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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

将来

2009-03-25 01:42:25 | Weblog
しばらくぶりに米国人の友人からメールが届いた。彼とはひと昔前にアテネで知り合い、そのときはお互いバックパッカーで、ともに無類の酒好きということでウマが合った。現在彼はアルゼンチンのブエノスアイレスに住んでいる。

ひととおり彼の近況が記された後、私のことを案じた文が綴られていた。「お前が将来のことをあまり考え過ぎないことを望む。そんなことを考えるのは米国や日本に居る奴等のすることだ。俺たちは奴等以上に今日のために生きようとしているわけだろう。それはたやすいことではないけれど、俺たちは俺たちであることを止めることはできないんだ。」と。

彼はカメラマン兼ライターである。破滅型の性格で、借金を溜め、酒、ドラッグ、女に溺れる生活を送っていたが、仕事に対しては真摯な情熱を持っていた。それでも世界中掃いて棄てるほどいるフリーのライターやカメラマンのなかで生き残っていくことが困難なことは彼自身よく知っていた。また、彼は高い目標と大きな夢を持っていたが、現実に彼が日々過ごしている生活からは、それらの達成が困難であることにも気付いていた。だから将来に対する不安とプレッシャーから逃れるために、いっそうデカダンな生活にのめりこんでいったことは想像に難くない。

そんな彼が、驚いたことに酒やドラッグを控え、運動をはじめ、減量に成功しているという。どうやら彼自身、ライターで身を立てることに手ごたえを感じはじめているようだ。結局自分がもっとも求めるものは、ただライターとして毎日を生き延びることであり、先のことをあれこれ考え思い悩んでも仕方がないということに思い至ったようだ。

彼の私へのアドバイスは、彼が今の心境に達するまでの苦悩の日々を、私の身に置き換えて述べているように思えた。

サバイバル・ゲーム真っ只中の彼と比べると、私の昨今の状況は安逸の中にある。出版社勤めという立場で、ほぼ一定の給料が得られるサラリーマンであり、贅沢はできないまでも、三度の飯に事欠くことは無くなった。

それでも自分の将来のことを考えると焦りを覚える。現在の薄給のままでは貯金もできず、日本への航空券など高嶺の花だ。病気やけがをした場合、信頼できる医療機関にかかることもできない。第一、私はこの国に合法的に住んでいるわけではない。正規のビザがないので、万一取締りが行なわれたらおしまいだ。また、突発的な事件に巻き込まれても、本来行使できるはずの諸権利があるのか危ぶまれる。

この国のビザを取得するのは容易ではない。だが、ひとつ簡単な方法がある。ブラジル人と結婚することだ。

正直言って、私は結婚などしたくない。ひとり身の自由が好きだ。それに健康面に不安があるので、家庭を築き、それを支え続ける自信はない。そして、最近とみに考えてしまうのだが、果たして私はブラジル人のように生き、ブラジル社会に溶け込むことができるのだろうか。

この国には収入に応じた階層が厳然として存在するので、どの階層に属するのかによって生活スタイルは異なってくる。できるものなら上の階級に属したいとは思うが、今のところ収入も低く接点も無く、保守的で血統を重んじる白人種が齢四十を過ぎたアジア人を受け入れるとは考えにくい。では現実的に可能とみられる、下層階級とまでいかなくても、いわゆる平均的な庶民レベルの女性と結婚したとしたらどうであろうか。

一般にブラジル人は日本人に比べておおらかで他人に対して親切ではあるが、庶民レベルとなると仕事に対してはいい加減であり、現状に安住しがちで、知的、創造的、改革的な活動には縁遠く、公衆道徳に対する意識は低いと私の目に映る。

私は屋台の串焼き肉を食べながら庶民と接するのは好きだが、私自身が庶民そのものになろうとは思わない。

私ひとりであれば、彼等の生活習慣に染まらぬよう努力することで、自分の生き方を貫くことはできる。だが、もしも家庭を持ち、子どもができた場合、私の子どもが彼等のようになってしまうことを想像するとぞっとする。

以前、スタンドバーで親に連れられた10歳ぐらいの子どもがビンに入ったおたまじゃくしを見せてくれた。子どもはひんぱんにおたまじゃくしをつまみ出しては眺めていたので、やがておたまじゃくしは死んでしまった。

私は子どもに、おたまじゃくしにとって人間の体温は火のように熱いのだから、生かそうと思ったらあまり触らない方がいいと言った。

すると子どもはけろっとした顔で、おたまじゃくしはまだ死んでいないと言い、ビンの水の中で動かないおたまじゃくしを指で突っついて生きているようにみせかけて、そして去っていった。

嘘をつく子どもなど古今東西ざらにいることかも知れない。それでもまるで呼吸をするようにさらりと嘘をつく子どもに接して、私は何と民度の低い国に住んでいるのかと嘆息した。

公園で小さな子ども達が石や土塊を投げ合って遊んでいる。けがをしたらどうするのだろう。周りの大人や少年達は知らぬ顔だ。私の方にも飛んでくるので、「こら、やめろ!」と注意すると、子ども達は口々に私をののしる。小さな野蛮人だ。

私にもし子どもができても、そのような環境の中で育てたくはない。だが、ブラジル人の奥さんを持つと、まず間違いなく子どもは彼女の生活水準に合わせて育つだろう。私がいくら高邁な教育方針を掲げても、奥さんとその親からは異国人のたわごととみなされ、理解されぬか黙殺されるかのいずれかだろう。

整った顔の、スタイル抜群な混血女性とすれ違うたびに、羨望と侮蔑の入り混じった感情が瞬時に私の脳内を駆けめぐるのは、手が届かないと同時に手を出したくないという屈折した思いからといえる。

この頃日常生活の中で、わけもなくいらいらした感情が沸き起こり胸を塞ぐことが多いのは、ブラジルという国で住み続ける自分の将来に漠然とした不安と不満が溜まっているからであろうか。

トモコさんというブラジル在住の女性がいる。フリーライターとして、私が勤める出版社の雑誌の記事をよくお願いしている。

彼女は現在29歳であるが、歳が倍近く離れた夫と小さな子どもがふたりいる。幼稚園教諭の資格があるというが、大阪の大学を卒業後は定職に就かず、アルバイト生活を経て単身ブラジルに渡り、永住資格のある日本人と結婚した。

彼女に今の生活に不安はないか尋ねてみた。もし夫がいなければ日本に戻っているかも知れないと彼女は答えた。夫と一緒に日本に戻っても彼の就職先を見つけるのは難しいし、今はなんとか食べていけるのでブラジルにいると言う。

また、こうも言った。パート感覚の執筆業を除くと、現在の身分は主婦であり、それはすなわち夫の従者であり、家庭を放棄しない限り今の環境に従うしかない。将来については子育てが一段落してから考えることにしており、また、今の時点では考えない方がこの国で生き抜く上で望ましいと。

子育てという現実に日々対峙しているトモコさんにとって、この国で将来設計を考えることなど現時点では害にこそなれ何の益にもならない。ブラジルで生きる上で大切な順応性をしっかりと獲得し、ラテンの楽天主義としたたかさがすでに備わっているようにみえた。

日本にいるときから先のことなど考えない生活をしていた私である。ブラジルに来て今さら将来云々、子育て云々などと考えても仕方がないのである。米国人の友人やトモコさんに倣い、いや、本来の自分に戻って、最も得意とする行き当たりばったりの人生を歩み続けるのが、この国で生きるのには一番ということにしておく。

サンパウロ・小さな旅

2009-02-05 04:19:39 | Weblog
土曜日の午後。身辺の用事を済ませた後は、心は自然と酒に惹き寄せられていく。格別なことがなければ、何を呑むかは既に決まっている。紙パックの格安アルゼンチンワインをペットボトルに詰める。何を食べるかも決まってくる。路上の屋台で売られる、酒のつまみになるものである。いつも案じるのはどこへ行くかである。

サンパウロ中心部より南西に位置するサント・アマーロという地区は賑やかな商業地区だ。街路は商店が並び、さらに道路の中央を露天商が陣取り、人の通行で常にごった返している。バス停付近や交差点周辺に点在する空地という空地には服飾、海賊版メディア、小物、飲食物を売る露天商がひしめき、全てのスペースが無駄なく埋め尽くされている。

サント・アマーロには以前何度か来たことがあり興味をそそられていたのだが、雨模様であったり、仕事中であったりとゆっくり見て回る機会がなかった。近郊のピニェイロスという地区で写真を撮る用事があり、その足でサント・アマーロを訪れることにした。

