カイロプラクティックのドトールの下で職を得て、7月を迎えた。念願の永住ビザの申請をする時である。
2006年にブラジルへ渡って来た。当初は観光ビザで入国し、やがてビザの有効期限が迫り、失効を恐れて近隣諸国に出国したところ、ペルーで強盗に遭いパスポートを奪われたのがかえって幸いし、本来なら困難である観光ビザの再取得を果たしたのだが、やがてはそれも期限を迎え、ついにビザは失効し、不法滞在で暮らすことになった。
日本では不法滞在は逮捕、拘束、送還が待ち受けているが、犯罪大国ブラジルでは、不法滞在のような微罪にまでは警察も手が回らないと言ったところだろう。とはいえ、過去には一斉取締りもあったという話しも伝えられており、街中で不意に警官に出くわした時には、心臓に薄刃をあてられたようにひやりとしたものだった。
リオ・デ・ジャネイロに住んでいたが、観光ビザでは仕事に就くことができず、不法滞在であればなおさらである。そのため路上で海苔巻き寿司を売り、生計を立てようとしたが儲けにはならず、手持ちの資金は枯渇し、一縷の望みを求めてサンパウロに移った。
サンパウロでは幸運なことに日本語のフリーマガジンの出版社に職が見つかり、糊口をしのぐことができた。2年間その出版社で働いたが、その間に政府による不法滞在者への恩赦が施行され、2009年に就労ビザが発給されたのだった。大げさな言い方をすれば、これでようやくお天道様の下で大手を振って歩ける身分になったわけである。銀行口座も開設し、人並みの権利を手に入れることができた。
就労ビザの有効期限は2年間である。次の更新で永住ビザに切り替わる。永住ビザになれば頻繁で煩瑣な更新は必要なくなり、落ち着いて定住することができる。
だが、永住ビザを取得するためには、更新時に就職していることが条件であった。3月にレストランの仕事を辞めてしまい、絶体絶命の事態に陥ったこともあったが、これまた幸運なことにカイロプラクティックの仕事を得ることができ、これで問題なく更新ができるはずであった。
ところがブラジルはそれほど甘い国ではない、と私は覚悟を決めている。言葉が不自由でビザの専門家に依頼する金もないので、手探りで分厚い役人の壁、所轄である連邦警察の砦を突破しなければならない。
連邦警察本部のホームページに申請に必要な書類の一覧が載っているのだが、どうしても意味不明の条項があり、質問のためにクリチーバ市にあるパラナ連邦警察へ出向いた。自宅から歩いて10分と、近くて助かったと思ったのもつかの間、建物は工事用フェンスで囲まれて入口が塞がれており、帰宅して大家に尋ねると移転したと言う。ホームページ記載の住所が更新されておらず、放ったらかしのままだ。旧所在地にも移転先住所を記した案内板すらない。さっそく役所の住民に対するサービスとはいかなるものかを目の当たりにする。
新庁舎はバスで30分の郊外の地に移っており、小高い丘の上に、ネズミ色に彩色されたコンクリートを聳やかしていた。案内を頼りにそれらしき部署を探し当て、入口の前で順番を待つための番号札を探したが見つからない。部屋に入り署員のひとりに尋ねると、やはり札を取れという。部屋の外に出て、もう一度探すがそれらしきものはなく、困っていると、付近に腰掛けていたひとりがドアの傍の壁あたりを指差すので、再び部屋に入ると、ドア近くの壁に細かい切れ目の入った薄っぺらい紙が貼り付けられており、切れ目には番号が、子どもだましのくじのように小さく書き込まれている。どうやらこれを千切って、番号札の代わりとするらしい。新築間もない新庁舎であるから当然最新の設備を備えていると思っていたが、住民サービスにおいては省略を徹底するという精神が脈々と息づいている。
