周りの人のことを考えて行動することが苦手という点で、ブラジル人は自己中心的である。

スーパーのレジに並ぶと、そのことがよく分かる。年配のおばさんに多いのだが、品物をレジの前に並べている最中に買い忘れた物に気付くと、目的の品を調達するために売り場に取りに戻る。

その間レジはストップし、後続の客は待たされることになる。こんなことを日本でしたら、大変なブーイングが巻き起こるだろう。

だが、ここリオでは、並んでいる他のブラジル人は不平をたたえた顔をしているが、おおっぴらに文句を言う客はいない。

おばさんが急ぎ足で売り場に向かい、戻ってくるのであればまだ救いの余地もあるが、まずほとんどは、いつもと変わらぬ動きでのんびりと売り場に消え、こちらの嘆息百遍の後、もたもたと現れるので始末に悪い。

そういう人はまた、金額が確定してからおもむろにバッグの中を探り、財布を捜し、金を勘定し、再びバッグを探り、小銭入れを捜し、小銭を一枚一枚勘定し、それでも勘定を間違えレジ係から注意を受け、取り繕うための会話が弾んだあとで、ようやく購入した品物を袋にもそもそと詰め込み始めるのだ。

日本であれば、たいていの買物客は後続を考えて事前に財布を用意するか、てきぱきと処理をする心構えを持っているだろう。ブラジル人の行動は場当たり的なことが多く、先々を予測して行動するということが苦手なようだ。

同じことは道路上の車列からも見受けられる。信号が青になってもすぐに動き出さない車があれば、後方からクラクションが鳴らされるのは万国共通だが、この事態がブラジルでは頻繁に見られる。

とりわけ、幹線道路ではなく、信号間隔が短い支線道路では、後続の車は気が気ではないので、すぐにクラクションを鳴らすが、先頭の車は通過できることが確定しているので、助手席の彼女と楽しそうに会話したり、ボーっと考え事をしていたりして、後ろに対する気遣いなどこれっぽっちも無い。

だが、クラクションを鳴らした車が、次の瞬間にはクラクションを鳴らされる存在に豹変することは想像に難くない。

夜間にヘッドライトを点灯させない車が多いのは、ライトが故障していたり、点け忘れているだけではなく、運転席から見通す分には、街灯があるので視界がよろしいということで、点ける必要が無いと考えている人が多いからではないだろうか。

かような自己中心的と思われる行動が、ヒステリックな衝突を生まず、社会に受容されている背景には、人々が「しょうがないなあ。でもお互いさまだ」と考えているふしがあるのではないか。つまり、お互いのエゴイズムのなかから生まれた秩序をそなえた社会である。

無論、上記に述べたブラジル人の行動特性は、彼らのごく一面を伝えただけであり、「だからブラジル人はエゴイストな国民である」と結論しているわけではない。


ブラジル人は保守的である。それを私はスーパーの価格設定に見る。

私は同じ品物であれば1円でも安いものを求めてスーパーをハシゴする。驚くのは、隣接しているスーパーで、例えば同じ銘柄のワインでも、一方では600円で、他方では1,000円と極端に値段が異なるケースに出くわすからだ。

日本では、市場価格調査をして、商品価格を市場価格にあわせる努力が絶えず行われているであろうが、ブラジルでは、自社の商品価格は自社の価格設定ルールにのっとり設定されているようだ。

なぜそれでも経営が成り立つのだろうか。それは、客層が固定化しており、例えば中・高所得者層に人気のあるパン・ジ・アスーカルというスーパーが、低所得者層の利用が多いセンダスに全ての商品の価格を追従しなくても、利用者は留まってくれるからであろう。

よくよく観察すると、パン・ジ・アスーカルの一部の商品はセンダスの価格を下回ることもあり、また、品揃えに低価格スーパーとの差別化を図っていることで、顧客の維持に努めていることが見受けられるが、パン・ジ・アスーカルの顧客は、一部の商品に際しては、不当ともいえる高い金額で購入させられているようである。

この傾向は、ネットカフェであっても同様に見られる。例えばコパカバーナ地域において、最も安い店と高い店の差は3倍に達し、安い店は午前中に半額サービスを実施している等で、その時間帯の価格差は6倍に達する。