サンパウロの市バスは急発進、急停車、急ハンドルを繰り返しながら1時間ほど走った後、やがて各方面から色とりどりのバスが集結し始め、商店が連なる街道沿いの歩道は人の往来が多くなり、露天商の屋台が目に付き始めると、サント・アマーロの中心街は近い。

バスを降りると、視界一面に人々が蠕動している。いたるところで露天商が台の上で二束三文の商品を広げ、ところどころに煙が立ち昇り、それは串焼肉の屋台であったり、焼きトウモロコシの屋台であったりする。行き交う買い物客の大半は混血か黒人で、すなわちお金にあまり縁がない連中がここで買物や飲み食いをするわけだ。

間口の狭いスタンドで売られるソフトクリームは0.8レアル(32円)とサンパウロ市内のどこよりも安い。3足で5レアル(200円)の靴下は、そのうちの1足でも3回履いた後に伝線しなければ幸運という、クジのような代物だ。質よりも価格で勝負のサント・アマーロの商店街は、格安の商品を物色する買い物客の、それでも結局安物買いの銭失いになることは自明でありながらも、掘り出し物にめぐり合うかも知れぬという幻想と、大枚をはたかずに購買行為がかなうという欲望を満たすことができる猥雑な活気に溢れている。

私は界隈をぐるりと歩いた挙句、バス停留所に近接した一軒の串焼肉の屋台で立ち止まり、コンロで焼かれている牛ハツを指差し、リュックから取り出したペットボトルのふたを開け、中に満たされている赤ワインをぐびりと呑んだ。生ぬるい芳香が喉から鼻に抜ける。さあ、一日が始まった。

騒々しい音を立ててバスがひっきりなしに発着し、始終人の出入りで騒然としているが、ワインと肉があれば全くかまわない。屋台のオヤジは色黒で細身の、いかにもファベーラ在住といった貧相な初老の男だ。牛ハツなど珍しいと話しかけると、彼はぼそぼそ喋り出したが、その時の彼の話し方から、やや気弱で不器用でお人よしな性格が窺われた。

停まっているバスの窓から若い混血娘が札を握った手を振って、なにやら呼んでいる。串焼き屋のオヤジは、やにわに飲料を掴んでバスに向かって駆け始めたが、バスはするすると発進し、窓から顔を出す娘の顔が無常にも遠ざかっていった。親父の努力は徒労に終わり、私を含めた周囲に親父の足がビッコであることを知らしめただけであった。

ひとりの女性がバス停前で佇んでいるのに気付き、目が釘付けになった。女性はブルーネットの髪をした白人系で、歳は30歳を超えたあたりであろうか。若い時分はたいそう美しかったであろう容貌は、歳とともにゆっくりと老成に向かいつつもまだあどけなさを残している。目を見張るのはその体形で、白いぴっちりしたシャツの輪郭は、大きく張り出した胸と、彫刻のようにくびれた腰と、すっきりへこんだ腹をなぞっていた。濃紺のジーンズを穿いたお尻は程よい形に隆起し、脚は磨かれたようにすらりと伸びていた。

『ペルフェイト(パーフェクト)』とため息混じりにつぶやく他にないボディを前に、私は盗難や強盗に遭う危険を顧みずカメラを取り出した。だが、彼女の姿は他の待ち人の陰に隠れがちで、やがてバスに乗って彼女は行ってしまった。

串肉を焼くオヤジの前に精悍な顔をした30台半ばとみられる男が現われた。彼が担ぐビニール袋の中には駄菓子がはいっており、おそらくバスや電車内に乗り込んで菓子を売っている車上の物売りなのだろう。

彼は黙ってオヤジに1レアル渡し、ミニカップにピンガを注がせ、カップ半量をやや過ぎたあたりでオヤジの注ぐ手を制止し、ぐいっと一気にあおり、日本の酒呑みが塩を嘗めるように、ファリーニャ(肉にまぶす白いマンジョッカの粉)をひとつかみ掌に取り、ぐっと口に含み、風のように去っていった。ついに一言も発することはなかった。

彼はオヤジの店の常連なのだろう。ふたりの間には言葉は要らず、呼吸があった。最貧層に属するであろう物売りの男が、多くを注ごうとするオヤジを制するその態度は、酒に卑しい私だけによけい粋に映った。彼の人生の底流にはダンディズムが流れていた。

暮れなずむ周囲の方々で電燈の輝きが目立ちはじめた頃、私はバス停を離れ、地下鉄駅に降りた。地下鉄は最近開通したばかりで、ホームにいたる通路は銀色のメタルとガラスで覆われた近代的なデザインである。なんだか本来居るべき所に戻ったような安堵感を覚える。

無機質的な構造物になつかしさを感じた自分が意外であったが、思えば私はずっと日本の近代建築に囲まれて育ってきたわけで、ブラジルの雑然混沌とした都市景観は我が故郷のそれからは遥かに遠く、緑多い郊外の山間風景も故郷との隙間を埋めるにはいたらず、画一的な設計の地下鉄駅の中で、ようやく私は故郷の風景を重ね合わせることができたのだった。

電車もモダンな新型電車であった。自動案内放送のポルトガル語が近未来の言語のように聞こえた。これまで住んでいたブラジルは実は過去の世界で、今、タイムマシンで私が本来住んでいた先進国に帰って来たかのようだ。だが、その幻想を破ったのは途中駅から乗り込んできた黒人系の家族であった。

母親と3人の子ども達、そして長女である12,3才の子どもは彼女の子とみられる赤子を抱いている。一見して極貧層と分かる彼等は、路上で寝るためであろう毛布を抱え、粗末な服とサンダル履きで、果物をかじる男の子の姿がいっそう貧しさを象徴していた。

ニューヨークの金融街にいきなりジンバブエの難民が迷い込んできたような違和感に、他の乗客も不安といぶかしさの視線を向ける。だが、家族は物乞いを始めるわけでもなく、子ども達は車内をうろつくものの、別に迷惑をかけるわけでもなく、人々の目はやがて憐れみといつくしみの目に変わっていった。

私の前席でしっぽりと寄り添っていたカップルも、家族が乗り込んできた時はしばらく気を取られていたが、子どもが近づくとバッグからお菓子を取り出し子どもに与えた。人々から笑顔が洩れた。車内の空気は富者と貧者が同居するブラジルのそれとなって融和していった。

ピンドラーマ・ブログ、サンパウロC級グルメ探訪

2009-01-31 21:37:50 | Weblog
私が勤めている雑誌社のブログ内に「サンパウロC級グルメ探訪」というシケたタイトルの文を寄稿している。貧乏人相手の串焼肉の屋台を採り上げているので、日本の読者はもとより、サンパウロ在住の読者もまず訪れる気になれない、実用性の全くないグルメ記事である。

編集部よりブログを埋めてくれという要望があり、私には屋台グルメを探究する予算しか無いのだが、それでも屋台を巡っているうちに小さな発見があるもので、そんな発見に対する小さな喜びを綴った拙文であるが、興味が湧かれた方は下記のサイトを訪問されたい。

http://revistapindorama.blogspot.com/


クリスマス、そして年越し

2009-01-13 21:27:30 | Weblog
ブラジル人はクリスマスの夜を自宅で家族と一緒に過ごす。そのため12月24日は午後になると商店がパタパタと閉まり出し、夜になれば街路は静まりかえる。レストランやホテルが客で賑わう日本のクリスマスとは趣を異にする。

私は25日を例のジアデーマのおじさんたちのクリスマス会に参加することにしていたので、クリスマス・イブは酒も呑まずにひとりのんびり過ごすつもりでいた。だが、勤務先の社長から酒の誘いがあった。酒の誘いは断れないのが私の性格である。我が寄宿舎でお好み焼きパーティをすることになった。

社長は私と同年代で、京大出のエリートであるが、会社勤めが性に合わないのか、ブラジルの魅力に悩殺されてしまったのか、90年代に勤め先の東京ガスを辞めてブラジルに渡って来たという変り種である。さすらいの浪人さながらの後ろで束ねた長い髪、波を打った細い目、絶えず薄ら笑いを浮かべているような口元といった容姿はコメディ漫画の登場人物のようであるが、幅広い知識に裏打ちされた意見はよく通る太い声に乗って、有無を言わさず説得させる強さがある。

彼は所用を片付けた後に来たので、杯を合わせたのは午後10時近かった。明日は早い時間に待ち合わせしていたので、午前零時には切り上げたかったのであるが、彼が持ってきたチリ特産のカルメネーレ品種のワインがすばらしく美味しく、豚肉とキャベツしか具のないお好み焼きとはいえ相性は抜群で、スモークチーズのつまみとともに極めて満足できた。

