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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

安倍の館史跡

2022年08月12日 | 歴史の革袋


東北ニュージーランド村を中心線にして地図を折ると、
「白鳥の柵 」 と重なる反対位置に『安倍の館 』 史蹟がある。
およそ行楽に渋滞するニュージーランド村園を横に見て、
3キロほど上衣川に入った場所にあるらしい。
いまから千年前の東北に一大勢力を持っていた城館主の安倍氏は、
厨川など各地に有名な城柵遺蹟を残したが、歴史はやがて
中央と手を結んだ平泉藤原勢力圏の時代に移っていった。
衣川の安倍舘は、ぜひいつか足をのばしてみたいところである。
朝からスカッと陽が射し、
母屋のウサギの欠伸で、気温も上がってきた。
当方は、地図に従って『骨寺荘園遺蹟 』 へ厳美街道をひた走り、
そこから山沿いの道に入っていくと、意外に優雅な道が、ゆったりと
舗装され、左右に50センチほど冬の雪を積んで除雪されていた。
先日の深夜に北上街道を走った時、電飾ライトがキラキラ回転している
二台の除雪車が時速25キロで路面の雪を掻き分けていた。
冬の運転は、雪に凍るスリップと危険な綱渡りである。
雪原の残る上衣川の奥州街道からすこし奥まっている、
安倍舘橋の左手に、めざす遺跡はあった。
小山に鶴翼陣の地形が、前面の平地に流れる数条の堀川によって、
天然の要害となっている、選ばれた場所である。
周囲に、馬懸、古戸古戦場、一首坂、駒場など名を残しているが、
山腹に兵が五千も籠城戦をする計画ではなく、
有名な安倍の十二柵と言われるものを適地に分散させて、
いまは「夏草や、つわもの供の夢の跡 」 となった。
厳美街道から、49号線に接続された道路を走ってきたとき、
道の両側に里山がつらなっている光景は、ババリア街道のような、
とてもおおらかな気分の良さを感じさせて、めずらしい。
途中に、どのように見ても奇妙な巨大な一枚岩が、
高さ20メートルほど屏風状に聳え、それが数十メートルも続いており、
コンクリートでも吹き付けたのか? おもわず車を降りて眺めた。
昨日は関が丘の哲人が現れると、
「同級会にいまからです。 そういえば自分はクラシックも聴きました 」
タンノイを前に教養の一端の披瀝させて、今後は、二本差し
向けの選曲となるのか。
しばらく当方は、屏風磐を背景に衣川の風に揺蕩う大がかりなステージ
を考えていたが、クラシックならヴィオッティのヴァイオリン協奏曲を、
ドレスデンの面々を揃えてルーシーを弾くところなどを思い浮かべた。
2014.1/20
闘う安倍氏は行く

衣の関

2022年08月11日 | 歴史の革袋


枕草子にも有名な、平泉の「衣の関」は、どこにあるのか?
「関は、相坂の関 須磨の関 鈴鹿の関 くきたの関 白河の関 衣の関 」
また、「奥羽観蹟聞老志」には
去高館一町余山下有小関路是古関門之址也東史曰此地昔時西界白河関
東限外浜行程十余日於其中間立関門名曰衣関
一説曰衣関在伊沢郡白鳥村曰鵜木其傍有関山明神
今曰之関門宅是乃往時通行之道路而今廃其地也
高闢関門左則隣高峻右則通長途南北層巒層相峙険隘之地
北上川河畔の高館から一町あまり下れば古い関の址がある。
吾妻鏡にいわく、西の境界白河の関、東の限界外が浜という
奥大道の旅程を十余日として、その中間地に設けられた関門があり、
名を『衣関』という。
また一説に依れば、衣関は胆沢郡白鳥村鵜木の付近にあり
関山明神の近くを分け入っていまは廃道となった
左右が崖のように険しいところにある?
芭蕉、奥の細道にも
「泰衡等が旧跡は衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり」
と書かれ、あるいは前九年の役の関といわれる衣河関など、
いくつか「衣の関」はあるようで、雪の融けたころ車を走らせ
歌枕の地を探してみたい。
昨年正月から姿を見せなかった「ひよどり」は、
雪の坪庭にけたたましく啼き現れ、パン屑を放ってみると
空中でキャッチしたので、どうも記憶の確かな鳥のようである。
冬は餌が不足するのか、伴って来た新鳥のほうは離れて見ている。
仏蘭西パンの 落ちている庭 連れて飛ぶ
2014.1/14
花火の夏もあっと言う間に過ぎた。
黄海林業の青年がウイスキーを買っていった。
信玄餅かたじけなし。