日本人ならば、同一のサービスであれば価格差に敏感に反応するだろうが、ブラジル人は価格以上に店の品格を重視し、むやみに店を替えたりしない。

私の友人のセルソは、レブロンという高級住宅地に住む元エンジニアであるが、週末になればイパネマ海岸に出かけ、ビーチバレーをしたり、友人達とおしゃべりしながらの日光浴を楽しむのを常としている。

彼は30年以上海岸の同じ場所で同じ友人達と時を過ごしている。まるで砂上に作られた会員制クラブのように、決まった友人仲間が集い、情報交換の場となる。彼は多くの友人に私を引き合わせてくれたが、集まる人々は同じような階層に属する同じような年代の人々であった。

別に柵で仕切られているわけではないので、誰でも居座ることができるのであるが、どうも長年の習慣のなかで、エリアと階層が関連付けられ、自然に分化していったようだ。

ところで、海岸には立ち位置を確認できるように一定間隔ごとに番号が書かれた標識柱が建てられているが、まだリオに到着して間もない頃、8番の標識の近くに座っていたら、水着姿の男性が近づいてきて、座ってもいいかとか、君は男性に興味あるかとか不自然な質問をするので、気味が悪くなり逃げ出したが、その話をセルソにすると、私が座っていた場所は同性愛者が集まる場所だと言われ笑われた。

こうしてみると、ブラジルは社会階層が明確であるがゆえに、個々の人間は、階層ごとに行動様式が規定され、そのために我々日本人が見ると、流動性に乏しい保守的な行動様式に映る。

一方で、彼らの行動性向には合理的な面もある。ブラジルでは、消費性向がそのまま階層を規定する。あるいは、情報の内容が階層を峻別する。階層の固定化は、上位にいるものにとっては、お互いのコミュニケーションを円滑にし、必要な情報の取得を容易にし、他階層からの流入を排し、危険人物を遠ざけ、権益を囲い込み、利益を優先的に分配できる。

一見大雑把なパン・ジ・アスーカルの価格設定も、つまるところ階層の固定化に寄与していると考えれば、これは現在の社会体制の恩恵に浴している人々にとっては望ましい価格体系であり、多少の余分な出費は体制の維持に必要な経費であると論じたら ― まあ、これは穿った見方であろうが。

誕生会(2)

2007-11-13 20:34:15 | Weblog
路上での誕生会の翌日10月27日は、友人達をレストランに招いての正式な誕生会を開いた。

私がリオに住み着いて1年が過ぎるが、いってみれば、今日は私の1年の成果を披露する晴れ舞台というわけだ。

では私がこれまで何をなし得たかというと、今日集まった人々と友情の絆を結んできたこと以外何もできていない。

無論友人を得たこと自体はありがたいことで、彼らのおかげでこのような会を催すことができ、このこと自体は光栄ではあるのだが、心の隅に落ち着きのなさを感じるのは、あたかもハコモノだけ造ってスケジュールが空っぽの地方都市の公民館の如く、私がブラジルでこれだけのことをしたと、この席で友人達に報告する材料が何もないからだ。

せめて乾杯の席上で、「この1年何もしなかったけど素晴らしい友達だけはこんなにできたよ。あなた方が私の誇りだよ云々」と、身もふたも無い内容ながらスピーチを披露し、会の体裁を繕おうと思い、事前に頭の中で繰り返しスピーチの内容を唱え、即興らしく演じる機会をうかがっていたが、ブラジルの誕生会に、そんなかしこまった習慣などある筈もなく、宴会はいつの間にやらてんでばらばらに盛り上がり、乾杯の調子を合わせることぐらいが関の山であった。


ここはシュラスコ<Churrascoの「rr」は「ハヒフヘホ」の発音に近く、「シュラスコ」よりは「シュハスコ」の方が現地音に近いが、このブログでは人名以外は日本の慣例に沿って表記する>料理の店だ。一定料金を支払えば食べ放題である。この店はひとり31レアル(約2000円)、ただし飲み物やデザートは別料金。