話題は料理からブラジルの習俗、さらに民族史、はては世界史まで広がり、たちまち時間が過ぎていった。チリワインは空になり、我が愛用のアルゼンチンワインが開封された。社長が帰って行ったのをぼんやり見送り、時計を見ると夜中の3時を差していた。そして次の瞬間私の意識がよみがえったとき、私はベッドの上におり、雨戸から洩れる薄い光をたよりに時計を見ると9時を回っていた。すなわちジアデーマでの待ち合わせ時間が過ぎていた。どっしりと酒の残る身体を持ち上げ、私は電話でクリスマス会に行かれない旨詫びた。



クリスマスを重視するブラジル人と違って、日本人にとっては正月が大事である、と私は思う。日本の友人より、ブラジルに住んでいるからこそ暦上の節目となる日を大切にする習慣を意識的に持つべきだという知見を得て、ささやかながら正月を祝うための食材は揃えておこうと思い、近所の朝市に行き、刺身を買いに行った。

私が暮らしてきた実家の正月を再現しようと食材を奮発するつもりであったが、サーモンやマグロの刺身の値札を見てたちまち意気消沈した。悲しいかな、ここ1年の間に刷り込まれた習慣で、キロ10レアル(400円)以上する商品に拒否反応を示してしまうのだ。値札には35レアルと書いてあった。レアル高の時代ならいざ知らず、今なら日本よりも安いに違いないのだが。

結局ザルに入ったマグロのカマ3レアル(120円)を指差した。家に戻り、身のある部分を刺身用にさばこうとしたが、相当傷んでおり、結局ほとんど刺身にはできなかった。

そんなひもじい私に救いの手を差し伸べてくれたのは、雑誌の広告主である旅行会社の女社長イツコさんである。彼女の自宅で開かれる年越しパーティに私を招待してくれたのだ。

彼女の会社はサンパウロで一番の目抜き通りにあり、やり手であることは間違いなさそうだが、彼女の声は子役のアニメの声優のように甲高く、ボケ調子で話すので、こちらも軽口が自然に口を突いて出る。だが、道理に適わないことに対する彼女の舌鋒は、さながら爪を立てた猫のように突如として肺腑を突き刺すような鋭さを帯びる。

大晦日の夜8時、灰色の空がほの暗くなる頃に私は彼女の自宅に訪れた。そこは閑静な高級住宅地で、広い庭にはプールがあり、離れの部屋まで備わった邸宅であった。

ゲストで集まったのは、私を含めて13名の日本人で、彼女の家族を含めると総勢17名にものぼる。だが応接間はたいへん広く、これだけの人間が一部屋に集まってもまだ空間にゆとりがある。

テーブルには豪華な料理がひしめいている。中でも目を惹いたのはイセエビの刺身である。このようなものは日本でもそうそう食べられない。大人のたしなみで、皆なかなかイセエビには手を付けようとしない。こらえきれない私が最初に手を付けた人になった。

私はインドカレーを持参して来た。日ごろイツコさんに料理自慢をしているので、このときが証拠を示す機会となってしまった。市販のルーを一切使わず、ターメリック、ナツメグなど11種類のスパイスにトマト、ヨーグルト、ココナッツミルクを混ぜて作る、一応本格的なインドカレーである。

作りながら不思議に思うのは、これらのスパイスはブラジルで簡単に手に入るのだが、この国の料理はおしなべてスパイスの抜けたぼんやりした味ばかりであることだ。オレガノだけはよく使われているようだが、あまり風味の強い料理にお目にかかったことはない。煮物、焼き物、全て塩味が基調である。

印僑の少ないサンパウロなので、皆インドカレーを食べる機会はあまりないのだろう。お世辞を差し引いても、そこそこ気に入ってくれたようだ。中には店を出した方がよいなどと過ぎた賛辞をいただいたりしたが、たぶん日本で成功するような味を作ったとしても、味が複雑すぎてブラジル人には合わないだろうと私は思っている。

美味しいワインもスパークリングワインもあり、最高の年越しとなった。日付が変わり、あらためて各自のグラスにスパークリングワインが注がれ、新年の挨拶をする。日本人にとって大切な年明けを地球の裏側で祝うことができたわけである。そういえば料理には年越しそばもついており、寿命をひとつ延ばすための願掛けもできた。

ただひとつ、ささいではあるが気になったのは、様々な種類の料理の中に、重箱に入ったお豆など、おせち料理も入っていたことだ。年明け前にふたを開けてしまうところが、日本の伝統の中にも、せっかちで待ちきれないブラジルの気質が入り込んだイツコ流であるようだ。

人捜し②

2008-12-15 21:30:27 | Weblog
最初のジアデーマ訪問は、日本ゆかりの街路名から日系人コミュニティの存在を憶測してみたものの、見当を付けた地区には日系人コミュニティは見当たらず、なんの情報も得ることができなかった。そのため今度はあまり山勘に頼らず、下情報を調べてから赴こうと思い、その翌週の土曜日にリベルダーデにある日伯文化協会で尋ねたところ、ジアデーマにも日伯文化協会があるということを知った。

住所と電話番号を伺ったので、本来ならばまず電話して営業日等を確認するのが筋であろうが、まあ行けば何とかなるさと思ってしまうものぐさな性格なので、バスに乗って再びジアデーマに向かった。地下鉄を使わずともバス1本で近くまで行けることを知ったことのみが、前回の訪問で唯一といえる有用な情報であった。

バスを降りる場所を間違えて余計な道をぐるりと歩いたのち、ジアデーマ文化協会に到着した。日本の市町村の公民館のような高層建築物ではなく、協会の建物は平屋で、格子門の向こうでは混血のブラジル人女性が子どもをあやしており、ブラジル人家庭そのままの様相だ。だが、門に掲げられた手書きの日本語の看板から、ここがジアデーマ日伯文化協会であることは間違いなかった。

中に入り、混血女性に誰か日系人がいないかと聞くと、今日は休みで誰もいないという。また空振ってしまったかという後悔が頭をよぎったが、彼女が続けて言うには、明日の日曜日には餅つきがあり、たくさんの日系人が集まるとのことであった。建物内を覗くとなるほど並べられた長机にはテーブルクロスがきれいに敷かれており、イベントがあることを物語っていた。

日系人には会えなかったとはいえ、明日集会があることを知ったことは非常に幸運であった。K.オカザキさん本人か、あるいは彼女を知る人達が出席するかもしれない。明日もう一度ここに来ればきっと手がかりが得られる筈である。

そういうわけで今日の私の任務は早くも完了したので、通り道で見かけたシュラスキーニョの屋台に立ち寄り、午後まだ昼間の盛りではあるが、家より持参したペットボトル詰めのワインのふたを開け、ひとり一献を始めた。



翌11月23日の日曜日、私はみたびジアデーマに向かった。もっと効率の良い動き方があるのだと思う。もし私に同行するパートナーがいたならば、私の魯鈍な行動に愛想を尽かすに違いない。それでも遠回りをしながら一歩一歩オカザキさんに近づいているようである。悪手も状況によっては妙手になる。昨日いきなり文化協会を訪ねたからこそ今日の集会を知ったといえる。もし訪問前に電話をかけていたとしたら、今日の集会の情報を得られない可能性が高かったと思う。

リベルダーデより乗車したバスで終点まで行くと、そこがジアデーマ日伯文化協会の最寄りの停留所であることは過去の訪問より学んでいた。

文化協会の中庭にはたくさんの車が停まっていた。館内に入ると、大勢の日系人が会場内の思い思いの場所に数名ずつのグループを作りおしゃべりをしている。会場奥では4人の男が臼を囲み、ふたりの男は杵を交互に振り下ろしている。傍には大きなトレイが積み重ねられており、中には丸められた餅が入っている。揃いも揃って皆60代、70代、あるいはそれ以上の年配者だ。誰に話しを切り出そうか迷ったが、とりあえず入り口付近でおしゃべりをしているおばさん達の中に割って入った。

「K.オカザキさんを知ってますか。以前サンパウロの市場で魚を売っておりまして、歳は80歳を超えていると思われるのですが。」
反応は早かった。
「あのオカザキさんのことかしら。今日彼女の親戚が来ているので、ちょっと連れて来るわね。」
ほどなく歳の頃70代前後の女性が現れた。
「私はK.オカザキの遠縁に当たるものですが何でしょうか。」
事情を話すと、ミヤモトと名乗る女性はオカザキさんについて話し始めた。
オカザキさんは数年前に亡くなったこと。レイコさんという彼女の長女に聞けばより詳しいことが分かるであろうこと。レイコさんは今日、日曜市で魚を売っているのでここには来ていないが、3時頃には自宅に戻る筈なので、後ほど電話すればいいと言って電話番号を教えてくれた。