柳之御所 二

2022年07月27日 | 歴史の革袋


古都平泉の栄えた中世に、15万もの人が組織だって生活するとき、
大切なアイテムは暦と時間である。
当方が最初に社会に出て働いたころ、
給料の一ヶ月分に相当した腕時計を買い、時間を腕にはめて出陣した。
一般の会社でこうなら、中世は、どのように時間を管理していたか、
眼に見えないものを明示し、すべからく日常を運行して
都市集団は活動したはずである。
奈良平城京では、水時計があったらしいが、
夜も明ける前から大勢の官吏が都大路を、
ぞろぞろ朝集殿に出勤していた記録が残されている。
腕時計の無い時代は、官吏は足早に登庁し、
けっきょくニワトリが鳴く頃には全員事務所に揃っていた様子が浮かぶ。
当方がはじめに平泉の政庁『柳之御所』を訪ねたのは、
発掘事業が一段落した春雨の日で、
観光客がぼちぼち見学を許されたころであった。
古式にならって14号線を北に、束稲山の方角から北上川の橋を渡り、
柳の御所遺跡に入ったところ、子供の頃通ったカーブの道と同じものとは
信じ難いほど、記憶と情景が異なって見えて焦った。
つまり、永い月日に埋もれていた遺跡一帯が、
再び地上に姿を現したありがたい景色であったが。
そのときは、およその地形だけを見てすぐ引き上げたが、
奈良の都で年給4億円受領していた長屋王の敷地と
漠然とくらべても、ちょっと狭いような印象をもった。
あらためて周囲を見ると、生活道路は埋もれた遺跡を分断していたらしく、
御所の大きな堀が反対側にも発掘されて、相当広い規模であるとわかる。
そこに誰も予想しなかった大堀や庭園の池や古代建築の柱跡が
地中から現れた様子に深く感心させられた。
この列柱跡を図面にして、気分的に同じ奈良時代の
各地の建造物と照合した研究を現地資料館で見ると、
もはや具体的な再建も射程にあるのかもしれない。
なかでも一番驚いたのは、地中から現れた一番大きな建造物跡を
地図で辿ったところ「金鶏山」と「無量光院」を結ぶ線の、
軸上にあるように、見えたことである。
ディブ・パイクとエヴァンスの演奏が、盛大に鳴っている
平泉の朝夕の太陽が浮かんだ。
2013.10.15

始めの一手

2022年06月23日 | 歴史の革袋


将棋盤に向かって
相手にお辞儀をして
最初の一手を深く考える。
タンノイにも
静寂の間合いが有る。
母屋にて到来物の餃子(ギョウザ)
かたじけなし。
2013.9.18
927年延喜式じんみょう帳載舞草神社に参詣した。
黒門から上がる正式でなく舗装東参道から車で進んだ。
坂の途中、いきなり存在感のある角形大石が無造作に現れ、
登ってきた甲斐がある。


プラモ

2022年06月22日 | 歴史の革袋


プラモデルといえば、マルサンという会社の登録商標だが、
勉学も疎かにして、放課後せっせと組み立てた。
そのはてに、完成させてはつまらない、と深く判明した。
ちょっと組み立てては、バラして箱に戻す。
鯉から藍に変わってはまずい。
たまに眺める倉庫に保存してある貴重な逸品。
そういえば、最近あまりみていないな
2013.9.18
水沢からウイスキーを買いに来た紳士は、
機体の名前を次々言い当てながら、
操縦席の塗装を覗いているのだが、
手抜きがバレてしまった。

