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臥伯酖夢 ―50代男のブラジル生活記―

再びブラジルで生活を始めた50代男の日常を綴る。続・ブラジル酔夢譚

オリンピック観戦

2016-10-02 02:49:27 | Weblog
何かとてつもないことが起こるのではないかと懸念されていたリオのオリンピック・パラリンピックも大事なく終了した。「つつがなく」終了とは言い切れないが、テロ、暴動のような大規模な騒乱はなく、リオでは日常茶飯事である散発的な強盗事件に邦人を含む観光客が遭遇した程度で、国を挙げての治安対策が功を奏したのか、それとも単に運が良かっただけなのかは定かではないが、ともあれ、大会は終了し、リオは再びカリオカ達の生活で満たされた。

開幕前のしらけムードに影響されてか、当初は私も競技に対してあまり興味を持たず、入場券を買ってまで観戦しようとは思っていなかったが、フタを開けたとたんの盛り上がりにあっさりと触発され、いそいそとネットで前売券を探した。日本人出場でメダルが有力視される競技をと目論んだ結果、オリンピック4連覇を目指す伊調馨の出場する女子レスリングに決めた。このときに伊調を含む3名の日本人選手が金メダルを独占することになるとは思いもよらないどころか、会場に入るまで、登坂、土性両選手の存在すら知らなかった。

8月17日の試合当日、入場券に記された番号に従い着席しようと席を探すが、今ひとつはっきりしない。周囲の席は7分方埋まっており、大半が日本人だ。位置を確認しようと体育教師を匂わせる年配の日本人女性に「今座ってらっしゃる席は何番に当たりますか」と尋ねると、「知人に案内されただけなので分かりません」と突き放すように言う。連れとおぼしき周囲の日本人も知らん顔である。話す手がかりを失い立ち去ろうとすると、目の前に座っていた日本人男性が席を立ち、自分は別の場所があるからと席を譲ってくれた。どうやらここにいる多くは決められた番号に着席していないようだ。

隣り合わせた30代前半の男性に状況を尋ね、初めて伊調の他にも日本人選手が出場し、しかも皆決勝進出を決めたことを知った。もう少しいろいろ聞きたかったが、その男性の事務的な応答に、あまり馴れ馴れしく質問を続けるのを憚られるような壁を感じた。仲間同士の会話から醸し出される空気との違いに、ブラジルに住んで以来久しく味わうことのなかった疎外感を覚えたのは、他者との垣根が低いブラジル人との生活に染まっている証であろうか。

空気が違うといえば、この付近一帯を陣取っている日本人応援団の雰囲気がどうにも近寄りがたい。応援団の中に赤いトレーナー姿が目に付くが、そこには「至学館」と書かれている。調べてみると、出場選手は全員この大学の在学生か卒業生ではないか。となると、この一団は選手達の関係者ということになりそうだ。体育会系独特の精神性を帯びた一体感が会場の1ブロックを占拠している。試合前の選手入場時に、出場選手とは関係のないインドの国旗を持ったグループが手すり越しに旗をなびかせると、くだんの年配の女性が厳しい声で、そういうことをしてはいけない、下がりなさい、と叱り付ける。他人を叱るという習慣の薄いブラジルでは、ときにはもっと社会の目が厳しくてもいいのではないかと思うことも度々だが、試合前のちょっとした観客のパフォーマンスくらい大目に見なさいよ、ここはブラジルなんだから、と思ったりする。

登坂選手が勝利し、金メダルを獲得した。歓声とともに、「おめでとうございます」の声が次々と上がる。登坂選手の両親が応援団の一員として観戦していたようだ。たちまち報道陣による円陣ができた。

その他の結果は、ご承知の通り伊調、土性両選手も逆転勝ちを収め、おかげで歴史的な勝利に立ち会うことができた。

試合結果には最高の満足を得られた反面、心に一抹の淋しさが引っ掛かっている。会場には祖国の同胞がたくさん居たにもかかわらず、疎外感を味わった。家には友人が待っているが、彼等と喜びを分かち合うことはできない。祝杯を共にする家族や友人は隣に居らず、ひとりでしみじみと喜びを咀嚼するよりない ―

と、この日はやや複雑な胸中となったが、実はこれに先立ち、ブラジル人の友人ジョゼに誘われバレーボール観戦を行っていた。日本‐アルゼンチンとブラジル‐ロシアの二本立てで、入場券は彼が私の分まで用意してくれた。試合は日本とブラジルが共に勝ち、購入の際に長蛇の列を忍ばざるを得なかったとはいえ、ビールをたらふく呑みながらの陽気な観戦であった。試合後は彼のアパートメントへ行き、ワインで祝杯を挙げた。何のことはない、日本人にこだわらなければ、日本に居る時と同じ振る舞いである。

パラリンピックが閉会し、祭りは終わった。日常が街を包み、私のそれは祭り同様、酒を呑むことである。一杯引っ掛けた後の帰りのバスはひどく混んでいて、なかなか車内の奥に進めない。後続の乗客が前に進めと私を促す。とっさに「ちょっと待った!」と英語で叫んでしまった。ブラジル人よ、オリンピックで外国人観光客をもてなした「こころ」をもう一度私に、というビジター願望が酔いの勢いも手伝い迸った。すると、席に座っていた男性から、バッグを持ちましょうと声が掛かる。効果てきめん、もう成りきるしかない。返事は全部英語で返す。目的地が近づき、男性に英語で礼を言いバッグを受け取り、降車ドアに近づく。すぐ後ろの女性が、「あなたも降りるの?」と尋ねる。「YES」。すると、どこかで会った気がする別の女性が、「彼はここに住んでいるのよ。この前のフェスタでサンバを踊っていたわ」「・・・」「SIM・・・」。
もはや日本人に戻ることは諦めた方がよさそうだ。

ブラジル流おもてなし

2016-08-09 22:47:26 | Weblog
リオ・オリンピックが開幕した。

開幕日が刻々と近づく中、インフラの遅れや設備の不備が連日のように報道されていたが、ふたを開けてみるとまるで手品のように帳尻を合わせていた。とりわけ懸念されていた、メイン会場のあるバハ・ダ・チジューカ地区への地下鉄延伸工事、重要な五輪会場のひとつデオドーロ地区へのバス高速輸送システム(BRT)整備工事、自転車競技会場建設工事も完了し、どうやら開催に支障のない状態に漕ぎつけたようだ。

とはいえ、大いに心配である。遅れに遅れていた大工事の数々が、直前になって揃いも揃って間に合わせられるものなのだろうか。地下鉄工事など、一時はリオ市長が「もはや五輪に間に合わない」と発言した程だ。安全第一が使命の公共交通機関である。充分に試運転は行ったのだろうか。ちゃんと線路は固定されているのだろうか。

ブラジルの流儀を表す言葉として、「ケブラ・ガーリョ」というのがある。直訳すると「枝を折る」という意味だが、これは問題を解決する際に、暫定的、即興的、不確実的に対処するさまを言い、要するにその場しのぎの解決法である。ブラジル社会では物事を計画通り行うのは難しい。ヒト・モノ・カネのいずれも何らかの不足をきたす中で仕事を終わらせるには、どこかで不足分を埋め合わせるか隠すかしないと先へ進めない。生活の至るところでブラジル人が行き当たる困難の対処法が「ケブラ・ガーリョ」であり、いわば生活の知恵ともいえる。

だが、主柱を組むのに手近な枝を折って添え木をする感覚で五輪会場が設営されては大変だ。選手村の宿舎の整備が未完のままに引き渡したので、オーストラリア選手団が宿泊を拒んだ話しは記憶に新しい。もしも選手村宿舎のようなずさんな工事が五輪関連施設の至るところで行われ、そして人目に付かないまま放置されているとしたら、それは考えるだに恐ろしい。

そんなスリル満点のリオの街だが、一方で着実に利便性は向上している。バス専用道路を持つBRTのネットワークは確実にリオ郊外における輸送力の増強と移動時間の短縮を実現し、市街中心部では排気ガス、架線フリーの次世代型路面電車(LRT)がリオ中心街に新たな彩りを添える。財政難で連邦政府に泣きついているリオ州だが、ベソをかきつつも着々と未来を見据えた観光・生活都市に変容しているのだ。