レイコさんに連絡すればK.オカザキさんに関することが明らかになり、私の任務が終わる筈である。私はミヤモトさんと周囲のおばさん達に礼を言って、文化会館を辞した。

バス停へと歩く途中ふと思いついたことがあった。現在12時半であるが、3時の彼女の帰宅を待つよりも、もし日曜市がこの近くであれば、今から市へ直接行って、レイコさんに会ったほうが良いのではないか。そう考えて、市の場所を尋ねようと思い、きびすを返して文化会館に戻った。

大勢のおばさん達の中からミヤモトさんを探し出し、レイコさんが出店する市の場所を聞いたが、どうやら市はここから公共交通機関で行くには不便な場所にあるようで、向こうに着く頃には営業を終えて引き払っているのではないかと言う。ならば仕方がないと思い、私が再び辞しようとすると、ミヤモトさんは私を引き留め、「これからジアデーマ文化会館の忘年会が始まるからぜひ参加していってちょうだい。お餅も食べていってくださいな。」と言って椅子を勧める。ジアデーマと何のゆかりもない私が居座るのはずうずうしいとも思ったが、一方で何が起こるか面白そうでもあったので、長机の隅の席に腰掛けた。

前方のステージにはカラオケセットがあり、おじさん、おばさんが代わる代わる日本の演歌を熱唱している。中にはたどたどしい日本語で歌う2世あるいは3世の日系人もいる。60代ぐらいの男性ふたりがいまだせっせと餅をついている。12時半に忘年会が始まるといっていたが、1時を過ぎたころ、ようやく餅つきが終わり、調理室から食べ物や飲み物が運ばれてきた。

私は相席となったマキモトさんという日系2世の男性と世間話をしていたが、やがてピンガ(ブラジルの焼酎)を片手に髪の薄いおじさんがごきげんな顔でやってきた。徳永勝郎さんという70歳前後のおじさんは、闖入者である私を珍しく思ったか、しきりにピンガを勧め、また缶ビールをごっそり持ってきて、他のテーブルがまだおとなしく自重しているのもお構いなく、我々のテーブルだけが乾杯の掛け声とともに華々しく酒宴が始まった。

周りは皆私の親父かそれ以上の齢を重ねている御仁ぞろいであるが、勝郎さんをはじめ、皆さん根が明るい方揃いで、和気あいあいと酒を楽しんでいる。やがて勝郎さんの兄で、文化協会の会長である徳永ケンイチさんが壇に上がり、忘年会開会の挨拶を始めた。

スピーチは日本語とポルトガル語が適当に混ざり合い、日本人の私も日本語を知らないブラジル人も何となく分かったような気分にさせられる。彼の人柄がそのまま会の気風となっているような朗らかな人物である。日本文化の保存という文化協会の意義に基づき、餅つきを今年から始めたのも会長のアイデアである。いつ果てるともしれないスピーチを続けるのも、ひょっとすると日本の伝統にのっとった作法のあらわれかもしれない。

やがてマス目に数字が入ったカードを持ったコンパニオン - ただし60代ではあるが - が現われ、1枚2レアルのカードの購入をそれぞれに勧めて回った後、ビンゴゲームが始まった。

ゲームが始まると皆真剣そのものである。読み上げられる数字はひとつたりとも聞き逃すまいと耳を澄ませ、少年のような素早さでカード内の数字を拾い上げ、塗りつぶす。徳永会長は日本語とポルトガル語で数字を読み上げるが、うっかり読み上げた数字が各語間で異なってしまった時など、会場内からいっせいに「どっちが正しいんだ!!」と怒号が飛ぶ。勝郎さんは数字が読み上げられるたびに合いの手をいれ、場内を沸かせる。

驚いたことに、ビンゴゲームは1度や2度ではなく、合計5回にわたり行なわれた。参加者の中には1枚だけではなく、3枚も4枚も買う人もいるので、主催者はいい資金集めになっているようだ。商魂たくましいジアデーマの文化協会に脱帽すると同時に、平均年齢は高いとはいえ、忘年会に餅つきを取り入れたアイデアといい、ビンゴゲームによる資金調達方法といい、とかく存在意義が問われる日系人協会のなかでは、ジアデーマ文化協会は末永く存続するであろうという頼もしさを感じた。

ゲームの最後に会長が私のもとにやってきて、ビンゴゲームは日本では普及していない、ブラジル日系人ならではのゲームであるという珍説を披露したときには、文字通り苦笑するしかなかった。

私達のテーブルには缶ビールの空き缶が山のように集まり、周囲のつつましさと比べて群を抜いていた。酒呑み同士、まるで酒という磁石に集まる蹉跌のように自然に引き付けられるのか、勝郎さんはじめジアデーマの酒仙翁たちは、飛び入りの私をまるで長年の呑み仲間であるかのようにもてなしてくれた。徳永会長は勝郎さんの兄らしからぬ下戸ではあるが、忙しい司会の合間に私の席に来ては温かいもてなしの声を掛けてくれるだけでなく、冷蔵庫の奥から秘蔵の日本酒を持ってきて私に勧めてくれた。

3時を過ぎたので、私の来訪の事情を知っている会長は、レイコさんの自宅に電話を掛けて、彼女をこちらに呼び寄せようとした。だがあいにく彼女は用があり来られないとのことなので、電話で私と話すことになった。

酒と会話で充分打ち解けた会場内の我々と違い、彼女は私が何者なのか知らず、そのため電話口の向こうでは警戒心が若干感じられた。私はできるだけ経緯を簡潔に伝え、M先生からの依頼である旨を話すと、レイコさんは母であるK.オカザキさんとずっと同居してきた妹のミツコさんの名を挙げ、彼女の連絡先を教えてくれた。ミツコさんに連絡を取れば、K.オカザキさんの人生の軌跡が分かるだろうと言った。私はミツコさんの連絡先をM先生に教えればよいのだ。私のするべきことは終わった。

電話を切り、会場に戻ると場内はあらかた片付けられ、出席者も潮が引いたように退席していた。そのなかで、我が仲間達だけは最後のひと粘りとばかり、コップ酒を片手にまだテーブルの一角を占拠していた。勝郎さんは私に酒を満たしたコップを差し出し、「俺らのクリスマスは特別なことはないが、酒だけはたっぷりあるからぜひ来てくれよ。」と誘ってくれた。年配のおじさんとおばさんだらけのクリスマスとなるが、それも面白そうだと思った。まもなく周囲を片付けていたおばさんが、我々のテーブルに置かれた最後のコップを片付けていった。

人捜し

2008-11-26 21:42:02 | Weblog
知人より人探しを頼まれた。サンパウロ中心部より約20キロ南のジアデーマという町に住むオカザキという女性について、日本に住む彼女の姪御さんが消息を知りたいというので調べてもらいたいとのことであった。

その知人はM先生といい、慶応大学で寄生虫の研究をしており、1960年代に初めて渡伯して以来、今日に至るまで頻繁にブラジルを訪れている。そのためブラジルでの知己は多く、私のリオの友人であるジョアン、ジョゼ、そして山下氏は皆彼の紹介による。

今回もM先生は10日間の日程でブラジルを訪問することになったが、彼の渡伯に乗じてオカザキさんの姪御さんより依頼を受けたのだろう。

ブラジルの友人達と巡り合わせてくれたM先生に恩返しをしたいという気持ちはもちろんあるのだが、もうひとつは単に人捜しが面白そうでもあり、マンネリ化していた生活に変化をつける意味でも有意義に思えたので、私は即座にその申し出を引き受けた。

サンパウロに到着し、私達と会食した翌日にはさっそく地方の巡回診療に向かっていったM先生が再び戻る翌週までに探し出して、彼への土産としたかった。



11月15日土曜日、私はジアデーマに向かった。伝えられた住所は地図上では存在せず、かつてサンパウロの魚市場に店を持っていて、存命であれば80歳を過ぎているという情報以外は何もなかったが、とりあえず行ってみたら何か発見があるだろうと思った。目的地はそれでも定まっていた。

ジアデーマ市街の道路地図を調べていると、「Fujiyama通り」とか、「Yokohama通り」といった日本の地名が冠された通りで形成される区域を見つけた。そこにはおそらく日系人のコミュニティがあるに違いなかった。そこに行けば日系人と容易に出会えるだろうし、彼等からオカザキさんの消息を伺えるかもしれないと私はにらんだ。

