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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

永住ビザ申請

2012-05-25 14:32:45 | Weblog
カイロプラクティックのドトールの下で職を得て、7月を迎えた。念願の永住ビザの申請をする時である。

2006年にブラジルへ渡って来た。当初は観光ビザで入国し、やがてビザの有効期限が迫り、失効を恐れて近隣諸国に出国したところ、ペルーで強盗に遭いパスポートを奪われたのがかえって幸いし、本来なら困難である観光ビザの再取得を果たしたのだが、やがてはそれも期限を迎え、ついにビザは失効し、不法滞在で暮らすことになった。

日本では不法滞在は逮捕、拘束、送還が待ち受けているが、犯罪大国ブラジルでは、不法滞在のような微罪にまでは警察も手が回らないと言ったところだろう。とはいえ、過去には一斉取締りもあったという話しも伝えられており、街中で不意に警官に出くわした時には、心臓に薄刃をあてられたようにひやりとしたものだった。

リオ・デ・ジャネイロに住んでいたが、観光ビザでは仕事に就くことができず、不法滞在であればなおさらである。そのため路上で海苔巻き寿司を売り、生計を立てようとしたが儲けにはならず、手持ちの資金は枯渇し、一縷の望みを求めてサンパウロに移った。

サンパウロでは幸運なことに日本語のフリーマガジンの出版社に職が見つかり、糊口をしのぐことができた。2年間その出版社で働いたが、その間に政府による不法滞在者への恩赦が施行され、2009年に就労ビザが発給されたのだった。大げさな言い方をすれば、これでようやくお天道様の下で大手を振って歩ける身分になったわけである。銀行口座も開設し、人並みの権利を手に入れることができた。

就労ビザの有効期限は2年間である。次の更新で永住ビザに切り替わる。永住ビザになれば頻繁で煩瑣な更新は必要なくなり、落ち着いて定住することができる。

だが、永住ビザを取得するためには、更新時に就職していることが条件であった。3月にレストランの仕事を辞めてしまい、絶体絶命の事態に陥ったこともあったが、これまた幸運なことにカイロプラクティックの仕事を得ることができ、これで問題なく更新ができるはずであった。

ところがブラジルはそれほど甘い国ではない、と私は覚悟を決めている。言葉が不自由でビザの専門家に依頼する金もないので、手探りで分厚い役人の壁、所轄である連邦警察の砦を突破しなければならない。

連邦警察本部のホームページに申請に必要な書類の一覧が載っているのだが、どうしても意味不明の条項があり、質問のためにクリチーバ市にあるパラナ連邦警察へ出向いた。自宅から歩いて10分と、近くて助かったと思ったのもつかの間、建物は工事用フェンスで囲まれて入口が塞がれており、帰宅して大家に尋ねると移転したと言う。ホームページ記載の住所が更新されておらず、放ったらかしのままだ。旧所在地にも移転先住所を記した案内板すらない。さっそく役所の住民に対するサービスとはいかなるものかを目の当たりにする。

新庁舎はバスで30分の郊外の地に移っており、小高い丘の上に、ネズミ色に彩色されたコンクリートを聳やかしていた。案内を頼りにそれらしき部署を探し当て、入口の前で順番を待つための番号札を探したが見つからない。部屋に入り署員のひとりに尋ねると、やはり札を取れという。部屋の外に出て、もう一度探すがそれらしきものはなく、困っていると、付近に腰掛けていたひとりがドアの傍の壁あたりを指差すので、再び部屋に入ると、ドア近くの壁に細かい切れ目の入った薄っぺらい紙が貼り付けられており、切れ目には番号が、子どもだましのくじのように小さく書き込まれている。どうやらこれを千切って、番号札の代わりとするらしい。新築間もない新庁舎であるから当然最新の設備を備えていると思っていたが、住民サービスにおいては省略を徹底するという精神が脈々と息づいている。

待合室の椅子には空席もあるが、入口にへばりつくように立ち、部屋の奥からぼそっと唱えられる番号を聞き漏らさないよう耳をそばだてねばならない。じりじりとしながら待ち続けて、ようやく自分の番号が呼ばれて入ると、呼び出し主は、混血系でたぬき腹をしたゲジ眉の、横柄と尊大の落とし子がワイシャツを着たような中年の担当官である。ホームページよりコピーした申請書類一覧を見せ、説明を求めると、「お前が持っている紙の内容は全て忘れろ」と言われ、別の用紙を渡された。ざっと説明を受けたが、速すぎてすぐには理解できない。質問をしても「読めば分かる」「話すことは何もない」「どうせ説明してもお前には分からないから、言葉の分かる通訳を連れて来い」と相手にされず、胸を焦がすような怒りを飲み込みつつ引き下がる。仕事に戻る途中、診療所の手前でドトールとすれ違ったが、後に彼が言うには、私は不幸を一身に背負ったような暗い顔をして歩いていたらしい。

渡された用紙を頼りにクリチーバ市内を駆けずり回り、いささか不明な点はあったが、とにかくもそれらしき書類を調え、いよいよ永住ビザを申請しようと再度連邦警察を訪れた。しばらく待たされた後に呼び出しに出た担当官は前回と違う人物だったので、意気込んで書類を差し出し、あらかじめ用意してあった質問をぶつけようとしたのだが、その担当官は「申請の際、書類に目を通す」と言って書類を突き返した。彼はスケジュール表をめくり、日付と時刻を指定し、その日時に来いと言った。どうやら連邦警察は申請日の予約のためだけに我々を出頭させて何も感じるところがないようだ。

提出書類のうち、無犯罪証明書なるものがどうしても気になる。これは連邦警察とは別組織である市民警察が発行する。ついでに言うと、ブラジルには軍警察というのもあり、それぞれ管轄が違うからややこしい。その市民警察で無犯罪証明書を発行してもらったのであるが、よく読むと無犯罪の証明期間がクリチーバ在住期間のみである。私はサンパウロで就労ビザを取得したのだから、その間の無犯罪の証明も必要になるのではないか。あの、たぬき腹のゲジ眉担当官の言葉が亡霊のように浮かび上がった。確か彼はサンパウロに行けと言ったような気がする。しかし、たかが一枚の書類のためにサンパウロに行くという余計な手間と散財は省きたい。そのあたりを確認しなければならぬ。

ドトールに相談すると、彼は一軒の飲み屋に私を連れて行き、そこの主人のパウロ、自称ポールに引き合わせた。アングロサクソン文化が大好きなポールは顔の広さを売りにしているようで、改造ミニクーパーを飛ばして連邦警察の偉いさんの自宅に連れて行ったり、不在と知るや別の偉いさんのところへ行ったりと近所を駆け巡った挙句に得た結論は、「日本の無犯罪証明書が必要である」。話しがどうも脇へそれたように思う。

ポールの飲み屋で知り合った日本人女性は領事館勤務でポルトガル語は堪能である。ちょうど連邦警察に用事があるというので、その翌日に私も同行し、信用のある彼女に質問してもらうことにした。私としては3度目の訪問である。結局サンパウロの無犯罪証明書も必要だということであった。

クリチーバの市民警察へ行き、サンパウロの証明書を取り寄せられるかと尋ねたが、答えはノーであった。とうとうサンパウロへ行く羽目になってしまった。往復12時間、6千円の費用をかけて一枚の紙切れを受け取りに行く。サンパウロの主要な地区には各種書類発行のデパートとも呼べる施設があり、縦割りの各省庁管轄の書類が同一建物内で申請、受取できる。他地域に比べると進んだ制度を有するサンパウロであるが、そこでも1通の証明書発行のために3回足を運び3時間を要した。まあ、即日発行であっただけましというべきか。

サンパウロでお世話になったイツコさんと久闊を叙す。彼女の旅行社にはダイちゃんという、私同様恩赦によりビザを取得し、すでにサンパウロで更新を済ませた男が勤務している。彼は更新に苦労したようで、申請の際に労働手帳を見せたところ、6ヶ月の勤務実績がないと言われ却下されたらしい。やむなくビザ申請の専門家に頼み、トリッキーな手段でどうにか事なきを得たのだが、彼いわく担当者によって査定が異なるらしい。胃の底に穴が開くような話しである。

8月10日、申請日を迎えた。就労ビザの期限が8月17日とある。もし今日行って書類に不備があり、申請が通らなかったらどうなるのだろうかと不安は募る。連邦警察を訪れるのも4度目になる。馴染みとなったねずみ色の建物に入り、勝手の知った部屋の前で待つ。私の番が来た。担当官はゲジ眉ではなく、ほっとする。書類を提出する。一点一点内容を確認した後、労働手帳のコピーがないがどうしたと聞く。どうしたと言われても、ゲジ眉から渡された用紙にそのような記載はなかった。建物内にコピー室があるからそこで取って来いと言われ、事なきを得た。担当官は提出書類をしまい込み、次のプロセスに進むため、いったん部屋の外で待つようにと言った。