席に着くと、まずは一口サイズのチーズや魚の揚げ物をボーイが運んでくる。店内中央にはサラダバーがあり、各種サラダや寿司、刺身が盛られている。

今、リオでは寿司が大ブームで、次々と日本料理店が開店している。

伝統的なブラジル料理であるシュラスコ料理店においても、寿司を置いていない店は皆無といっていい。私の海苔巻きは、このブームに便乗しようとしたわけだ。ただし、リオの寿司ネタの種類はサーモン、マグロ、タイに似た白身魚程度しか見かけない。


前菜を食べた後、お目当ての肉に移る。店内は絶えず数名のボーイが、焼いた肉塊を刺した大きな串を抱えて巡回している。


各自のテーブルには円形の厚紙が置かれている。各面は色が違い、ポルトガル語と英語で、「はい」「いいえ」の表示がある。これが肉を皿に取り分けるかどうかの意思表示なのだ。

「はい」を表に向けるとボーイは近づいて、切り分けるかどうか尋ねる。厚紙はグラスを置くコースターに似ているので、初心者はついグラスを乗せてしまい、ボーイを困惑させる。私もかつてはコースターに利用したひとりである。

肉は牛肉が主だが、豚肉やソーセージ、鶏の心臓もある。

牛肉にも様々な種類がある。ブラジル人が最も好む部位はピカーニャと呼ばれるランプ肉だ。

包丁で薄く切り進み、肉がだらりと垂れたところで、客はナイフとフォーク、もしくはピンセットのような専用の肉つまみで肉片をつまみ、ボーイは包丁をさらに入れ、切り落とす。

肉質は赤身が中心で、歯ごたえがあり、部位によってはパサパサしているため、日本人の好みからは外れているかもしれない。だが、食べ慣れると、味わい深く、肉の旨みが噛むほどに出、脂肪分が少なくしつこくないので、大量に食べても飽きがこない。

こうして毎日大量の牛肉がブラジル人の腹の中におさまり、彼らの腹は牛の如く張り出すのだ。


誕生会には9名の友人が集まった。うち2名が日本人で、日ごろお世話になっているニテロイ(リオ近郊の街)在住40年の山下氏と、彼の友人である白髪の老紳士、菊池氏が参加してくださった。

山下氏についての詳述は次回以降に譲るとして、菊池氏はブラジル生まれの日系2世で、幼年時代の一時期を日本で過ごしたこともあるそうだが、結局ブラジルに戻り、日系大手商社に勤め、現在はリタイアし、悠々自適の生活を送っている。

とても几帳面な方で、物事を正確に伝えることに努力を惜しまない。私は一度彼の自宅を訪問し、彼の手料理を馳走になったが、広いテーブルを埋め尽くす皿の数々に圧倒された。肉料理、魚料理、ご飯ものが整然と、一分の乱れも無く並び、まるでグルメ雑誌に載るレストランの写真のようであった。

普段は寡黙で、たいていは山下氏がぺらぺらとよくしゃべり、菊池氏は聞き役に徹している。博覧強記の人なので、質問などで、話す機会が与えられた時のみとうとうと話す。

ワインをすすめると、「少々でけっこうです」と遠慮がちにグラスを差し出す。

私はいつも菊池氏の丁寧な物言いに感銘する。これまで私が出会った方の多くもそうであったが、年配の日系人の物腰の丁寧さに、私自身も背筋がぴんと張る思いがする。

若輩者に対しても、驕りや隙を見せない礼儀の正しさに、彼らの精神は、戦後日本社会とは切り離された、戦前日本における社会を律していた道徳を今日でも有しているように感じる。


徐々に菊池氏のグラスが空く間隔が短くなってきた。グラスにワインを注ぐ際のしぐさも、いつの間にか遠慮から感謝の言葉と変わり、グラスを突き出す腕が催促を要求している。

氏の向かいの席にはブラジル人学生が座っている。

やにわに菊池氏は熱弁を振るい始めた。ポルトガル語なので、私には正確な内容がつかめないが、どうやら第二次大戦の日本軍の進軍について語っているようだ。

目を吊り上げ、顔を紅潮させ、口から泡を飛ばすが如くまくしたてるその姿は、先ほどまでの寡黙で穏和な菊池氏とは別人である。ジョゼやジョアンといった若い連中はニヤニヤしながら聞いている。山下氏はもはや自分の出番なしとみたか、先に帰ってしまった。

