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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

342街道を須川岳へ

2021年07月21日 | 奥大道など車にて



話題の342号線は、標高1627mの須川岳(栗駒山)
を登攀するめずらしい国道である。
九十九折りの難所を持ち、紅葉の景観は言語道断の絶景であると、
たいていのことに驚かない人々も、口をそろえて賞賛する。
須川岳を撮り続けた某写真家の作品を、
ジャズを聴きながら眺めるとき、耳と目からすばらしい。
長老写真家の脳裡には、年期の入った須川岳秘図が完成されて、
草花の群棲地を熟知し、季節と光の暦を心得ていること、
余人の及ぶところではない。
大自然への憧れが、技巧を越えて作品にある。
しかし、時代は高山植物保護の監視が厳しくなって、
カメラのリュックを背負って藪を分け入っていると、
なにかと不都合な視線に撮影を止めてしまったのであろうか。
「ハッセルブラッドが欲しい」
と話さなくなったのが惜しまれる。
オーディオも、『マランツ#7』や『是枝アンプ』と、
呪文を言わなくなったらどうか。
342号線は、道程のすべてがはじめから舗装されていたわけではなく、
祭畤の手前の一か所だけ、ブナやシラカバの森林を300Mほどぶち抜いて、
直線の滑走路状に造られたらしい。
どこに滑走するのか両側高く森林の枝の延びた森のトンネルが、
342号線のなかで一番スポットといわれている。
天気の良い日、ここまで車を飛ばしてラジオのジャズを聴きながら、
弁当を賞味するのも秋の行楽だ。
ちなみにモーツァルトのK342は、オッフェルトリウム
「声を張り上げて賛美せよ」 。
2008.9/20


ジャッキー・マクリーン

2021年07月20日 | 奥大道など車にて


みちのくは早くも秋を聴く路である。
国道342号線は、義経が遠駈けした街道のひとつであるが、
いま鹿が道を跨いでいる、貸し切り状態だ
ときいて、車を走らせに行った。
れいの恐るべき地震ナマズが須川岳の麓で寝返りを打ったので、
ビリビリと陥没した路面が、秋田の横手まで延びる途中、
依然として通行止めになっていた。
「こいつはなかなかいけるね」
コンビニで買った弁当を、古代の荘園跡で広げながら、
青く伸び始めた稲のうえを風が渡っていくのをながめる。
「相撲取りはいちにち2食ときいて、自分も2食にしたら、
缶コーヒーがあんなにうまかったとは。びっくりした」
隣の話に、おもわずむせて顔を見ると、
バイクでころんで折れかかった前歯の唇がまだ痣になっている。
昔の平泉に、中国から輸入された珍宝の荷がゆっくり馬の背にゆられ、
須川岳の崖路をやっと越えて342街道を進んでくる。
ひと休みしたのは、この骨寺荘園に造られた別当の館ではなかったか。
そこに義経も駈けつけて、頼んでいたブルー・ノート4106番巻を受け取った。
つまり、現代なら...。
『ジャッキー・マクリーン』が、B・ノートに録った「レッド・フリーダム・リング」は、
ビバップやスイングの約束はそれとして、あたらしいジャズの境地を楽しんでいる。
アルフレッド・ライオンも調整卓のまえでニッコリだ。
2008.9/17
「スポーツでもやっていたんですか、奇跡的に無事ですが、
朝から何も食べていないそうですよ。ヘルメットはハーフではダメです 」
深刻であるが、すこし笑いが出てくるのも仕方がない。

クレオパトラの夢

2021年07月20日 | 奥大道など車にて


バド・パウエル氏のピアノは、ビバップが日本の七五調に
聴こえないでもないと匂わせている。
たとえば、「クレオパトラの夢」はこのように。
『タンノイもJBLも、スピーカーなんだって?
壁に並べて、たのしく聴けていいじゃん
オレサマが、鍵盤をつむいだ音なら
真空管でも、トランジスタでも
だいじょうぶ。
ほーら
むかし、二股の人に泣かされたキズが
いまもズキンとくる?
ハッハッハ、、、と秋の暮れ』
もしこれクレオパトラを、C・ベーシー楽団が奏したらどうか。
まずJ・デュークの剛弦ベースが、ブンブンブンブン床の埃を躍らせて一周し、
おもむろにピアノが二小節イントロをはじめ、あとを
TPもTBもSAXもみんなでブワッとくるのがいいなあ。
ビバップ調にF・グリーンが間を受けて、B・マイルズがドシッ、バシヌ!
とアップテンポにその気になったところを思い浮かべていたら、
国道4号線はついスピードが上がる。
仙台からの帰り道、前後左右の車集団がインディ500のような一群となって、
一糸乱れぬこの超スピード、うれしいけど大丈夫?
と感心していたら、前方にどうも走っていたらしい電飾車が、
「ちょっとオ、みなさん 」
という感じで赤色灯を回したので、全車ただちに
スピードを押さえてしまったのは、やむをえない。
ほんとうにあそこは、4号線もスイングがすばらしい。
2008.9/12

