goo blog サービス終了のお知らせ 

臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

修行

2011-01-22 13:03:14 | Weblog
仕事初日は椿事に見舞われたが、翌日より正規の時間で働き始めた。朝10時から夜11時までの、途中休憩時間を挟んで正味11時間の勤務である。

勤務開始から3ヶ月の間、私の身分は仮社員という扱いになる。ブラジルの法律では正規社員に対して休暇の義務付けや特別手当、解雇に対する制限などの諸権利が定められている。そのため雇用主は法的に3ヶ月間社員待遇を猶予できる仮社員制度を利用して、従業員の資質を見極めた上で雇用を決定するのが一般的だ。給料もその間低く抑えることができる。

コックとして入ったのだが、私はこれまで飲食業で働いたことはなく、仕事内容を一から覚えなければならない。厨房に入り、料理人ソデさんの補佐をしながら仕事を覚えていくことになった。

いざ仕事が始まると、ソデさんの態度が豹変する。突然言葉がぶっきらぼうになり、額にしわを寄せながら指やあごで命令する。人のあら捜しが我が職務といわんばかりに目は冷たく光り、口はへの字に曲がり、絶えず従業員への監視を怠らない。

厨房ではシーダという女性が揚げ物を担当しているが、彼女の動きが僅かでもソデさんの意に適わぬと三角の目を吊り上げて頭ごなしに叱りつける。シーダはむっつりした顔をして黙々と働いている。

私に対しても同様の態度になり、職場内ではこれまでの友人関係はあとかたも無くなり、新たに師弟関係が誕生する。彼はひとつひとつ仕事を指示するが、私がうっかり指示を間違えたり失念したりすると、『何やってんだバカ』という顔つきになり、ぞんざいな態度で訂正する。

彼の指示内容は微に入り細に渡っている。肉や野菜の切り方、器具や容器の置き場所、掃除の仕方から盛り付け皿を並べる順序まで事細かに指示を出し、いささかの逸脱も許さない。調味料のふたの閉め方ひとつでも指示と異なると、例外なしに使用者を呼びつけ注意する。

これまでの彼との付き合いから、そこまで几帳面な性格とは想像していなかった。会話の論点がぼやけがちであるところから、おおまかな性格に違いないと思っていた。

だが、別のところで彼のおおまかさが発揮される。一片180gに肉を切るよう指示を受けていたので、それを心がけながら切っていると、ある日、それでは大きすぎるという。そんな筈はないと思い計量器で量ると大きく外れている訳ではない。

ソデさんが作る焼肉の量も、私への説明と実際がどうも一致せず、日によって量に違いが生じている。客にとっては当たり外れを覚悟する必要がありそうだ。

彼は20代前半でブラジルへ渡ってきた。日本での飲食店の経験はないが、ブラジルに10年以上住み、その間ほとんど飲食業に従事している。日本で料理人を10年やっていると、調理場面の端々にプロフェッショナルの精緻さが出てくるものだと思っていたが、ソデさんは失礼ながらどうもそのイメージからは隔たる。感覚的にやや不器用という印象を受ける。



週末の夜は客で賑わい、とりわけ8時から10時までがピークとなり席が埋まる。この時こそがソデさんの真骨頂である。

客の殺到を予感すると、彼は前準備に細心の注意を払う。あらかじめラーメンの封を開け、麺のいくつかは先にほぐし、フライパンは軽く火にかけておき、具材を冷蔵庫から取り出し手元に並べ、調味料類もテーブルに用意しておく。そして注文が矢継ぎ早に入り、伝票がホワイトボードにずらりと列をなす時、ソデさんはまるで時代劇中の群がる悪人をなで斬るようにバッサバッサと注文をさばく。麺の固さやスープの濃度、野菜炒めの量や炒め方はその都度ばらついても斬り捨て御免である。

一心不乱に調理するソデさんの心を乱す出来事はすぐにやってくる。客室内もてんやわんやなので、料理を別のテーブルに運んだり、伝票の記載が誤っていたりして注文に齟齬をきたしたりすると、彼は日本語で『バッキャロー』と怒鳴った後かん高い声で叱責する。ウェイトレスも何事か言い訳するが、その剣幕の前ではトランプの兵隊のように吹き飛ばされてしまう。ソデさんの徹底的な専制ぶりは、まるでラーメンハウスという小さな世界に君臨する帝王のようである。

もっともサンパウロで彼の評判を聞いていたので、私はある程度彼の態度を想定していた。もし事前の情報がなかったら相当面食らっていただろう。

彼のもとで働く決意をしたとき、かつて観たテレビのドキュメンタリー番組が記憶に蘇った。それは事業に失敗した中年男性が、再起をかけてラーメン屋で働き、ラーメンチェーン店の開業をめざすというものであった。店長や先輩はその男性が年上だろうと容赦せず厳しい言葉を浴びせつける。その番組の印象から、ラーメン屋や寿司屋の職場環境というのはそういう徒弟制度的なものであり、評判から察して、おそらく彼もその路線で来るのだろうとあらかじめ覚悟をしていた。

そのこともあり、勤務前には対等だった話し言葉を敬語に改めた。気持ちを切り替えていかないと続かないと考えたからだ。

そのドキュメンタリー番組を観たとき、「あの歳になってそんな苦労なんぞ真っ平だ」と思ったものだが、それから年月を経て、まさか自分がブラジルでその立場に置かれるとは運命のいたずらである。


クリチーバ到着

2010-12-28 19:52:26 | Weblog
2010年5月中旬、家財道具を持って私はクリチーバのバスターミナルに降り立った。

クリチーバ市はパラナ州の州都で人口は175万人、ドイツ系やイタリア系の移民が多く、住民の大半が白人系だ。美しい街並みの旧市街と模範的な都市計画設計の新市街による都市景観は整然としており、900mを超す標高に位置するため気温は温暖で過ごしやすい。また、自動車メーカーや主要食品メーカーが集積し、経済活動も活発で住民の所得も国内では高いことから、クリチーバはブラジルでもっとも住みやすい都市といわれることもある。