ねずみ色の建物を後にして、帰りのバスが出るターミナルに向かったが、歩きたい気分だったので、そのまま帰り道となる広い道路を歩き続けた。空は薄曇りで、建物がぼんやりとかすむような、ほこりっぽい天気だった。カバンの中には一枚の紙切れ、永住ビザの引換券ともいうべき仮の身分証明書が入っている。後ほど永住ビザが送られてくるか、ビザ発行を知らせる葉書が送られてくるかは定かでないが、大きなヤマは超えたといえる。だが、嬉しいという感情はさほど起こらなかった。べっとりとした疲れが後頭部に鬱積しているのを感じた。いったい、ここまでして何になるのだろうというしらけた空気がうっすらと意識を被っていた。それに、まだ本物の永住ビザは手に入れていないのだ。実際にこの手で掴むまで安心できない国であることをいやというほど味わってきた。別れ際に担当官が放った言葉が引っ掛かる。6ヶ月経って何も届かなかったら、そのときはこちらに問い合わせろ、と。

まだ安心はできそうにないが、まあ、仕方のないことだ。今晩はチリワインを奮発しようと決めた。白っぽい空の下、さっと刷毛で払ったような薄い陰翳を帯びた街並みを歩きながら、私は夕食のメニューを考え始めた。


Chiropractic Rhapsody

2012-04-18 20:05:42 | Weblog
始まってみればドトールの助手として一日が明け暮れることになった。まずはマッサージを学ぶため、ドトールとその助手の傍らに付き見学する。診療時間はおおむね30分、そのうち5分から10分程度をドトールが受け持ち、カイロプラクティック治療を行なう。残りの時間は助手によるマッサージである。ここの客は腰痛やむち打ち症など身体のどこかに問題を持っている者ばかりなので、心地良さを主眼としたリラクセーションよりも、患部を治療するためのマッサージが主体となる。

患者がいない時は、ドトールや猿田彦面のフェルナンドよりマッサージを習う。フェルナンドはブラジル国籍だが日本での生活が長く、ものぐさなブラジル人のなかにあって、針や脱脂綿の補充などに目配りする几帳面な性格なのでドトールの信は厚い。歳の若い彼は日常生活では私に敬語を使うが、マッサージを教える段になると先輩の矜持を示そうと命令口調に変わる。語法が変わるたびに立ち位置が替わるのを意識させられるようで、年功序列による言葉の使い分けが要らないポルトガル語に比べ、日本語は煩わしいと思う。とはいえ、彼は私の質問に熱心に答えてくれるし、日本語で忌憚なく話し合える唯一の同僚であるため、彼の存在はありがたい。

勤めてから3日ほど経った頃、ドトールは私に頭部のマッサージを教え、それを患者にやってみろという。初めて患者に対峙する。何か申し訳ない気分で、年配のブラジル人女性の頭をさすり、揉み、押し、グリグリした。女性は気持ち良いのか悪いのか、判断のつかないような顔をしている。後でドトールに、これは何に効くのかと尋ねると、「なんかストレス軽減にいいらしいよ。昨日テレビでやってたんだ」 私にすぐできることは何か、で思いついた苦肉の策なのだろうが、患者こそいい面の皮である。

数日間頭部マッサージのにわか専門家として患者の頭をこすった後、身体へのマッサージも行ない始めた。訪れるのは非日系ブラジル人がほとんどで、弁護士、銀行員、会社経営者といった高所得者層がもっぱらである。ここでは初診料で140レアル(約7000円)、通常95レアル(約5000円)という料金の上、完治までには数回の通院が必要とされるので、中間所得者層が厚みを増してきたこの国とはいえ、このような金額を惜しまず出すとなると中間層ではまだ厳しい。

いわゆるブルジョワにあたる彼等は立ち居振る舞いにしてもたしなみがあるようで、総じて礼儀正しく、鷹揚として、めったに不平を言うことはない。私のド素人マッサージをおとなしく受けている。終了を告げ、寝台より起き上がる際の彼等の表情を見て、自分のへたくそ加減を窺い知る。ところがさらに寛大な患者がいるもので、「ドトール、たいへん気持ちが良かった」などとお世辞を言う。世界広しといえども、この商売ほどお手軽にドクターになれる業種は無いのではないか。

ここで働くスタッフは施術家が日系人、事務員が非日系人であり、黒人系はいない。エリザベッチという白人系の女性が勤めていたが、まもなく姿を消した。事務所の金をくすねていたらしい。肌の色を問わず、ブラジルではこのようなことが後を絶たない。

診療所内に一室、治療に関係のない部屋がある。ヤマメジというドトールの別会社の事務所、というよりは物置のような部屋だが、宝石、絵画といったものがパソコンや健康器具と共にその部屋に置かれている。

ダニエルという青白で目つきの鋭い、太ったドラキュラのような男が金目のものとも知れぬ怪しげな物品を持ち込んで来る。彼がそれらを置いて帰ると、ドトールは私にその価値をパソコンで調べさせる。ドトールはパソコンを扱えない。彼曰く、祖父が同業の先達であり、手技を扱う者は指先をむやみに他の事で使ってはいけないとの薫陶を受けたので、キーボードに触れるわけにはいかなかったのであると。はいはいと私は聞いている。

日本や米国のヤフーオークションのサイトで同種のものを探し当てて、値段の見当を付ける。格安であれば買うのだが、それを秘蔵するというよりは、さらに高値でドトールの患者や知り合いに転売するのが主たる目的のようだ。

ブラジル特産で紫水晶と呼ばれるアメジストが例の部屋に置かれていた。洞窟然とした水晶群の上部にオウムを模した石が乗っていたのであるが、ある日接着剤はないかとダニエルが尋ねる。ドトールが渡すと彼はいつの間にか洞窟から墜落していたオウムをそれでくっ付けようとしている。もともとインコと洞窟は一体ではないのだから、再接着させても何の問題が無いという理屈も成り立つのかもしれないが、どうにもいかがわしい。

ある日、午後の診療に空きができたらしく、ドトールは私を外に連れ出した。車で10分程の郊外にある、薄暗くほこりっぽい什器工房にいざない、彼が試作を命じている椅子のでき具合について社長と打ち合わせを始めた。ドトールはかつてイタリア製の高級椅子を持っていて、木のフレームがしなやかにたわむことで腰痛を防ぐ構造を気に入っていたとのこと。それをこの工房にて安価で作らせて、ヤマメジで販売しようともくろんでいるらしい。

ところがそのイタリア製椅子の現物はもはや処分してしまい、製作責任者である工房の社長は見ることができない。頼りとするのはドトールの大雑把な説明と簡単なスケッチのみであった。それを元にしてできた試作品は、無骨な鉄パイプで組まれた、いびつな形をした、なんとも座り心地の悪い代物である。

ドトールがこれは違う、あれは違うと言い、社長はああだこうだと言い返し、彼等の大声が狭い工房中に響き渡る。無理もない。馴染みのない型を現物も正確な図面もなく作れという方が無茶である。そもそも、木のたわみ具合の調整などはイタリアの腕利きの職人であればこそできるのであって、だから値段も張るのである。そのたわみを木ではなくスチールで代用しろと命じたドトールの意図は分かるが、ブラジルで彼のイメージ通りの椅子を製作できる人材を発掘するのは至難の業だと思われる。

どこでどう話しがまとまったか、再度試作するということになり、我々は工房を後にした。帰り道、一軒の大きなワイナリーに車は入り、停まった。クリチーバのサンタ・フェリシダージ地区はイタリア人移民が多く、ワインが特産である。このワイナリーはワインやチーズ、サラミの試飲、試食ができ、地元住民から観光客まで広く親しまれている。

まだ診療所の営業時間中であるにもかかわらず、ドトールは試飲のワインをグビグビと呑み始めた。ひとり我慢できるほど私は人物ができてはいない。ワインは山葡萄のような酸っぱい味で、美味いとはお世辞にも言い難いが、とにかくもアルコールが入っているし、なによりタダである。グラスを重ね、ほんのりといい気持ちになってきた。

帰りの車中でドトールがぽつりと、「ブラジルはいいところだよ。こうやって一杯引っ掛けたって、そんなにうるさく言われないしね。割と自由にさ、好きなようにできるというのは幸せなことだと思うね」 車が診療所に着いた。何も無かったような顔をしてふたりが玄関をくぐるなり、女性マッサージ師が片言の日本語で、「あー、ドトールとリュウイチ、お酒呑んできたでしょ」といきなり看破する。ドトールは済ました顔で、「何を言ってるんですか。呑んでませんよ」と済ました顔で応じるが、その顔は赤ワイン色に染まっている。あまりの白々しさに私は言葉を失い、隠れるようにヤマメジの物置部屋にこもって、残りの時間をそこで過ごした。

ドトール

2012-03-30 15:43:32 | Weblog
普段めったに鳴ることのない携帯電話が唐突に鳴った。相手は日本人男性である。その男の名は記憶していたが、半年以上前に一度ソデさんより紹介され、彼の店でテーブルを囲んで呑んだきりである。50歳前後のマッサージを生業とするワイン好きの男、そんな程度しか思い出せなかった。