映画館

2022年05月09日 | 歴史の革袋


大町に住んでいた頃、150メートル離れたところに
裕次郎や小林旭の出ずっぱり映画館があった。
かりに京都の地図でその住家を四条烏丸にあてると、
映画館は四条大宮である。
良く見た映画館はほかに、京都駅から少しさがった東寺のあたりで、
シェーンのラストでズドーンという拳銃が凄い音の星座名の館である。
磐井川を桂川に見立てると、西院の付近に三軒、
そうそうたる映画館が有り、西京極にも時代劇専門の映画館があった。
このように、以前は六軒の映画館があったが、テレビが普及し、
誰も小さな画面で映画を見るようになったので、
少なからず本物は閉館されてしまった。
オーディオも、いまでは耳にイヤホンを差し込んで、
一般的に聴いているのは知っている。
油断のならないのは このような時代の流れである。
客人が、一関にもうひとつ西五条大路あたりにも
映画館があった、と話してくださった。
「しょうえい製糸工場で働いていた女工さんが押し寄せる映画館で、
蚕の匂いでいっぱいだったね 」
レコードを聴くのにプレーヤーと針が必要だが、
先日会報を配布する御仁のお話はこうである。
「チゴイネルワイゼンを聴こうと昔のプレーヤを押入れから出し、
ソニーの針を取り寄せたら、一万両でした 」
そうこうしているとジーンズでショーを仕切っているBS番組の
良く似たご婦人が 「ここは何のお店か 」 と質問である。
針を使ってレコードを聴く店ですがな。
目にかかる 時やことさら 五月富士
2013.6.1

長者ケ原廃寺の謎

2022年04月10日 | 歴史の革袋


元日の長者ケ原は、マイルスの『WORKIN 』 のサウンドが
かすかに聴こえるように澄み渡って、陽が射していた。
衣川沿いの道を行くと、やがて透明な空気の中央に堂々とした石碑が見える。
1189年7月のこと、28万の軍列をととのえ鎌倉を出発した大軍が
平泉に入ったのは8月の夏のさかりであるが、
かねてより何度も見ていた平泉都の絵図を頼朝は、
とうとう現実に区劃している町屋の痕跡を眺めて、感激に浸った。
さっそく、寺社建築に乱暴狼藉しないよう全軍に下知している。
北上川正面にある柳之御所周囲をかりに千代田区とすれば、
いま立っている衣川の北面は、水耕田や原野で広がる『長者が原』とよばれる、
渋谷区松濤のような高級建造物でうまっていたはずである。
頼朝の見た長者ケ原廃寺は、
「ただ四面の築地塀が残るのみ 」 と吾妻鏡に記述がある。
中尊寺伽藍が完成した時点で、時代的にすでに廃寺であったのだろうか。
長者が原の名は『金売吉次 』 の屋敷跡が伝説に残ったものだが、
歴史が吉次の立場を商社の統括本部長と秘密外交官を兼務させたものであれば、
ここに輸出入用の大きな蔵が何棟も建ち並んであったと言っているかもしれない。
秋田には吉次の隠し金山と言われるものがあり、
東山町田河津や各地に金売り吉次の別邸跡が残っている。
勧進帳にある東下りした義経主従を迎えて接待を担当していた泉三郎は、
長者が原とは隣接した『泉ケ城 』 に住んでおり、義経を京から導いた吉次の 
コミットを考えれば、渋谷区松濤に判官館を移すことが自然のようでもあるのだが。
頼朝がことさら長者ヶ原廃寺を見学したのは口実で、本当は
平泉に匿われていた義経の判官館を、以前から地図にマーキングし、
ひとめ見たかったのではなかろうか。
敗走した軍勢の追討に厨川まで進軍した頼朝は、まもなく平泉に戻って逗留し、
金色堂や二階大堂などの名所をゆっくり巡回している。
「あそこが義経殿の住居でございました 」
案内人が、気を利かせてそれとなく指し、供連れぞろぞろ進む頼朝は
馬上から眼の端にそれを見ていた。
そのとき、背後で供の者どもが騒いでいる。
指差す方向を見ると、衣川対岸の関山の中腹にちょうど陽が射して、
二階大堂の天窓に黄金の仏像の顔が光っていた、
後年鎌倉の地に二階大堂を再現して散歩に馬を向けた頼朝は、
そのとき東北の長者ヶ原の景色をかさねて思い浮かべていたに違いない。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 」
芭蕉も矢立ての句を詠んで本所深川を出発し、奥の細道の北限に
泉が城の到達を記している。
元日の遠乗りを終え国道四号線にコースに取ると、反対車線は
元朝参りの車が繋がって、いかにも頑丈な白いマスクをしてハンドルを握る
一台の巴御前の業務車両とすれ違った。
帰宅すると遠来の訪問客が有り、鶴屋八幡の羊羹をいただいて幸甚。
日本茶の正月に、ゆっくり暦をめくった。
2013.1.1