地下鉄に乗って終点のジャバクワラへ行き、バスに乗り換える。バスはやがてサンパウロ市からジアデーマ市に入った。

高台沿いに延びる道路から低地を望むと、なだらかな斜面には低層住宅がびっしりとひしめいている。全ての住宅が不法占拠で建てられたファベーラとは言えないまでも、おそらく住宅の大半がファベーラであろう。サンパウロ市の衛星都市として発展したのであろうが、職を求めてサンパウロ市内に流入していた地方からの移住者が、やがてサンパウロには収まりきれずに、ここジアデーマでファベーラを形成していったのであろう。荒涼たる住環境であった。

目的地付近の停留所でバスを降り、日本の地名にちなんだ通りがある地区をめざして歩く。周囲の住宅は赤レンガの壁面が露出するファベーラの趣だ。登り坂を息を切らせながら早足で歩く。リオではファベーラに住んでいた私も、初めての土地に立ち入るのはやっぱり怖い。安全なファベーラもあれば、危険なファベーラもある。むやみに知らない場所に入っていくなど無謀な行為である。オカザキさんとの面会時には写真を撮ろうと思っていたのに、カメラを忘れたことに気付いたときには頭を抱えたが、今ではそんな貴重品を持ってこないでよかったと思った。

目的地に近づくにつれ、ファベーラ的雰囲気は消えゆくはずと思い込んでいたのだが、それどころか、ますます本格的なファベーラの中心に入り込んだ感があった。ナンバーを外したバイクや車がつるみながらけたたましい音を立てて通り過ぎる。バーにたむろする凶暴そうな若者たちがいっせいに私に視線を向ける。無法地帯の様相だ。通りに掲げられた標札を見ると「Yamagata通り」と書かれている。もう目的の地区に着いていたのだ。

通りに一軒の薬屋があり、店先にはこの場所にはふさわしからぬネクタイを締めた主人が佇んでいたので尋ねると、ここは確かに通りの名称こそ日本にちなんだ名が付けられているが、日系人など誰も住んでいないという。紛らわしい名前など付けて欲しくないものである。

同じ道を戻る気にもなれず、市の中心部をめざしてひたすら歩いて、その間日系人にはほとんど出会わず、足の裏が痛くなる頃ようやくジアデーマ市の中心部までたどり着き、広場のベンチで持参のワインを呑んだ。尋ね人の情報を得ることは全然できなかったが、すさんだ街のようにみえるジアデーマでも、通りすがりの人々に道を尋ねると親切に答えてくれる態度に郊外の住人の人情を感じたことと、疲れた身体にワインのアルコールがじわりと染み渡る快感を得られたのがせめてもの収穫である。

つづく



サン・ビンセンテ

2008-11-07 20:59:08 | Weblog
「サウダージ」という言葉をブラジル人はよく使う。今では会えなかったり行けなかったりして、懐かしいと思う気持ちだ。歌の歌詞にもよく登場する。リオのスエリーやクリスチーナから「サウダージ」と書かれたEメールを受け取ると、胸の奥がほのかに熱くなるような嬉しさと懐かしさを感じる。

サウダージといえば、私は海岸に行きたくてしようがなかった。コパカバーナに住んでいた時分は部屋から5分でビーチに着いた。少し足をのばせばセルソが缶ビールを片手に待っているイパネマの海岸に行けた。レクレイオの海岸はリオの知られざる一面であるのどかなやすらぎを湛えていた。リオの思い出は海岸を抜きにしては語れない。そんな環境から切り離されて半年がゆうに過ぎた。

サンパウロから最も近いサントスの海岸までは70km離れている。地下鉄のジャバクワラ駅からバスで1時間余りで料金は15レアルだ。ところで昨今は為替の変動が激しく、つい2ヶ月前までは1レアル65円であったのが、今では40~45円と大幅なレアル安になった。かつて預金で食いつないでいた時は、為替の変動による影響をまともに受けていたわけで、日毎に円が安くなる現状になすすべなく、胆汁が喉にこみ上げてくるような苦々しい思いをしていたものだが、今になってレアルがかつての3分の2以下の価値になると、あのときの2ヶ月分の生活費が、今ではさらに1ヶ月以上のゆとりを生む価値であったと考えるとこれまた癪にさわり、世の中ままならぬものと、不運な星の下に生まれた運命に歯ぎしりをするのである。

話はそれたが、往復30レアルの交通費を出してまで海岸に行く気にはなれず、ずっと我慢をしてきたわけで、サウダージがたいそう募っていたのであったが、ここのところ収入も上向きで、手元に若干の金が残るようになった。10月は私の生誕の月で、この歳になると誕生日を盛大に祝うほどめでたいものとは思わないが、さりとて全く普段の日常に塗りつぶしてしまうのも物足りず、これを理由にサントスの海岸に行ってみようと思い立った。



10月26日の日曜日、早起きした私は地下鉄のジャバクワラ駅に立った。ここからサントス行きのバスが出ていることは知っている。だが、無条件に15レアルを払うのは少々面白くない。バスは中・長距離仕様で料金は高めの設定になっている。できるものなら市バスを乗り継いで、少しでも料金を節約したい。そんな行き方ができるのかは知らないが、たとえそれで2レアル浮いたとして、それっぽっちの節約ではあるけれど、達成感がその価値を数倍に高めてくれるだろう。

地図を見るとサンパウロとサントスを結ぶ道路の途中にサン・ベルナルド・ド・カンポという中都市がある。バスも頻繁に出ている。2レアルと少々を払い、出発進行。1時間ほどで終点に着いた。さて、問題はここからだ。私の持っている地図はサンパウロ市広域地図なので、サン・ベルナルド・ド・カンポまでしか載っておらず、ここからサントスまでの道のりで、途中どのような町があるのか皆目分からない。道のりはまだ50kmはあるだろう。

停留所そばの売店の兄さんに尋ねたが、彼の話しが全く理解できず、そのあたりをうろうろしながら通行人に尋ねるうち、サントス方面の幹線道路に行けば頻繁にバスが出ているという旅行者風の姉さんに教えてもらい、目印のフォルクスワーゲンの工場に向かって歩き始めた。

15分ほど歩いて、目印に向かってはいるのであるが、私は明らかに高速道路の脇を歩いていることを自覚していた。自動車が100キロのスピードで通り抜ける。今のところ歩行者用の路肩があるが、これがいつ無くなるか分かったものではない。ひとりの若者にすれ違ったので尋ねると、このあたりにバス停などは無く、ごらんのとおりバスが停まる余地など無いと言う。尋ねて後悔するのがこういうケースだ。彼を信じればよいのか、ここへ来る道を教えてくれた姉さんを信じればよいのか。

結局もう少し歩いてみることにして、フォルクスワーゲンの工場を歩き過ぎようという頃、バスと書かれた停留所があり、3人の男がベンチでバスを待っていた。私は彼等にさっそくサントスまで市バスで乗り継いで行く方法を尋ね、彼等は3人で協議したが、そのような方法は無いとの結論であった。ではサントスまでの直通バスをここから拾えるかと尋ねると、3人の意見は分かれたが、協議の結果サン・ベルナルド・ド・カンポのバスターミナルへ戻ったほうがよいとのことであった。

結局私は戻るはめになり、市バスでサントスに行く計画が挫折した上に、ジャバクワラから素直に直通バスに乗るより2レアル余計に払うはめになった。それでも私は気分がよかった。サン・ベルナルド・ド・カンポの人達はみんな親切で、遠回りをしたからこそ親切に出会えたことが分かっていたからだ。

快適であるが小癪な高速バスはたちまち私が到達したバス停留所を走り抜けたが、その時には車線の内側を100キロの高速で通過しているので、いくら私がバス停から手を挙げたところで、このバスが停まることはあり得なかった。

標高800mの台地にあるサンパウロから、バスはハシゴで降りるように眼下はるかに連なるハイウェイを鳥瞰しつつ急坂を下る。

1時間後、うず高く積みあがる貨物コンテナが沿い連なる街道を走るバスは、やがてターミナルに入線した。乗客の4割ほどが下車をしたが、私は、サントスはもう少し先だと思っていた。バスが再び発車したとき、周囲の建物の看板を見渡して、この町がサントスであることに気付いた。まだ海は見えない。バスのチケットにはサン・ビンセンテと行先が記されている。サン・ビンセンテもビーチはある。バスは市内を縫うように走り、やがて唐突に海岸が現れた。ひとりの女性が降りるようだ。私も彼女に便乗してバスを降りた。