菊池氏は山下氏が残したグラスを高々と掲げ、「山下将軍の残されたビーニョ(ワイン)をそのままに打ち置くのは国家における損失なり。わが体内に活かすことが将軍の本意と見つけたり」と声高に言い放ち、グラスに残っていたワインをあおった。

その後も若者達を相手に菊池氏の独演会は続いた。もはやとっくに主役は私から菊池氏に移っていた。これまで私が出会った多くの年配の日系人がそうであったように、菊池氏も戦争の話が大好きなのであった。

誕生会

2007-11-06 05:21:27 | Weblog
2日続きで土砂降りの雨が降り続き、職にあぶれた日雇い人夫さながらアパートの中にじっと閉じこもっていたが、週末の金曜日にあたる10月26日は午前中から好天で、絶好の露店日和。客も屋外での飲食を待ちかねていることだろうと皮算用。

いつもの6レアルの寿司を6折の他に、ホット・フィラデルフィアのみの4レアルの折り詰めを4折つくる。

午後7時前にラルゴ・ド・マシャードに到着。ヘジーナの串焼肉の店は、いつもより2脚多い4脚のテーブルを広げ、早くも客がひしめいている。肉が焼けるのを待つ客が台座の前に群れをなし、ヘジーナは目の色を変えて串肉をくるくるひっくり返している。

1本2レアル(約130円)と単価の安い串焼肉とはいえ、ビールや白赤黄の毒々しい色をしたカクテルの売上を含めると相当利益が出ている筈だ。露店なので賃貸料はかからない。そのうえモグリなので税金など払ってやしない。売った分が丸々手取りになるなんて、けっこうな商売ではないか。

だが、誰しも彼女のように儲けられるわけではない。この広場には3軒の串焼肉の露店があるが、他の2軒は彼女の店ほど繁盛していない。

一見どこも同じようだが、店によって味が異なるのだ。

通常炭火で焼いた串肉を、ファローファというキャッサバ芋の粉を調理したものでまぶし、お好みで酢漬け野菜を添えて食べるのであるが、これらの添え物の味が店によって異なる。

串肉についても、肉の種類、肉質、焼き方が店により異なる。ヘジーナの店は一般的な牛肉の他に、大きな骨付き鶏腿肉を炭火コンロに豪快に横たえているので、ミート・イーター達の食欲をそそる。

加えて、彼女の明るいはきはきした、表裏のない性格が客に好まれるのだろう。かくいう私も、かつてはそんな客のひとりだった。


ヘジーナの串肉がほいほい飛ぶように売れているのを尻目に、私の寿司の売れ行きは蝸牛の如くである。

赤と黒を基調とした自作の旗とメニューを、折り詰めを入れた発泡スチロール箱に貼り付け、これが目に留まらない筈がないのだが、客は全く見向きもせずに、隣のヘジーナの台座に直行する。

彼らの視線は串肉に注がれ、彼らの原脳は香ばしい焼肉の香りで充満している。

それでも多様性を誇るブラジル人である。好奇心の強い、もしくはあまのじゃくである何十人にひとりは、迷い蜂のように針路をはずれて私の売り場の前に現れ、ぽつりぽつりと寿司を買っていく。

携帯電話が鳴った。友人のジョゼからだ。私に会うために午後10時頃ここを訪れるとのこと。今日は私の誕生日である。

齢43を数えると、誕生日などたいして嬉しくもないが、いちおう明日土曜日に誕生会を開くことになっている。ジョゼとも明日会うことになっているのだが、誕生日である今日、一緒に呑もうじゃないかという彼の気心が嬉しい。

と、大粒の雨が落ちてきた。客も我々もすぐ向かいの大きな薬屋の軒下に避難する。

通行人は家路を目指して一心に前方を凝視し、大股で歩き去る。こうなると私の寿司の販売は絶望的だ。残りは6折。時刻は午後9時半をまわった。

ヘジーナが肉を焼く手を休める。炭火の上には数本の串肉が置かれているだけで、新たに焼く気配がない。尋ねると、もう全ての串肉が出払ったという。予想以上の勢いで売れたようだ。