五輪開幕の数日前にBRTを利用する機会があった。とある郊外の小さな駅で公共交通専用カードのチャージをするため窓口にカードとお金を渡すと、外に設置されたチャージ機を利用しろという。それではと向かおうとすると、年配のおばさん係員は、お金の入れ方を懇切丁寧に説明した挙句、心もとないと思ったのか、外に待機している男性係員に私のカードとお金を渡し、今度はこの係員が私を機械に案内した。

どうやら彼等は私が五輪観戦に来た観光客と思っているようである。男性係員はチャージ画面の表示を順々に説明しながらお金を私の代わりに挿入し、機械の反応の遅さを謝罪し、無事チャージが完了したことを宣告し、にこやかにカードを私に手渡した。普段の不愛想な地下鉄やバスの職員の対応に慣れている私は、この、やたら親切な応対にびっくりし、親友と別れるが如くに右手を差し出し握手を求めた後、改札口を通った。BRTの職員には、外国人観光客に対し丁寧に接すべしという教育が施されているのだろうか。ともあれ、思いがけない親切な対応に気持ちは弾んだ。

五輪が開催されてまもなく、閑中亡を探しに五輪会場のひとつデオドーロを目ざして歩いた。変哲のない住宅街を歩いていると、広場から「オーイ」と声をかける者がいる。山腹に密集するファベーラと麓の街を結ぶバイクタクシーの運転手だ。若い兄さんは、「オリンピックを観に来たのかい、どうだい、乗っていくかい?」と、からかい気味に言うが、彼の笑顔に悪意はない。私は首を振りつつも笑顔で親指を立てて返事をする。さらに歩き進むうち、ぴちぴちした10代半ばの褐色の娘3人とすれ違うが、すると背中越しにヒューヒューと口笛がする。振り向くと娘たちが好奇の目を輝かせながら、「オリンピックを観に来たんでしょう?」と尋ねる。「いやあ、私は向こうの街に住んでいるんだよ」と言うと、娘たちは「なーんだ」とがっかりしながら、「チャーオ」と言って去っていった。

五輪会場まで歩くつもりであったが、日が暮れたので近隣地区のマレシャル・エルメスの駅前で一杯やることにした。会場まで3キロばかりであるが、周囲に外国人の姿はなく、地元住民がハンバーガーやフライドポテトの屋台で思い思いに空腹を満たしている。串焼肉の屋台も数軒あり、そのうちの一軒で足を止め、牛串肉を注文した。合わせてビールを注文、値段が書いていないので尋ねると、眉尻に傷を持ついかつい顔の親父は、しかし柔和な目で「5レアル」と、片手の指を広げながら言う。指で数を示されたことなどついぞなかったので、親父も私を五輪観光客だと思っているのであろうか。肉が焼き上がると、親父は順次串肉をトレーに置くが、それが一段落しても私に渡そうとしない。訝しんでいると、じきに親父はとりわけ大きな塊が刺さった串肉を網から取り上げ、私の方に向けて「ファローファ?」と、やや当惑げな表情で尋ねる。マンジョッカ芋の粉を肉にまぶすかどうか聞いているのだ。うんと言ってうなずくと、やれやれ、意味が通じたかといわんばかりに相好を崩した。

呑み食いを終え、私は立ち上がり、ありがとうと言って20レアル札を差し出した。親父は動きかけた大柄な体を止め、ゆっくりと、「10レアル」と言った後、おもむろに紙幣を受け取り、釣りを取りに行くと、温厚な目を向けながら私に渡した。その目は、「この店は信用が売りなのさ。観光客でも同じだよ」と話しかけているようであった。

日本のネット記事を読むと連日のようにリオ五輪に関する不祥事や、治安の悪さが紹介される。ブラジルはとんでもない国だと思われているに違いない。まあ、実際ゴタゴタの多い、油断のならない国ではあるのだが、ニュースでは知り得ない、ブラジル人なりの歓待のこころに世界からの来訪者が触れることがあればと願う。

ブラジルで東洋医学を勉強する

2016-05-21 13:21:00 | Weblog
ノッサ・セニョーラ・コパカバーナ大通りに建つ変哲のないビル群の一棟に入り、3階へ登る。廊下には漢字がこれみよがしに書かれた置物が陳列されている。部屋のドアを開けると、数名のブラジル人が小さなテーブル付きの椅子に座っていた。皆にこやかに「ボア・タルジ(こんにちは)」と挨拶を寄こす。今日は鍼灸、指圧コースの初授業の日だ。全員が初日であるにもかかわらず堅苦しい空気は一切ない。席に着くとすぐに隣の男が声をかけてくる。ふと、5年ほど前に働いたクリチーバの日本料理店に初出勤したときの光景が思い出された。あの時も、私の緊張は同僚たちの明るい挨拶と気さくな会話ですぐにほぐれていった。楽しくなりそうな予感がした。

ブラジルで東洋医学の勉強をすると言うと、日本人であれブラジル人であれ皆一様に怪訝な表情を浮かべる。
『なぜ日本で学ばないのだろう』
という顔だ。ブラジルで治療院を開業するための資格を取りたいからだと答えると、一応納得した様子を見せるが、なにか定石とは違う、腑に落ちない思いが表情に残っている。

サンパウロで東洋医学に携わる知人によると、日本で鍼灸師の資格をを取得した者は、直ちにブラジルの鍼灸専門学校で教える資格が与えられると聞いた。日本で取得した資格にはそれだけの箔が付いているようだ。だが、そうしない理由があった。主に金と時間の問題である。

日本で鍼灸師や柔道整復師の資格を取るには専門学校や大学に通わなければならない。専門学校での資格取得には3年間の受講が必須条件で、費用は400~500万円といわれている。私のような特殊技能を持たない者が学校に通いながら高給を稼げるはずもなく、授業料に加えてブラジル再渡航の費用を調達するまで、どれほどの年月がかかるか計り知れない。資格を取り資金を得た時には、ブラジルへ行く気力も語学力もすっかり衰えていた、なんてことになりかねない。実際、東京に住み続けていても貯金が難しいので、やがてアパートを引き払い、福島で除染作業に従事することになる。

週2回の授業に10名と少々の生徒が集まった。おおむね30代から40代で、男性は私を含めて4人、すなわち女性が過半数を占める。定刻をやや過ぎた頃、学者然とした初老手前の白人男性が白板の前に立った。最初の授業は鍼と指圧の歴史である。先生は白板にすらすらと書き込みながら説明を加えるが、案の定というか、そのポルトガル語による説明が理解できない。だが、歴史の授業なので、白板への記述とスライドで映された内容をノートに控え、後に意味を追いさえすれば、さほどの問題はなさそうだ。生徒のひとりがスマートフォンを取り出し写真に収めた。その手があったかと思う。時代の変遷は世界のどこに住もうと感じてしまう。

聞き取れないポルトガル語の授業でもスマホがあればなんとかなるだろうという私の希望は、翌々日の陰陽五行の講義であっさり断たれた。筋肉質で、前頭部から頂頭部にかけて禿げ上がったクラウジオという講師の授業は、白板とスライドを使用する以上に、言葉での説明による情報量が文字をはるかに上回っていた。決して早口で話しているわけではないが、やっぱり私には理解できない。活発に質問を飛ばす隣席のマルシオが、「どうだ、分かるか?」と尋ねる。「さっぱり分からん」と返すと、「先生にもっとゆっくり話すように注文したらどうだ」と言う。ブラジルでは講義の途中であっても、自分が分かるまで繰り返し説明を求めたり、質問を適宜行うことが認められているようだ。だが、私の語学力に合わせるよう注文を付けたら授業がストップしてしまうだろう。「いや、いいんだ」と言うと、「後で分からないところを教えてやるよ」と助け舟を出してくれる。彼は講義の中で、重要な点と重要でない点を選り分けて説明するので、要点が浮かび上がってくる。なかなかの切れ者であるマルシオの説明により、破裂寸前だった私の頭からすうと疑問符が流れ出していった。