サン・ビンセンテはブラジルで最初のポルトガル人入植地(1532年)であり、歴史的な地である。市内には歴史的建造物があるのかも知れないが、私にとっては海とビーチがあればそれでよい。

時刻は午後1時。曇り。気温27度。ビーチに設置された石作りのテーブル席を陣取り、近くの店で買った大きなローストチキンとチーズ、七面鳥のハムを広げ、そしてチリワインの栓を抜く。持参したワイングラスに注ぎ、ひとりで乾杯。目の前は白い砂浜と海。海をわずかに隔てた先に島がある。レクレイオの海岸の風景をほうふつさせる。申し分なし。混血の少女がシャツを脱ぎ水着になる。服を脱ぐ時は大人と変わらぬ腰の振り方。容姿からは10歳を過ぎたあたりであろうが、胸もお尻も一人前にくびれている。

ヴィラ・ロボスの「ブラジル風バッハ」をウォークマンで聴きながら、がつがつ食べ、呑み、ほろ良い気分になり、ゆったり流れるように進む貨物船を眺めているうち、不意にニテロイの山下将軍のことを思い出した。

頑固で、負けず嫌いで、煮ても焼いても食えないような御仁であるが、あるとき彼はNHKで見たのだろう、日中共同声明の際、田中角栄が周恩来との会食で豪放磊落な乾杯の挨拶をぶち上げたエピソードを、目を潤ませ、声を震わせながら私に話してくれた。1年前のことである。

国の大事にも臆することなく堂々と他国と渡り合った田中角栄のような度量の大きな政治家の出現を、ニテロイの将軍は待ち望んでおり、その気持ちは私にもよく分かった。遠く日本より離れていながらも、傍目八目、現在の日本の危機的状況がかえって強く感じられるのだろう、この困難な局面で日本の舵取りを任せられるのは、田中角栄のような力強いリーダーシップで国民を心服させ、信頼を寄せることのできるカリスマ性を持った政治家以外には考えられない。

彼の田中の行儀に対する感動は、現在の無能な政治家に憤りを感じる将軍が、日本の将来を託せる救世主をテレビで見た田中角栄のすがたと重ねたのだろう。彼がどれだけ故国日本を愛しているのかが窺い知れた。

その話しをしたのが貨物船行き交うニテロイの海辺だったので、サントス港に出入港する船を見ながら、ふとかの地の情景と重なり、山下将軍と田中のエピソードのことが唐突に思い出されたのかもしれない。彼と再び一献を交わしたくなった。

場所を変えて海岸沿いのキオスクでカイピリーニャを注文する。一口呑んだがひどく甘い。リオを去り、以来カイピリーニャを注文することがなかったので、うっかり砂糖の量を減らすよう頼むのを忘れていた。それにしても今日は肉も摂り過ぎている上、砂糖漬けのカイピリーニャでは、身体によくないことこの上ない。命が縮む思いで呑むのであるが、決して呑むのを止そうとはしないのが、歳をひとつ取っても中身はちっとも変わらない所以である。

浜辺をぶらぶらと歩き、写真を撮ったりしながら、気の向くままキオスクでカイピリーニャを呑んでいるうち、周囲が黄金色に輝き始めた。空を覆っていた雲が切れ、夕日が射して海を、人を、砂浜を、高層マンション群をまばゆく照らした。ぼんやりと酔った頭に、今日の出来事はすべて大きな眠りの中での夢でしかないように思えた。

すっかり暗くなった街道を、地元の親切な青年に案内されてバスターミナルに着き、そこでも親切なバス会社の係員にバス乗り場まで誘導してもらい、すなわちそれほど私は酔っていたわけであるが、途中ワイングラスを割ってしまったほかは何も盗られたり失ったりもせず、多くの人達より親切に遇してもらい、無事に44歳の誕生日を過ごしたことはまことに幸運であった。

選挙

2008-10-11 23:06:28 | Weblog
8月頃、街に選挙カーが現れた。テレビで「選挙は5日」という日付を聞いたので、てっきり9月5日に選挙が行なわれるものだと思っていたが、ところが選挙日は10月5日であった。この2ヶ月の間、ただでさえかまびすしいサンパウロ市街は、狂騒という表現がぴったり当てはまる騒がしさに包まれた。

この選挙は市長および市議会議員選挙で、4年に1度、ブラジル全国いっせいに行なわれる。日本で市町村に当たる行政単位はブラジルではムニシピオといい、約5500ある。人口1千万以上のサンパウロも、人間より牛の数が多いような田舎の町も、全てムニシピオで一括される。

日本における選挙もたいそう騒がしいことは確かだ。ウグイス嬢が「○山×男、○山×男に清き一票を!」と連呼する選挙カーが近所迷惑も顧みず右往左往する。ブラジルでは人間の肉声は流れない。やはりブラジル、ここでは音楽が選挙の主役である。

各候補はそれぞれテーマ曲を持っている。もちろんサンバもあれば、ヒップホップあり、行進曲あり、MPBあり、カントリー調あり、「ベン・ベン・ベーン!」とよくわからないものもある。初めのうちは、私は音楽を伴う選挙運動にオウム真理教の麻原彰晃を連想した。

日本では選挙カーはワゴン車と相場は決まっているが、こちらは車種がまちまちである。ワゴン車もあれば、普通の乗用車もある。60年代型のオンボロカーあり、フォルクスワーゲンあり、バスの側面に大々的にプリントされているのもあれば、土方の殴りこみのように、トラックの荷台にのぼりを立てている選挙カーもある。そのうちの多くの車に拡声器が取り付けられ、テーマ曲が大音量で流される。

運転手はたいていが臨時に雇われた無学な者なのだろう、ただ街をぐるぐると走り回ることだけが自分の仕事であると心得ているようで、歩行者の肝を冷やすような傍若無人な右左折をする。事故を起こした選挙カーもある。あれではかえって逆効果だろうに。

一日に数回、選挙演説が全てのチャンネルでいっせいに放映される。選挙後に、風変わりなパフォーマンスを見せる候補者特集の番組を観たのだが、最も多い変り種は、候補者自身が歌を歌うケースだ。スタジオがカラオケバーであるかのように本人は気持ちよく歌っているが、いったい政策とどういう関係があるのだろう。

次に多かった変り種はオカマの候補者である。この国ではオカマの有権者層は侮れないほど多数存在するのかも知れない。その他、吼える候補者、得体の知れぬヒーローの仮装をした候補者、変身する候補者、奇声を上げる候補者、奇音を発する候補者、槍に刺した模型の鶏を持つ候補者、口をテープで塞ぎ、ジェスチャーのみで訴える候補者、ベートーベンの運命とともに叫び訴える候補者等々、選挙は国を挙げたエンターテイメントそのものである。

サンパウロの市長選は、現職で2期目を狙うカサビ市長と、現大統領ルーラの属する左派の労働者党のマルタ候補、そして前回の大統領選に立候補したアルケミン候補がしのぎを削っていた。三者ともテレビコマーシャルを活用しているのだが、カサビのキャンペーンは群を抜いていた。ゴールデンタイムを含む丸一日、幾通りものパターンのコマーシャルがあらゆる放送局を通じて流された。一体どれだけの選挙資金がキャンペーンにつぎ込まれたのだろう。彼の資金の出所は税金もしくは彼に群がる利権屋であることを考えれば、局外にいる私ですらうんざりした。

10月5日、肌寒い日曜日、有権者は投票所に向かう。ブラジルでは18歳から69歳までの有権者にとって、投票は義務である。投票を怠ると銀行口座が開けなくなるなど、社会的制約を受ける。

どんよりと曇った街は恐ろしく静かで、道路に散乱する候補者のチラシが宴の後を象徴していた。選挙日という、今日が最も大切な日でありながら、もはや戦いは終わっていた。候補者にとって最後の仕事は、テレビカメラの前でいかにパフォーマンスをもって自分への票を入れるかという、それだけである。有権者はベルトコンベアに運ばれるように機械的に投票所に行き投票するだけである。

テレビにしてもしかりである。日本であれば、どの放送局であれ一日中選挙関連の報道が中心になるだろう。ブラジルでも選挙報道が流れてはいるが、それは申し訳程度のものでしかなく、サッカーやバラエティなどのレギュラー番組がこの日も幅を利かせていた。

ほぼ2ヶ月もの間、毎日大嵐のような騒ぎが世間を撹乱していたのだが、熱中していたのは候補者だけで、有権者にとってはどうでも良い他人のお祭りに過ぎないようだ。スタンドバーでビールを呑む連中も、いつものようにサッカー中継に見入っていた。彼等が交わす会話の中身は、おそらくサッカー以外の何物でもないだろう。