ジョゼが来たら、串肉を肴に一杯やりたかったのに売り切れとはなんたること。

私は彼女に、今日は私の誕生日で間もなく友人が来ると話したら、彼女は「ええっ」と嬉しそうに驚き、軒下に避難している露天商仲間に、「今日はルイチ <隆一の発音はブラジル人には難しいので、イタリア系名ルイジに似せて私の名を教えた> の誕生日なんだってさ」とアルト歌手のようによく通る大声で伝えた。

すると、普段隣同士で店を出している仲間たち数名が、口々に「おめでとう」「おめでとう」と声をかけるので、そんな大騒ぎになるとは思っていなかった私は面食らった。

多忙時には店を手伝うが、大した戦力にならない影の薄いヘジーナの旦那、ゼジーニョがビールの栓を開けて私に注いでくれる。

串肉が無くなり空いた炭火コンロの上には、露天商仲間がスーパーで購入したステーキ肉が乗せられた。

薬屋の軒下は宴会場となり、ビールで乾杯する。

私は普段、黙々と仕事をしているのだが、酒が入ると一転社交的になる。酔いが回ると、まるで音声スイッチが入ったように、彼らの会話が理解できるようになるのだ。でも、話の内容はいつも、やれブラジルの女はどうだとか、やれ結婚しないのかとか、お決まりの話になるのだが。

ゼジーニョとアクセサリー屋の親父ミラの姿がしばらく見えないと思ったら、ワインを手に下げて戻ってきて、私に差し出した。

私は彼らからもらったワインの栓を開け、ミラに注ごうとすると、彼はたどたとしい英語で、「いや、これは君へのプレゼントなので、私に注ぐ必要はない」と遠慮する。

彼は白系の肌の色をしており、片言でも英語を知っているなど、露天商人には珍しいタイプの人間だ。相手の気持ちをおもんばかる思慮の深さがある。

バランスが取れているといっては何だが、彼の奥さんは黒人で、遠慮という言葉を知らない、欲求に素直な性格だ。

ゼジーニョにワインを勧めると、彼は当然といわんばかりにコップを突き出し、その後もおかわりをねだった。分別のあるヘジーナとのバランスが、これまた取れているようだ。


ジョゼが到着したところで、皆が私を囲むように集まり、ポルトガル語版バースデー・ソングを歌い、乾杯をした。

私を仲間として祝ってくれる露天商仲間の前で、私は気恥ずかしさとともに、座り心地が悪い椅子に座ったような戸惑いを感じた。

この先続くかどうか分からないエセ露天商であり、生活の臭いが乏しい外国人である私を、まるで一緒にファベーラ(スラム街)で育った仲のように受け入れてくれたのだから。

私はふと、ジョゼはこの光景を見て、私に対しどのような印象を受けるのだろうと考えた。彼は白人で、高級住宅地イパネマに住む、法律を専攻する学生である。

ブラジルは社会階層がくっきりと分かれているので、ジョゼのような高所得者階級が、露天商のような社会の底辺を構成する人々と対等に付き合うことはまずない。

彼らと親しく付き合う私に対し、彼が抱く感情は尊敬か、軽蔑か、嫉妬か、それとも狂気を見た者の驚愕か。


ヘジーナの串焼肉が早めに売り切れたおかげで、肉を食べそびれた客がこちらに流れ、めでたく今日の収支は黒字になった。

リオの寿司売り

2007-10-26 22:50:07 | Weblog
10月18日、木曜日のリオ・デ・ジャネイロ。

小さな丘の中腹に建つ古いアパートの一室で、私は醤油をプラスチック小皿に詰め、ガリを小分けにしてアルミホイルに包み、水に浸した米が程よくふやけるのを待ちつつこの文を書き始めている。

海苔巻きをこしらえ、パック詰めにして売るのだ。ひとつ6レアル(約380円)。今日は6つ作る予定だ。全部売れても36レアル。経費を差し引くと儲けどころか、少しでも売れ残ると赤字になってしまう。儲からない商売に毎日8時間を費やす。やらない方がましな商売、だが何もしなければ私のチャレンジは確実に敗北が待ち受ける。

貯金は底を尽きかけ、来年まで持つかどうか分からない。だが、このままおめおめと日本に戻りたくない。家族友人にしばらく戻らぬと大見得を切った手前もあるし、いまさら日本に戻ったところで、私のような芸のない40過ぎの男に何ができるというのだろう。