待合室の椅子には空席もあるが、入口にへばりつくように立ち、部屋の奥からぼそっと唱えられる番号を聞き漏らさないよう耳をそばだてねばならない。じりじりとしながら待ち続けて、ようやく自分の番号が呼ばれて入ると、呼び出し主は、混血系でたぬき腹をしたゲジ眉の、横柄と尊大の落とし子がワイシャツを着たような中年の担当官である。ホームページよりコピーした申請書類一覧を見せ、説明を求めると、「お前が持っている紙の内容は全て忘れろ」と言われ、別の用紙を渡された。ざっと説明を受けたが、速すぎてすぐには理解できない。質問をしても「読めば分かる」「話すことは何もない」「どうせ説明してもお前には分からないから、言葉の分かる通訳を連れて来い」と相手にされず、胸を焦がすような怒りを飲み込みつつ引き下がる。仕事に戻る途中、診療所の手前でドトールとすれ違ったが、後に彼が言うには、私は不幸を一身に背負ったような暗い顔をして歩いていたらしい。
渡された用紙を頼りにクリチーバ市内を駆けずり回り、いささか不明な点はあったが、とにかくもそれらしき書類を調え、いよいよ永住ビザを申請しようと再度連邦警察を訪れた。しばらく待たされた後に呼び出しに出た担当官は前回と違う人物だったので、意気込んで書類を差し出し、あらかじめ用意してあった質問をぶつけようとしたのだが、その担当官は「申請の際、書類に目を通す」と言って書類を突き返した。彼はスケジュール表をめくり、日付と時刻を指定し、その日時に来いと言った。どうやら連邦警察は申請日の予約のためだけに我々を出頭させて何も感じるところがないようだ。
提出書類のうち、無犯罪証明書なるものがどうしても気になる。これは連邦警察とは別組織である市民警察が発行する。ついでに言うと、ブラジルには軍警察というのもあり、それぞれ管轄が違うからややこしい。その市民警察で無犯罪証明書を発行してもらったのであるが、よく読むと無犯罪の証明期間がクリチーバ在住期間のみである。私はサンパウロで就労ビザを取得したのだから、その間の無犯罪の証明も必要になるのではないか。あの、たぬき腹のゲジ眉担当官の言葉が亡霊のように浮かび上がった。確か彼はサンパウロに行けと言ったような気がする。しかし、たかが一枚の書類のためにサンパウロに行くという余計な手間と散財は省きたい。そのあたりを確認しなければならぬ。
ドトールに相談すると、彼は一軒の飲み屋に私を連れて行き、そこの主人のパウロ、自称ポールに引き合わせた。アングロサクソン文化が大好きなポールは顔の広さを売りにしているようで、改造ミニクーパーを飛ばして連邦警察の偉いさんの自宅に連れて行ったり、不在と知るや別の偉いさんのところへ行ったりと近所を駆け巡った挙句に得た結論は、「日本の無犯罪証明書が必要である」。話しがどうも脇へそれたように思う。
ポールの飲み屋で知り合った日本人女性は領事館勤務でポルトガル語は堪能である。ちょうど連邦警察に用事があるというので、その翌日に私も同行し、信用のある彼女に質問してもらうことにした。私としては3度目の訪問である。結局サンパウロの無犯罪証明書も必要だということであった。
クリチーバの市民警察へ行き、サンパウロの証明書を取り寄せられるかと尋ねたが、答えはノーであった。とうとうサンパウロへ行く羽目になってしまった。往復12時間、6千円の費用をかけて一枚の紙切れを受け取りに行く。サンパウロの主要な地区には各種書類発行のデパートとも呼べる施設があり、縦割りの各省庁管轄の書類が同一建物内で申請、受取できる。他地域に比べると進んだ制度を有するサンパウロであるが、そこでも1通の証明書発行のために3回足を運び3時間を要した。まあ、即日発行であっただけましというべきか。
サンパウロでお世話になったイツコさんと久闊を叙す。彼女の旅行社にはダイちゃんという、私同様恩赦によりビザを取得し、すでにサンパウロで更新を済ませた男が勤務している。彼は更新に苦労したようで、申請の際に労働手帳を見せたところ、6ヶ月の勤務実績がないと言われ却下されたらしい。やむなくビザ申請の専門家に頼み、トリッキーな手段でどうにか事なきを得たのだが、彼いわく担当者によって査定が異なるらしい。胃の底に穴が開くような話しである。