今は5月の頃である。収入の途として期待していたヨウ化カリウム販売については全く望みがなく、無収入のまま時ばかりが過ぎてゆき、蓄えも底を突きかけていた。さりとて別途生計を立てる手段については何ひとつ浮ばない。

ブラジルで生き延びるためには再就職先を探す他はないが、これまで働いてきたレストランのような業務に再び就く気はおきない。最低限の生活すら維持困難な低賃金に甘んじながら、ワーキングクラスのブラジル人と丁々発止とやりあう気力がもはや湧かない。

いっそ帰国してしまおうかという考えが頭をもたげていたが、その一方で、ここまで粘ってきて、永住ビザ獲得までもう一歩というところで投げ出してしまうのも癪である。さりとてこの国で住んで間もない頃のような、ブラジルで生き延びてやろうという腹の底から湧きあがる闘志が枯渇している。そんな魂の火がぶすぶすとくすぶっているような気分で過ごす日々のなか、その電話が鳴った。

挨拶の後、彼は「カイロプラクティックをやってみないか」と切り出した。治療所を経営しており、日本人のスタッフを探していると言う。彼は私が勤めていたサンパウロの出版社の社長と交流があり、人材探しの件で相談したところ私を紹介してくれたとのことである。

だが、カイロプラクティックの名前だけは耳にしてはいるものの、そこで何が行われるかについては一切知らない。仕事のイメージを掴みかねる私に対し、近日治療所内でスタッフの親睦会を催すので、一度顔を出したらよいと言われ、当日訪問する約束を交わした。

カイロプラクティックとは、要は手技によって背骨を中心に姿勢を矯正し、腰痛などを治す技術らしい。私はその治療を受けたこともないし、ましてやそのような技術を習ったこともない。彼より「肝心なのはこの仕事が好きになれるかどうかなんだよね」と言われても、見当のつかないものに対して答えられる筈もない。私のもっぱらの関心事は明日に飯が食えるかであり、永住ビザを習得できるかである。

数日後の夕刻、彼の治療所を訪れた。こじんまりした建家だろうという私の想像以上に広大な敷地面積を持つ一軒家であった。受付と待合室の他に治療室は大小合わせて5室、さらにパーテーションとカーテンで仕切られた簡易治療室を合わせると最大7名を収容できる。スタッフも5名の施術家がおり、彼等は全て日系人であった。受付係と事務員を合わせると総勢10名を抱えるそれなりの生業であった。

スタッフは彼のことをドトール(先生)と呼ぶ。会話はポルトガル語が主体のなかに、ときおり日本語も交わる。フェルナンドという20代の、田舎田楽の猿田彦のような顔をした日系人は日本語が堪能で、彼とドトールは日本語で話すのが常である。ビールやワインを飲みながら、フェルナンドはこの治療所のことや、カイロプラクティックについて説明してくれた。

ドトールによると、彼の事業は二つの柱があり、ひとつはカイロプラクティックの治療所の経営であり、もうひとつは健康器具の販売である。彼はそのための会社を別に立ち上げており、もっぱら治療所を訪れる患者向けに腰のサポーターや枕、腰椎を伸ばす運動器具等を販売しているのだ。

彼は事業の拡張に並々ならぬ関心があるようで、かつては本業の他レストランの経営を手掛けたが失敗し、手放したという経緯はソデさんから聞いていた。その熱は未だ冷めやらずで、新事業、それもエノキ栽培について熱く語り始めた。あのシコシコとした食感はブラジル人の好みに合う筈でありながら、ブラジルにはエノキが流通しておらず、もし販売したならば一気に広まる筈であると主張した。確かにブラジル人はマッシュルームの他にも日系人の栽培するシイタケやシメジを好み、日本料理屋ではシイタケ料理は定番料理のひとつである。だが、健康産業とは無縁なエノキビジネスがそう簡単にできるのだろうかと私はやや訝った。

ドトールは私の任務としてエノキ栽培の研究をして欲しいと言い、駐車場の裏手に放置されているビニールハウスを圃場とし、栽培のために必要なものをリストアップしてもらいたいと言う。また、健康器具を治療所に訪れる患者に販売してもらいたいと言い、インターネットから日本の健康器具に関する情報を調べ、ブラジルで販売できそうな商品を探して欲しいとも言う。さらにはマッサージを覚えて、ゆくゆくはカイロプラクティックの技能も習得してもらいたいとまで言う。要するに何でもやって欲しいということであり、実際そんなことがいっぺんにできるのかどうか私には皆目想像がつかない。

私としてはもともとブラジル国内で何か日本製品の販売を手がけたいという願望があったので、ドトールの提案は興味をそそり、後学のためにも役立ちそうであった。ブラジル生活に疲れを感じており、身体の芯には倦怠が巣食っていたが、降って湧いたこの機会はまたとない幸運であり、それを活かさない手はないと思った。

後日給与についての打ち合わせをし、1000レアル(5万円)という生活維持最低水準ながら生き延びられる目処がついたので、ドトールの元で働くことになった。その際、ユニフォームは自前で揃えるよう申し渡され、エノキ栽培のために圃場用の長靴も揃えて欲しいと言われた。

5月23日より勤務開始。なけなしの金で買った新品の白衣をまとうと、ドトールは「おお、貫禄が出るなあ。君はこの業界に生まれついている運命なんだよ」と調子のいいことをのたまう。私は「一式揃えた甲斐がありましたね。白い長靴も買ったのですよ」と言うと、「長靴?なんだそりゃ?」 驚いたことに、彼は数日の間にすっかりエノキ栽培についての関心を失っていたのだ。

さらにドトールは「まがみ君をスタッフに紹介するわけだが、施術のできない君をいきなり迎え入れたとなれば少々具合の悪いことがあるかもしれない。君は東日本大震災の被災者ということにして、私を頼ってブラジルまで逃げてきたということにしようじゃないか」と言い、私をいっそう唖然とさせた。数日前に治療所のスタッフとは飲み会で顔を合わせており、私がブラジルで5年近く生活していることを皆知っているのである。ドトールの気まぐれな思いつきの数々に早くも当てられて、私はソデさんに続き、これまたブラジル暮らしが似つかわしい御仁の下で働くことになったと嘆息した。

愚者無得

2012-02-09 19:45:09 | Weblog
(この記事は時間的に「3月11日」に続くものである)

生活資金の乏しい中、仕事を辞めた私に残された時間は2ヶ月である。その間に商売のアイデアをひねり出し、収入を得なければブラジルで生活を続けることはできない。

日本で不足し、必要としているもので、私がブラジルで入手でき、販売できるものは何か。日本で欠乏しているものに関してネットで調べると、ミネラルウォーター、ガソリン、トイレットペーパー、インク等々果ては棺に至るまで、いろいろあるようだが、個人が扱える代物ではない。

そのなかで1点これならば扱えそうだという代物があった。ヨウ化カリウムである。原発事故で放射性ヨウ素が地上に飛散しており、これが人体に入り甲状腺に蓄積するとガンリスクが高まる。ヨウ化カリウムの服用により甲状腺への蓄積が防げるとされ、放射能汚染度が高い地域では需要が高まっているという。

原発事故が発生して2週間が経った今、政府および東電発表によると事故は収束に向かっており、放射能が放出されてもただちに人体に影響はないレベルだというコメントを繰り返している。しかしながら、これまでの彼等の発表と現実の間には大きな隔たりがある。もし今後新たな爆発が起こり、放射能が関東一円に強く降り注ぐ事態になれば、ヨウ化カリウムの需要は爆発的に高まるであろう。

国内の在庫が切れている間、ヨウ化カリウムの量産体制が整うまではブラジルから直接販売できるのではないか。割高な送料のために販売価格が高くなったとしても、命には代えられないと考える人が、状況次第では先を争って購入するようなことになるかもしれない、そう考えた。

ヨウ化カリウムをブラジルから日本へ輸出するという商売が成り立つにあたってはいくつかの問題点があった。

まず、この国でヨウ化カリウムが手に入るかどうかだ。手始めに近所の主なドラッグストアを回って尋ねたが、どの店も置いていないと言う。調剤薬局にはあるとのことで近所の薬局で尋ねると、扱ってはいるが病院の処方箋が必要だと言う。私は応対する薬剤師に、家族が日本にいるが、向こうではヨウ化カリウムが不足し手に入らないので送ってあげたいと懇願すると、彼も日本の原発事故に関するニュースを連日テレビで見聞きしていることから憐憫の情に駆られたようで、そういうことであれば処方箋なしでも出そうということになった。30日分のカプセルで15レアル(約700円)であった。

ブラジル人薬剤師の情けに訴えるお涙ちょうだい作戦で、どうやら手に入りそうだ。1軒の薬局から大量に買うわけにはいかないが、クリチーバ市内には調剤薬局は無数にある。ネットで薬局の所在地を調べ、地図にペンでマークしていく。ふと、これが本当に商売になるのかしらとの不安が入道雲のように湧き上がるが、藁にすがるがごとくその作業に精力を傾注した。