バックパックとデイパック、かつてリオで寿司を売っていた頃に使った発泡スチロールのクーラーボックスとダンボール1箱が私の所持品の一切である。かさ張るがひとりで運べる。このいでたちは2年前、リオからサンパウロに引っ越したときの姿と全く一緒である。進歩のないおのれの姿がターミナルのショーウインドウに映る。

ソデさんのラーメン屋に着くと、彼は笑顔で迎えてくれた。新居が決まるまで店の上階で寝泊りしてもよいと言ってくれている。らせん状の狭い階段を登ると、いかにも屋根裏然としているが2部屋あり、1部屋は彼自身が住んでおり、もう1部屋が私のために充てられる。部屋といっても、物置部屋という形容がふさわしいが、1、2泊する分にはホテル代を浮かせられるので助かる。サンパウロからのバス代も彼が持ってくれたのだ。いたれりつくせりである。前評判とはずいぶん違う。

「これからさっそく働ける?」と言われてびっくりした。今晩はこの屋根裏で寝るとしても、長居する環境ではないので、まずは部屋を探さなければならないし、着いたその日から働こうとは心の準備ができていない。週末にかかるので、人手が欲しいのかも知れないが、いったん仕事に入ると長時間勤務のうえ週休1日なので時間が取れなくなる。えらく熱心に頼むのをなんとか翌日の夜からということにしてもらった。

急いで部屋探しに取りかかる。サンパウロでは県人会の宿舎に住んでいたが、クリチーバの街にはペンシオナートと呼ばれる、月ぎめで部屋は個室でトイレ、台所は共用の宿舎がある。インターネットで検索すると、20件以上リストアップできた。

これだけ候補があれば、理想の部屋が見つかるのもわけはないと思ったが、いざ当ってみると、大半は学生専用となっており、一般人は借りることができない。みるみるリストに×印が付いてくる。

一般向けの宿舎もあったが、実際に足を運んで部屋を検分すると、下階で採光が極端に少なかったり、ベッドのマットや毛布から鍋に至るまで全て自前で買い揃えなければならなかったり、隣室との仕切り壁が薄く、騒音に悩まされること必定であったりして、なかなか住みたいと思う部屋が見つからない。日も暮れる頃には、リストの残りが僅かになっていた。

その日の部屋探しをあきらめ、ラーメン屋に戻る。店は夜の営業を始めていた。あらためて私の同僚となる、店の従業員に目を向けた。客席フロアにふたり、厨房にふたり、いずれも女性である。そのうちひとりは金髪の美人だ。私の姿を見た彼女はにっこりと微笑んだ。

翌日、リストに残る3件の宿舎を確認するため、まず1件目を訪問、続いて近接する2件目を訪問した。

案内された部屋を見て、『これだ!』と思った。日当たりがよく、壁は厚く、マットや毛布も完備でインターネット設備も整っている。料金も予算範囲内である。

最後の3件目を見てから判断しようと考えていったん外に出たが、その間に理想に近いその部屋が埋まってしまったら悔やんでも悔やみきれないのではないかと思い直し、慌ててその宿舎に戻った。管理人のおばさんは電話で空室の問い合わせらしき対応をしていたのでどきりとしたが、案内してくれた部屋を借りたいというと、OKであった。

ラーメン屋の屋根裏に置いた荷物を宿舎に運び込み、広いベッドに身を投じた。天井には工事中の建物に見られる青いシートが張ってあった。豪奢ではないし、決して広いわけでもないが、住むには快適そうだ。大きな片付け物をした気分であった。

夜7時より仕事に入るため、バスで最寄りの停留所まで行き、ラーメン屋をめざして歩き出した。外は薄暗くなってはいたが、まだ十分周囲が認識できる。ひとけは少ない。

私の前後にふたりの男が歩調を合わせるように歩いている。ひとりは細身の白人、ひとりは混血だが、身なりは普通である。

いくつか街区を過ぎたがずっと間隔を保つようについて来る。嫌な予感がしたが、ひとりは白人でもあるし、クリチーバはリオ、サンパウロと比べれば安全であると言われていたので、駆け出すようなことはせず、そのまま歩いていた。

ラーメン屋のある街区にさしかかり、もう十数メートルで入り口だと思った矢先、白人が私の横に並び、いきなり襲いかかってきた。

私はとっさにそいつを突き飛ばし、逃れようとしたが、もうひとりの混血がさっと近寄り、私の左モモに蹴りを入れた。

あまりにも強烈な蹴りなので立ち続けることができず、前のめりに倒れかけたが、ここでひっくり返っては相手のなすがままになってしまうと思い、柔道の受身のようにぐるりと1回転をして素早く立ち上がった。

痛みを見せないそぶりで、相手に向かってこぶしを構え、気合を入れると、相手は面倒だと思ったのか、さっと立ち去っていった。

びっこを引き引きラーメン屋に入り、強盗に襲われた旨を話すと、皆は驚いたが、どうもその反応が常識内というか、強盗の存在が日常的であることを示す驚き方であった。ヨーロッパの都市に似た洗練さが窺われる街クリチーバも、やはりブラジルであったことを痛感した。

モモの痛みは強く、結局その日は仕事にならず、タクシーを呼んで帰るはめとなった。リオやサンパウロ同様、歓迎の挨拶よろしくこの街でも到着そうそう強盗の洗礼に遭ったわけだが、足を負傷したとはいえ、何も取られず追い払ったことに静かな充足感を覚えた。命と引き換えの充足感ならば、ずいぶん安い命ではあるが。