秋の古都

2022年04月06日 | 歴史の革袋


11月になると、風の涼しい古都は
静かに月見坂の紅葉が輝いている。
毎年5月の若葉の季節には、義経、弁慶一行が平泉に
落ち延びる行列の歴史絵巻が再現される。
沿道に詰めかけた大勢の衆で感動的に賑わう藤原祭であるが、
どこからあれほど人が集まったか。 つかのまに
アッピア街道のローマの凱旋行進のように、古都は賑わった。
関が丘の御仁がロイス喫茶にて新聞の写真を指して言った。
「行列がスタートしたここの毛越寺の大門で、ボクはあのとき、
うしろにいましたが、お一人でなかったので、声をかけそびれました 」
体格の優れた駿馬のなかにはダダをこねて行列から抜けようとする馬が、
鎮める舎人の慌て騒ぎで祭をいっそう盛り上げる。
芭蕉も現代に居合わせれば、このときばかりは、行き交う旅人の
多さに驚いて、違った俳句を詠んだか。
同じ5月の京都御所からはじまる葵祭りの牛は、
牛車を引いて8キロを賀茂川路にそって上鴨神社へと行進する、
たいそうな賑わいも、年の暮れに行ってみたら、誰も居なかった。
京都御所は、歴史的に紫式部や清少納言の生活の場であったが、
源氏物語「雨夜の品定め 」 の和文、
宿直の衆が回想する千年の昔が、意外に深刻な内容で驚かされる。
現代訳や評論の多数あるなかで、森鴎外、夏目漱石は源氏物語を完全に無視、
感想の記録が残っていないそうである。
静かな秋に、長野県から男女の客人がベンツのカブリオレで登場した。
北の八百年の古都を訪ね、いなせな御仁は視線を水平よりややうえに向け、
6時間走ってきたが車のクッションが硬いと言い、
きょうは市内に宿泊して、あしたは『平泉 』 に落葉を踏みに行く、と。
2012.11.1
駅の観光協会に寄って、商工会建物を教えてもらった。
隣りの2階である。


夜汽車

2022年02月09日 | 歴史の革袋


あれは小学生のある日、近所の遊び仲間が集まって、言っている。
「今夜初めて、急行の夜行列車が通るんだって 」
テレビのない暇な時代に話はすぐ広まって、
晩御飯のあと、蚊除けのウチワとロウソクを手に集まった。
薄暗い国道の町家並みを、瀬戸物店の側の、
水害用の船の置いてある細道から裏に抜けて、
田んぼの稲の伸びている暗闇の向こうに、音だけでも聞こうと
遠く線路が走るあたりに目を凝らして待っていた。
夜空に星が輝いて、カエルの声がうるさく大合唱している。
人の顔もよく見えない夜の七時過ぎ、蚊を追うウチワをバタバタ待っていると、
突然にゴーッと音が聞こえ、青森から東京に向かう夜のC62急行は、
黄色い窓明かりをマッチ箱くらいの大きさに何両も連ねて、
銀河鉄道の絵のように流れていった。
先日の震度6の日は、東京青森間を新幹線が初めて猛スピードで、
駆け抜けた記念の日で、さっそうと北に走ったというのに激震にみまわれて、
しばらく終着点に停泊したまま、運良く脱線もなく5月の連休に復旧した。
松島T氏は申されている。
「仙台の店舗の水道もやっと復旧しましたので、あすから営業しようと思います 」
松島にあるご住居を気にはなっていたが、オーディオ装置は奇跡的に無事で、
道向かいの公民館に、100人ほどの方が避難生活しておられるそうである。
松島T氏は、オンライフからマランツ7に変えて、
せっかくラインに繋いだ話であったのに、いま使用のプリは、
こんどはアルテック純正と聞いて、はてな、 と思った。
するとあんのじょう、迫SA氏のアルテック牙城を訪問したのが運の尽きで、
「そこにあったプリの音に、耳が目覚めてしまいました 」
どこか遠慮しながらも嬉しそうである。
当方は黙って、けしからん、と思った。
せっかくマランツを棚に飾る会を画策しているのに、である。
そのせいかどうか、ズート・シムスの演奏も、きょうはよそよそしく
聴こえるのがおもしろい。
いつか訪問させていただいて、アルテックA-7がオール純正のラインによって、
マリリン・モンローの『虹の彼方に』をアルテックに唄わせているところを
ぜひ拝聴してみたいと、あれこれ想像した。
2011.5.1