法律上の問題も考えなければならない。日本に住む日本人が海外より輸入する場合、厚生労働省の個人輸入に関する見解によると、個人使用に限り、処方薬ならば1ヶ月分の用量であれば認められるとある。

では、販売側はどのような規制があるのだろうか。私はブラジル国内にいるのであるから、法律に触れるとすればブラジルの法律であるはずだ。だが、これは調べるのが面倒だ。一般に各国政府は自国民保護の観点より、輸出より輸入の方に厳しい規制を定めていると、ジェトロの医薬品輸出入に関するガイドには書いている。そこで思うに、おそらくブラジル政府のことだから輸入に対してはうるさいけれども、自国製品の輸出に関しては麻薬などではないかぎりたいしたチェックは働かないと憶測した。

念のために国際運輸業者FEDEXの窓口でヨウ化カリウムを送ることができるかと聞いてみると大丈夫だという。これで安心、と思うのは日本の窓口での話しであり、ブラジルではいかなる一流会社であれ、窓口嬢が替わると説明内容が変わってしまうのが常なのだ。とはいえ、一度に大量に送付するわけでもなく、ブラジル的結論として、この件はこれ以上考えず、なるようになるさということにした。

最後の問題は、いかに日本人に買ってもらうかである。当然ネットを活用するわけだが、そこで、原発事故に関するブログを立ち上げ、事故の状況、政府対応の問題点、安全に関する情報を発信しながら、ブログを閲覧する読者に対してヨウ化カリウムの入手案内を併記し、興味のある方にアクセスしてもらうような仕組みを考えた。

ブログのタイトルは、「福島原発事故ウォッチ From Brazil」とし、初稿は4月1日にアップした。第2稿は4月4日にアップ、およそ3日おきにブログを更新するつもりであった。内容については、新聞記事をベースに原発事故を検証し、問題の本質がどこにあるのかを突き止め、さらには日本が再生するにはどの方向に舵を取るべきかを考えるといった、割と硬派な記事に仕立てられた。

ところが、ジャーナリストでもなんでもない私にとって、検証作業は恐ろしく時間がかかり、やたら骨の折れる仕事であった。ブログの読者を獲得するには質の高い情報を高い頻度で発信することが前提である。さらにそれらの情報は読者にとって高い関心を惹くものでなければならない。この3つの前提を維持することがいかに難しかったかは、第3稿の脱稿が5月1日と遅れに遅れたことから忖度していただきたい。

その間、ヨウ化カリウムの需要は日本で高まるかと思いきや、全くその気配がない。日本の友人に調べてもらったところ、確かに東京都内でヨウ化カリウムは入手しにくくなっているが、特にそれがないからといって都民が危機感を持っているかといえばそういうこともなく、当の友人自身、それがなくても一向に困らない様子である。

ブラジルより岡目八目で日本を眺めるに、これだけ政府や東電による情報隠蔽があるのだから、マスコミ発表を鵜呑みにするのは危険であり、もはや国民ひとりひとりが自分や家族の身を守るために情報を積極的に収集し、己の判断で行動しなければならないはずなのだ。そう私は考えるのだが、どうも日本人全体として、政府、東電が唱える「ただちに危険ではない」という呪文により、なんとなく大丈夫だという空気あるいは共同幻想に包まれているようにみえた。

一方、日本に向けてヨウ化カリウムを販売するという行為に対して私自身、次第にやましさが募ってきた。営利目的なので、原価700円に送料、利益を乗せれば販売価格は5千円以上になるであろう。現状ではその値段で買う者はおらず、もし買い手が現われるとすれば、それは原発に最悪の事態が訪れたときであろう。

私としてはお金儲けがしたいわけで、それには原発事故が収束してしまうと困るのである。逆に事態が悪い方向に進むことでビジネスチャンスが生まれる。しかし、それではまるで死の商人、武器商人と同じである。商品の性質は正反対と言えるが、販売環境におけるモチベーションは同じ方向性を向いている。

ブログは遅々として更新が進まず、したがって読者数も皆無に等しく、体裁上は原発事故を憂い日本国民の情報リテラシーの向上に寄与する目的としながら、真の目的はヨウ化カリウム販売による金儲け、しかも私にとって望ましい状況は日本国民にとって望ましくない状況になるというジレンマが私の気持ちを萎えさせていった。

ブログは3本の記事の後、もはや更新されることはなく打ち棄てられた。結局ヨウ化カリウムのことについて触れることもなかった。お手上げである。こんなことしか思いつかない自分は、結果として商才がないということなのだろう。ブラジルで成功する見込みはなさそうだ。日本に戻ろうか、そう思い始めた。

包容力のある社会

2011-12-30 11:48:38 | Weblog
ブラジルの串焼肉が好きだ。日本の焼き鳥よりもふたまわりほど大きな牛肉や鶏肉の角切りを炭火で炙り、キャッサバ芋の粉をまぶして食べる。リオやサンパウロでは街のいたるところに露天商が道端で串焼肉を売っている光景があったが、ここクリチーバではあまりお目にかかれない。それでも、地元民が通勤に利用するバスターミナル周辺では、もくもくと煙を立てて香ばしい匂いが充満する一角を見つけることができる。

先日(12月13日)も串焼肉を食べにバスターミナルへ行った。着いた時間が早かったのか、いつもの場所にあるべきはずの人の姿と煙はなかった。その場所は靴屋の軒先であり、店が閉まっていないため、焼肉の営業ができないとみえた。

しばらく後に再び立ち寄ると、靴屋はすでにシャッターが閉まり、串焼肉屋の主人がちょうど網に赤身肉を乗せて、串をせわしなく回しているところであった。屋台すらなく、若夫婦が小さなコンロに炭を詰めて、網の上に串肉を置いて焼くという生業である。

主人に聞いてみた。ここで営業をするために、ひさしを借りている靴屋の店主の許可をもらっているのかと。彼いわく、始めるにあたり店主とちゃんと話しをしたという。店の営業時間外ならばということで、相手は認めてくれたらしい。

私はそれを聞いてブラジル人の寛大さに感心した。靴屋のシャッターはぴっちりと閉まっているが、それでも店のすぐ前でもうもうたる煙が立ち昇っているのだ。それが毎日のことであれば、多少は店の中まで臭いがしみ込んでしまうのではないか。そもそも話し合いの際、靴屋の主人は商品への損害を避けるために店の前での営業を断った方が無難である。ブラジルといえども無許可の露店は取締りの対象なので、断られても彼等は強く出られない。

このようなことを尋ねた背景には、あるネット記事を読み、日本人の非寛容の風潮に唖然としたからであった。12月13日付の産経新聞に、バスの運転手が営業運転中にトイレに行くためにバスを停めてファミリーレストランに駆け込んだということが記事になっていた。日本は生理現象すら許さない国になってしまったのかと驚き、考えさせられ、怒りすら湧いてきた。

このささいな出来事を報道した理由は何だったのだろうか。私が読んだのは産経新聞発のネット記事であったが、朝日新聞の神奈川県版の紙媒体が最初に取り上げたという。

トイレに立ち寄ったことで要した時間は1分半、約20人の乗客からの苦情はなく、運転手がバスを離れるに際し、乗客を危険に晒したという事もなかったようだ。ニュース性があるとは思えない。

それでも、上述の新聞社はこの出来事を報道することが公益性に資し、世間に広く伝えるに値する重大な出来事と判断したということであろうか。新聞沙汰という言葉がかつてはよく使われたが、「公共交通の乗務員はむやみに職場を離れてはならぬ。いかなる理由であれ職場を離れた者は制裁を受けねばならぬ」との天の裁きを下したのだろうか。

それとも、最近は新聞社といえども人目を引く記事であれば紙面もネットも同様に全て無条件掲載し、収益を得るためには倫理や品格などかなぐり捨てて、なりふり構わなくなったのであろうか。実際このネット記事におけるアクセス数は大変高く、いわゆる「高視聴率」であった。

あるいは、世を映す鏡を標榜するつもりで、バス運転手の行動を記事にして世間の判断を仰ごうとしたのだろうか。世論の賛否を問うためにひとりの運転手を俎上に載せるという行いは、魔女裁判と同質のように思えるが。

いずれにせよ、わずかな過ちや正当な理由をともなう変則的な行動に対してさえ、目くじらを立ててあげつらい、排除しようとするマスコミや世間の風潮に、私は息苦しさを覚えるし、日本人が自ら楽しく生きる道を塞いでいるようにみえる。

東日本大震災が起こった際、世界が驚嘆したのは、被災地の無秩序状態の中でも被災者はパニックに陥らず、略奪は起きず、皆が一団となって困窮している人々を助けている光景であった。日本人の高いモラルと協調性が大震災によって図らずも証明された。

他者に対してかように思いやりのあるはずの日本人であるが、一方で国民の多くが感じているように日本の社会はどうにも住みづらい。その原因のひとつに、日本人は規律や調和の信奉が嵩じるあまり、自縄自縛に陥っているのではないか。