八月の写真

2021年07月17日 | 奥大道など車にて


八月に、管球アンプの赤熱するヒーターが暑い。
そこになお、熱いコーヒーでタンノイを聴く。
「わたしは、冷ましてから喫するのがすきなんですが 」
どうして熱い珈琲がいいんでしょうかねと言う、クールなジャズフアンにも。
コーヒーは熱いうちに、と、楽しめる八月なのだが。
八月の或る日、車の窓を開けて風を呼びながら、
花泉の奥の知らない道に踏み込んだことが有る。
どうなっているのか、どこまでも車を進めていくと、
道は二手に分かれて山間の森の奥に消えていた。
この先を行けば、もう同じところに戻ってこれないような気さえする迷路を走ると、
やがて風景の開けた先に中世のヨーロッパの塔のような建造物が突然現れて、
近寄ってわかったことだが、よほど西洋の好きな人間が
一生懸命木造で組んだと思われる、人の気配のしない古びた建物であった。
机の抽斗からまた一枚、写真が出てきた。
タンノイを聴こうと席に着いて、
眼の前のスピーカーが鳴っていると思っていたが、
鳴っているのは部屋であると、試してわかった写真である。
スピーカーの位置を変えると、まず低音の質量が変わり、
全体の周波数特性と響きが別のスピーカーのように音楽の鳴るのが聴こえる。
まったく同じタンノイ・ロイヤルであるのに、誰もがはっきり「違う」と言う。
聴いた人は音の違いにびっくりして、
「以前に戻しなさい」
と言ったり、
「こちらのほうが良い」
と楽しめるのがオーディオ装置である。
大仕事につき、移動はおいそれとはできないが、
そのうちまたやってみようと、写真を眺める。
花泉に、まだ知らない道がある。
2008.8/1
どこの道か教えて、と興味をいわれたが、
うーん、それがねえ。

宿場町

2021年06月11日 | 奥大道など車にて


さきほど通った道の傍らに、芭蕉行脚の路と書かれた碑柱がある。
切れぎれの旧街道に、何者かが、旅人の記憶を残そうとしている。
旅人を音楽に置き換えるとタンノイは、
さしずめ宿場町にあたるだろうか。
さて、宿場町に顔を出して、
旅の人の偉業を拝聴しようとする。
外出から戻ると、季節のはがきが届いていた。
2008.4/4
ジャガ芋はブンシロウ爺サマの畑にあったが、
花の記憶は無かったので初めて見た。

八戸市へ

2020年08月16日 | 奥大道など車にて


伊達藩から、ハガキをいただいていたので、
平成と令和の境界に掲示した。
平成改元を記念し、
八戸市のジャズ喫茶「車門」の街を探訪に行った。
車門のご主人は、ロイスが1999年に開業したさい、
お世話になったひとりの客人で、印象に残る御仁である。
現在もご活躍であろうか。
一関から八戸市に行くには、無数のルートが有るが、
ウサギのハルちゃんの車を借用したのは、
プレイリーの車検が、おわっていないから。
室根道の駅を通るコースで、釜石まで118キロを指す。
大槌までメーターは合計136キロを指す。
宮古までメーターは169キロを指し、
野田村の海浜展望台で、エーゲ海の色の海を眺め、
久慈まで合計240キロを指し、ここで食堂に立ち寄った。
次に種市までメーターは268キロを指し、
目的地八戸市は、45号線で一関から300キロであった。
噂の車門のジャズ音響を、聴かせていただきたかったものである。
『八食』といういちばに案内されると、海の魚介類や、
さまざまの食材の宝庫で、前後左右に行き来する大勢の客人の熱気が、
昔の秋葉原電気街を思い出させた。
西か東か まず早苗にも 風の音
タンノイも好調で、
きょう、いよいよ令和元年になる。
2019.5/1