新天地

2010-12-10 12:02:49 | Weblog
懐具合を気にしながらも、ワインの産地であるブラジル南部地方でワイナリー巡りを楽しんだりしながら北上し、リオ・デ・ジャネイロに向かった。途中、クリチーバという都市があり、そこから観光鉄道が沿岸部まで通じている。900mもの標高差による景観の移り変わりが見ものであり、モヘッチスという沿線の町には名物料理があるというので、それを楽しむためにクリチーバに立ち寄った。

四月半ば、夜行バスから降り立ったクリチーバの朝は、高い標高のおかげで春秋の涼気を漂わせていた。モヘッチスへの往路はバスを利用した。街道を一気に下ると、車窓はシダ植物が生い茂る熱帯風景に変貌し、陽射しが重く暑い。地元住民に尋ねてバヘアードという名物煮込み料理の老舗のレストランを探し当てたはいいが、その料理を賞味する以前に、雲霞の如く群がるハエに辟易し、そうそうに退散した。あぶら汗のようなしょっぱい味だけが印象に残った。

復路の鉄道は、国道よりいっそう狭隘な山間を縫うように敷かれており、緑深い森林を這うように列車は登ってゆく。ワインを呑み、景色を眺め、ときおり車内で車掌が窓外の景勝地の説明をするのを聞き流しながら3時間の車中を過ごした後、再びクリチーバの街に戻った。

この街にひとりの日本人の知人がいる。ソデさんといい、ラーメン屋をやっている。私が勤めていたサンパウロの出版社に何度か顔を出しており、一緒に呑んだこともある。雑談をしながらも、私が話しを掘り下げようとすると突然会話の内容が飛ぶので、どうもかみ合わないという印象を持ったのだが、それでも酒を酌み交わした仲ではあるので、クリチーバに来た折に挨拶がてらラーメンでも食べようと思い、彼のレストランを訪ねることにした。

店は高層建築の立ち並ぶ繁華街から離れた住宅地の中にあり、民家の改造とおぼしき店舗は瓦葺きの屋根が鋭角にそびえ、狭いながらも駐車場が敷地内に備わり、こじんまりした長屋的ラーメン店を想像していた私は意外な印象を受けた。

ソデさんは不意の私の来訪に喜んだ風で、つまみや生ビールを振舞ってくれた。私が雑誌社を辞めたこと、旅の途中に寄ったこと、その後仕事探しをしなければならないことを話すと、彼は軽い口調で、ここで働けばいいという。勤務時間は長いが給料は10万円出すよという内容は、この国でそれだけ稼ぐのは難しいだけに好条件ではあるが、ソデさんの口から就職の話しが出るのは唐突なことであり、また、料理人として生計を立てようとは思っていなかったので、その場はおざなりに、機会があればという程度の返事をした。

翌日、リオ・デ・ジャネイロに向かった。旧知、といっても4年来程度だが、リオの友人達に会い、カリオカの陽気さに触れ、体内にブラジルの息吹を取り戻した気がした。2週間滞在したが、その間、ホムロ、ホッサーナという夫婦の家に寝泊りした。私のリオ滞在時代、半年以上コパカバーナの彼等の家で一部屋を借りて過ごしたことがある。もっとも、月日とともに彼等の環境も変遷し、ビーチまで徒歩5分の、人もうらやむマンション住まいから、周囲四方にファベーラが広がる北部地域に居を移していたのであるが。

タダで寄宿させてもらっている恩返しから、彼等に寿司やヤキソバなどをつくってあげた。手の込んだものではないが、彼等はたいそう気に入って、コックになればいいのにとホッサーナは言う。寿司職人になれば相当稼げるという話しだ。

サンパウロに戻り、さて何をしようかと考えたとき、ホッサーナの言葉とともに、ソデさんのラーメン屋が脳裏にひらめいた。サンパウロの喧騒に少々嫌気がさしていた私にとって、洗練されたクリチーバの街は魅力的に映った。ソデさんを知っている出版社のメンバーに、彼の店に勤めることをほのめかした。

だが、ソデさんの評判は散々であった。彼はサンパウロのラーメン屋で料理長を長年勤めていたが、彼を知る者は口々に、「人使いが粗くスタッフがすぐに辞める」「賄いはパンしか出さなかったらしい」「性格が悪い」「3ヶ月しか持たないよ、ぜったい」といった調子である。

それを聞いて、生来のあまのじゃくが鎌首をもたげた。私は俄然彼の店で働いてみようという気になった。他人の意見であっさり判断を変えてしまうのはふがいなく思えたし、評判通りかどうか確かめてみたいとも思った。

ソデさんに電話をかけ、彼の店に勤めたい旨を話すと、やや驚いた風であったが、承諾の返事があった。これで私の新天地が決定した。

サンタ・クルース・ド・スル

2010-09-25 15:02:47 | Weblog
今年の2月末にサンパウロの出版社を辞め、3月より旅に出た。

日系人の友人の叔父が住むマット・グロッソ・ド・スル州のカンポ・グランデという街を訪問したのち、私はパラグアイに入国、さらにアルゼンチン、ウルグアイと巡った。ブラジル以外の国に行くのは、観光ビサ再取得のための出国以来3年半ぶりである。その後、ビザが失効し、不法滞在となったので、外国旅行はおろか、国内旅行すらままならなくなった。昨年、恩赦のおかげで就労ビザが手に入ったので、今や大手を振って国内外の旅行ができるようになった。

バックパッカー経験があり、諸外国を旅行するのは大好きなはずであったが、どうも今回の旅では、ブラジル以外の国を巡っても面白みに欠けたように思える。

これまでは、異文化に触れること自体が楽しく、現地の人々の言葉が分からなくても旅が無事に続けられるだけで満足であった。あるいは、文化のギャップから起こるハプニングすら楽しんでいたと思う。