思うに、現代社会において正論は幅を利かす一方である。道を不法占拠する露天商は往来の通行を妨げるために排除され、牛肉の生食は集団食中毒事件を受けて規制が厳しくなり、大臣の不用意とはいえ一面の真理をついている発言に対しても被災者の心情を傷つけたという理由で責任を問われ、そしてバス運転手のトイレも非難の対象になりかねない。

それぞれの事由が非とされる要素を大なり小なり持ち合わせているため、その点を正論で突かれると反論が難しい。しかし、社会の寛恕がないと、これでは正論の詰め将棋になってしまい、社会は役人による規制のみが「正しい結論」とされ、その結果ひどく窮屈でつまらない社会になってゆく。やがてはその反動で暴力的で非論理的な風潮が勃発し、社会を押し流してしまうかもしれない。

寛容のクッションが利いた住みやすい社会にするにはどうすればよいだろうか。震災時にみせた日本人のモラルが伝統や習慣、そして集団教育によって会得してきたのだとすると、包容力のある社会をめざすには、与しやすい正論のみに囚われて思考停止するのではなく、他人の行為とそれが引き起こすプラスマイナスの社会的影響について、彼らの立場に自分を重ね合わせて慮る想像力と、寛容を含んだ新しい社会倫理を生み出す力が個々人に求められるのではないだろうか。

さて、串焼肉屋の目と鼻の先に、ひとりの身なりの薄汚れた男がダンボールを置いてタバコを売っている。あまりに貧弱な商売道具なので、通行人は気付かずに段ボール箱を蹴飛ばしてしまい、タバコ売りの男がひょっとこ顔で睨むとあべこべに通行人から文句を言われている。そんな気の毒なタバコ売りに串焼肉屋の夫婦ともうひとりの露天商が加勢して通行人を野次り、通行人は退散した。街角の露店商人達は皆仲間であり、弱い立場であるがゆえに助け合う。両替なども皆乏しい所持金から小銭を回し合う。

タバコ売りが彼の売り場を離れている間、盲人が杖をつきながら例の段ボール箱に向かって歩いていた。串焼肉屋の主人は脱兎のごとく盲人の傍につき、彼が進むべき道筋を教えて事なきを得た。主人が盲人に笑顔で声をかけているその行いに、私はブラジル社会に串焼肉のような味わいを感じたのであった。

3月11日

2011-11-26 00:43:37 | Weblog
ブラジミールのオーナーへの口利きがあり、なんとか勤め続けることができたが、オーナーへの不信は心にしこりとなって残り、この店で一生懸命働く意欲がしぼんでいった。代わりにブラジル人に対してうんざりする気持ちが雨雲のように胸中に広がっていった。陰湿なところはない代わりに、我田引水は当たり前で、口約束は寝言と同義のごとく当てにならず、責任を逃れて楽することが賢い生き方とばかりに言を左右にしてうやむやにしてしまうエゴイストばかりである。

現在の自分の境遇を考えると惨めな気持ちになる。洗い場に運ばれる客の残り物をがつがつと頬張るウェイター達を見るにつけ、こんな野蛮人と一緒に最低レベルの賃金で働き続けなければならないのかと思うと、なんともバカらしく、この国に住み続ける意欲すら失われてくるようであった。

それでもこの仕事を辞めてしまうと生活がおぼつかない。半年後にビザの更新時期を迎え、永住ビザへの切り替えが可能になる。2年前に恩赦で就労ビザを手に入れるまでは不法滞在をしてまでブラジルにしがみついていたのであるから、念願の永住ビザの取得を目前にしながらブラジル生活をあきらめるには未練がある。

ただし、このまま働き続けたとしても、今の職場の給料では月々の生活が赤字になってしまう。就業に当たり、オーナーからは3ヵ月後に昇給の約束を交わしていたので、そうなればかろうじて生計が立つ。だが、一時は私をクビにしようとしたオーナーである。すんなりと約束を果たしてくれるかは疑問であった。

3月になり、給料の交渉をする時が来た。とにかく言うべきことは言おうと、白髪の婆タヌキのようなオーナーと対峙した。

当初の約束どおり給料を上げてほしいと言うと、案の定オーナーはとぼけて、「約束などした覚えはない」と言う。「いや、3ヵ月後には1000レアル以上の給料にするという条件で私は入ったのだ」「そんな話しは知らない。客の入りも悪くなっているし、これ以上給料を上げることなど難しい」「それでは話しが違うではないか」「知らないものは知らない」
日系人とはいえブラジル生まれのブラジル育ちの人間と口約束をするとこのようなことになる。この件に関しては、さすがのブラジミールも彼女を説得することは難しかった。オーナーにとっては、クビを切ろうとした人間が昇給を要求するとは片腹痛いといったところだろう。

もはやこの職場で働き続けることが苦痛となっていたが、さりとて他の職場に移るあてもなく、永住ビザを得るまでは我慢して働こうかどうしようかと迷いながら日暦をめくる生活を続けるなかで、やがて運命の3月11日を迎えた。

そのとき私は東京の友人とチャットをしていた。たわいのない話題に興じているといきなり、「オ 地震」「かなり 大きい」「まじで やばい」という文字が飛び込んできた。この幼友達は大仰に物申す性格なので言葉どおりに捉えていいものかと思った矢先に、文字では事の重大性を伝えきれなくなったか、スカイプ電話がかかってきた。

震源は東北だが、東京も震度5の揺れを観測し、余震はひっきりなしに起こっているという。友人が彼の家族に連絡を取っている間、私は古い木造住宅に住む両親の安否が気にかかり、スカイプコールをしたが応答は無かった。とはいえ、父親のパソコンがスカイプに接続されているということは家は倒壊していないわけで、一応安心した。サイトで情報を探るうち、東北各地で津波により大きな被害が出たというニュースが続いて入ってきた。

私の住む世界は地震とも津波とも無縁な、静寂が包む夜半の頃である。パソコンの12インチのモニターを通じて、地球の裏側で大災害が発生していると報じられても実感が伴わず、まるで映画か夢の話しか、あるいは米国の同時多発テロをテレビで見ているような、私がいる現実の世界とは切り離された出来事であった。

とはいっても、現在起こっていることはまぎれもなく我が祖国日本での出来事であり、それは私の存在の一部ががん細胞のように突然変異してしまったということであり、今は痛みを感じないがやがて自分の存在の根幹に関わるような、そんな重大問題であるはずであった。私はひたすらパソコンに向かい、何が起こっているかを追い続けた。

時の経過とともに、日本の被害状況の深刻さが凄惨な映像とともに伝わってくる。津波による甚大な被害はブラジルのメディアでもひんぱんに取り上げられ、福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故は、片時も目を離せない状況となっていた。私がブラジルで茫漠たる前途の中で日々悄悄と過ごしているうちに、日本では未曾有の出来事が進行している。いまこそ日本が必要としている何かが、ブラジルできっと見つかるはずだと私は直感した。私はそれを探すために頭と身体をフル回転させるべきであり、無為無策のまま今の職場に留まっている道理はないと思った。日本で不足するかたわらブラジルではたやすく手に入る物資をとり扱うことで大きなビジネスチャンスが生まれるはずであり、また、この機に乗じずして、ブラジルで成功できるはずがないとも思った。

私はオーナーに店を辞める旨伝えた。

ブラジミールは私が店を去ることを大変残念がって、「いつでも遊びに来なよ。ここの飯代は俺が出すから」と言ってくれた。教育、道徳レベルが高いとはいえないこの職場の従業員のなかで、彼は傑出した存在であった。働き者で、料理からマネージメントまでオールマイティにこなす彼は、やがて彼自身の店を持つようになるだろう。彼にはこれまでの厚意に感謝するとともに、将来の成功を願った。

彼の成功へのしっかりした足取りと比べて、私は収入の途を失い、貯金も僅かで干上がるまでさほどの時を待たない状況だ。ビザの更新を控えるが、更新時に無職であれば永住ビザが下りないという話しである。さしあたっての商売の目算があるわけでもない。いちかばちかの闇雲勝負にサイは振られたのだ。日本をどん底に突き落とした運命の女神は、私にだけは微笑んでくれるのか。私はパソコンにかじりついて日本の情報を集めつつ、ブラジルで何ができるのかを模索し続けた。

苦闘

2011-09-04 23:03:58 | Weblog
ソデさんの店ではクラッキ(名人)と呼ばれたこともある私は、この職場でも認められようと一生懸命働いた。

夜の営業が始まるまで料理の仕込みを行なうが、包丁を使う作業の時は、他の誰よりも早く済ませることを心がけた。厨房内の他の連中を見渡しても、あのビスポですら、包丁さばきに長けているとは言えない。だいたい使う包丁が家庭用の万能包丁、しかも柄がぐらついている安物なので、これでは包丁の腕を磨くには無理がある。包丁使いに関しては負けたくないという意地もあり、たいていの作業においては他の誰よりも処理を早く終わらせた。