狐禅寺川岸を行く

2020年06月19日 | 奥大道など車にて


雪が解けた。
今泉街道の山目宿から柵の瀬橋を渡り、
覚鼈城柵蹟に行ってみた。
古代の北上川沿いの街道で、薄衣―舞川線という道がある。
狐禅寺川岸の周囲は、北上川随一の狭窄地形といわれ、
河の両側を山に挟まれたババリアのライン下りのような風景が、楽しい。
川面が大蛇のようにうねって、非常にゆっくり流れるところを見ながら、
小振りの神社がきれいに修繕されて、落下した石の鳥居が脇に畳まれてあった。
宮城の多賀城から北進し、平泉や胆沢に攻め昇る軍事の騒ぎが有った時代、
覚鼈城の存在を必要としていた地形的理屈が、ここを通るとわかりやすい。
母屋のウサギのことであるが、口をモグモグさせて餌を要求し、
気がつかないと、ジャンプしたりするが、
もし、唄でもうたうようなことがあれば、
サラ・ボーンの声色を教えたか。
2019.2/7
脳味噌を持つのか、コロナは手ごわい。
タイガーマスクは、鼻と口が開いている。
藤井七段は、マスクで酸素不足で、さーて。
SEKOMが挨拶に来たが、ワッペンでも買うかな。


角塚古墳へ

2020年06月18日 | 奥大道など車にて


分類学taxonomyにおいて、過去は記憶、未来は夢である。
角塚古墳に、過去へ千五百年の時空を遡って胆沢扇状地を訪問した。
秋田県横手市から青い山脈を越え、岩手県大船渡市に通る有名な古道
の途中にあり、塩や産品の物流街道であった。
現地を訪れると、競馬場や天文台や名跡が点在して、
角塚古墳の本当の名前も埋葬者のことも、いまは誰も知らない。
列島北限の前方後円墳であるとわかったのは衝撃であるが、
いろいろな謎が解けず、アテルイの墓か?とか、いわれる。
年代的には、どうか?
山内丸山古墳群 紀元前3000年の前 
角塚古墳造営 紀元500年代前後
鳥矢ガ崎古墳造営 約700年頃か
桃生柵造営 760年
秋田払田柵造営 801年
胆沢城柵造営、802年
阿弖流為氏、母禮氏の降伏は、802年
鳥海柵造営 1050年頃
金色堂造営 1124年
頼朝平泉攻略で、義経逃亡は1189年
墳墓の上部は葺石で覆われ、方位も北を向いて正式に造られている。
胆沢川から石をここまで、みんなで一列に並び手渡しで積んだものであろうか。
通行の激しい幹道の傍に造営されるものは、政治的商業的アピール
と思われるが、埋葬者の謎は解けるか。
水沢周辺に住まう多くのジャズの客人を思い浮かべ、
DNAの因果などを考えると、当時流行の文化が楽しい。
噴墓の中央に、大きな木が1本生長し、大切な目印になった。
2019.1.12
周作氏の『沈黙』は、これでノーベル賞候補を逃した、
と言われるそうだが、微妙な踏み絵になったのか。
当方、或る種の本はかまえて読まヌゾ、
何でも咀嚼する批評家は凄い。