去年の7月にリオ・デ・ジャネイロに来た。以前は父の会社で農業資材の販売をしていた。

独り者なので生活に困ることはなかったが、いつ潰れてもおかしくない小さな会社で汲々と働くことに不安を感じていたし、父との確執もあった。

一方で、日本に住み続けること自体が耐え難くなっていた。

今の日本は閉塞感で集団ヒステリー状態になっている。これまで一億総中流といわれ、豊かな富にありついていた日本人が、まるでふるいにかけられるように分け前にありつけなくなる人間が続出し、ナイフで袖を切られるが如く生活の質が日毎に低下し、すくった米がぽろぽろ手のひらからこぼれ落ちるように食いぶちが縮まり、最も唾棄すべきことは、その状態が負け組という言葉で固定化され、自分の人生が全否定されるという社会通念がまかり通ってしまう。

ふるい落とされた者はもっと怒り、叫び、団結していいはずなのに、皆、極度に失敗を恐れ、傷つくのを恐れ、殻の中に閉じこもりながら、殻からはみ出したものをあざ嗤っている。

そんな日本に負け組予備軍として住み続けるのは余りにも馬鹿馬鹿しく、みじめで、くやしく、絶望的で、怖くなり、難民の如く祖国を逃げ出したのだ。

移住先を決めるにあたり、私の考えの根底にあるものは、「なんとかなるさ」という言葉がまかり通る国を選んだということだ。

そりゃ住めるものなら、イギリスやフランスのような、文明的で洗練されたヨーロッパの国に住むに越したことはないが、私のようなスキルも特技もない者が、そんなオーガナイズされた国に行っても何もできないことは歴然としており、私の向かう先は、野蛮と混沌と未知なる発展途上国しか選択肢はない。

一旗揚げて故郷を見返すならば経済発展が望める国がいいが、中国やインドの、あのウンカの如き人の海に浸かり住もうなどという気は起こらず、中南米ではブラジルが大国であり、BRICsの一員として将来の発展も見込めそうなことや、この国には140万人ともいわれる日系ブラジル人がおり、いざというときは日系人コミュニティに頼れるかも知れぬと考えたのがこの国に定めた理由である。

ボサノバが好きで、日本にいた頃はよくブラジル料理屋に行きライブ演奏を聴いていたけれど、そういうわけで、別段ブラジルが好きで好きで、いつかは住みたいと恋焦がれていたわけではない。

寿司折りは、1人前のプラスチックパックに、カリフォルニア・ロールとホット・フィラデルフィアが5切れづつ入っている。

カリフォルニア・ロールはカニカマ、マンゴー、キュウリの千切りを裏まきで巻いたもので、ホット・フィラデルフィアは白身魚のソテーとクリームチーズの海苔巻きを、衣を付けて揚げたものだ。誰でも作れるが、手間がかかる。カリフォルニア・ロールはラップを使い巻くのだが、包丁で切った後にラップを一切れごとに外すのが面倒で、ホット・フィラデルフィアは揚げるという工程がある。

売り出しの初日、10人前を初めて作ったとき、ご飯を炊き始めてから全てでき上がるまでに3時間半かかった。調理に慣れれば時間は短縮できるだろうと考えたが、今でも6人前作るのに2時間半かかっている。この国に来るまで料理の習慣などなく、第一私は不器用である。10人前を作るとしてもいまだ3時間はかかるだろう。



調理を終え、6つのパックを発泡スチロールの箱に収め、他の住人がいやな顔をしないように台所のレンジ周りをぴかぴかに拭き取りひと段落。出発までしばらくベッドに横になり、痛む腰を休める。

私の住居は寮のような間取りのアパートで、アパート内にいくつかの区画がある。私が住む区画は10部屋あり、上ランクの部屋だと外窓とバス・トイレが付いているが、私が住む最低ランクの部屋は外に面しておらず、内窓のみの座敷牢のような部屋である。

台所は共同なので、営利目的に利用していいものか気が引けるのであるが、他の5人の住人は大半が会社勤めで、平日の日中は出掛けているため、その間に調理し、彼らが帰宅する頃に私は出かけるため、今のところ咎められたことはない。