もちろんこれまでしたことのない作業となると他人より遅いものもある。それでも、真面目に仕事をこなしていけば、慣れてくるうちに作業速度も上がり、他の連中以上の腕前になると思っていたし、営業時間までは、たいていの従業員がおしゃべりをしながらのんびり作業しているなかで、無駄口をたたかずに神経を集中させて仕事をしている私の姿を、誰も働きが悪いとは思っていないだろうと、そう考えていた。

ところが、採用されてから10日程過ぎたある日、突然オーナーが厨房担当者のミーティングを招集した。会議内容を聞いて我が耳を疑った。私の勤務態度が悪いというのだ。

苦情を訴えたのはサレッテという中年の女性で、彼女は昼食担当のシェフである。彼女は夜6時までの勤務なので、私は3時間ほど彼女と作業を共にする。

彼女いわく、私の仕事ぶりが日に日に怠惰になっており、やるべき掃除もせず、自分が全てをやっている、との言い分だ。私は面食らった。やるべきことを何も言わずに、いきなり文句を言われても困る。自分は与えられた仕事はきっちりとこなすので、しっかりとルーティンワークを指示した上で評価して欲しい、と反論した。

ブラジル社会でよくみられるのが、自分の意見を通すためなら、あるいは自分が助かりたいためなら思いつく限りの理屈や言い訳を並べるのである。サレッテの場合も、彼女の不平は私が掃除をしないということにあるのだが、それを正当化するために、私を怠け者に仕立て、野菜の切り方まで文句をつけるという、手段を選ばない申し立てである。

それにしても、彼女の苦情は私にとっては青天の霹靂であった。自分が思い描く自分の姿が、他人にとっては全く違う姿に映っているということであった。業務マニュアルがなく、業務を筋道立てて教えることに不慣れなブラジル人の職場で彼等とうまく仕事をするためには、仲間内でのコミュニケーションの中からいかに自分が振舞えばいいかを見つけていくものかもしれない。

しかしながら、コミュニケーションといっても、単なる情報の伝達だけではない。日本の社会における、あうんの呼吸だとか、空気を読むといったような、その世界に特有のコミュニケーションがブラジルにも存在し、それが理解できない者は社会に受け入れられないといった、そんな見えない壁が彼等との間にあるのかもしれない。

いったいブラジル特有のコミュニケーションとは何かということだが、この国では日本以上に言葉による修辞的な表現が必要とされるように思われる。内容よりも形式を重視する傾向のあるブラジル人にとっては、言葉で表現する行為自体が重要であり、それこそ理屈や言い訳を並べてそれらが脈略の無い思いつきからであっても、雄弁でありさえすれば人は納得し、通用してしまう社会なのだ。その逆に、寡黙な者はいくら人より働いたとしても、ブラジル人は彼の背中からは何も感じないのである。

勤め始めて1ヶ月が過ぎる頃にはたいていの作業にも慣れ、スピードも上がってきた。包丁を研ぐのにこの国では研ぎ棒を使うが、使い方の知らなかった当初はサレッテに大声で笑われたものだが、やがて他の連中と遜色の無いほど、速く包丁を研げるようになった。

店の営業が始まると、ビスポの指示のもとで揚げ物や焼き物を作った。ビスポは、注文が立て込んでくると頭に血が登り、何やらわめきながらやっつけ仕事をしてしまう典型的なブラジル人ではあるが、普段は温厚な男であり、実直な性格と、自分の役割に対して責任感をもって臨んでいる態度に私としては好感を持っていたので、彼の指示にはよく従った。彼もまた、手を抜かずに働く私の態度を評価していたようだ。たまに帰りがけにバーでビールを一緒に呑むこともあった。

入店してから2ヶ月程経った頃、私はオーナーに呼び出された。彼女の開口一番発した言葉が、解雇の宣言であることに再び我が耳を疑った。理由は何かと問うと、私のポルトガル語の理解力が低いので、他の従業員とのやり取りに齟齬が生じ、仕事が遅れるというのだ。

確かに私のポルトガル語の理解力は低い。ブラジルへ来て5年近くなるのだが、歳を取ってしまった悲しさで、耳から言葉を覚えることがもはやできず、語学の習得が絶望的であることを悟り、それでいっそう勉強をしなくなり、進歩は完全に止まってしまった。

注文票に書かれた文字の判読に時間が掛かることもある。ウェイターが書く字は乱雑で、メニューの表記が統一されず、書き間違いもひんぱんだ。長年の経験を積んだビスポならともかく、まだ日が浅い日本人の私には瞬時の識別は難しい。ラーメンハウスでは、オーナー兼シェフのソデさんが日本人なので、雑な字を書いたウェイトレスは怒られていたものだが、ここではそうはいかない。

このように、外国人である私にはいくつかのハンディがあるのだが、それでもクビになるほど仕事ができないわけはないのだ。

ウェイターからの注文は、シェフであるビスポが受けるため、私が彼等との間に介在する機会はごく少ない。基本的にビスポからの指示で私は動くので、彼との間がうまくいけば仕事は順調に進む。これまでの経緯から、彼が私に対して強い不平を持つとは考えにくい。

注文が一時に集まってしまうと注文票が溜まることがあるが、現状では私に代わる働きができる助手はいない。私の前任の女の子と若い男のふたりが同じ業務に就くことができるが、上記のハンディを差し引いても、私の方が仕事は速い筈である。

私がオーナーに理由を正しても、彼女は「難しい、難しい」と首を振るばかりである。一方的に理不尽な通告をするオーナーの元で働く意欲が急速にしぼんでいったが、それでも理由が判然としないまま去るのはいやなので、「ビスポに直接尋ねて欲しい。彼が私の仕事が遅いと言ったら私は去る。でなければ納得しない」と食い下がると、オーナーは、ではあらためて確認しようと言った。

私はマネージャーのブラジミールに事情を説明した。私に対して理解を示してくれる彼は、自分からオーナーに話してみると言い、その翌日彼の口より、私はそのまま勤められるということを聞いた。

しかしながらオーナーの私への見方には非常にショックであった。彼女が正当に私を評価しないのはなぜかと思い悩んだ。ある時期より彼女の私に対する態度が、他の従業員に接するよりもよそよそしくなったとは感じていた。原因は分からない。日系人は日本人に対してコンプレックスを持つという。何か屈折した思いが表われたのだろうか。

オーナーから解雇宣言を受ける数日前、その日は平日であったが予想外の来客があり、店内全ての部門でてんやわんやになった。営業終了後、私のいる厨房部門は先に帰ったのだが、寿司部門と接客部門はオーナー以下ミーティングを行なったようだ。そのときにウェイターから私のコミュニケーション能力の不足について不平が出たのだろうか。彼等と接する時間など、全体からすればなんらの影響も及ぼさないのであるが、誰かが責任を逃れたいあまり、私の名前を出して責任を押し付けようとしたのだろうか。

ブラジル人に対する憤懣が脂汗のように私の体内から滲み出してきた。

挑戦

2011-07-14 23:07:39 | Weblog
11月のある日、私は一軒の寿司レストランの前に立ち、ブザーを鳴らした。入れという声がしたので、鉄の門扉をスライドさせて中に入り、裏に回ると、狭い中庭を隔てた別館の奥まった場所に、大テーブルを囲んで数名のブラジル人従業員が食事をしていた。私が挨拶するやいなや、彼等も私に明るく挨拶を返した。ブラジル人だけの職場の雰囲気がどういうものであるのか想像し難かったが、彼等の態度からは悪くない印象を持った。

私が職を探していることを知った同じ宿舎の同居人が、彼の娘を通じてこの寿司レストランを紹介してくれたのだ。店のオーナーは日系人ということだが、職場内では一切がポルトガル語で話されるに違いなかった。食事中の彼等は興味シンシンに私を眺め、料理を勧めてくれた。オーナーが到着するまでの間、私は質問攻めにあった。私のような言葉もろくに話せない純粋の日本人を珍客と思ったのだろうが、すんなりと彼等の輪の中に入っていけたことに、まずは敵のアジトにうまく潜入できたような、そんな気分であった。

オーナーは背低で丸顔の70歳代とおぼしき女性である。彼女は二言ばかり簡単な質問をした後、1週間テストをしてから採用を決めると言った。

その日からさっそく厨房に入った。この店の料理場は寿司カウンターと火を使う厨房があり、私は日本人らしく寿司を握りたかったのだが、リオの公園で不恰好な巻き寿司をつくったことはあるとはいえ、レストランの客に出せるような代物はつくれない。前の職場と同じ揚げ物、炒め物で試されることとなった。

厨房内には色の濃い、くいだおれ人形のような目のぐりっとした男が白いコック服を着て調理に当たっている。ビスポという、40歳代の男がこの厨房のシェフである。彼がフライパンを振るいヤキソバや鉄板焼き、キノコの煮物といった料理をつくる。若い混血女性が揚げ物を担当している。以後は私が彼女に代わって厨房に入る。

この店は60~70人ほどの席数で、この街のレストランとしては中規模といったところだ。だが、ソデさんのラーメン屋と比べるとはるかに大きい。昼の営業は、客が皿に好きな料理を盛り、量り売りをするブッフェスタイルで、私が担当する夜の営業は、50レアル(約2500円)で寿司やヤキソバなどの定番料理が食べ放題のコースか、もしくは一品料理のアラカルトとなる。

