
宮城登米市の佐沼城は、1187年藤原秀衡の家臣照井高直がはじめに縄張りし、
平泉から直線にして35キロ、原田甲斐の墓のある米谷の東陽寺から
西に10キロのところにある、交易領地の城柵であった。
記録には、鎌倉時代は葛西氏の、戦国時代は大崎氏の、
幕末まで亘理氏の城となった。
豊臣家の奥州仕置で、秀吉の家臣木村吉清5000石が大抜擢され、
葛西領も含む30万石を与えられたところ、
不満が爆発した葛西大崎一揆がおきている。
一揆勢は木村氏を佐沼城に追い詰めたが、
蒲生氏郷と伊達政宗が救出したのか。
稲の刈入れの済んだ耕作地は、何事も無かったように、
これから冬に向けて装いを変える。
ビバルデイの四季ばかりか、意外やマイルスがダメだと言っているオーネットの、
初期のサウンドが車窓の空気に溶け込んでいくところが発見だ。
市街地から迫川に細道を分け入っていくと、
豪壮な門構えの農家が集団で並んでいる一画が有り、
いずれの家臣か由緒を誇っているようだ。
数キロ離れた伊豆沼の様子は、ユーチューブライブカメラで見るが、
広大な水面を現地で眺めるのは格別の情趣が有った。
研究センター展望台で食事でも、と階段を進むと、農繁期はお休みで、
かわりに水槽の各種貴重魚類や剥製標本を眺めることができた。
行く秋や 鳥蹄き魚の 目は泪
颱風の隙をみて芭蕉にかわり、僭越ながら伊豆沼を俳諧紀行する。
2017.10/28
洪水に備え、地震で堀の石垣が崩れたところの修繕があった。
うさぎの美食に、吉宗のやつ享保の改革を迫ってきた。