翌週の授業は歴史に代わって解剖学となる。近眼メガネの白人女性講師アンドレアによる授業は、骸骨の模型を操りながら骨格の各部位の説明を行い、ときおり我々生徒にこれまで学んだ名称を質問し、反復させるという進め方である。ところが、皆はきはきと答える中、私ひとりが答えられない。馴染みのないラテン語系の名称が覚えきれないのだ。そして、スライドに図示されず、言葉で教えられる名称に至っては、私には何度聞いても正確に聞き取ることができない。だんまりうつむく私に愛嬌おばさんのマルシアが、「この授業はテストがない分、授業に参加する態度で評価されるから、黙っていちゃだめよ」と忠告を受ける。仕方がないので、口をパクパクして周囲に同調する。自分が落ちこぼれであることを痛感する。かつて味わったことのある、置いてけぼりを食わされた情けない惨めな気持ちが、遠い時と空を超えて蘇った。

講義の中休みに、クラスの中では最も若い日系人男性のホドリーゴが「リュウイチ、大丈夫か?」と声をかけてくる。「さっき、この箇所はなんて言ったんだい?」「ここはTíbia、ここはFíbula」「この動きのことは?」「Aduçãoはこう、Abduçãoはこう。Flexãoはこう、こう、こういう動きのことをいうんだ」とジェスチャーを交えて説明する。アンドレアの説明になかった細かな動きまで分かりやすく教えてくれるので、聞いていた私もマルシアも瞠目する。彼はかつて理学療法のコースを学んだことがあるらしい。「あの先生よりも分かりやすいよ。君が教壇に立ったらどうだい」と彼を茶化すことができるほど、気持ちは再び晴れ上がってきた。

授業が終わり、ビルを後にしてノッサ・セニョーラ・コパカバーナ大通りを歩いていると、後ろからマルシアが肩を叩いた。「ちょっとコーヒーでも飲みながらさっきの復習をしない?」と私を誘う。彼女の勉強熱心さに驚きつつ、ふたつ返事でカフェテリアに入り、テキストを見ながらここはこうだったああだったと思い返していると、横から、「よろしければ説明させてください」と年配の紳士が話しかけてきた。聞けば医師であるとのことで、私とマルシアは見知らぬ紳士による即興の講義をカフェテリアで拝聴した。

店を出て、たまたま医者の隣に座った偶然に笑いがこぼれつつ、陽も落ちて涼しげな風が通り抜けるコパカバーナの街を歩き、地下鉄の駅へと向かった。彼女はこの街に住み、この街にあるホテルのマッサージの仕事に就いている。「私の友達に日系人がいるのよ。彼女は画家なの。今度会わせてあげるわね」と朗らかに話す。人とのつながりが広がっていく予感は、この国で生きていく上で大きな自信を与えてくれる。シケイラ・カンポス通りの交差点で別れの言葉とともに、この国の習慣である抱擁を交わし、頬にキスをする。ブラジルの大地のぬくもりのような温かさが伝わってきた。

リオ生活再び

2016-04-23 18:07:40 | Weblog
リオ・デ・ジャネイロに着いた。エスタシオという地区にあるアパートメントの一室が私の棲み家となる。ノックをするとドアが開き、強い体臭が鼻腔を貫いたその先に、長い白髪を何条もの束に巻き付けた黒人の男が出迎えた。フェルナンドである。今日からこの体臭と共に生活するわけだ。彼は笑顔を私に向けながら、低く響く声でアパート内を案内し、私の部屋に導いた。簡素な、古ぼけた一室であった。ねっとりとした熱い空気が室内にこもっていた。

日本を発つ前から、この部屋を確保していた。10年前にリオで出会って以来の友人であるフランス人のミシェルから、ちょうど一部屋空きができたから一緒に住まないかという申し出を受けていたのだ。朗報であった。ブラジルで部屋探しをするという難儀から解放されたのだ。

朗報は他にもあり、収入面でも二つのオファーを受けていた。ひとつはサンパウロで旅行代理店を経営するイツコさんから、会社のブログの更新を引き受けてくれないかと頼まれていた。もうひとつはリオ近郊の都市ニテロイで大和魂を護持しつつ半世紀を生き抜く山下将軍から、リオ五輪の選手やスタッフのアテンド業務を運送会社から打診されており、通訳を確保したいのでどうかということであった。簡単な会話すらろくにできない私に通訳など務まるはずもないが、リオに住んだ経験を生かして、山下将軍の補佐役としてなんらかの任務に係われればということで、話しを進めることになっていた。

前途は洋々である。サンパウロの安宿で、自分はツイていると気持ちを奮い立たせることができたのも、一応の根拠はあったのである。さらには為替においても、昨今のブラジル経済危機を反映して通貨レアルの価値は下落しており、円預金で食いつなぐ私にとっては、一般のブラジル人と違って追い風になっていた。日本に4年もの間、いわば「出稼ぎ」をしていたにもかかわらず満足いく資金を貯めることができなかったのだが、それでも申し分のない順風を受けての出帆は、贅沢は望めぬとも、多少のゆとりを持ちつつリオの魅力を享受できる生活を送れるのではという期待も運んでいた。

風向きが変わり始めたのが、サンパウロに着いた翌日からである。イツコさんを訪ねて昼食を共にしたのだが、ブログの件について水を向けると、やや申し訳なさげに「あれはねえ、うちの社員にやってもらっているのよ」との返事である。ブログの対象がサンパウロ在住の顧客なので、畢竟、ブログに載せる情報もサンパウロ中心となり、リオ在住となる私の出る幕ではなかったのである。

リオに着くと、さっそく山下将軍に電話をかけた。日本を発つ前に受け取ったメールでは、早急に通訳の人員を確保し、依頼者からの要請に対応していくという文面であったので、打ち合わせの日時を決めるために電話をしたのだが、どうも言葉の歯切れが悪い。なんでも大手企業がリオでの受け入れ業務に関与することになり、どうやら将軍の出る幕がなくなってしまったようだ。もっともよくよく考えてみると、リオ五輪の選手受け入れという極めて責任重大な任務に、元三菱の商社マンとはいえ、今では一匹狼の山下老将軍にその采配を委ねるという大博打を打ったまま依頼者が安閑とするはずもないのであった。

当てにしていた収入の柱が相次いで倒れてしまったので、生活費を抑えることに腐心せざるを得ない。ところが想像以上にリオの物価が高くなっている。もともとインフレ体質のこの国は、近年の自国通貨価値の下落で輸入品の物価が跳ね上がり、それが様々な物品に波及していた。スーパーで売られている身近な食料品や生活必需品の値段は、ブラジルを去る直前の4年前と比べても、1.5倍から2倍になっている。これでは円の価値が上がっても物価高で相殺されてしまう。

さらに追い打ちをかけるかのように通貨レアルの価値が上がり始めた。ブラジルでは経済の混乱に加え、政治の混乱も甚だしいが、ここにきてジウマ・ルセフ大統領の弾劾裁判が発動される運びになってきたのだ。現在の政権党である労働党は社会主義色が強いので、財界には受けが悪い。それが弾劾裁判によって政権が倒れるという予測が強まり、経済への好影響を予感してレアルが買われ始めた。レアル高になれば相対的にドルや円の価値は下がる。ジウマ負けるなと心の中で応援しているのだが、日毎に彼女を取り巻く状況は悪くなり、私を取り巻く物価状況も彼女と運命を共にする。

期待のいくつかは早々に潰えてしまったが、まだ始まったばかりである。扇風機を買いに行った帰り道、暗い空の下、ぼんやりと明かりが灯る路上に白い煙が立ち上っている。串焼肉(シュラスキーニョ)を焼く煙だ。かつては街のいたるところで見られた串焼肉の屋台だが、近年取り締まりが強化され、街から消えていった。だが、絶滅したわけではなかった。私は足早にアパートに戻り、扇風機を部屋に置くとそそくさと再び路上に出た。屋台のコンロに並べられた大ぶりの串肉から牛肉を指さし、プラスチック製の小さな腰掛に座り、缶ビールをあおる。炭火焼の香ばしい匂いが、蒸し暑かった街を撫でる夜風とともに運ばれる。かつての私が再びここにいる。リオに戻ってきたのだ。