ビスポと女の子は厨房内をクルクルとせわしなく働いている。だが、よく働くというよりは無駄に動き回っているように見える。スペースが限られているとはいえ、盛り付け皿が別室に置かれているため、注文ごとに別室まで取りに行っている。揚げ物にかける塩など、あらかじめ別の小皿に取り分けておけばいいものを、いちいち女の子がビスポの側にある狭いスペースに置かれた塩を、彼の肩越しに背を伸ばしてつまんでいる。コンロに点火するための着火棒もビスポの側にしかなく、彼女の側にもうひとつ設置するだけで楽になりそうなものなのだが。ソデさんの効率第一主義のなかで働いていた私としては、余分な動きが目に付いてしまう。

料理の注文の大半は定番の食べ放題メニューなのだが、たまに注文が入るアラカルトメニューの種類がやたらに多い。アラカルトの注文が入るとビスポはその調理にかかりっきりになる。天ぷらの盛り合わせなどは作業工程が多く、たいへんな手間と時間を要する。彼はこの道でずっと働いてきただけあって、料理には通暁している。トロピカルフルーツのソースがけなど私の知らない料理もあり、彼並みに全てのメニューがこなせるようになるには案外時間がかかるような気がしてきた。

ビスポは無駄口をさほどたたかず、こつこつと注文をさばいていく。ウェイターがしばしば料理の内容について尋ねるが、彼は忙しい最中であろうとていねいに彼等に教える。彼の実直な性格が、他の従業員からの信頼を勝ち得ているようだ。それにしても、ウェイター連中は揃いも揃って基本的なメニューの内容ですらビスポに幾度となく相談している。どうやら、ウェイター連中はビスポに頼ることで覚える努力をする必要もなく、客への説明間違いによる責任を逃れることができ、ビスポは彼等に頼られることで彼の存在感を増すことができるという、そういう持ちつ持たれつの構図ができているのかもしれない。

8時を過ぎるとグループ客が次々に押し寄せ、注文が急増する。すると、そんな真面目なビスポですらブラジル人の本領を発揮し、やっつけ仕事になる。じっくり焼くべき厚手のサーモングリルを急いで調理しようと強火にするので、表面が焦げて中が生焼けのサーモンとなり、シイタケと野菜のホイル蒸しは規定時間前にコンロから外されるので、ホイルの中は生煮えの野菜と思われる料理が客に供されるが、いっさいおかまいなしである。切羽詰ると味は二の次となり、いかに目先の注文をさっさと片付けるかが主眼となる。ソデさんに限らずとも、これがブラジル流であるのかと思い知った。

ビスポを含めた従業員の言葉はスラングが多く聞き取りにくい。そのため理解が遅れることもしばしばで、何をしていいのか戸惑うことも多かった。それでも厨房内ですることは限られており、一度動き方を覚えれば、次回はなんとなく言いたいことが伝わってくる。言葉のハンディはソデさんの店で修行した成果といえる機敏な動作で補うべく努力した。のんびりしがちなブラジル人から遅いと言われたくないという日本人の意地もあった。

1週間が経ち、再びオーナーと面談した。給料についてが最大の焦点であった。彼女は私を雇うといったが、その金額は私の希望額よりも少なかった。私としては生活最低ラインである月1000レアル(約5万円)を下回るわけにはいかなかった。話しが平行線となったとき、マネージャーが入ってきた。彼は30代前半の白色系だが、寿司職人であり、店の運営の中心的存在であり、オーナーから全幅の信頼を得ている。彼はオーナーに、3ヶ月間は仮社員扱いで給料850レアル、3ヶ月以降は正社員として1000レアル以上ということでどうかと進言した。

オーナーは、それでは3ヶ月以降については働きに応じて給料を決めようと言う。私は、その時には給料は1000レアル以上もらえるのかと念を押すと、オーナーは、ビスポのような腕前になったら1500レアルは出すと言う。では、3ヵ月後にまた相談しましょうということで、私の仮社員での採用が決まった。

だが、ブラジルでは決してこのような曖昧な口約束はしてはいけないことが後に分かる。

告別

2011-04-19 18:03:26 | Weblog
ソデさんの店に勤め始めて2ヶ月が過ぎた。すでに調理の任は全て私が引き受けていたので、ソデさんは厨房で鍋を取ることもなくなり、学生寮の管理人のように三角の目を光らせながら店内を行き来し、従業員を監視するのが主な役割となった。

時間の余裕ができたソデさんは、昼の営業が終わるとそそくさと外出し、夜の営業時まで店に戻らないことが多くなった。ある日の休憩時間中、彼の誘いに応じた私は、色の薄黒い、狡猾そうな顔をしたブラジル人が運転する車に乗り、とあるマンションの前で降りた。詐欺師の見本のような人相をしたその男は不動産屋で、ソデさんは近年価格の上昇著しいクリチーバの不動産物件を物色しており、内見をする際に不動産業経験のある私の意見を聞きたかったというわけである。

さらに、彼は高層階に位置するこの2DKの住宅に住まないかと話しを持ちかけてきた。彼が物件を購入し、私を店子にして手っ取り早く家賃収入を得たいというもくろみだ。手持ちの資金はないが、店を経営しているということで銀行から融資を受けられるらしい。むろん私にとって分不相応はなはだしい家賃と共益費を払える筈がなく、実現には至らなかったが。

また、彼はたびたび私を空き店舗や売出し中の店舗の下見に連れ出した。ラーメンハウス2号店の計画である。立地と間取りから、どのような形態のレストランを出すのが望ましいかをあれこれ考え、私に意見を求めたりする。彼の、好機と見れば、失敗や借金を恐れず果敢に行動を起こす経営者としての上昇志向に私は脱帽した。

彼がそのような行動をとり始めた背景には、本店の経営が軌道に乗る目処がついたからであり、その理由のひとつに、私が本店のかなめとして機能することを見込んだためと思われた。私の心のうちに、自分の存在あってこそのソデさんの発展だという自負が生まれた。

8月初旬のある日の夕食時、この日は週の中日にもかかわらず客がとりわけ多く、気温が冷え込んだため、客の大半はラーメンを注文した。私は普段よりはるかに多めのスープを仕込んだのであるが、それがみるみるなくなっていった。普段であれば30杯分で事足りるところ、この日はその倍の注文となり、閉店前にスープがなくなった。週末ならばいざしらず、週中にこれだけの客が入ったことは前代未聞のことであった。

ソデさんは日頃スープを切らすなとは言ってはいたのだが、今日に限っては、むしろ60食まで用意できたことに満足すべきではないかと私は考えていた。実際のところ、今日のような予測不可能な客の殺到に対応できるスープを毎日用意していたのでは、傷んで廃棄するスープの量が増えて不経済である。

だが、それにもかかわらず、ソデさんは私の準備不足をなじった。私は憤慨した。ではあなただったら平日に今回以上の量をいつも用意していたのかと、大声で反論した。帝王に対するこの態度に、周囲の従業員は皆固まったように押し黙った。しかしソデさんはそれ以上なにも言わなかった。

これまでは従業員のささいな手抜かりでも、くどくどと文句を言っていたソデさんの態度がやんわりと変わってきた。相変わらず三角の目を光らせてはいるが、彼らを叱る代わりに、言いたい不満を私につぶやき、気持ちを落ち着かせ、頭を整理してから彼等への対応にあたるようになった。ソデさんのカドが取れてきたことで、職場は和やかな雰囲気に変わっていった。私もこの店で存在感を示せることについては満足していた。


労働上の仮契約をしてから3ヶ月が経とうとしていた。本契約への移行を話す時期が来た。私は本契約に際し、一点だけ要望があった。それは週6日の勤務のうち、1日を夜勤免除にしてもらうことであった。

勤務を続けるにあたって私自身には大きな不安要因があった。それは健康面である。午前10時から午後11時までの長時間拘束の勤務は私の体力を奪っていった。途中2時間の休憩時間があり、また昼食時はそれほど忙しいわけではない。だが、営業時間中は大人数のグループ客の訪問に備えて、絶えず緊張感を維持していなければならなかった。もし緊張感を解いてしまうと、とっさの時に対応できず、そのことでソデさんに文句を言われたくはなかった。精神的な疲労が蓄積し、さらには夜間の睡眠が妨げられるようになり、心身が衰弱気味になり、軽く走っただけでひどい息切れをするようになった。

また、店の休日である日曜日には、クリチーバの街はほとんど全ての商店やバーが閉まり、中心街も閑散としてしまう。酒を呑みつつ他の客とおしゃべりでうさを晴らすこともできない。仕事から離れて気分転換できる場所がみつからず、その不満も心にずっとくすぶり続けていた。

私は、ソデさんがその要望を呑むであろうと予測していた。平日の1日のうち、残業時間分4時間をカットして正規時間を昼間にシフトしてもらうだけで、その日の午後は十分に自分の時間を持つことができる。夜の勤務が一日欠けることに難色を示すかもしれないが、彼は私を必要としているに違いないし、私がこのままでは勤務を続けることが難しいという状態であれば、この程度は認めてくれるだろうと思った。