ところが、今ではコミュニケーションが取れないと物足りない。ブラジルから他の南米諸国に入ると、言葉がポルトガル語からスペイン語になる。同じラテン語発祥で、文法も単語も近似しているのだが、ポルトガル語でアップアップの私にとっては、スペイン語を聞いてもほとんど分からない。

異国の見知らぬ土地を独り歩きするのは好きではあるが、それでも今、旅を振り返ると、よくコミュニケーションを取り、深く付き合える人々との出会い、再会が印象に残る。

ブラジル最南部の州、リオ・グランデ・ド・スル州に、サンタ・クルース・ド・スルという町がある。ホーザという50代の黒人女性がその町で息子たちとともに暮らしている。雑役係として病院に勤務するかたわら、彼女はひとりで4人の子どもを育てあげ、娘のひとりは私の友人と結婚してリオに住んでいる。年に1度はホーザが娘夫婦に会うためリオを訪れるので、私はリオ在住時に彼女を知った。

ウルグアイからブラジルに再入国した地点がリオ・グランデ・ド・スル州であった。彼女に会うためサンタ・クルース・ド・スルに寄った。

若くして夫と離別して以来、ひとりで子育てをやり遂げるほどの芯の強さを持つ彼女は、他者に対しても自分の主張を曲げない。私に対しても、まるで息子に対するように、断定、命令口調で指図し、世話を焼く。
「フーイチ(Ryuichiのブラジル風なまり)、買い物に付き合いなさい」
「フーイチ、どうして箸をつけないの。もっと食べなさい」
「フーイチ、付き合いが悪いよ。日本人は冷たいね。ブラジル人のこころは温かいよ。さあ、一緒に行きましょう」
と、いつもこんな調子である。

彼女の自信は、自分自身の容姿にも及んでいるようで、孫がいる歳であるにもかかわらず、異性に対しても積極的である。その矛先は私にも向けられているようなので、うっかり油断をすると大変である。

サンタ・クルース・ド・スルの町は人口13万、サンパウロとは対象的に緑が多く、のどかで、落ち着いた町である。住民はドイツ系移民が多く、そのため、白人が人口の大半を占める。3年半前にも一度訪れており、街並みの美しさが印象に残っていた。

ファベーラ(スラム)もなく、治安も良く、空気も澄み、街路は清潔でゴミや糞に気をとられることはない。そこかしこに樹木が立ち、緑葉さわやかな市街を歩きながら、このような街に住めたらいいなと思う。

とはいえ、ここで仕事を見つけるにはとっかかりが見えない。日系人の姿は皆無で、彼等相手の商売はできない。この町の特産品はタバコで、JTが進出しているが、ポルトガル語がまだまだ不得手な私には、それを武器にして大企業に就職することはできそうにない。

ホーザの家に寄食しながら、ヤキソバの露店でも出して生計の途をさぐりながら、この町での生活を根付かせていこうかと、旅先でふと考えたこともあった。しかし、もし仮に私がそのような申し出をしたら、彼女は受け入れるかもしれないが、彼女を自分の利益のために利用するだけで、それ以上の関係を拒むというのは、彼女の弱みにつけこむようで好かない。

ただ、ブラジルで成功するためにはそういう行動は必要なことなのかもしれない。自己嫌悪に陥るからやらないという甘い倫理観では、この国で生き抜くことができないような気もする。

実際には、始終ホーザと顔をつき合わせていると、彼女の頑固さ、口やかましさにイライラが募ってくる。数日やそこらはよくても、ずっと生活をともにすることには耐えられそうにない。

8日間ほど滞在し、出立したが、またひとりになってみると、ホーザのありがた迷惑な好意が、今となってはありがたさだけが、ふるいにかけられたように心に残ることが不思議である。

閑話

2010-09-08 00:33:24 | Weblog
はじめた頃など思い出す由もないが、いつの間にやらピザにタバスコソースを振りかけて食べるのを当然としていた。ところでピザにタバスコソースをかける食べ方は日本だけなのだろうか。

インターネットで調べてみると、それは日本ならではの食べ方であるという意見と、他国でも行われているという意見にぶつかり、両方の意見が錯綜している。日本のサイトで調べても堂々巡りになりそうなので、外国のサイトを調べることにする。ところで、タバスコのメーカーは米国ということだ。

苦労して英語のサイトをいくつか調べた結果、以下の結論がおぼろげに浮かび上がった。

○ タバスコは19世紀に米国で発売されたものであり、現在における消費量も当然ながら米国が世界一である。そして、世界第二の消費国は日本である。
○ 米国ではテーブルにタバスコを常備させているレストランは一般的である。肉類を中心に多くの料理に利用され、親しまれているようだ。したがって、ピザにタバスコをかける人がいてもなんらおかしくはない。
○ とはいえ、ピザにタバスコという取り合わせは日本のように定番というわけではなく、それほど馴染みの光景ではなさそうである。
○ イタリアでは唐辛子を漬け込んだオリーブオイルをピザにかける習慣がある。

ところで、なぜ唐突にピザとタバスコの関係を持ち出したか。それは、ある日ピザ屋でピザを食べようとしたとき、テーブルにタバスコがないのに気付き、店員に声をかけようとした。だが、ここはブラジルである。この国ではピザとタバスコは果たして定番なのか、いや、そもそも世界的にそれが定番なのかという疑念が湧き、出かかった言葉を呑み込んだことによる。

輸入品であるタバスコはブラジルではまだまだ高価なので、広く人口に膾炙しているわけではない。その代わり、国産の唐辛子ソースは、シュラスコをはじめとする肉料理の味のアクセントとして好まれている。