五十路の悲哀

2016-04-13 10:06:16 | Weblog
アラブ首長国連邦の首都アブダビを出発した飛行機は、満員の乗客とともに14時間かけてサンパウロのグアルーリョス国際空港に着陸した。時刻は午後4時半、外はまだ明るい。東京からのフライトを含めると25時間の飛行時間はうんざりを通り越して軽い吐き気すら覚える。狭苦しい座席から解放される安堵感とともに、定刻前の到着という安堵感が加わる。今晩の宿泊場所はまだ確保していない。東洋人街のリベルダージにある一軒の安宿を当てにしているが、そこが満室で断られた場合、大きな荷物を抱えて暗い街路を徘徊するのは極めて危険だ。だからできるだけ早い時刻に部屋を確保したいのだ。

10年前にブラジルで生活することを決意し、リオ、サンパウロ、そしてクリチーバに住んだ。永住ビザを取得した後に、2012年日本に帰国、福島で除染作業をして資金を貯めた。そして2016年3月21日、再びブラジルに定住するため、日本を離れた。

手荷物受取りは驚くべきスムーズさで完了し、待たされることなく出口に向かうことができた。次はブラジルの通貨であるレアルを手に入れることだ。HSBC銀行のATMがあれば確実に手に入れることができるが、銀行の両替所が目に入った。1ドルいくらか聞いてみた。
「!」
応対した行員の話しが分からない。想定外の返答を理解する言語能力が失われている。まあ、空港内の両替所は比較的レートが良いと聞いたことがあるし、係員の身なりもスーツを着こなし立派そうなので、間違いはあるまいと判断し、140ドルを差し出した。受け取ったブラジル通貨が370レアル。何となく帳尻の合わない気がしたが、脳が働かず、そらで計算ができない。後で計算することにして、先を急ぐ。

グアルーリョス空港からリベルダージに向かう方法は主に二通りあり、ひとつはリムジンバスでチエテバスターミナルへ行き、地下鉄に乗り換える方法と、もうひとつは公営バスに乗り、タトアペ駅から地下鉄に乗り換える方法がある。なんとなく両替所で騙された気になっている私は、安上がりな公営バスに乗ることにした。ところが何度もこの空港を利用したことがあるにもかかわらず、私が降り立ったバス発着所に見覚えがない。手近な人に聞いてみようと声をかけるが、
「!」
タトアペ駅の名前がとっさに出てこない。簡単な会話もすらすらいかないのだ。だが、そこはブラジル、どこへ行きたいか伝えられない不慣れな外国人とみたのか、横で聞いていた男も加わり、「地下鉄に乗るには、まずはこのバスに乗るんだよ」と教えてくれる。どうやらグアルーリョス空港に新しく第3ターミナルができたようで、サンパウロ市内各地へ行く前に、ターミナル間のシャトルバスで移動するシステムになっていた。

シャトルバスが発車にもたもたし、タトアペ行きバスとの乗り換えにあたふたし、途中渋滞に巻き込まれているうちに夕闇が迫ってきた。前回タトアペ行きバスを利用したときは大渋滞だったことが思い出された。夜がその色を深めるとともに、不安もまた広がってきた。全財産を身にまとっているのだから、身の安全の確保を第一に考えるべきであり、それならば千円程度の追加を惜しまずリムジンバスを利用すべきであった。判断の誤りはブラジルでは命取りになりかねないのに、判断力の衰えが著しい。

幸い前回ほどの大渋滞にはならず、まだ人通りが残る夕刻にリベルダージに着いた。それでも日没の通りを歩くのは不安だ。日中は人で賑わう東洋人街も、夜も更けると強盗の被害が頻発する。ビザ更新のため、2年前にサンパウロを訪れた際に滞在したホテルを目指すが、所在地にいまひとつ確信が持てない。日本で調べて地図をコピーするつもりが、すっかり忘れていた。徐々に人気が乏しくなる中、トランクを引きずりながら足早に歩いているうち、
「!!」
と声にならない叫びをあげた。

勘違いしていたのだ。向かっている先はホテルではなく、知人の住むアパートであったのだ。2年前は、その知人に会った後に、彼がホテルを紹介してくれたのを、記憶がアパートとホテルを取り違えていたのだ。だが、ホテルはいったいどこだったのだろう。私は懸命にホテルの場所を思い出そうとした。そうだ、そのホテルは以前勤めていた出版社のすぐ近くではなかったか。踵を返して、つけ狙う何者かを振り切るかのように大股で歩く。だが、私はここの出版社で2年近く働き、広告を取るためさんざんこの街を歩き回っていたのだ。いったい私の記憶はどこに消えてしまったのだろう。

重ねて幸いなことに、ホテルには空室があり、ようやく私は人心地がつくことができた。ドル両替のことが思い出された。レシートを取り出す。Safra銀行とある。レシートの内容を目で追ううち、もはや「!」ではなく、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。関税と称して70レアル引かれている。そして為替レートが1ドル=3.15レアルとなっている。公表されている為替レートが1ドル=3.6レアルであるから、ぞっとするような手数料だ。つまり、正味140ドル=500レアルのうち、130レアル=4千円近くが差し引かれているのであった。今頃になって、ブラジルの空港の両替所は法外な手数料を取るという情報を思い出した。

怒りと情けなさと絶望感が身体を包んだ。かつて、30代でアジアを旅していたころ、数十円の損も許さじと両替所を比べ回った。40代になりブラジルに来た時も、少しでもレートの良い両替所を探し、損を出さないように心がけていた。それが、ここにきて電卓も持たず、あやふやな思い込みを頼りとし、行員の身なりに信頼を置くという間違いを犯した結果、しっかりと金を抜き取られていたのだ。

この国は泥棒の国なのだ。油断していると合法非合法の別なく丸裸にされてしまう。いくら疲れているとはいえ、ここまでぼんやりしていたら、この先生きていける見込みがないではないか。

ポルトガル語も忘れている。これまでの経験も忘れている。日本の生活に馴染みふやけた脳みそは、突然の環境の変化に驚いてフリーズを起こしている。これが50代の仕業としたら、なんとも惨いことだ。

呆然と暗い窓の外を眺めながら、それでも私は気を取り直した。私はツイているのだと。ここまでボケていても、無事にサンパウロに着くことができたのだ。そして、両替では損をしたとはいえ、これを教訓に気を引き締めていけるのなら、授業料としては安いものだ。頭で覚えられなければ、今、味わっている痛みを身体で覚えればよいのだ。もはや後戻りはできない。ボケようが忘れようが前に進むしかないのだ。開き直りこそが50年の間に身に着けてきた最大の武器なのだ。

私はSafra銀行のレシートを折りたたみ、財布にしまい込んだ。これからブラジルで生きていく上で、決して忘れることのないよう、肌身離さず持ち歩くために。

時代の変遷

2015-05-21 21:31:51 | Weblog
前回の話し同様、1年前にブラジルを訪れた時の話しである。

かつてクリチーバのカイロプラクティックのドトールに師事し、現在は独立しクリニックを営む日本人に会った。最近客足が遠のいているという。彼は天候不順を原因の一端にあげたが、真因はつかみかねているようだ。

彼のクリニックは看板がない、いわゆるもぐり営業である。正規に営業すると税金の徴収が苛烈で、とてもたちゆかないと弁明する。リオに住み始めた頃に友人セルソより聞いた、「ブラジルで事業を始めるとして、税金をごまかすならば、成功するか失敗するか、その確率は50%だが、もしきちんと支払うならば、失敗する確率は100%だ」という笑い話を思い出した。

客の減少の理由が私なりに思い当たった。ひょっとしたらブラジルにおいても、もぐり営業が成り立っていた時代が過ぎ去ろうとしているのではないか。かつてのブラジルは地下経済がはびこり、税金を支払わない経営者や露天商、失業下で単発的な仕事に携わる労働者の割合が多かったが、近年における工場の進出と学校教育の普及等で正規雇用者数が増えたことや、税務の簡略化が功を奏し、2003年から2013年までの間で、地下経済のGDPに占める割合が21%から16.2%と5ポイント近く減少している。(※)

もぐり営業が当たり前であった時代ならばいざ知らず、表舞台で活動する人口が増えるにつれ、人々の意識が単に金額の多寡だけではなく、安全・安心に重点を移すようになり、損害が発生した場合には賠償請求が可能なサービスを利用する風潮が高まっているのではないか。