8月10日、申請日を迎えた。就労ビザの期限が8月17日とある。もし今日行って書類に不備があり、申請が通らなかったらどうなるのだろうかと不安は募る。連邦警察を訪れるのも4度目になる。馴染みとなったねずみ色の建物に入り、勝手の知った部屋の前で待つ。私の番が来た。担当官はゲジ眉ではなく、ほっとする。書類を提出する。一点一点内容を確認した後、労働手帳のコピーがないがどうしたと聞く。どうしたと言われても、ゲジ眉から渡された用紙にそのような記載はなかった。建物内にコピー室があるからそこで取って来いと言われ、事なきを得た。担当官は提出書類をしまい込み、次のプロセスに進むため、いったん部屋の外で待つようにと言った。
ねずみ色の建物を後にして、帰りのバスが出るターミナルに向かったが、歩きたい気分だったので、そのまま帰り道となる広い道路を歩き続けた。空は薄曇りで、建物がぼんやりとかすむような、ほこりっぽい天気だった。カバンの中には一枚の紙切れ、永住ビザの引換券ともいうべき仮の身分証明書が入っている。後ほど永住ビザが送られてくるか、ビザ発行を知らせる葉書が送られてくるかは定かでないが、大きなヤマは超えたといえる。だが、嬉しいという感情はさほど起こらなかった。べっとりとした疲れが後頭部に鬱積しているのを感じた。いったい、ここまでして何になるのだろうというしらけた空気がうっすらと意識を被っていた。それに、まだ本物の永住ビザは手に入れていないのだ。実際にこの手で掴むまで安心できない国であることをいやというほど味わってきた。別れ際に担当官が放った言葉が引っ掛かる。6ヶ月経って何も届かなかったら、そのときはこちらに問い合わせろ、と。
まだ安心はできそうにないが、まあ、仕方のないことだ。今晩はチリワインを奮発しようと決めた。白っぽい空の下、さっと刷毛で払ったような薄い陰翳を帯びた街並みを歩きながら、私は夕食のメニューを考え始めた。
2006年にブラジルへ渡って来た。当初は観光ビザで入国し、やがてビザの有効期限が迫り、失効を恐れて近隣諸国に出国したところ、ペルーで強盗に遭いパスポートを奪われたのがかえって幸いし、本来なら困難である観光ビザの再取得を果たしたのだが、やがてはそれも期限を迎え、ついにビザは失効し、不法滞在で暮らすことになった。
日本では不法滞在は逮捕、拘束、送還が待ち受けているが、犯罪大国ブラジルでは、不法滞在のような微罪にまでは警察も手が回らないと言ったところだろう。とはいえ、過去には一斉取締りもあったという話しも伝えられており、街中で不意に警官に出くわした時には、心臓に薄刃をあてられたようにひやりとしたものだった。
リオ・デ・ジャネイロに住んでいたが、観光ビザでは仕事に就くことができず、不法滞在であればなおさらである。そのため路上で海苔巻き寿司を売り、生計を立てようとしたが儲けにはならず、手持ちの資金は枯渇し、一縷の望みを求めてサンパウロに移った。
サンパウロでは幸運なことに日本語のフリーマガジンの出版社に職が見つかり、糊口をしのぐことができた。2年間その出版社で働いたが、その間に政府による不法滞在者への恩赦が施行され、2009年に就労ビザが発給されたのだった。大げさな言い方をすれば、これでようやくお天道様の下で大手を振って歩ける身分になったわけである。銀行口座も開設し、人並みの権利を手に入れることができた。
就労ビザの有効期限は2年間である。次の更新で永住ビザに切り替わる。永住ビザになれば頻繁で煩瑣な更新は必要なくなり、落ち着いて定住することができる。
だが、永住ビザを取得するためには、更新時に就職していることが条件であった。3月にレストランの仕事を辞めてしまい、絶体絶命の事態に陥ったこともあったが、これまた幸運なことにカイロプラクティックの仕事を得ることができ、これで問題なく更新ができるはずであった。