ブラジル人の食卓に唐辛子ソースはごくありふれたものであるのにもかかわらず、唐辛子ソースを置かずに平然としているピザ屋に対して、世界標準はこうであるとのたまうすんでにおのれの知識の欠如に気づいた私は、睡眠時間を削って正しい知識の習得に努めた次第である。

ブラジル=世界標準と思っている平均的なブラジル庶民よりは国際人であることを自認する私は、彼等に真の世界というものを正しく伝えるのが使命だと思っている。テレビもしくは家族友人だけが唯一の情報源である彼等が持つ世界観はステレオタイプであるため、日本に関する誇張された情報や、女性の優劣や言語の難易度など客観的な比較が難しい分野において自国こそ世界一だとうそぶくとき、私は論理的に説明し、彼等の誤謬を正すことに努める。

もっとも、私の話しをまともに聞いて後学に役立たせようとする者は皆無で、「日本とは文化が違うからねえ」とか、「ところで日本の女とブラジルの女とどっちが好きか?」とか、話しを聞いていない者ばかりである。彼等にとっては、お金がらみの話し以外は、どうでもいい話しなのである。

「ピザにタバスコの習慣は世界的なものか?」なんて命題を多大な時間をかけて調べるなど、全くブラジル人ならずとも馬鹿げた話しである。もし私が日本に居り、そんなことに時間を割いている奴をみたら、「くだらんことをしているひま人め」と思うに違いない。

だが、ブラジルに住み続ける限り、何においても疑問に思ったことは解明に努め、首をかしげる話しに出くわしたならば、誰も聞いていなくとも正しいと思うことを言う。ブラジル人にとっては余計なお世話だろうが、それが私の使命と勝手に決めている。つまりは、私は日本人だ、お前らとは違うぞ、という意地を張りたいわけだ。

つまらん意地かもしれないが、それでもひとりで異国にいる限り、意地を張るしかない。その他にはいまだ財産といえるものがないのだから。

5月よりサンパウロからパラナ州のクリチーバという街に移った。その街の、とあるピザ屋での出来事より書き連ねた。クリチーバへの引越しまでの顛末についてはまた後日。

旅立ち

2010-06-07 12:58:04 | Weblog
2月末で勤め先の雑誌社を辞め、2年間暮らした岐阜県人会の寄宿舎も引き払い、ブラジル国内および近隣諸国への旅に出ることにした。

サンパウロでは念願の海外就業も叶い、イツコさんをはじめ、博覧強記の京大出の社長や、苦労に苦労を重ねて生きてきた日系1世の方々といった多くのユニークな人々と知り合った。このことは私にとってかけがえのないことである。だが、ストレスは私の精神を蝕みつつあり、昨今では合理的な判断や行動が取れなくなってきた。こんな調子では何もできそうにないし、何もする気がおきない。

いったん生活に区切りをつけ、一度頭の中をリフレッシュしてからもう一度先のことを考えることにした。

荷物は一時的にイツコさんの家に置かせてもらい、3月初旬の月曜日に出発した。バックパックひとつ背負って旅立つことの爽快感。不要なモノやしがらみを捨てて、身軽になって歩き回ることの何と気持ちのよいものか。

とはいえ、旅にはいくつか目的があった。そのひとつはサンパウロ在住の日系人の友人の勧めで、サンパウロの隣州であるマット・グロッソ・ド・スルの州都カンポ・グランデという街へ行き、彼の叔父に会って就職の相談をすることだ。

ブラジルは広い。隣りの州へ行くといっても、サンパウロ-カンポ・グランデ間の距離は1000キロ以上ある。飛行機や直行バスも出ているが、鈍行列車の旅の気分でのんびりと行く。方向の見当を付け、日暮れ前に到着できる街へのバスの切符を買い、その街の安宿に投宿、翌朝は市内を周遊した後、再びバスで出発する。観光地ではない、普通の街を訪れているので、おおむねどの街もたいした見どころなどない。それでも見知らぬ街を訪ね歩くのは心が弾む。

マット・グロッソ・ド・スル州に入ると、ブラジルの広大さがいっそう際立つ。バスは大平原を進む。一軒の民家すらなかなか視界に捉えることはない。ときおりサトウキビ畑が見られる他は、ひたすら茫洋たる草原が広がる。

5日かけてカンポ・グランデに到着。友人の叔父、ロベルト氏に電話する。ロベルト氏はカンポ・グランデの日系人のなかでは政府関係に顔が広いらしく、友人の話しでは、彼に頼めば必ず力になってくれるはずだと言う。ロベルト氏には私の訪問の目的がすでに伝わっている筈である。だが、いくら甥の友人とはいえ、全く面識のない一日本人に仕事のあっせんなどするものだろうか。

友人は、まるで彼自身が就職の世話をするかのように自信満々に請け負う。そんな彼自身が最近職を失っており、彼もまたロベルト叔父の世話になるつもりでいるようだ。いくら顔役とはいえ、四十を過ぎた男ふたりの職をほいほいと用意できるものなのだろうか。幸いロベルト氏と2日後に会う約束を取り付けた。

2日後の午前中にロベルト氏に会い、彼のオフィスで会談した。色黒の、凛とした容貌をしているが、いったん話し出すと気さくな人柄がうかがわれ、好感を持った。

彼は体育系の大学を出て、スポーツを通じて様々なコネクションを持ち、州政府との関係も深いという。柔道をよく修練したというので、同じ柔道家であるイツコさんの旦那の関根氏の名を出すと、親しい友人であるという。広いブラジルだが、縁の不思議さにびっくりした。

彼は現在携わっている数多くの組織や機関について話してくれた。ブラジルと日本および諸外国間のビジネス促進機関、ブラジルのサッカー選手を日本に紹介する活動、ブラジルの柔道ネットワーク、大豆、砂糖貿易における生産者との太いパイプなど、なるほど顔は広い。だが、彼が私を直接雇うという話しには辿りつきそうになかった。