ブラジルでカイロプラクティックを開業するつもりの私にとって、このことは他人事ではなかった。軌道に乗るまではセルソのブラジル風箴言を金科玉条とし脱税に励むつもりであったが、もはや従来のやり方で成功する時代は終わりを告げたのかという焦りを覚えた。


サンパウロへ行った。リベルダーデで日本人の友人知人に会うのも楽しみではあるが、郊外鉄道に乗って丘陵地帯を散歩し、テレジーニャの小さなスタンドバーでビールを呑むのも楽しみであった。

サンパウロの郊外電車は旧式の吊り掛けモーターの武骨な低音を唸らせて走る。鉄道好きの私にとって、日本ではほぼ消滅したこのタイプの車両は魅力であった。この街に住んでいた5、6年前はこの路線の全ての車両がそれであった。今ではある程度新型車に置き換わっている。じきに旧型車は淘汰されていくだろう。

ノバ・エーラの丘の頂にテレジーニャのスタンドバーはあり、所在無げな彼女がそこにいた。出し抜けにひょっこりと現れた私の姿を認め、彼女はひとなつこい笑顔を浮かべて喜びの言葉をかけてくれたが、彼女の髪は短く切り揃えられ、茶色に染めていた。見晴らしの良い小さなテラスにあったコンクリ造りのテーブルは撤去され、代わりに荷物が無造作に置かれている。ビールも仕入れていない。店を畳むつもりだという。

かつてはこの店に集まっていた若い仲間達の多くが、今ではこの地から去っていた。テレジーニャも店の売却後にはこの丘を去るかもしれないという。それは彼女の夫オズマールと暮らした土地から去るということである。テレジーニャとともにいつも私の訪問を喜んでくれたオズマールはすでに病気で他界していた。彼女の語り口は淡々として、何か人生の不条理に抗うことを諦めてさばさばしたような心境に思えた。

持参したワインを呑む私に彼女は、もうフランコ・ダ・ホッシャへと続く山道を抜けることはできなくなったと告げた。山に分け入る小径とその周囲がフェンスで塞がれてしまったのだ。ペットボトルに詰めたワインをラッパ飲みしつつ、音楽を聴き、歌い、生きている歓びを実感しつつ緑陰の中を下ったあの小径すら失われてしまった。

馴染みの仲間がひとり姿を現した。風来坊のホベルトだ。仕事をせず私からビールのおすそ分けを頂くのを楽しみとしていた男だ。だが、彼もまた変わった。みてくれは昔ながらの浮浪者然とした風体ではあったが、真面目な顔をして向かいの店で運搬車からビールケースの積み下ろしを行なっている。声を掛けると汚れた顔を笑みでくしゃくしゃにして走り寄って来た。

バスでフランコ・ダ・ホッシャまで降りて行った。串焼肉屋のフランシスコは昔と同じく、合流する車道に挟まれた三角州のような空き地に屋台を出していた。串肉を焼く煙がもうもうと立ち昇り、彼の屋台を囲んで客が賑わっている。仕事に打ち込むフランシスコに不意に声を掛けると、吃音の彼は驚きの表情でオーッ、オーッと声を発する以外の感情表現を亡失したかのようだった。対照的に奥さんは機関銃のように早口で話しかけるが、その表情や態度から歓迎の意を察する以外に私が彼女の言葉を理解できないのは以前同様であった。

鶏肉を注文する。ジューシーでたいへん美味い。変わらずここで営業してくれてありがたいと言うと、最近は公安の取締りが厳しく、立ち退きを迫られていると彼は答えた。サンパウロ郊外のこの街でも事情は同じであった。だが、客はひっきりなしに立ち寄り串焼肉を焼く手が止まることはない。車を側道に寄せて窓越しに注文する客も頻繁である。毎日200本の串肉を用意するのだという。

フランシスコ曰く、ここの肉が美味しい理由は、他の店では売れ残った串肉や、仕入先のスーパーが安売りの際に大量買いをした肉を冷凍にして保存するのに対し、彼は売り切る量だけ仕入れるので冷凍にすることがないとのこと。その違いが味の違いにあらわれ、客は美味を求めてこの店に集まって来る。

彼もやがてはこの場所を立ち退かざるを得ないであろう。だが、彼の串焼肉への信念がある限り、たとえどこで屋台を出そうとも、彼の周りには客の賑わいが絶えることはないと信じる。

(※) O Globo
http://oglobo.globo.com/economia/economia-informal-no-pais-cai-para-162-do-pib-em-2013-12616400

厳しさを増すリオ市民の生活

2014-04-16 15:09:49 | Weblog
黄昏の空の下、漠々とした浜辺を眺めながら私は生ビールを飲んでいた。コパカバーナの海岸沿いに群立つスタンドバーの一軒で、椅子に腰かけ、そよ風を受けながら、いっぱしの成功者になった気分でコパカバーナを満喫していた。

かつてリオに1年半住んでいながら、このような所でゆっくり時を過ごす機会はごく少なかった。1杯300円のビールが飲めなかった。もちろん今の私が成功を収めているわけではなく、境遇は昔と変わっていない。ただ、ここ2年は日本に住んでいたため、たまたま小遣い銭を昔より多く持ち合わせているだけに過ぎない。

スタンドバーのメニューにカニのすり身をフライにした、シリという食べ物がある。黒人のウェイトレスを呼びとめ、それを注文するとケラケラと笑う。そして彼女は顔を近づけると、口を横に広げて「シ・リ」とゆっくり言った。どうやら私の「シ」の発音が、例えるなら”Sit”と”Shit”の違いであるらしい。彼女の笑いには軽蔑も優越もない。その屈託のない分かりやすさに安心感を覚える。

今回は永住ビザの更新のためにブラジルに来ているので、やがては日本に戻る。だが、近い将来には再度ブラジルに移住するつもりだ。そのときには、時おりコパカバーナのスタンドバーで時を過ごせる身分程度には、せめてなりたいと思った。

リオには海ばかりでなく緑深き山もある。海岸部から山間へと向かう峠道を登っていくと、やがてファベーラが現れる。ここは私がかつて住んだ場所で、大家であり女友達のスエリーが今も住んでいる。

カーニバルの時期、彼女の家には様々な国籍の連中が集う。今回もブラジル人の他、イタリア人、イギリス人、アメリカ人に日本人の私が来ている。スエリーの家は、スラム街にありながら造りがゆったりして清潔であるのに加え、標高が高く森林に囲まれた立地にあるので、平野部と比べて涼しく快適である。中庭で、分厚い肉塊を炭火で焼くシュラスコを食べ、レモンカクテルのカイピリーニャを呑み、色々な言語が飛び交うなか、踊り、また食べる。

このような日に備えて、私はサンバのステップを学んできた。とはいえ、わずか15分間ユーチューブを見ただけの自主レッスンなので、単純なステップすらぎこちなかったのであるが、ブラジルの風土の中、酒と音楽で精神が開放されたのか、リズムに合わせて身体が自在に反応するようになり、仲間達から喝采を浴びた。リビドーともいうべき人間の原初より備わる本能的なエネルギーがブラジルでは呼び起こされるかのようだ。

私のような浮かれ者が踊り騒いでいるカーニバルのさなか、リオでは異常事態が進行していた。市街のゴミが回収されず、街路という街路がゴミだらけになっているのだ。清掃人夫がストを起こしているのが原因だ。

昨今ではブラジルのいたるところであらゆる業種にわたりストが頻発している。賃金のベースアップの要求であるが、背景にはインフレーションの昂進がある。高いインフレ率に比べて、経済成長の鈍化により賃金の伸びは低く、それが人々の生活を圧迫しているのだ。

久しぶりに訪れる私にとっては、ブラジルはすばらしい国に映るが、ここで生まれ住む国民にとっては、今のブラジルは厳しい環境にある。

ワールドカップやオリンピックの開催に備え、数年前より警察が麻薬マフィアをファベーラから追放し、治安が向上したと伝えられていたが、最近では再び治安が悪化したという。イベントの中心都市であるリオは他都市よりも高いインフレ率を招いており、イベントの利権や恩恵に絡む一部の人間を除いた多くの住民の生活を脅かしている。