ところがブラジルはそれほど甘い国ではない、と私は覚悟を決めている。言葉が不自由でビザの専門家に依頼する金もないので、手探りで分厚い役人の壁、所轄である連邦警察の砦を突破しなければならない。
連邦警察本部のホームページに申請に必要な書類の一覧が載っているのだが、どうしても意味不明の条項があり、質問のためにクリチーバ市にあるパラナ連邦警察へ出向いた。自宅から歩いて10分と、近くて助かったと思ったのもつかの間、建物は工事用フェンスで囲まれて入口が塞がれており、帰宅して大家に尋ねると移転したと言う。ホームページ記載の住所が更新されておらず、放ったらかしのままだ。旧所在地にも移転先住所を記した案内板すらない。さっそく役所の住民に対するサービスとはいかなるものかを目の当たりにする。
新庁舎はバスで30分の郊外の地に移っており、小高い丘の上に、ネズミ色に彩色されたコンクリートを聳やかしていた。案内を頼りにそれらしき部署を探し当て、入口の前で順番を待つための番号札を探したが見つからない。部屋に入り署員のひとりに尋ねると、やはり札を取れという。部屋の外に出て、もう一度探すがそれらしきものはなく、困っていると、付近に腰掛けていたひとりがドアの傍の壁あたりを指差すので、再び部屋に入ると、ドア近くの壁に細かい切れ目の入った薄っぺらい紙が貼り付けられており、切れ目には番号が、子どもだましのくじのように小さく書き込まれている。どうやらこれを千切って、番号札の代わりとするらしい。新築間もない新庁舎であるから当然最新の設備を備えていると思っていたが、住民サービスにおいては省略を徹底するという精神が脈々と息づいている。
待合室の椅子には空席もあるが、入口にへばりつくように立ち、部屋の奥からぼそっと唱えられる番号を聞き漏らさないよう耳をそばだてねばならない。じりじりとしながら待ち続けて、ようやく自分の番号が呼ばれて入ると、呼び出し主は、混血系でたぬき腹をしたゲジ眉の、横柄と尊大の落とし子がワイシャツを着たような中年の担当官である。ホームページよりコピーした申請書類一覧を見せ、説明を求めると、「お前が持っている紙の内容は全て忘れろ」と言われ、別の用紙を渡された。ざっと説明を受けたが、速すぎてすぐには理解できない。質問をしても「読めば分かる」「話すことは何もない」「どうせ説明してもお前には分からないから、言葉の分かる通訳を連れて来い」と相手にされず、胸を焦がすような怒りを飲み込みつつ引き下がる。仕事に戻る途中、診療所の手前でドトールとすれ違ったが、後に彼が言うには、私は不幸を一身に背負ったような暗い顔をして歩いていたらしい。
渡された用紙を頼りにクリチーバ市内を駆けずり回り、いささか不明な点はあったが、とにかくもそれらしき書類を調え、いよいよ永住ビザを申請しようと再度連邦警察を訪れた。しばらく待たされた後に呼び出しに出た担当官は前回と違う人物だったので、意気込んで書類を差し出し、あらかじめ用意してあった質問をぶつけようとしたのだが、その担当官は「申請の際、書類に目を通す」と言って書類を突き返した。彼はスケジュール表をめくり、日付と時刻を指定し、その日時に来いと言った。どうやら連邦警察は申請日の予約のためだけに我々を出頭させて何も感じるところがないようだ。
提出書類のうち、無犯罪証明書なるものがどうしても気になる。これは連邦警察とは別組織である市民警察が発行する。ついでに言うと、ブラジルには軍警察というのもあり、それぞれ管轄が違うからややこしい。その市民警察で無犯罪証明書を発行してもらったのであるが、よく読むと無犯罪の証明期間がクリチーバ在住期間のみである。私はサンパウロで就労ビザを取得したのだから、その間の無犯罪の証明も必要になるのではないか。あの、たぬき腹のゲジ眉担当官の言葉が亡霊のように浮かび上がった。確か彼はサンパウロに行けと言ったような気がする。しかし、たかが一枚の書類のためにサンパウロに行くという余計な手間と散財は省きたい。そのあたりを確認しなければならぬ。