あづま海道の元旦

2020年06月17日 | 奥大道など車にて


正月の朝食後、
外車を借り受けて、奥大道から、北上川を渡り、
今泉街道を通って、あづま街道を走った。
あづま街道は、千年前の道である。
駐車場もやっとのこと、参詣者にまじって
黒衣の僧達が、雪道をスタスタ歩いている。
元朝参りの気分はどこの場所も寒さに身が凍るが、
きょうの場所は不思議に穏やかである。
凍った道に滑らないよう表情が固まっていたのか、
受付女性は笑顔で、三が日無料券を渡された。
大門に進むと、三波石の石垣のような階段が待ち構えており、
やっと踏み越えると、にわかに大きな本堂が急峻な中腹に現れる。
一般参詣者は、本堂に入らず、入口で賀詞をことほぐのであろう。
右手の庫裏に鐘楼があり、どうやら鳴らしてもよさそうだ。
階段を上り、正座して大きな鐘を、ゴ~ンと突いた。
名鐘に力が入りすぎて、遠慮のない音が出て申し訳ない。
正座したすぐ左手に、大きな太鼓が置かれている。
バチあたりかもしれないが、どうしても音が聴きたくて、
バチを握って「ど~ん」と、やった。
深い音、お見事です。
帰路に、昨晩見た垣見五郎兵衛のシーンを思い出したが、
昨年、ニュージーランドの客人が言う
「自分は、「侘び寂び」が、わかります。
本国で映画を撮っており、日本人監督達の研究が趣味です」
内蔵助と五郎兵衛の対決シーンを、外人はどう撮るのか?
食堂に一緒に行ってメニューをわたすと、
監督は「日本蕎麦」を注文した。
2019.1.1
夕餉に骨付鶏を胡椒で焼いている良い匂いがする。
笠詰キャンプ場で、ぶんぶく茶釜を沸かし、
唐モロコシやステーキのバーベキュー。
夜中に獣の声で、狸が夢に現れ綱渡りするか。

狐禅寺街道を行く

2020年06月03日 | 奥大道など車にて


むかしむかし、秀衡公の時代に、平泉村塩沢と申す所に人を騙す狐が居て、
北上川の細谷に架かる橋にばけては、人を落として喜んでいたとな。
「ええっ、それはいけませんね」
侍は、弓に矢をつがえて、或る日とうとう射止めてしまった。
川下に、磐井川が北上川にそそぐ河口があって、
狐の遺骸が岸に流れ着いて葬られたが、なんてこった。
こんどは秀衡公にも化けたり、夜には御番衆数百人を眠りこけさせ、
一晩中燃やしておく松明も消す。
そこで偉い法師がこれを御キツネ大明神にまつって宮を建て、
神官や童女で祭礼をおこなったところを、
白馬山狐禅寺と言うそうな。
秀衡公も見学に来たという狐禅寺の場所は、一関市街地から東に今泉街道を進み、
千歳橋の手前岸一帯をさす地名になり、水運の積み出しに栄えたところである。
磐井病院の脇の道を南に進むと、狐禅寺から花泉に到着するので、
芭蕉が平泉にやってきた「奥の細道」と、どこかで交差していると思われる。
さがしていると予定の時間になったので、母屋に戻ってきた。
ウサギが、バナナや人参を廊下でねだっている。
午後の客人はアマチュアバンドでドラムスの人だが、ポツンと言った。
「初めのグループで、キミの音はうるさい、と言われ、
転属したバンドでは、うまくいっている」
エッ?
もしや、ミンガスのバンドか。
2018.12/1
赤と青と黄色があれば、どんな色でも作れるはずだが、
筆で混ぜていると色が暗くなっていく。
模型店では80種類の色が棚に並んでおり、
店主がイギリス空軍色を、さがしてくださった。
エナメルとアクリルを混合してはいけないそうである。


安倍の林道をゆく

2020年05月31日 | 奥大道など車にて


道々、話しながら行きましょう。
軍道や、塩の道は通ったが、林道は車が入らない。
一関から骨寺遺跡に向かうとき無数の枝道が有って、
前から目をつけていたのは、林道に工事作業車が頻繁に入ったところである。
その先に、何が有ってどこに繋がっているか?
タイミングを計っていたら2年ほど経過した。
穏やかな気候に、車を鼻向けし、ゆっくり小半時走った。すばらしい道である。
途中に「深山トンネル」という50メートルのアクセントが口を開けていた。
両側の山の斜面や土手状の茂みにはさまれて、林道はのびている。
途中の坂道に、杉木が真っすぐ群生した景色を入っていった。
ややや、フォルクスワーゲンが追いかけてくる。
速度標識は無いが、クマと衝突してもまずいので40キロで走る。
ジャズよりは、『東京歌謡大衆楽団』の唄が似合う、
思わずG君の運転を思い出した。
右手にしばらく緑の斜面が有り、高原牧場に開墾されたところらしい。
衣川を過ぎて、丘を越えて奥州市に山道は延びていくが、
分岐路のひとつは、安倍の柵に向かい、一方は、旧大森分校にのびているようである。
予定時間が尽きたので、脳裏にポールを立て、母屋に引き返した。
前日は、『新柵の瀬橋』が開通し、きょう走ってみたが、銭千貫橋がこれである。
庭に停めている日産プレィリーで走ってみたかった。
旧い橋と並んで、美麗な北上川を渡る風景は、わくわくする。
2018.11/24
コロナで営業自粛中をプラモデルで遊ぶ。
ハンティングタイガーのキャタピラーフック1ミリをつまみ、
鮒釣りの赤虫を思い出した。
食卓のバラが美しい。