と、私はてっきり選挙は終わったものだと思っていたのだが、どっこいサンパウロ市長選はカサビとマルタの決選投票が行なわれるらしい。明日より10月26日までの2週間、再びあの馬鹿げた狂騒が繰り広げられることになる。当事者であるブラジル人でなくて良かったとちょっぴり思う瞬間である。

カンポス・ド・ジョルダン

2008-09-22 22:16:22 | Weblog
サンパウロより北東170kmにカンポス・ド・ジョルダンという町がある。標高1,700m、冬季の最低気温は氷点下を記録するこの町は、常夏にうんざりしたパウリスタやカリオカが寒さを好んで体感するための観光地であり、真冬である7月が最も人気がある。そんな町に私は取材旅行に行って来た。

今回の企画は、我が雑誌の広告主である旅行会社と現地ホテルがタイアップし、我々は雑誌に記事を載せることで彼等の集客に貢献するという意図で行なわれた。本来の担当は私ではなく別の営業の女性であったのだが、宿泊時男性が同室になってしまうということで、急きょ私に白羽の矢が立った。ただ写真を撮ってくればいいとの話しだったので気軽にOKしたのであるが、物事を簡単に考えていると、とんだしっぺ返しを食らうということを未だに分かっていないのであった。

9月6日土曜日、一行9名はミニバンをチャーターしてサンパウロを出発した。ピンドラマからは私とフリー・ライターのO氏が同行した。このO氏は年の頃50代半ば、悠々閑々、唯我独尊の御仁で、「仕事でも何でも私のしたいようにやる」と公言してはばからず、広告主の取材にあたっても、対象人物が彼の気に入らないとあからさまに見下したり軽んじたりする態度を示すため、私や編集長を青ざめさせること度々という問題人物であるが、悲しいかな激安手当てで記事を引き受けてくれる日本人は周囲になかなかおらず、やむを得ず頼むほかないのである。したがって私の役割はO氏の監督兼なだめ役も含まれている。

旅行会社のスタッフと顔を合わせたとたん、話しの食い違いに直面した。行きがけに編集長より、今回の記事は2ページであると言われていたのに、旅行会社は4ページの筈だと主張する。担当も違うし誌面を決定する権限もないので、私はただ後日確認すると繰り返すしかない。

高速道路を車は快走、途中から上り坂に差し掛かったが、道はよく整備されているので、2時間半ほどでカンポス・ド・ジョルダンに到達した。寒いと聞いていたのだが、柔らかい日差しに包まれて暖かい。丘の斜面に南ドイツ風のきれいな別荘が並び、風景はなるほどヨーロッパである。オープンテラスのレストランは白人観光客で埋め尽くされ、ブラジル人でありながら、まるで自分たちの祖国ヨーロッパに帰ってきたかのような顔つきをして平然とビールを呑んでいる。

ところが我々の車が最初に到着した場所はまるっきり別世界であった。そこは公園なのだが、降りるやいなや吉幾三の演歌が耳の穴を通り抜けた。桜祭りと称するこの催しは、カラオケ、和風物産の販売やヤキソバなど和食の屋台が集う日系人コミュニティのお祭りであった。白に近い薄桃色の花びらをつけた桜の木が園内に点在し、ツツジやツバキも花を結んだ遊歩道を日系人やブラジル人が散策していた。

最も桜が密集する広場にはプラスチックのテーブル席が備え付けられ、数家族が食事をしながら花見を楽しんでいた。特設ステージでカラオケに興じることはあっても、桜木の下でゴザを敷きネクタイを鉢巻にしてポータブルカラオケで熱唱する純和風の姿はさすがに無かった。テーブル席で上品に花見をたしなむのがブラジル流である。

地ビール工場見学、市内散策、スピリチュアルなテーマを持つ公園見学とプログラムをこなすうちに日はとっぷりと暮れた。私は編集長から「とにかく枚数を撮ること」と言われたとおり写真を撮りまくり、前夜の睡眠不足に加え、慣れぬ気遣いに疲れがどっぷりと蓄積された頃、ようやくホテルに入館した。

本来であればホテルは疲れを癒す休息の場であるはずだが、私にとってホテルは大切な取材対象である。だが、長年の習慣から、ホテルのルームに入るやいなや、カバンを投げ出し、タオルを取って洗面所で顔を洗い、さっぱりとして夕食に備えた。そのときまで私は部屋の写真を撮るという使命はすっかり頭から抜け落ちていた。

晩餐はホテルの広報担当者とともに円卓を囲んだ。この時がホテルについて取材する格好の機会である。担当者はブラジル人なので日本語を話せない。私はO氏に期待したが、彼は料理に夢中でもくもくと食べている。私の楽しみの邪魔をするなという態である。広報担当者の隣に座った旅行会社の日系人女性がときおり話しかける程度で盛り上がらない。結局私がやるしかない。料理の味そっちのけで質問事項を頭から絞り出し、ポルトガル語で組み立てて、舌足らずのところは日系人女性に通訳してもらった。

私はカメラを持ってはいるが、メモ帳は持っていない。O氏は話しを聞いているようであるが、手はフォークとナイフしか持たない。旅行会社のスタッフの顔つきに不信感が色濃くにじみ出てきた。私はせめて友好的な雰囲気を作ろうと、冗談を交えながら陽気な態度を示してホテル担当者の気を和ませるよう努めた。料理は鱒のマッシュルームソース添えなど豪華なものであったが、サンパウロの屋台の串焼肉の方が数倍美味しく味わっていたに違いない。

この日はさらにタンゴショウの観覧も組まれていた。O氏は食事を済ませて満足したのか、ショウは見に行かないと言い出し、周囲を戸惑わせた。旅行会社のスタッフは半ば脅すように「まがみさんは行きますよねえ」と厳しい視線を向けるので、首を何度も縦に振って恭順の意を最大限に示した。



翌日朝7時半、ホテル前の道をひとり散歩する。空気は冷たく、かすかに山の嵐気も感じる。すがすがしいと思いたいが、どっこい前日の疲れが背中にべっとりと引っ付いている。ホテルの外観の写真も撮らなければならない。ここまで撮っても掲載されるのは2~3枚と思いつつも義務的にシャッターを押す。

コンベンションセンターを見学する。この施設の見学は重要な意味がある。今回同行したメンバーには大手メーカー会社のマーケティング担当者もいる。旅行会社とホテルにとっては、ここカンポス・ド・ジョルダンを会社のコンベンションや研修に利用してもらいたいと期待しているのだ。

センターのマネージャーと研修プログラムの責任者はプロモーションビデオを流しながら逐一説明する。O氏の表情にわずかな心の空白が見受けられる。旅行会社のスタッフが、「Oさん、分かりますか?」と水を向けると、彼の、「いや、あまり分からない」との返事に皆驚いた。彼の在伯は20年を超えるし、日系新聞とはいえサンパウロの新聞社にかつては勤務していた記者だったので、私はてっきり言葉の問題はないと思っていたのだ。

在伯3年の京セラ勤務の女性が我々の傍らにすわり、通訳をしてくれた。私はメモを取る筋合いはないのであるが、せめて真剣に取り組んでいるそぶりを見せるため、一生懸命書きとめた。旅行会社の不信感はもはや拭い去ることはできないと感じつつも。

帰りの車中、京セラの女性は私を憐れみ慰めるように「分からないことがあったら私に尋ねてください。各見学先の詳細についてはホームページがあります」と言った。彼女は昨朝待ち合わせ時間に遅刻したことを恐縮していたので、往路私は元気付ける立場にいたのだが、復路では立場が完全に逆転していた。暮れなずむ山々を車窓からじっと眺めながら、私は何度もため息をついた。

後日ピンドラマの本来の担当者より旅行会社による評価を聞いた。我々の仕事は、彼等から見ると観光気分に映ったようであった。

生と死

2008-08-29 22:00:23 | Weblog
最近体調がおもわしくない。朝起きても身体がだるく、頭がぼんやりする。耳鳴りがすることもある。

酒を呑んだり食べ過ぎたりした翌日は身体が痒くてたまらない。深夜にはベッドの中で喉の詰まりを覚えることもある。糖尿病による神経障害の諸症状なのだろうか。

酒を控え、食事制限をするのが糖尿病患者の鉄則だ。だが、私は酒を呑む回数を多少ならば減らすことはできても、酒を完全に止めてしまうことなど考えられない。

酒の呑めぬ人生に何の価値があるのか。こんな問いかけは酒を呑まない者から見れば戯言に過ぎず、酒にいやしい意志薄弱者が大仰に言い訳しているだけに見えるだろう。けれども、酒とともに生きる幸せを見出した者にとって、いったいどうして己の幸福を打ち棄てることができるのか。