ドトールに相談すると、彼は一軒の飲み屋に私を連れて行き、そこの主人のパウロ、自称ポールに引き合わせた。アングロサクソン文化が大好きなポールは顔の広さを売りにしているようで、改造ミニクーパーを飛ばして連邦警察の偉いさんの自宅に連れて行ったり、不在と知るや別の偉いさんのところへ行ったりと近所を駆け巡った挙句に得た結論は、「日本の無犯罪証明書が必要である」。話しがどうも脇へそれたように思う。
ポールの飲み屋で知り合った日本人女性は領事館勤務でポルトガル語は堪能である。ちょうど連邦警察に用事があるというので、その翌日に私も同行し、信用のある彼女に質問してもらうことにした。私としては3度目の訪問である。結局サンパウロの無犯罪証明書も必要だということであった。
クリチーバの市民警察へ行き、サンパウロの証明書を取り寄せられるかと尋ねたが、答えはノーであった。とうとうサンパウロへ行く羽目になってしまった。往復12時間、6千円の費用をかけて一枚の紙切れを受け取りに行く。サンパウロの主要な地区には各種書類発行のデパートとも呼べる施設があり、縦割りの各省庁管轄の書類が同一建物内で申請、受取できる。他地域に比べると進んだ制度を有するサンパウロであるが、そこでも1通の証明書発行のために3回足を運び3時間を要した。まあ、即日発行であっただけましというべきか。
サンパウロでお世話になったイツコさんと久闊を叙す。彼女の旅行社にはダイちゃんという、私同様恩赦によりビザを取得し、すでにサンパウロで更新を済ませた男が勤務している。彼は更新に苦労したようで、申請の際に労働手帳を見せたところ、6ヶ月の勤務実績がないと言われ却下されたらしい。やむなくビザ申請の専門家に頼み、トリッキーな手段でどうにか事なきを得たのだが、彼いわく担当者によって査定が異なるらしい。胃の底に穴が開くような話しである。
8月10日、申請日を迎えた。就労ビザの期限が8月17日とある。もし今日行って書類に不備があり、申請が通らなかったらどうなるのだろうかと不安は募る。連邦警察を訪れるのも4度目になる。馴染みとなったねずみ色の建物に入り、勝手の知った部屋の前で待つ。私の番が来た。担当官はゲジ眉ではなく、ほっとする。書類を提出する。一点一点内容を確認した後、労働手帳のコピーがないがどうしたと聞く。どうしたと言われても、ゲジ眉から渡された用紙にそのような記載はなかった。建物内にコピー室があるからそこで取って来いと言われ、事なきを得た。担当官は提出書類をしまい込み、次のプロセスに進むため、いったん部屋の外で待つようにと言った。
ねずみ色の建物を後にして、帰りのバスが出るターミナルに向かったが、歩きたい気分だったので、そのまま帰り道となる広い道路を歩き続けた。空は薄曇りで、建物がぼんやりとかすむような、ほこりっぽい天気だった。カバンの中には一枚の紙切れ、永住ビザの引換券ともいうべき仮の身分証明書が入っている。後ほど永住ビザが送られてくるか、ビザ発行を知らせる葉書が送られてくるかは定かでないが、大きなヤマは超えたといえる。だが、嬉しいという感情はさほど起こらなかった。べっとりとした疲れが後頭部に鬱積しているのを感じた。いったい、ここまでして何になるのだろうというしらけた空気がうっすらと意識を被っていた。それに、まだ本物の永住ビザは手に入れていないのだ。実際にこの手で掴むまで安心できない国であることをいやというほど味わってきた。別れ際に担当官が放った言葉が引っ掛かる。6ヶ月経って何も届かなかったら、そのときはこちらに問い合わせろ、と。
まだ安心はできそうにないが、まあ、仕方のないことだ。今晩はチリワインを奮発しようと決めた。白っぽい空の下、さっと刷毛で払ったような薄い陰翳を帯びた街並みを歩きながら、私は夕食のメニューを考え始めた。