
東北ニュージーランド村を中心線にして地図を折ると、
「白鳥の柵 」 と重なる反対位置に『安倍の館 』 史蹟がある。
およそ行楽に渋滞するニュージーランド村園を横に見て、
3キロほど上衣川に入った場所にあるらしい。
いまから千年前の東北に一大勢力を持っていた城館主の安倍氏は、
厨川など各地に有名な城柵遺蹟を残したが、歴史はやがて
中央と手を結んだ平泉藤原勢力圏の時代に移っていった。
衣川の安倍舘は、ぜひいつか足をのばしてみたいところである。
朝からスカッと陽が射し、
母屋のウサギの欠伸で、気温も上がってきた。
当方は、地図に従って『骨寺荘園遺蹟 』 へ厳美街道をひた走り、
そこから山沿いの道に入っていくと、意外に優雅な道が、ゆったりと
舗装され、左右に50センチほど冬の雪を積んで除雪されていた。
先日の深夜に北上街道を走った時、電飾ライトがキラキラ回転している
二台の除雪車が時速25キロで路面の雪を掻き分けていた。
冬の運転は、雪に凍るスリップと危険な綱渡りである。
雪原の残る上衣川の奥州街道からすこし奥まっている、
安倍舘橋の左手に、めざす遺跡はあった。
小山に鶴翼陣の地形が、前面の平地に流れる数条の堀川によって、
天然の要害となっている、選ばれた場所である。
周囲に、馬懸、古戸古戦場、一首坂、駒場など名を残しているが、
山腹に兵が五千も籠城戦をする計画ではなく、
有名な安倍の十二柵と言われるものを適地に分散させて、
いまは「夏草や、つわもの供の夢の跡 」 となった。
厳美街道から、49号線に接続された道路を走ってきたとき、
道の両側に里山がつらなっている光景は、ババリア街道のような、
とてもおおらかな気分の良さを感じさせて、めずらしい。
途中に、どのように見ても奇妙な巨大な一枚岩が、
高さ20メートルほど屏風状に聳え、それが数十メートルも続いており、
コンクリートでも吹き付けたのか? おもわず車を降りて眺めた。
昨日は関が丘の哲人が現れると、
「同級会にいまからです。 そういえば自分はクラシックも聴きました 」
タンノイを前に教養の一端の披瀝させて、今後は、二本差し
向けの選曲となるのか。
しばらく当方は、屏風磐を背景に衣川の風に揺蕩う大がかりなステージ
を考えていたが、クラシックならヴィオッティのヴァイオリン協奏曲を、
ドレスデンの面々を揃えてルーシーを弾くところなどを思い浮かべた。
2014.1/20
闘う安倍氏は行く