山田町へ

2020年05月19日 | 奥大道など車にて


チェカリンスキイは顫える手に札を配った。
右手には『女王』が、左手には『一』が出た。
「『1』が やった!」
とゲルマンは言って、持ち札を起こした。
「いや、『女王』の負けと存じますが」
チェカリンスキイが優しく言い直した。
トランプカードをシャッフルした後、片手でカットして見せると、
オートバイの好きな20年ぶりの客人は「アッ、」と眼をむいた。
自宅で練習できるように、プレゼントした。
大槌には「クイーン」という店が有った。
それで先日のこと、山田町に向かうとき、
途中で大槌町に寄って、城山公園からはるかに海を見た。
まもなく山田町に向かったのだが、
途中で食事しながら、海岸に打ち寄せる波を見て、
ここはサーフィンのメッカとのことである。
2018.11/8
背中が痒くなったとき、殿様なら方法は有る。
お毒味役、お目薬役、御背中役。
庭の草花の手入れをするのがお庭番か、と思ったとき、
ベイシー・ビッグバンドのOnTheRoadがバズババァーンと鳴った。

舞川-東山線

2020年04月14日 | 奥大道など車にて


ロイスの前から北東に3キロ向かうと、平泉の手前に今泉街道起点の山目宿がある。
ここは奥大道と交叉して、奥州山目宿の旅籠がならび、芭蕉も義経も通った歴史の道である。
周囲に住み13才まで遊び場にして、三日かよった幼稚園や、二ヶ月かよった珠算塾があった。
東の地平の観音山をめざして進み、北上川を渡河するとき、
柵ノ瀬橋は新橋と交替が近く、辛うじて、いにしえの勇姿を残していた。
橋を過ぎて、舞草刀の鍛冶場のある観音山の麓まで来ると、
田園から山手に分け入る二股道があり、ポツンと、キツネの雨宿り電話ボックスがある。
坂道を道なりにしばらく東に進むと、やがて金山棚田を過ぎたところに、
普通には気のつかない五嵯路がある。
周囲は4つの小山に囲まれて、谷あいの古道が交差したかのようだ。
山目宿から特産を牛車に載せて長い坂を下りきったところで、
右手を開いて前に突き出すと、
小指の方向に菅原道真神社の三本鳥居と御やしろが、蜃気楼のように見えている。
道の先に、長島を通って平泉柳御所や金色堂がある。
義経が海を見たいとき、平泉から集団で通る近道である。
薬指の方向は、行き止まり。
中指は、金売り吉次の鉱山のあった田河津に抜け、左に行けば正法寺、黒石寺の方角で、右は千厩に至る。
人差し指の道は今泉街道に出て、東山町睨鼻渓を通り、大原から越喜来湾へ向かう。
菅江真澄は1786年に大原の肝入、芳賀長左衛門宅に数ヶ月逗留しているが、
「はしわのわか葉」に、書いていた。
「二十九日 六月もきょうをかぎりに終わるという。続石神に詣でた。阿倍比羅夫、あるいは虫麿朝臣などが寄進したものもあって、むかしはなかなか栄えたところである。黒麿の歌として語り伝えられている歌がある。
「よきことを万代かけて続き石の神の恵も大原の里」 
貞観のむかし、山城国大原野の大明神をまつったところだという。また寺を続石山大原寺といって、開祖は円珍大師で、藤原清衡が豊田の館から平泉へうつってきて、わが館の鬼門を守り給えと誓願したのは、この神社である。本地仏として祀った薬師如来は円仁大師の作である。……」
睨鼻渓の手前に、金山のあった松川町があり、宮沢賢治が鉱山技師をしていたところである。
ここの二十五菩薩堂が脚光を浴びるのはなぜだろう。
阿弥陀堂は中尊寺金色堂が有名であるが、松川村の言い伝えに、
「白ひげの洪水のとき東屋敷の三平が、流れ着いた菩薩の部品六十個あまりを拾い上げお堂に祀った話」と、
仙台封内名蹟誌に「松川に大飛閣あり天文11年葛西の臣横沢重持が再建し管理していた」とあるという。
金色堂は1124年に造られたが、この像のトルソーも金箔が施されていたといい、藤原三代の財力を発揮した像が、戦乱の夜陰に乗じひそかに牛車に載せられ、運ばれてきたのかもしれない。
二十五菩薩は、右大臣藤原道長が各菩薩と結んだ指紐を両手に握って入滅したという記録を思い出した。
かくれんぼ 三つかぞえて 夏が来る
寺山修司の替え句も、子供時代の風景は、ゆっくり変わりつつあった。
2018.7/24
柵の瀬橋は完全に分解されてしまった。
かろうじて似たような橋が花泉にある。
越山栗、また送ってもらえる、ラッキー。