ところがソデさんは言下に私の要望を拒否した。現在の勤務時間はここで働くための条件であるし、もし残業を一部カットしたいというのであれば、ローテーションの問題もあるので、全部カットして別途に従業員を雇うという事態も今後ありうると断言した。ソデさんはこうも付け加えた。「まがみさんには期待していたんだけど残念だよ」

この言葉を聞いて、この店に居続けることはできなくなったと思った。健康面での不安に加え、これまで築いてきた彼との関係が再び3ヶ月前の振り出しに戻って、しかも今後自分にとって居心地のよい環境を再び作り出すことが難しくなってしまった状況で、さらに働き続ける意欲を保てそうになかった。

彼は私に対して、他のブラジル人従業員とは異なり、物心両面でいろいろ配慮してくれた。クリチーバの冬の寒さは厳しく、防寒具のない私に、店の馴染みの駐在員が帰国する際に置いていったオイルヒーターを気前よく私に譲ってくれた。また、たびたび店のワインを開けて一緒に呑んだり、深夜オープンのレストランで食事を奢ってくれたりした。だが、彼の求める条件に沿って働く以外はなかったという点で、私は店の一従業員に過ぎなかった。


去年の8月末に彼の店を辞してから半年以上がすでに過ぎた。いまだに私は彼の店を辞めたことについて、総括ができていない。彼が求める勤務時間をあのまま続けていたら、身体を壊してしまっただろうと思う。ただ、すっぱり辞めてしまったことについて、悔恨の念も残る。彼の期待を裏切ってしまい、彼が私に与えたさまざまな好意を無にしてしまったという思いはある。

もしも、彼が私の要望を認めてさえいれば、彼はよりよい不動産物件を求めて各地を奔走できたかもしれないし、2号店開業に向けて走り出せたかもしれない。あるいは情報収集に役立つ友人達のネットワークをさらに広げるゆとりもできたかもしれない。だが、私が去って以来、彼はこれまでの通りに、厨房に入ってラーメンを作っている。

成功者の仲間入りをしようと大きく動くのであれば、経済成長著しい今がそのときであるだろうに、そしてそのことを彼自身がよく知っている筈であろうに、融通を利かさぬとは何と不器用な思考回路であろうかとも思った。

一方で、周囲全てがブラジル人の中でひとり店を築き上げてきた彼が、数ヶ月前にひょっこりやってきた日本人の言うことにいちいち譲歩するわけにはいかなかっただろうとも思う。ラーメン城に君臨するソデさんの要求に従う者だけが残るという秩序を守ることこそ、帝王にふさわしい行動であろう。そして、ブラジルでは従業員に過大な期待や温情をかけるという行為はそぐわないということを、彼自身この国で体得してきたのかもしれない。

4月に入り、クリチーバの夜も冷え込むようになった。あのときのオイルヒーターは、ユニフォームとともに返したので今はない。彼のお古の、くすんだカーキ色のトレーナーを着ながら、やがてますます寒さ厳しくなる冬をどう乗り越えようかと思案しているところである。

ソデさん

2011-02-26 12:28:31 | Weblog
帝王ソデさんの指導の下、私は仕事を覚えていった。人間必死になればけっこう何でもできるようになるもので、指に切り傷をこしらえながらも包丁の使い方を覚え、火傷跡を増やしながらもラーメンや炒め物をこなすようになった。当初は多客時の注文の多さに混乱したが、やがて身体が動きを覚えていくとともに、何とか対処できるようになった。

営業終了後、ときどきソデさんは私をレストランや居酒屋に誘い、食事や酒をご馳走してくれた。職場を離れ、テーブルを挟んで向かい合ったときのソデさんは、険のある帝王の顔から普通人に戻る。

酒を飲みながら四方山話をするのだが、彼の話題にはステレオタイプ的な思考が散見され、少々退屈に感じることもある。だが、ときおりブラジル人およびブラジル社会を鋭く捉えている発言があり、瞠目させられることもある。

「何でもいいから始めた者勝ちだよ、この国では」という極めて楽天的な言葉に私は感銘を受けた。あれこれ考え、綿密に計画し、計算しても、予想外のハプニングがひんぱんに起こるブラジルでは思い通りに行くことなどまずない。だが、この国の経済は着実に成長しており、新手の商売が巷に出現し、人々の生活も日々向上している。こういうお国柄でありご時世であるならば、とにかく商売を始めることが第一で、たいていは上げ潮に乗っていい結果になるに違いない、案ずるより産むが易いという彼の考え方は、この国で成功するためには不可欠な考え方だと思う。

入店当初には驚かされた大まかな調理態度についても、様子を知るうちに、ソデさん流の考え方が反映されていると思えるフシも出てきた。彼の思想は徹底した効率性の追求である。

厨房には基本的にふたりしか調理人がいない。ガスコンロのバーナーの数も決まっている。座席数もそれほどゆとりがあるわけではない。限られたキャパシティの中で、夜8時から9時半までの短時間に来店客が集中する。

そのため、いかに迅速に料理を提供し、客の回転率を高めるかに最大限の関心と工夫が払われる。一分一秒でも早く料理を仕上げ、注文票を片付けるためには味の仔細にはこだわらない。手間のかかる客のリクエストには応じない。そして、面倒な料理はどんどんメニューから淘汰されていく。ヤキソバはブラジル人が好む日本食メニューの最たるものだが、この店からは姿を消した。調理に手間がかかり、バーナーを占拠する時間が長いというのがその理由である。

一方、ラーメンはこの店の生命線である。ラーメンの利点はいちどきに多数の注文をさばけるところだ。厨房では調理台に並べたどんぶりに手際よく麺とスープを入れて、その後のトッピングの作業をカウンターに預ける。

だが、ここから先がブラジル的な仕事となる。来店客が立て込んでくるとカウンター係が料理の到着をさばききれなくなる。さらにはウェイトレスが客への応対に追われ、でき上がった料理を客席に運べなくなる。その結果、厨房では最適な麺の固さで提供したつもりが、客の手元に届く頃にはノビノビの状態になってしまう。

ソデさんの店は、昭和の頃には日本の商店街でよく見られた中華料理屋を彷彿とさせる。注文をさばくことに手一杯で、客のニーズや料理の質は二の次でも営業が成り立っていた時代があった。だが、やがて時代が味やサービスを追求するようになり、昔ながらの店は淘汰されていった。

だがブラジルでは事情は異なる。店の客の大部分はブラジル人である。彼等のほとんどは日本のラーメンや定食を知らない。そして、クリチーバではいわゆる日本的な中華料理屋はこの店が唯一なので、他店と比較されることがない。

また、ブラジル人の食事は大皿料理が基本である。家族連れや友人グループなど大人数がレストランに集えば、大皿に盛られた料理を皆が取り分けていっせいに食べ始める。ところがこの店では各人一皿が基本なので、この習慣になじまない彼等は、全ての人に料理が行き渡るまで食べ始めない。したがって、先にテーブルに運ばれたラーメンは、食べ始める頃には当然ながら麺がノビている。

彼等は談笑しながらゆっくり食べるので、最後には麺がすいとん状態になっているのだが、彼等はお構いなしである。すなわち、ブラジル人はこの国におけるスパゲッティ同様、麺の固さにはこだわらない。そのためウェイトレスがノビたラーメンを運んでも誰も苦情を言わないのである。

日本では同業者との競争に打ち勝つため、客のニーズを満たすことを主眼においてメニュー作りや味やサービスの追求に励んでいるのであろう。ソデさんの場合は、あくまで自分の事情を第一として効率性の追求に励む。

彼の店がオープンしてから3年目に突入しているが、ともかくも今日まで店が存続していること、目下、大繁盛とはいえないまでも利益を出していることこそ、彼のやり方がこれまでのところ正しいといえる証明である。実際、日本のやり方をそのままブラジルで踏襲しようとしてもうまく行かないケースが多い。日本での飲食業経験が無く、余計な先入観を持たずにブラジルで始めたことが、結果として吉と出ているのかもしれない。

サンパウロには、かつて日本人一世が経営する和食レストランが多々あったが、その大半はつぶれてしまった。代わって現在隆盛を極めているのがブラジル人経営の寿司レストランである。ネタも握り方も日本とは比較にならないお粗末さであるが、客はどっさりお金を落としてゆく。この国では成功の第一要因は味ではなく、他にあるのだ。おそらくこの傾向は他諸国の和食レストランにおいても共通するのではないか。

時事放談ではステレオタイプなソデさんでも、ことラーメン屋経営においては彼自身の経験から体得したブラジル流のやり方で生き抜いている。

なお、付言するが、日系企業駐在員など、クリチーバ在住の日本人もよく来店する。事情を知る彼等は混雑時を避けて訪れるので、具合の良いラーメンを食べることができる。また、旬の素材による特別料理が供されることもある。日本人相手であれば、ソデさんもそのあたり心得ている。