大イベントを控え、行政もまた街の浄化のために様々な取締りを行ない、人々の生活に干渉する場合がある。

リオ市の西の外れにセペチーバという海沿いの小さな町があるのを知った。ふと魚を食べたくなって、おそらく魚料理の店があるのだろうと見当を付けて出かけてみた。

電車とバスを乗り継ぎイラジャから3時間かけてセペチーバに着いた。見当通り魚料理の店はあったが、周囲はゴミが散乱し、悪臭がひどく、観光客も近寄らないため、数軒ある店は全て閉まっていた。

所在ないので程なく帰ることにした。イラジャまで直行する乗り合いのバンがあったので乗り込んだ。リオ市内ではバスを補完する公共交通手段として十数人乗りのバンがくまなく走っている。運転手の他に車掌が付き、乗降客の対応をする。

バンの車掌は大変忙しい。バスの車掌がただ黙座して乗客と運賃の受け渡しのみをするのと違い、バンの車掌は絶えず外を目配りし、人だかりがあれば身を乗り出して声をかけ、乗客の行先を把握し、停車地点を運転手に知らせ、ドアの開閉をし、運賃の受け渡しをする。個人事業主である彼等は収入を得るために必死なのだ。

私の乗るバンは、リオ有数の高速道であるブラジル街道を走る。時速100キロで通行する車の流れの中、バンは頻繁にバス停留所に停車して乗降客を扱う。そのつど急発進、急停車を行なうので、こちらは事故を起こさないかとひやひやする。車掌は30代の目つきの鋭い男であったが、恬淡と客をさばき、一分の隙もない。ここではわずかな油断が転落事故につながる。彼の一種冷然とした風貌は、長年の苛酷な環境の中で備わってきたように思える。

命がけの彼等の仕事ではあるが、思うに彼等の収入ははかばかしくなさそうだ。ガソリン代が高騰しているため、経費がかさむ一方で、運賃値上げはバスとの兼ね合いがあり、そうそう上げられない。さらに彼等の前途には暗雲が立ち込める。

リオ市は昨年より観光地区である南部地区へのバンの乗り入れを制限した。バンの車内で起こる強盗や暴力事件が観光客に及ぶのを防止するのが目的だという。

行政が治安向上という錦の御旗を掲げてしまえば、異存ありとの声はあげにくい。取り締まりにより表向きは解決したように見えるが、そのために職を奪われる者も出てくるであろうし、あるいは他の地域に移ることで競争がいっそう激しくなり、収入の減少を招くことも考えられる。公権力が一方的に既存の秩序を改変することで、セペチーバの車掌のような真剣に仕事に打ち込む人々の生活を危うくする政策は無常に過ぎる。生活者の困窮は結果的に彼等を不法行為にいざない、さらなる治安の悪化を招く流れになるのではないか。

スエリー家でのパーティーの翌日、バハ・ダ・チジューカからイパネマまで行くためバスを待ったが、15分以上停留所で待たされた。バンが走っていた頃であれば、すぐに捉まえられたに違いない。この停留所は、かつてスエリーのファベーラに住んでいた頃よく利用した。陽が傾く時分になると停留所一帯に煙が立ち昇り、缶ビールを片手にそこで串焼肉を食べたものだった。

今はまだ時間が早いのだろうか、一軒も串焼肉の屋台が見当たらない。飲料を売る露天商もいない。行政や警察の取り締まりによって出店を禁じられたのだろうか。そういえば、私が寿司を売っていたラルゴ・ド・マシャードの街角を通りがかった時も、昔であれば露天商で賑わっていた一帯が、何もないただの街角でしかなかった。街から生活のにおいが消えつつある。

コパカバーナ海岸のスタンドバーも悪くはないが、やはり私は雑然とした通りの一角に立ち並ぶ、安上がりな露店がいい。美しい海岸通りは10分もすれば見飽きるが、猥雑な街中で地元客の人となりを観察するのに飽きることはない。そんな清濁を併せ呑むリオの包容力が好きだったのだが、時代は移り変わってゆくのだろうか。

ブラジル再訪

2014-04-10 22:04:49 | Weblog
リオ・デ・ジャネイロ市北部の地区、イラジャ。観光とは無縁の、周囲にはファベーラが広がる、雑駁な街並み。私は8年来の友人であるホムロとホッサーナの自宅の一室で、8年前より馴染みのベッドに横たわっていた。時は2014年のカーニバルのさなか。彼等とは1年8ヶ月ぶりの再会になる。

今日はリオの海岸沿いで行われるブロッコと呼ばれるサンバパレードを一緒に見物する予定であったが、全身がだるく起き上がれない。行けないと伝えると、ふたりはひどくがっかりした。彼等にとって、仕事に追われる毎日の中にようやくみつけた寸暇であった。申し訳ないとは思ったが、こうなる予感は日本を発つ前からあった。私も仕事で大変疲れていた上、長旅の疲れが重なった。そして、カーニバルシーズンでごった返すなか、サンパウロ経由でリオ・デ・ジャネイロのホムロ達の家に着いて安堵したのだろう。いわば旅のわらじを脱いだとたん、閉じ込めていた疲れが一気に溢れ出したようである。

部屋の中はクーラーが効いており快適である。以前よりさらに1台増えて2台のクーラーが据え付けられている。車があり、犬を飼い、大型液晶テレビもある。彼等の生活は着実に向上しているようだ。殺虫剤を家の周囲に撒いているので、蚊に悩まされることもない。冷蔵庫の中には高級マヨネーズのヘルマンがある。最低限の生活必需品しか買わなかった彼らが、いまや快適な生活を求めてお金を使うようになった。もっとも2台ある冷蔵庫のうち1台は故障しており、戸棚の代わりを務めている。新しく冷蔵庫を買わないのかと尋ねると、ホッサーナは目を輝かせて、欲しいものがあるのだが、頭金を貯めなければと言った。値段は15万円と聞いてほうと息が漏れた。

彼等が戻るころには多少復調したので、ホムロと一緒にエスコーラ・デ・サンバのテレビ中継を観る。巨大な山車を囲んで5千人の参加者がサンバのリズムに合わせて踊り歩く、リオのカーニバルの看板行事だ。軒先で子どもの声がしたと思うと、勝手口の脇を子どもたちが足早に通り過ぎる。ホムロ夫婦に子どもはいないが、ここの住居は母屋の他に離れがあり、そこを黒人の家族に貸している。ホムロはちらりと子どもたちの動きに目をやり、いまいましそうに、「貧乏人は働かずに人にたかってばかりいて、週末にはビールを飲んでいるんだ」とつぶやく。どうやら黒人一家が彼から飲料水の代金を借りたまま返そうとしないのが不平の原因らしい。

ホムロとホッサーナの仕事はポルノ新聞の発行だ。記事の内容は卑猥だが、彼等は文字通り昼夜を分かたず働きながら、近年部数を順調に伸ばしているようだ。ホムロにすれば、代金を踏み倒す黒人一家の存在は、努力を通じて獲得しつつある中産階級の生活が、働かざる者によって食い物にされるという意識を生じさせるのだろう。それが昂じて、貧乏人への軽蔑につながるのであろう。

ホムロはテレビのサンバパレードに見入っている。きらびやかな衣装を身に着け、滑走路のように真っ直ぐ延びた会場内をくるくると踊るダンサー達を一心不乱に見つめている。かつて彼はこう語った。エスコーラ・デ・サンバの主役はファベーラに住む黒人であり、彼等は1年間汗水流して働き、こつこつと金を貯め、今日このカーニバルのために全財産を注ぎ込み踊るのだと。彼がブラウン管の向こうに見る黒い顔は、刹那の輝きを体現するために人生の全てを捧げる美しき聖者であり、一方で近所に見る黒い顔は、怠け者のごくつぶしと映る。

黒い聖者たちは暑い会場で全身ごってりした衣装をまとい、ある者は歓喜の表情で、ある者は必死の形相で、全員汗だくになって踊り続けている。

80分間踊り続けた後、彼等の姿は舞台から消える。衣装を脱いだ後の彼等はどのような顔になるのだろうか。数日も経てば日常の倦怠に呑み込まれ、数レアルの貸し借りのことで口に泡を飛ばして罵り合ったり、スーパーのレジに座って客にやる気のない顔を晒していたり、人の金をくすねながら週末にはビールを呑んでいたりするのかもしれない。