彼は甥である友人のことに触れ、サンパウロからカンポ・グランデに来たいのならそれでもよいが、飯の種は自分で見つけなければいけない。その上で側面的な協力ならば力になってもよいと述べた。このことは、暗に私に対して申しているに違いなかった。私が独力でビジネスを展開する中で、ロベルト氏の協力を求めることは可能かもしれないが、全てのお膳立てを彼に頼むことはできないということだ。

約1時間半会談し、彼と近づきになれたのは有意義であった。だが、友人と私の就職への淡い期待は露と消えた。

先のことが決まらぬまま、私はさらに旅を続ける。

後日、私の友人はサンパウロにて自力で仕事を見つけたようだった。

決断と迷い

2010-01-19 00:54:44 | Weblog
昨年の暮れ、私は勤め先の出版社の社長に仕事を辞める旨伝えた。社長の表情には軽い失望の色が浮かんだが、特に深く理由を尋ねることをせず、了承した。

その理由を一言で言えば、肉体的、精神的に疲れてしまったということだろうか。だが、雑誌の広告取りの仕事自体はさほど厳しい仕事ではなく、別にノルマに追いまくられていたわけではない。

しかしながら、ここのところ絶えず体調不良に悩まされ続けてきた。最初は純粋に病気を患ったと思い、諸症状から糖尿病を疑い検査を受けたが、結果はシロであった。だが症状は日々私を苦しめた。睡眠が不規則になり、頭が働かない。記憶力が極端に悪くなった。

症状の原因を突き止めるために精密検査を受けたいところだが、私立の病院はべらぼうに費用がかかり、とてもではないが受けられない。ブラジルの公立病院は無料で診察、治療が受けられるのだが、医療水準に不安があり、また、多岐にわたる諸症状をうまくポルトガル語で伝える自信がない。これまでにも、ブラジルの公的サービスの前近代的な質の悪さにうんざりさせられてきた経験から、公立病院に行ったところで、気が遠くなるほどの時間を費やされた挙句、対症療法と筋違いの投薬で片付けられてしまうという気がしてならない。

ひょっとして、原因は精神的なストレスによるものではないかと思い始めた。若いうちにブラジルに渡ったならともかく、齢四十を超えて何の社会的庇護や特権もないまま発展途上国で暮らし続けているのだ。自身が想像する以上に環境への適応力が失われているのであろう。言葉も上達しないし、質の悪いサービスを受け流す余裕も失われつつある。疲れが溜まっているように感じる。

思うに、3つのストレスが存在する。ひとつは上記に述べたような文化ギャップによるストレス。それから、低賃金ゆえに絶えず節約せざるを得ないという金銭面のストレス。そして、上司の営業に対する理解の乏しさへの不満からくる社内ストレスといったものだ。

ともあれ、このままでは仕事にも差し障るし、ブラジルで生きる意欲すら失われてしまいそうだ。何か行動を起こさなければならない。差しあたってのそれは、会社を辞めて別の道を探すことであった。

次の職が簡単に見つかるかどうか、なんとも言えない。日本ならば収入が無くなっても親元で衣食住は確保されるが、ここでは金が無くなれば即おしまいだ。2年前の、手持ちの資金が枯渇しつつあったあの恐怖が思い出される。

だが、辞めると決断したときから、何となく心が軽くなったような気がする。くびきに繋がれたまま、ずぶずぶと泥沼に沈んでいくような閉塞感から若干解放されたような気がする。ただ、ブラジルに住んでいるというだけで、何もしないうちにいたずらに歳を取り、能力が失われてしまう前に何かをしなければならない。

2年前の、周囲に誰も知り合いのいなかった頃と違い、今では仕事上で多くの人々と顔馴染みである。そのなかで、とりわけ懇意にしてもらっている旅行会社社長のイツコさんに、まずは退職する旨打ち明けた。以前のブログで触れた通り、年越しパーティに招待されたり、その他公私にわたりたいへんお世話になっている。

彼女はときおり、「ピンドラーマなんて辞めてこっちにいらっしゃいよ」とかん高い声で勧誘するのが口癖であった。私は彼女の真意を測りかねて、いつもあいまいな返事を繰り返していたが、今回の私の告白に対しては、彼女はその言葉が口を衝くことはなかった。彼女の会社には、昨年後半期よりひとりの日本人男性が入社していた。

イツコさんは、その人が長期勤務する意思はないことを強調していたが、さりとて彼がいつ別の職を見つけるのかは不明である。前の職も旅行業であり、この仕事には明るい。寡黙な人であるが、性格は善良そうで、今の職場環境に不満はなさそうである。

彼女は喋りながら、ふと思いついたように彼女の夫の会社に勤めたらどうかと言い出した。夫である関根氏は元ソニー・ブラジルに勤務し、その後いろいろ事業を試みている。非常に温厚な性格で、イツコさん同様、私のたびたびの訪問を快く受け入れて頂いている。

現在、彼所有の土地を運用する事業を始めようとしているところであった。旅行社の一室でイツコさんと話していたところ、ちょうど関根氏と2名のスタッフが入ってきた。

イツコさんは出し抜けにその件を関根氏に切り出した。私はびっくりし、関根氏もびっくりしたようであった。私自身、聞いたばかりのことで本気で関わるかどうか決めていたわけではないが、唐突にサイは投げられてしまったようである。

関根氏はやや困惑気味に事業内容について説明を始め、それでも話し出すうちに論点を見出したか、弁が滑らかになってきた。結局、彼が言いたかったのは、いったい私は何ができるかであった。

「まがみ君にしかできないようなことを我々も必要としている」という言葉は、過去に多くの企業面接で耳にしてきた言葉であった。そして、その答えが出せなかったが故に、今私はブラジルにいるとも言える。