寿司折りを入れた、中型の金魚の水槽程度に大きい発泡スチロールの箱を抱えて外に出るわけだが、自分の部屋から門を出るまで4つの扉をくぐらねばならず、それぞれ鍵を開閉するためとても面倒で、余計な時間がかかる。

リオは治安が非常に悪いため、セキュリティの厳重度は日本の比ではなく、そのためか鍵屋が街のいたるところにある。

だが、4つの鍵を常にジャラジャラさせているのは大げさに過ぎる。

このアパートに引っ越したのは2ヶ月前で、4つの鍵を渡されたときに頭に浮かんだのが、「これを失くしたら合鍵の費用が高くつくな」という心配であったが、案の定その後強盗に遭い、荷物と一緒に鍵を取られてしまい、盗られたノートに自宅の住所が書いてあったことを管理人に素直に告げたことで、自分の合鍵どころか、全住民の鍵を2種類分、交換・弁償させられるはめになってしまった。



箱を抱えて20分歩き、ラルゴ・ド・マシャードという広場に到着。勤め帰りの人々がせわしげに通りを行きかう。

串焼肉売りの黒人女性ヘジーナ(Regina)<ポルトガル語では語頭のRは「ハヒフヘホ」と発音する。だから、「ロナウジーニョ」→「ホナウジーニョ」、「リオ・デ・ジャネイロ」→「ヒオ・デ・ジャネイロ」が一般のブラジル人の発音である> は既にテーブルを広げ、串肉をせっせと焼いている。半円の小さなドラムに炭火を入れたコンロから煙がもうもうと立っている。

客が4人ほど椅子に座り、ビールを呑んでいる。ここは路上である。地下鉄駅近くの広い歩道で、車道を隔てた隣は公園だ。

私はヘジーナが焼く炭火コンロの隣に箱を置き、自作の小さい看板を取り出し、街灯の支柱と箱にテープで貼り付けて準備は完了。あとは客が来るのをひたすら待つだけだ。

ここで私が寿司売りを始めるに当たり、彼女に協力を仰いだ。彼女にコミッションを払う条件で、彼女に私の作る寿司を売ってもらう。しばらくは私も街頭に立って寿司を販売し、顧客に知名度が浸透し、毎日コンスタントに売れるようになったら彼女に販売を委託しようというこころづもりであった。

ところが販売数はなかなか伸びず、10に満たない折り詰め数でも売れ残る始末である。串焼肉を目当てに集まる人たちに、寿司を試食させ、材料の説明をしないと買ってくれない。ヘジーナの露店に私がへばりついて3週目に入った。

今日は出だしが好調だ。開店後10分で1つ売れ、さらに10分後に1つ売れた。私も客の顔を徐々に覚えてきたので、購入者がリピーターであることが分かり嬉しくなる。私の味がブラジル人に受け入れられているのだ。夢が広がるではないか。

街頭に立った初日、無情の雨が降りしきり、大きな薬屋の軒先で縮こまって売っている私に通行人は見向きもせず、10の折り詰めのうち2つしか売れなかった。

その後売れる日もあれば、売れない日もあり、日によって売れ行きが大きく違った。販売数が予測できないと売れ残りがでるため、保存がきかない寿司の販売にとってはきびしい。

だが、今週は毎日コンスタントに売れる。たった6折しか作らないが、全て完売し、売りそびれる客も出てきた。これはいよいよ軌道に乗り始めてきたのだろうか。

週始めに買いに来たカップルが今日もまた2つ買ってくれた。そして売り始めてから2時間半後、6折の寿司は今日も完売した。

「もう全部売れてしまったよ。」と私が言うと、ヘジーナは「あなたの商売がだんだん知られはじめてきたのよ。徐々に売上は伸びていくわ。」と喜んでくれる。

今日の私の売上は35レアル(約2200円)、彼女へのコミッションや材料費を差し引いた儲けは900円に満たない。物価の高いこの国ではお話にならない金額だが、いずれは販売量を増やし、売り場を増やして収入を増やすことができれば、さらなる商売の機会が訪れることもあるだろう。

明日は金曜日の週末だ。折り詰めの数を増やすとするか。私は軽くなった箱を抱え、ステップを踏むように足早に、人気が少なくなった通りを家路に向かった。



翌日金曜日は夕時から雨が降り始め、売れ残りの寿司を抱えて、私の希望は雨とともに流された。