ブラジルでは何もかもが腑に落ちるような気がする。人間が本来あわせ持つ矛盾や不条理をこの国は否応もなく呑み込み平然としている。全てが赤裸々であり、隠さない代わりに、寛大であり、追いつめない。ただ混沌の中に人間の業が明滅する。

夜も更け、私はふらつく身体をベッドに横たえた。つかの間の滞在とはいえ、私は再びブラジルにやってきた。クーラーが唸る音を聞きながら、こわばりきっていた全身の細胞がゆっくりと氷解してゆくように感じた。

帰国

2013-05-12 12:03:35 | Weblog
イゴールの一件があり、ドトールに対して大いに失望したが、それでも彼のおかげで私はブラジルに留まり永住ビザを取ることができたわけで、その恩返しをしたい気持ちはまだあった。

彼の関心事は事業拡張で、つまるところ金儲けである。彼は治療院の他にヤマメジという健康器具の販売会社を持っており、日本の健康器具をコピーした商品を売っている。また、高ミネラル含有の鉱泉を買い取り飲料水として売り出したり、診療所の空きスペースを活用したカイロプラクティック学校の開校をもくろむなど、やる気まんまんである。そもそも、私はカイロとともにエノキ栽培をやれということで呼ばれたのである。

だが、肝心なのはアイデアを実現し軌道に乗せるために具体的な事業計画を練ることである。以前、本業とはまるきり関係のない和食レストランの経営を手がけたことがあったが、後先をまるで考えずに開業した結果、そうそうに潰れたらしい。

レストラン経営の失敗で自分の無計画性を反省したらしく、ドトールは商売のアイデアについてたびたび私に相談してきた。私は自分で事業を起こしたことはないが、事業家の父の傍らで働いた経験を踏まえ、アイデアを具体化するための意見を交換した。私にとっても、こういった機会は将来自分がブラジルで事を起こす際、いい勉強になると思った。

これまでのヤマメジの商品は健康枕とか腰痛防止クッションといったありきたりなもので、診療所に訪れる患者が購入する以上の広がりは見られなかった。ところが、ある商品のアイデアはドトールの前途にまばゆいばかりの光明をもたらした。それは日本より輸入販売している商品よりヒントを得て製作した遠赤外線サポーターで、それを足の土踏まずに装着することで、姿勢が矯正され、足腰の疲れが軽減し、血行が良くなり、健康を増進するというシロモノである。

サンプルを試してみると、確かに足腰が楽になったような気がする。ドトールいわく、サポーターが土踏まずを適度に締めることで体の中心部の筋肉がはたらき、正しい姿勢が保たれることで疲れが軽減されるらしい。バイオバランスと名付けられたその製品を試着した患者からの予想を上回る好評は、ドトールを有頂天にさせた。早くも彼の眼には、バイオバランスが飛ぶように売れて金がうなりをたてて押し寄せてくる、そんな光景が映し出されているかのようだ。

ドトールはこれをいくらで、どのようなルートで販売すべきかの相談を持ちかけたので、私は販売ルートを検討し、クリチーバ市内のドラッグストアのリストアップを行ったり、利益率を計算し、表やグラフで示したりした。事業を成功に導き大きく儲けることはドトールの望みでもあり、私にとっても給料アップのチャンスと考えた。事業に貢献し評価を得ることで今のカツカツの生活から脱したかった。

だが、はしごは唐突に外される。ある日パソコンの前に座る私の傍らにドトールが近づき、こう言った。
「まがみくん。君はマッサージの勉強に集中しなさい。まずはそちらで一人前になる方が先だよ」
彼がバイオバランスの利益に私を関わらせたくないという魂胆がはっきりとうかがえた。私が金銭面に関して触れる前に彼の方から先手を打ったというわけだ。彼の貪欲さにうんざりすると同時に、もはや彼を信用することはできないと思った。

ドトールへの忠義心がしぼむのと反比例して、日本への望郷、帰国したいという念が強くなっていった。不法滞在中には不可能であった帰国が、いまやかなう立場になった。勤務を続けながら、休暇を利用した一時帰国ができればいいのだが、ドトールの下で働いていたら往復の航空運賃などいつまでたっても稼げたものではない。日本にいったん帰り、金を稼ぎ、再びブラジルへ戻るというアイデアが急激に膨らんでいった。今なら震災の復興事業で職も見つけやすく金も貯まりやすいだろう。5年と半年にわたるブラジル生活で体内に溜まった疲れを洗い流したい、そんな思いがいよいよ抑えきれなくなった。

***

2012年3月1日、飛行機はまもなく成田空港に到着しようとしていた。周囲はアジア系の顔ばかりで、彼らが交わす会話が逐一耳に届くのが何となく煩わしい。久方ぶりの日本に帰ってきたという喜びが心の底より静かに湧いてはいるが、一方で片付かない気持ちも併せ持っていた。果たしてこれでよかったのだろうか、決断を誤ってはしないか、そんな迷いが依然残っていた。

ドトールとは喧嘩別れに終わった。私が辞めて帰国することを告げると、彼は給料の一部を支払おうとしなくなった。その件は抗議により解決したが、その後、従業員に約束していたバイオラバー販売に対するコミッションの支払いを、いとも簡単に反故にしてしまう彼の軽薄さと金銭への意地汚さに私は声を上げずにはいられなかった。私は声を荒げて彼を責め、彼も大声で私をなじった。いまさらたいした金額ではないので、黙っていた方が楽であるとはわかっていたが、あまりに人をなめている彼の態度に一矢を放たずにはいられなかったのだ。

彼との関わりを全て断ち切るつもりで、彼から譲り受けた物品を突き返すためにまとめてみると、意外なほどたくさんあったことに気が付いた。ズボン、ワイシャツ、普段着、ジャケット、運動靴。もはや返すことができないものもたくさんあった。これまで幾度となく奢ってくれたレストランの料理や彼の自宅で振舞われたワイン、彼から教わったマッサージの技術や運勢を上向かせるコツなるもの、そして永住ビザを得るに至ったその機会。そして最後にドトールからもらったもの、それはカイロプラクティックを日本で学び、再びブラジルに戻った時、ドトールのように治療院を開業するという目標。彼は私の目標の具現者だ。

飛行機は成田空港に到着し、私は日本へ戻ってきた。これでよかったのかどうかは今なお判じることはできないが、ともあれサイは再び投げられ、私は次の章に足を踏み入れた。夕闇の中スカイライナーは疾走し、街灯かりを車窓の彼方に送り飛ばす。6年近く経ち、両親の顔はどれだけ老け込んだだろうか、久しぶりに会うであろう友人達には何といって話を切り出そうか、などとぼんやり車窓を眺めながら、つらつらと考えていた。

池袋に着き改札を通ろうとして、ハタと迷った。自動改札に切符を通す受け口が見当たらない。私の不在の間に支払いはカード方式が主流になり、カード専用の自動改札があることを知らなかったのだ。戻るため身体をひねろうとすると、背後より私のバックパックをドンと突かれた。ハッとして振り返っても皆素知らぬ風である。ここは日本だという苦々しい現実に一気に引き戻された。

不信

2012-09-22 21:03:50 | Weblog
ドトールは齢五十にならんとしているが、よくその傍らに付いてみると、彼の品行や思考に大人らしからぬ、無邪気というか短慮な一面が伺われる。例えば、私を東日本大震災からの避難民であると同僚に紹介しかけたように、思い付きをよく吟味せずそのまま口に出してしまうところや、自分にとって都合の悪い出来事には耳を塞ぐか、他人のせいにしてしまい、大本の原因が自分にあるとは考えようとしない、そういう行状がまま目に付く。

そういった未熟な人間としての子どもっぽさとともに、天真爛漫な朗らかさや、エネルギーに満ちて、彼と接する人々にまで活力を与えてくれるような生命力の強さ、そして感受性の高さは子ども特有の長所をドトールが今でも保ち続けているように見える。