状況はさらに絶望的だ。言葉も満足に話せず、この国の法律、商慣習その他何もかも分からぬ尽くしだ。即戦力を期待されたところで、私自身どう考えても期待に添えそうにない。

私ができることといえば、所詮日系一世相手の広告取りぐらいなものだろうか。そう思い至った時、漠然と私の頭に浮かんできた考えは、「サンパウロを離れてみようか」であった。そしてその考えはたちまち蠱惑的な混血娘のように私を魅了していった。

サンパウロC級グルメ探訪更新

2009-11-18 00:12:52 | Weblog
このところ当ブログの更新が遅々としているが、理由として、このところ力を入れ始めたポルトガル語の学習に時間を取られていることが挙げられる。いっぽう、一献に当てられる時間は微塵ほども削られてはいないので、ブログの方がそういう結果となる。

ところで、私が勤める出版社のブログに投稿している「サンパウロC級グルメ探訪」は辛うじて更新しているので、暇のついでにでもお付き合いいただければ幸甚である。
http://revistapindorama.blogspot.com/

小林先生

2009-10-05 22:04:42 | Weblog
ブラジルに来て3年が過ぎ、サンパウロに住み1年と半年を数えた。日本が懐かしくはあるが、ブラジルを去り、日本に戻って暮らしたいとは思わない。今のところ、それは人生の敗北を意味するような気がするからだ。

ここに来て、さまざまな人に知り合った。雑誌の広告取りの営業なので、職業柄知り合う機会は多い。顧客の多くは戦後日系移民1世である。戦前の農業移民と異なり、彼等はさまざまな動機でブラジルに渡った人達なので、個性が強い人が多い。そのような人に気に入ってもらえれば、単なる仕事関係以上の付き合いになる。

鍼灸師の小林先生も移民1世であった。雑誌を届けに行くとたいてい飯に誘ってくれた。先生はテーブルに着くと必ずビールあるいはカシャーサ(サトウキビの焼酎)を注文し、ご飯をもりもり食べた。糖尿病を患っており、目はほとんど見えなかったが、それ以外はすこぶる元気に見えた。

ある日唐突に先生の訃報を聞いた。先生の日課である囲碁クラブに行く途中、タクシーの中で突然息を引き取ったそうだ。最後に私が会ったのはその1ヶ月半前で、そのときは普段と変わらず元気そうであった。最近雑誌を届ける機会があったのだが、集金のない月だったので、忙しさから郵送にしてしまい、先生に会う機会を逸してしまったことが悔やまれた。

先生の訃報を告げた囲碁仲間からその際に尋ねられたことは、先生の唯一の肉親である娘さんの居所についてであった。別れた奥さんと連絡を取ったらしいが、彼女に尋ねても、今は関係ないの一言で何も聞き出せないらしい。日本に娘がいることは先生から直接聞いたことがある。だが、奥さんのことについては何ひとつ触れたことはなかった。

享年70歳位であろうか。唯我独尊の衣を着て人生を闊歩している風であった。若い頃にブラジルに渡り、さまざまな職を経てきたようだが、鍼灸の道に入り、日々研鑽を積んだ結果、名医の評判を得た。「金儲けはできぬが、食うには困らん。あんたも鍼をやってみんか」と私によく呼びかけた。先生には弟子がいなかった。自分が暁達した技能を後世に伝えたかったことは想像に難くない。

私も一度先生の鍼を受けたことがある。糖尿病に似た諸症状に悩んでおり、睡眠不足が続いていた。だが検査結果は糖尿病ではなく、原因が分からないでいた。そのことを先生に告げると、さっそく診てくれると言う。

先生は私の身体を触診し、たちどころに「あ、これは胃が悪いな」と看破した。そして鍼を足先から頭まで身体中のツボに打ち込んだ。私は鍼が初体験なので知識は何も持ち合わせておらず、てっきり無痛であると思っていたが、痛みというほどではないが、存外に刺激がある。なかには「ちょっと痛いかも知れんよ」と言って、ブスリと来るものもある。「刺激を受けて身体は活性化するんだ」との先生の言を信用する他はないが、1箇所ふくらはぎに刺さった鍼は抜いても痛みが残った。これはさすがに見当違いだと思ったが、治療後の身体は軽く、ブラジル渡航以来の積もり積もった疲れが大分癒されたようだった。「これで今夜はぐっすり眠れるぞ」と先生は太鼓判を押した。謝礼を渡そうとすると、「ブラジルに住むもの同士、お互い様だ」と笑って受け取らなかった。

残念ながら1回の治療では完治できなかったが、離れ雲のようなブラジル生活が続く中、人の恩を受けたことで、精神的にもなんとなくほぐれたような気持ちになった。

先生は常日頃から、「仕事は午前中で仕舞えて、美味いものを食うて、午後からは好きな囲碁をずっと打っていられるのだから、こんなええ人生はない」と言うのが口癖だった。単身ブラジルに渡り、ひとりで生き抜き、頑固を通し、ブラジルでは当たり前のウェイターの無作法をお国が違えど叱り飛ばし、糖尿病であっても腹いっぱい飯を食い、度を越しはしないが酒を呑み続け、そして、一人娘を残して逝ってしまった。

先生は本当に自分の人生に満足していたのだろうか。臨終の際に肉親が看取ることもなく、亡くなった後にも肉親と連絡がままならない情況である。日本から遠く離れた地で歳を重ねながら、衰えゆく健康に直面し、死が忍び寄りつつあることを予感しながら、さびしさやむなしさに襲われたことはなかったのであろうか。

そう私が思いはかってしまうのは、先生の人生に勝手に私の将来の姿を重ね合わせてしまっているからであろう。短い付き合いの中で、先生の本当の気持ちが私に分かる由もないし、本人が「ええ人生」と言っているのだからその通りなのかもしれない。私が先生と同じ孤高の道を進むのかどうかも分からないし、死に様について考えてみたところで始まらない。