鳥矢崎古墳へ

2020年03月16日 | 奥大道など車にて


初夏に、鳥矢崎古墳へ向かった。
780年ころの国府多賀城と伊治公呰麻呂の乱に関係している遺跡である。
古代の細道は里山を縫って、タイガー戦車の系譜を操縦する気分に浸っていると、
クルマは目的地からどんどん離れている、とJPSは危惧しているそうだ。
前回訪問の伊治城柵から北西に、義経の泊った栗原寺の傍を通り、
芭蕉の行脚した津久毛橋を右に見て13キロの、猿飛来に遺跡はあった。
猿飛来の地名は、三陸越喜来と同じアイヌ語源らしく、当方が小学生の時、
講堂に整列する我々に、アイヌ人集団は独特の模様の衣服と、
狩猟の踊りや祈りの文化を披露したことを思い出した。
古墳は栗駒山を遠望する丘陵の形状にそって、大小40基ほど祭祀されていたが、
呰麻呂氏とは、律令時代に栗原郡一帯で暮らした豪族の代表で、
政府の領土拡張政策で造られた伊治城柵に就職し、へりくだって勤めに励んでおり、
築館町出土文化財管理センターに、城柵の模型資料が展示されてあった。
そのころ入植政策の軋轢から、一夜にして豪族集団から反抗され、
けっきょく桃生城、覚鰲城、伊治城、多賀城と焼き討ち略奪にあったが、
報告を受けて驚いた朝廷は、反乱に『宝亀の乱』と名をつけて記録文書を残している。
「兵器粮蓄 勝げて計うるべからず」『続日本紀』、
破られた倉庫には、荘園経営の備蓄がずいぶんとあったらしい。
発掘調査された碩学のレポートを拝読し、当方が非常に印象に残ったのは、
A2号墳から発見の正七位の階級帯章の出土品について、数ページを費やし、
縦横斜めから微細に記録されている。
どうやら歴史から消えた要人呰麻呂氏の消息を指している物証であるらしく、
呰麻呂氏は、精勤した官庁から下賜された勲章を、気に入って副葬したと思えるのだが。
はるか栗駒山が展望する風景は、古代といまも変わらない。
借り物であるが、のんびりドイツ車のドライブを楽しんだ。
涼しさや 直に野松の 枝の形
2018.5/28
ウサギのはるちゃんに対し、緊急に、
奥歯咬合整形が、麻酔うえおこなわれた。
戻ったところを挨拶してみたが、
まだ、おヨロけあそばしている。
「史記」にある、世が世であらば、
プラチナの入歯を施術されていたのかも。

祭時の雪見

2020年01月06日 | 奥大道など車にて


冬こもり 春さり来れば あしひきの 山にも野にも うぐひすの鳴く
どこまでも徹底して、除雪はおこなわれている巌美街道を、
うぐいすを探して矢櫃ダムまで行ってみた。
ダムは全面凍り、いつものゴーという音も聞こえない。
祭畤分校跡は腰までの雪で、グラウンドに入ることは出来ない。
途中のホテルの軒のツララが、2メートルにも成長していた。
まだ、白い世界である。
10年以上前においでになったと申される客人から、
志波の、オーディオ・ショップの話を聞いた。
店舗は、広い大きな倉庫になっており、中古の商品から、
カセットから、レコードから、何から何まであるという。
うぐいすより、そっちのほうが良さそうだ。
2018.2/1
北上川に沿って花藤橋から雪のない道を館が森に登っていくと、
おや、二頭の象が高い背中に子供を乗せて歩いている。
一風変わった風景だ。