彼は人の性格や生き方を直感的に見抜く才に長じており、ネガティブに物事を捉えがちな私にプラス思考の生き方を勧め、いささかカルト的ではあるが、運をつかむ方法や人生を好転させる気の発し方のイメージを伝授してくれた。また、ある日のことであったが、ブラジル生活の疲れから来たのか、仕事からの帰宅直後に突如精神が不安定となり悶々としていっこうに落ち着かず、いっそのこと日本に戻ってしまおうかとまで考え及んだ矢先、ドトールより電話があり、これから一杯やるから来いと言う。溺死寸前のところでロープを投げ渡されたような気持ちで店に入ると、「君を誘っても何のメリットにもならないけどね」と言いながらも肉とワインをご馳走してくれた。仕事場では見せないつもりでも知らず知らずのうちに私の態度や表情のうちに不安定な要素が表れており、ドトールは何かを感じるところがあってこの日の誘いを思い付いたのだと、私はそう思っている。

もっとも、この点におけるドトールの才は、金儲けに関して遺憾なくその能力を発揮し、彼の豊かな生活を大いに助けている。患者を診断し治療を施す際にも、単に患部を診るだけではなく、患者の生活レベルや家族環境をたくみに探り、患者の性格を察知して押すところは押し、引くところは引きながら、いかに商売に結びつけるかが彼の習い性となっている。

『肌身に付けるだけで万病に効果のあるマット』なる怪しげな商品を日本から仕入れて、患者に売りつけている。どの患者にものべつ幕なしにというわけではない。たいていドトールが目を付けてカモにする客は、過去に病気を患い、その後遺症に悩みながらも痛みや痺れの原因を特定し治療するのが難しい、すなわちドトールのカイロプラクティックでは治せない症状を抱えている年配の患者である。

そういう患者は絶えず健康に不安を覚え、苦痛がいっそう自分の余命潤沢ならざることを感じさせるが故に、なおさら生に執着を示す。そこにドトールの「誰それはこれで末期ガンが治った」「命はお金に代えられない」「日本のテクノロジーの粋を集めた」「健康が一番の財産」等々の甘言が患者の心に忍び込み、ついにはほんの生地の切れっ端が10万円も20万円もするような商品を買わされるはめになる。

ある日系人家族に対するドトールの攻勢は、鶏小屋に闖入したジャッカルのように激しくむさぼるものであった。その家族はクリチーバから車で3時間ほどの町で大規模なバナナ農園を営んでいる大立者であった。診療所に足を踏み入れてしまったその家族に対しドトールは懇意になることに努め、家族の住む町へ霜降り和牛の土産を携えてのカイロプラクティックの出張も厭わず、その結果、例の怪しげなマットはもちろん、謎の気を発するメタル入り胴巻や、さらにはドトールが日ごろ処分に困っていた電動マッサージ椅子まで売りつけることに成功したのだ。

マッサージ助手として何度かドトールと同行した私であったが、隣席のドトールは商品を売らんとする溌剌たる意気込みによって、カイロプラクティックの治療師というよりは、大きな商談に臨もうとするトップセールスマンの顔になりきっていた。そして首尾よく成功を収めた帰りの車中のドトールは、全身これ満悦のオーラをハイウェイ一帯に燦然と照らしている風であった。

もっともサルも木から落ちることがある。女性患者がドトールの居場所を尋ねている。私が探しに外に出ると、彼は中庭に放置され朽ち果てた温室内でなぜか片付けをしている。患者が呼んでいると伝えると、「え、何ですか?私は忙しいのです」と、いっこうに診療所に向かおうとしない。受付係が患者をなだめるのを尻目に、がらくたを右から左へと意味なく運んでいる。おそらく怪しげなマットを売りつけた相手が悪かったのであろう。それにしても、こそこそしたドトールの姿には院長の威厳のかけらもなく、まるでいたずらがバレて母親に見つかるまいとする腕白坊主の態度である。

放縦な子どもがブラジルの原野に放たれて歳だけを重ねていったようなドトールであるが、私に対してはそれなりに気遣いもしてくれ、呑むといっそう陽気になり、マイナスを上回るプラスを持っている人だと好感を持っていたし、何より私が永住ビザを取得できたのは彼のおかげであったので、感謝の念は常にあった。

ところがある出来事によって、私の彼への考え方が大きく転ずることになった。

2011年の9月のことである。その当時、ドトールの診療所には日系人のフェルナンドの他に同じく日系人のイゴールという治療師がおり、長年ドトールの下で働いていた。彼らの給料は固定給で、ノルマが無い代わりに給料もさほど高くはない。そこで二人はドトールと交渉し、自分たちが治療した患者から一定割合のコミッションを得るという給与体系を提案した。

フェルナンドからその話を聞き、彼が患者一人当たり40%のコミッションを得ることにドトールが応じたと言ったとき、私は訝しんだ。なぜなら彼の給料がコミッション制になった場合、治療する患者数が従来のままであれば、収入は3倍にも跳ね上がり、その分ドトールの取り分が減ることになる。あのお金好きなドトールが到底認めるとは思われない条件であったからだ。

だが、それで話がついたとフェルナンドは言う。そしてその制度に移行する手続きとして、彼らは被雇用者の立場から離れ、それぞれが独立してドトールの診療所内で治療に当たるということになり、彼らはいったん自主退職することになった。

ところが退職するやいなや、ドトールは前言を翻し、コミッションは40%ではなく20%にすると一方的に通告した。当然彼らはおさまらない。強くドトールに抗議した。

するとドトールはノルマ制を提案した。すなわち、治療した月間患者数に応じて20%から40%の間でコミッションを段階制にするという妥協案を申し出たのだ。これに乗っかったのがフェルナンドであった。

ところがイゴールの勤務形態はフルタイム勤務のフェルナンドと違って半日勤務であった。診療所以外の時間を自分の顧客へのプライベートな診療に当てていたのだ。半日勤務では高率のコミッションを得ることはできず、イゴールにとってはきわめて不利である。一方フェルナンドにとっては、これまでの彼の給料からすると増収は確実で、さらにイゴールが診療所を去った場合、彼の患者の一部がフェルナンドに回り、いっそう収入が増す。そのためフェルナンドはこのドトールの提案を内諾し、イゴールを突き放しにかかった。

結局イゴールはそのままドトールの下を去ることになった。ドトールにとっては、半日勤務の彼をさほど必要としなかったようで、体よく首を切ったかたちになる。ブラジルの法律では、雇用主の都合で従業員を解雇する場合、一定額のペナルティを行政府の退職金基金に支払う必要があるのだが、ドトールはこのペナルティを逃れたことになる。

しかし、イゴールもさる者で、彼は失業保険受給の手続きとして、一時的にその金を口座に振り込んで欲しい、後で返還するということをドトールに約束し、ならばと振り込んだところ、そのまま返そうとはしない。ドトールが抗議するとイゴールは弁護士の姉を前面に立てて違法な首切りを告発すると脅したので、ドトールは沈黙するしかなかった。後々までドトールは彼のことを、「あいつは汚い」とののしっていたが、何をかいわんやである。

もっとも利を得たのはフェルナンドであるが、本来ならば最後までイゴールと共闘して、当初の条件を勝ち取るのが筋であるはずだ。だが、彼はやはりブラジル人であった。筋だとか、義だとかよりは自分への利が優先する。彼とはよく話す仲ではあり、そのことを指摘すべきか考えたが、逡巡したあげく結局触れることはなかった。彼はブラジル社会のルールに沿って正当に行動したと思っているであろうし、利益を得た彼に対していまや何を言っても説得力を持たないであろう。

そしてドトールである。私は彼がはじめから計算ずくで偽りのコミッション料をイゴールたちに伝えたとは思わない。そこまでの知謀はドトールにはない。おそらく彼の癖で、深く考えず、とっさの思いつきで言ったに違いない。だが、後から計算して、彼の金に対する執着が現れた。コミッションの料率をなんとか減らさねばという思いから、フェルナンドを取り込んでイゴールを追放するに至る作戦は、ドトールの機転で生み出すことができる。

それにしても、金銭的な利害が絡む事柄であるにもかかわらず簡単に前言を翻すあたり、彼が未だに「今の無しね」で世の中が通用すると思っている、子どもさながらの未熟な考え方を有していることに、私は深い失望を覚えた。日常の些細なことに対する自己中心主義ならばまだ許されようが、金銭が絡む職場において、責任ある立場であるにもかかわらず、精神が子どものままであるほどタチの悪いものはない。そして、そのことはさっそくわが身に降りかかることになる。