ただ、今の私からは先生と同じセリフは出てこない。私にとって、まだ「ええ人生」は訪れていない。そのセリフを、せめてハッタリでもつぶやけるように、まずはなることだ。

ロールプレイング・ゲーム

2009-05-11 20:59:55 | Weblog
かつて、ロールプレイング・ゲームほど私の心をとらえ、熱中させたものはなかった。初代ファミコンやスーパーファミコンのドラゴンクエストやファイナルファンタジーなどを何度も何度も飽きずにプレイしたものだ。

旅が好きで、未知なるものとの出会いや発見が好きだが、臆病で傷つくことを恐れていた若い私にとって、ロールプレイング・ゲームは恰好の遊びであった。

20代の終わりから30代の初めにかけてはとりわけ熱中していた。思えば莫大な時間を費やしたものだ。その頃の実社会における私の履歴を思い起こそうとしても、記憶がぽっかりと抜け落ちたように思い出せない。定職にも就かず、いわば引きこもりになって架空の世界に耽溺していたようである。

余りに現実の世界から遠ざかり、食べることすら面倒くさくなって、いっそのこと断食をしてみようと思い立ったことから私の人生は急旋回し、現実の世界に足を踏み出すことになる。

1週間の断食後、奇妙な自信が心に芽生えた。テントやキャンプ道具を購入し、青春18切符を持って、暖かい南をめざして旅に出た。31歳の早春の頃である。

それまでは周到にスケジュールを立て、ホテルや旅館に泊まり、郷土料理をいただくといったパッケージ的な旅行ばかりであった。そんな「坊ちゃん旅行」から、宿代要らず、飯も1日2日食べなくても平気という「貧乏旅行」が可能になったことで、私の行動範囲が飛躍的に広がった。

翌年にはバックパックを担ぎ、アジア、ヨーロッパを放浪する旅を約1年続け、現実の世界が素晴らしく面白いことを知った。その時の体験から、発展途上国の人々を支援するNGOの活動に興味を持ち、現実の世界にかかわっていった。その頃になるとロールプレイング・ゲームをすることはなくなっていた。

その後紆余曲折あり、今こうしてブラジルに住んでいる。好き好んでしたバックパックの旅と違い、どちらかというと止むに止まれずブラジルに移り住んだようなものだが、結果的に今の生活は、あのバックパックの旅の発展形となっている感がある。



サンパウロ市の北部にジャラグア公園という森林公園がある。小山を利用した公園で、市内では珍しく緑が豊かで、山頂までの遊歩道がある。山頂の標高は1125mだが、サンパウロ市自体が標高800mの位置にあるので、実際には300m登るだけのお手軽ハイキングだ。

鬱蒼とした木々に囲まれた山道を登る。草木のいきれが鼻を刺す。日本の山野の匂いとは違う、いがらっぽいような匂いだ。道に沿って、薄紫や赤紫色の小さな花をつけた草が群生している。散策する人は多く、頻繁にすれ違う。多くが20歳前後の若者だが、日系人の年配者にも時々出会う。

頂上が近いと思われる頃、高木が忽然と消え、視界が急に開けた。眼下には緩やかに隆起した山林に挟まれるように広がるサンパウロ郊外の街が霞に煙る。

急勾配の山道を登りきると車道に行き当たった。駐車場に続く舗装道を進むと広場があり、串焼肉店からは煙が立ち昇り、スナックスタンドでは人々がベンチに腰かけホットドッグを食べている。汗をかきかき山道を登る私のような者もいれば、涼しい顔をして車で山頂にたどり着く者もいる。

頂上には電波塔が無粋にそびえており、広場から階段で塔下の展望所まで登ると、そこが一般人の最高到達地点となる。風が強く、汗ばんだ身体がたちまち冷える。ベンチに座り、上着を着て、漫然と視界に広がるサンパウロの街を肴に持参のワインを口に含む。観光客が入れ替わりで訪れ賑わう。若者のカップルが多く、彼等は無邪気に景色を眺め、写真を撮ったり、抱擁したりしている。

霞がかかり絶景とはいえず、眺めに飽きてきたところで尿意を催してきたので広場に戻る。

串焼肉をかじり、ペットボトルのワインを呑みながら下山する。適度な運動によってほんのりとした酔いが全身を包み込むとともに、かたくなに絡まっていた心の糸がほぐれていくように記憶が過去に遡りほとばしる。これまで出会った人達がランダムに思い浮かび、何年も前の会話を思い出す。そして、今頃になって彼等の言葉の真意に気付いたりする。

行きがけにも目に留まった古びた祠の前を再び通りがかった。ドラゴンクエストによく登場する祠とはこのようなものであったかと、ふと思い至る。

思えば、世には人生をドラゴンクエストのような壮大な世界の中に生きる者もいるだろう。私などは、齢四十を超えて、財も家族も残せず、社会に深く関わることもならず、いわばこのジャラグア公園を舞台にしたロールプレイング・ゲームのような、小さな凡庸な人生を歩んでいるに過ぎない。

それでも私はドラゴンクエストの祠が現実に存在する世界に来た。それだけが小人に定められた運命の中でのささやかな抵抗かもしれない。

連想は飛躍し、私の部屋でゲームをしている父親の姿が思い浮かんだ。時々私が夜遅く仕事から戻ると、勝手に私の部屋にもぐりこんだ父がロールプレイング・ゲームに興じており、私の姿を認めると、ちょっぴり残念そうな表情になり、すごすごと自分の部屋に戻っていく姿を思い出した。父もこのゲームが大好きであった。

ワインを呑みつつ坂道を下りながらそんなことを思ったら、目が潤んできた。