臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

カンポス・ド・ジョルダン

2008-09-22 22:16:22 | Weblog
サンパウロより北東170kmにカンポス・ド・ジョルダンという町がある。標高1,700m、冬季の最低気温は氷点下を記録するこの町は、常夏にうんざりしたパウリスタやカリオカが寒さを好んで体感するための観光地であり、真冬である7月が最も人気がある。そんな町に私は取材旅行に行って来た。

今回の企画は、我が雑誌の広告主である旅行会社と現地ホテルがタイアップし、我々は雑誌に記事を載せることで彼等の集客に貢献するという意図で行なわれた。本来の担当は私ではなく別の営業の女性であったのだが、宿泊時男性が同室になってしまうということで、急きょ私に白羽の矢が立った。ただ写真を撮ってくればいいとの話しだったので気軽にOKしたのであるが、物事を簡単に考えていると、とんだしっぺ返しを食らうということを未だに分かっていないのであった。

9月6日土曜日、一行9名はミニバンをチャーターしてサンパウロを出発した。ピンドラマからは私とフリー・ライターのO氏が同行した。このO氏は年の頃50代半ば、悠々閑々、唯我独尊の御仁で、「仕事でも何でも私のしたいようにやる」と公言してはばからず、広告主の取材にあたっても、対象人物が彼の気に入らないとあからさまに見下したり軽んじたりする態度を示すため、私や編集長を青ざめさせること度々という問題人物であるが、悲しいかな激安手当てで記事を引き受けてくれる日本人は周囲になかなかおらず、やむを得ず頼むほかないのである。したがって私の役割はO氏の監督兼なだめ役も含まれている。

旅行会社のスタッフと顔を合わせたとたん、話しの食い違いに直面した。行きがけに編集長より、今回の記事は2ページであると言われていたのに、旅行会社は4ページの筈だと主張する。担当も違うし誌面を決定する権限もないので、私はただ後日確認すると繰り返すしかない。

高速道路を車は快走、途中から上り坂に差し掛かったが、道はよく整備されているので、2時間半ほどでカンポス・ド・ジョルダンに到達した。寒いと聞いていたのだが、柔らかい日差しに包まれて暖かい。丘の斜面に南ドイツ風のきれいな別荘が並び、風景はなるほどヨーロッパである。オープンテラスのレストランは白人観光客で埋め尽くされ、ブラジル人でありながら、まるで自分たちの祖国ヨーロッパに帰ってきたかのような顔つきをして平然とビールを呑んでいる。

ところが我々の車が最初に到着した場所はまるっきり別世界であった。そこは公園なのだが、降りるやいなや吉幾三の演歌が耳の穴を通り抜けた。桜祭りと称するこの催しは、カラオケ、和風物産の販売やヤキソバなど和食の屋台が集う日系人コミュニティのお祭りであった。白に近い薄桃色の花びらをつけた桜の木が園内に点在し、ツツジやツバキも花を結んだ遊歩道を日系人やブラジル人が散策していた。

最も桜が密集する広場にはプラスチックのテーブル席が備え付けられ、数家族が食事をしながら花見を楽しんでいた。特設ステージでカラオケに興じることはあっても、桜木の下でゴザを敷きネクタイを鉢巻にしてポータブルカラオケで熱唱する純和風の姿はさすがに無かった。テーブル席で上品に花見をたしなむのがブラジル流である。

地ビール工場見学、市内散策、スピリチュアルなテーマを持つ公園見学とプログラムをこなすうちに日はとっぷりと暮れた。私は編集長から「とにかく枚数を撮ること」と言われたとおり写真を撮りまくり、前夜の睡眠不足に加え、慣れぬ気遣いに疲れがどっぷりと蓄積された頃、ようやくホテルに入館した。

本来であればホテルは疲れを癒す休息の場であるはずだが、私にとってホテルは大切な取材対象である。だが、長年の習慣から、ホテルのルームに入るやいなや、カバンを投げ出し、タオルを取って洗面所で顔を洗い、さっぱりとして夕食に備えた。そのときまで私は部屋の写真を撮るという使命はすっかり頭から抜け落ちていた。

晩餐はホテルの広報担当者とともに円卓を囲んだ。この時がホテルについて取材する格好の機会である。担当者はブラジル人なので日本語を話せない。私はO氏に期待したが、彼は料理に夢中でもくもくと食べている。私の楽しみの邪魔をするなという態である。広報担当者の隣に座った旅行会社の日系人女性がときおり話しかける程度で盛り上がらない。結局私がやるしかない。料理の味そっちのけで質問事項を頭から絞り出し、ポルトガル語で組み立てて、舌足らずのところは日系人女性に通訳してもらった。

私はカメラを持ってはいるが、メモ帳は持っていない。O氏は話しを聞いているようであるが、手はフォークとナイフしか持たない。旅行会社のスタッフの顔つきに不信感が色濃くにじみ出てきた。私はせめて友好的な雰囲気を作ろうと、冗談を交えながら陽気な態度を示してホテル担当者の気を和ませるよう努めた。料理は鱒のマッシュルームソース添えなど豪華なものであったが、サンパウロの屋台の串焼肉の方が数倍美味しく味わっていたに違いない。

この日はさらにタンゴショウの観覧も組まれていた。O氏は食事を済ませて満足したのか、ショウは見に行かないと言い出し、周囲を戸惑わせた。旅行会社のスタッフは半ば脅すように「まがみさんは行きますよねえ」と厳しい視線を向けるので、首を何度も縦に振って恭順の意を最大限に示した。



翌日朝7時半、ホテル前の道をひとり散歩する。空気は冷たく、かすかに山の嵐気も感じる。すがすがしいと思いたいが、どっこい前日の疲れが背中にべっとりと引っ付いている。ホテルの外観の写真も撮らなければならない。ここまで撮っても掲載されるのは2~3枚と思いつつも義務的にシャッターを押す。

コンベンションセンターを見学する。この施設の見学は重要な意味がある。今回同行したメンバーには大手メーカー会社のマーケティング担当者もいる。旅行会社とホテルにとっては、ここカンポス・ド・ジョルダンを会社のコンベンションや研修に利用してもらいたいと期待しているのだ。

センターのマネージャーと研修プログラムの責任者はプロモーションビデオを流しながら逐一説明する。O氏の表情にわずかな心の空白が見受けられる。旅行会社のスタッフが、「Oさん、分かりますか?」と水を向けると、彼の、「いや、あまり分からない」との返事に皆驚いた。彼の在伯は20年を超えるし、日系新聞とはいえサンパウロの新聞社にかつては勤務していた記者だったので、私はてっきり言葉の問題はないと思っていたのだ。

在伯3年の京セラ勤務の女性が我々の傍らにすわり、通訳をしてくれた。私はメモを取る筋合いはないのであるが、せめて真剣に取り組んでいるそぶりを見せるため、一生懸命書きとめた。旅行会社の不信感はもはや拭い去ることはできないと感じつつも。

帰りの車中、京セラの女性は私を憐れみ慰めるように「分からないことがあったら私に尋ねてください。各見学先の詳細についてはホームページがあります」と言った。彼女は昨朝待ち合わせ時間に遅刻したことを恐縮していたので、往路私は元気付ける立場にいたのだが、復路では立場が完全に逆転していた。暮れなずむ山々を車窓からじっと眺めながら、私は何度もため息をついた。

後日ピンドラマの本来の担当者より旅行会社による評価を聞いた。我々の仕事は、彼等から見ると観光気分に映ったようであった。