1年2年の辛抱というのであれば、この世の無常にも耐えられよう。だが、二度と酒が呑めぬというのであれば、もはや絶望とともに地下牢に幽閉される無期懲役囚と同じである。それでは生きている意味がないではないか。

酒を呑むたびに寿命が縮まることは分かっている。だが、しらふにおいて時間というものはいつでもやっかいな、うんざりさせる、ただ過ぎるのを辛抱強く待つだけの代物であるのが、酒の一滴が入ったとたん、焦がれる思いで待ち続けた愛しい恋人との逢瀬のように甘くなる。酒によって劇的な価値の転換がなされるのだ。我が体内で行なわれるこのダイナミズム。この楽しさこそが生ではないのか。



8月も下旬に差しかかった週末、私はいつもの散策コースを歩いた。都心から電車で40分程の郊外にあるカイエイラス駅で降り、丘を登る道沿いにこぢんまりと店が並ぶ商店街を進み、商店が途切れると水色や桃色の明るい家が並ぶ住宅街を進み、登り切った後は一気に下り、幹線道路を横切ると住宅街はくすんだ灰色と赤茶けたレンガ色のファベーラにとって代わり、丘の頂へと続く道をひたすら登り続けて雑木林が現れはじめたところ、低層住宅に代わって貧民向けの集合住宅群が出現する。

舗装道が途絶えるところにバス停があり、付近には数件のスタンドバーが軒を連ね、そのうちの一軒はコンクリートのテーブル席が備え付けられている。私はそこに腰掛けてビールを注文、渇いた喉に淡い金色の液体を流し込むと、眼下には深緑の森林と、それらに包まれるように住宅が寄り集まった丘が段々に連なり広がっている。至福の瞬間だ。

二度三度と訪れているのでここの住人たちとも顔なじみになった。店主のオズマールと奥さんのテレジーニャは仕事の暇を見つけては私の席にやってきて、話し相手になる。若い学生たちも、日本人の訪問者に対しあれこれ訊きに来る。都会的でよそよそしく、しかも東洋人など珍しくもないリベルダーデではこのように気さくに話しかけられることはない。

ビールを一本呑み終え、陽が西の丘にかかる頃に彼等と別れを告げ、山中に入る。リュックからウォークマンを取り出し装着する。ペットボトルに入った赤ワインをゆっくりと嘗めながら、赤土の露出した山道を下る。歩行運動する身体にワインのアルコールが吸収され、感覚がいっそう鋭敏になってくる。草木の緑がまるで打ち水をしたように艶やかに輝き出す。モーツァルトのクラリネットの音色が情動のアンプとなり私の感動を増幅させる。酒と音楽がもたらす究極の快楽。

病気に打ち克ち生を求め続けるのであれば酒を断たねばならぬ。酒の代わりに異性を求め、どろどろとした人間関係の中から生き抜こうという意志を持たなければダメだ。だが、酒を呑む私の眼の前には、対面する丘に広がるファベーラの灯がまるで王冠にちりばめられた宝石のようにいとしく光り、生命のはかなさを感じるとともに、死に抱かれつつあることのあらがい難い陶酔と、消えゆく生が最後の輝きを放とうとすることの悦びを感じる。

酒によってもたらされる官能と死のステップ、これは麻薬による作用と同じだ。だがいかにしてこの魔力を断ち切れるというのだ。街の橙色の灯が私に微笑みかける。ロココ調の病院の建物の横を過ぎ去ろうとした時、その壁面の美しさに胸を衝かれて足を留める。私がここにいること自体がなんという偶然であろうか。あまりにも運命的であり、神の存在を語らずしてこの瞬間はありえない。そしてこの感動こそ、かつてこの世に降り立った数多の芸術家が不羈の才をほとばしらせ、後世に残る作品を創らしめる源泉となった彼らの情動と同質のものであろう。酒こそが私と神、そして天才を結びつける架け橋に他ならない。どうして酒が止められようか。たとえ行く手には確実に死がもたらされようとも。

低く垂れ込む雲の下、闇がまもなく天を支配しようとするとき、私はこのようなことを考えながら歩き続けた。

広大な病院の敷地を通り抜け、フランコ・ダ・ホッシャの街に出た。街道には車が慌しく行き交っている。交差点は変則的なロータリーとなっており、その先には煙が立ち昇っている。我がフランシスコの焼く串焼肉の煙だ。さあ、ここから先は音楽の代わりに楽しい語らいが始まるのだ。私はウォークマンを耳から外し、リュックにしまいこんだその時、耳元に自動車の急ブレーキの音が聞こえた。

顔を上げたその目の前で人間が宙を飛んでいた。

それは自動車の衝突実験で使われるダミー人形そのものの光景であった。私の10メートル先にも満たないところで左から右に向かって人間のボディが吹き飛ばされていた。黒いヒールの片側が私の方に向かって飛ばされ、道路の中程に落ちた。ビーダマを路面にばら撒いたようなチリチリという音を立ててガラスがはじけ散った。車は滑走しやがて停まった。車の後方にはヒールの持ち主である色の濃い混血系の女性が倒れており、さらに後方にはもうひとり肉付きの良い白人系の人が倒れていた。傍らを大型トラックが通過し、道路に落ちたヒールを轢いていった。

人々が集まってくる。白人の方は横たわったままぴくりとも動かない。混血女性の方は両腕を路面に突っ張り上半身をもたげ、ゆっくりと這い出した。私は、『動かない方がいい、あなたは大変強い衝撃を受けたのだから』と伝えようと思ったのだけれども、私と女性の間は道路で隔てられ、車がひっきりなしに通過するので近づけない。いや、普段であれば車の合間をかいくぐることができたかもしれぬが、足がすくんでいたのだろう、その時はとても渡れる気がしなかった。動かない白人に対し、誰かが身体を起こそうとする。私は声をふり絞り、「そのままにしておけ!」と叫んだ。混血女性の方は力尽きたのか、ふたたび横たわった。片手を挙げて周囲に何かを訴えている。やがてその手が地面に落ちた。

ぼう然としながら私はフランシスコの屋台に行き、同じくぼう然と現場を眺める彼と気の抜けた握手をした。互いに言葉の整理がつかないまま、彼は「道路を横切ろうとしてはねられちまった」といまいましそうに言った。私は「目の前で人が飛んでいった」とつぶやいた。彼はいたましい光景を脳裏から振り払うかのように、「何食べる?牛肉?鶏肉?チーズもあるぞ」と素っ頓狂な声で尋ねる。食欲などあるよしもなかったが、はるばるここに来たのは食べるためだと思い、牛肉の串焼きを頼む。

肉が焼けるのを待っている間も現場から目が離せない。パトカーはすぐ来たが、救急車がなかなか到着しない。ふたりの被害者は道路に倒れたままだ。肉が焼け、牛肉の一片を口に入れるが食べ物を口にしている気がしない。それに、まだ現場が片付いていない状況で食べ物を食べながら見物するのは不謹慎ではないかという考えも浮かんだが、さりとて神妙にただ眺めているということもここではおかしい話のように思い、結局食べ続けた。

じりじりするほど長い時間が経過した後、ようやく救急車が到着した。こういう心境においては、時間は得てして長く感じるものであるが、串焼き2本分が焼き上がるだけの時間は実際かかっていた。救急車はまず肉付きの良い白人の方を運び、けたたましい音を立てて去っていった。もう一台救急車が止まっている。だが、急を要するはずであるのに、なかなか混血女性の方を運び込もうとしない。やがて周囲の人が横たわる女性を前にひざまずいて頭を垂れた。その意味は明白だった。私はひとりの人間が死ぬ場面に立ち会ったわけである。

その間次々に客が屋台に集まり事故についてフランシスコに尋ね、テレビ番組でも見ているかのようにあっけらかんと愉快そうに交通事故の話しをしていた。私のまぶたには未だはっきりと女性が跳ね飛ばされる光景が焼き付いており、いつものように客たちと会話を交わす心境には、とてもではないがなれなかった。

やりきれなくなり、この近くに住むジョゼという中年の友人に携帯電話をかけるが、どういうわけか彼がふたつ所有する携帯電話の番号はどれも利用できなくなっていた。それでも私は藁にすがる思いで繋がらない番号を繰り返しかけ続けた。心に忍び寄る死の恐怖から逃れるために。