鹿踊りの庭

2022年02月08日 | 歴史の革袋


鹿踊りの庭を見た記憶の屋敷は、明治の三陸津波から避難して、
いまの高い所に移されたものという。
5歳がたちまち過ぎてしばらくあと、
もう一度訪問する機会があった。
庭を案内する当主とご長男が漏らされていたが、
前日は我々の訪門のために庭の草刈りをされたらしいのが恐縮である。
この庭は、ご先祖が京の庭師を三陸まで招聘して造作された、
いわれが庭園雑誌に紹介されて、野次馬の当方が話を聞いて、
ぜひ離れの茶室の紫檀黒檀の天井を拝観したいと熱望した。
それからふたたび先頃の東北大震災に、陣中お見舞いの途中
立ち寄ろうとしたが、捜してもどうにも場所がわからない。
あちこちうろうろしていると、庭先で大きな伊万里の皿を大量に洗っている
ご老人を見かけ、車を降りて尋ねてみた。
「ああ、あそこは大丈夫。場所は次の湾だが、あなた方は誰? 」
父もそうであったが、田舎では、どこから来て何の用事か、まま詮索される。
どの人も心の奥で世間のちょっとした変化も逃さない。
瓦礫の積もった震災の沿岸を心細く進むと、
角に停まる消防自動車からわざわざ二人が降りて、
斜面の中腹の住居を教えてくださった。
土蔵の側から入ると、あいにくのご不在で当方は早々に退去した。
ご無事がなにより。
2011.4/1

古寺落慶

2022年01月28日 | 歴史の革袋


西風が落葉を舞いあげている晩秋の日、
royceの前の道路工事もなかばを渡り、
郵便二輪車が風のように封書を届けて行った。
釈迦堂と仏像の修繕落慶開眼の式をおこなうと、
別当から突然の知らせで驚いた。
落慶開眼法要といえば天平の昔に伝わる大仏殿がイメージにあり、
ただ事ではない。
知らせのあった御堂については、子供の時、割烹着を着た婦人が、
境内に群生するありがたい山菜を眼の前で採って、
わざわざ持たせてくださった記憶がある。
平安時代から最も賑やかな、タイムズ・スクエアや銀座通りのような
一角の御堂だが、お釈迦様だけが中で何百年も沈黙していたのか、
存在の様子がいっこうに思い出せない。
あるとき、数えきれなくある京の寺院のなかで、訪れる人の無い
鄙びた寺にテレビカメラが入って、ぶしつけに尋ねるのを見た。
「有名な寺院には観光客が多く入りますが、御寺のご心境というものは....」
僧はちょっと笑うと、
「修行に集中できるから、これでよいのです 」 
シチェーションが似ている修業三昧の御堂は、
これまで何百年もそこに在った。
落慶開眼の突然の知らせに驚いた当方は、
俄然興味深々、財布を裏返し衣服を新調していよいよ当日、
古刹に参集する一群の末尾に加われたのである。
奥大道の北口から坂道を進んでいくと、紅葉する樹木に午後の光が、
茜色の万華鏡のように照り映え、木漏れ陽から透ける堂塔の列を彩っている。
鎌倉前期まで右手の丘に甍を翼のように雄大に広げていた二階大堂を、
しばらく夢想しては、空中に描いた。
大勢の観光客が逍遥している歴史に包まれた空間にいると、
遠く麓の街道からかすかに、業務に励む車両の音が風に乗ってもれ聞こえた。
いったい、お釈迦様は、何百年ぶりに賑やかな日を迎え、
どのようなお顔をしているか。
無言の御像にも、きょうは思いかけず騒がしい周囲に笑って、
霊験の啓示を、針の落ちる音でも聴こえる者には示すのではないか。
知らせをくださった別当職という御仁について少し記憶があって、
磐井川の中ほどにかかる橋のたもとで、骨董の蒐集に、
日夜情熱を傾ける亭主が住んでおり、奥座敷で刀剣や陶磁器の収蔵品を
偶然見せていただく機会があった。
うっかり耳を傾けると引き込まれる亭主の話は、
笑い転げ、あるいはしんみりさせられる柳亭痴楽の話芸であったが、
めったに披露されないので実力を知る人は少ない。
当方が、家にあった刀身の先が短刀になった業物の記憶を話すと、
にわかに態度が変わった亭主は、文庫から墨で拓本にした日本刀の刷紙を
いろいろテーブルに並べ解説してくださった。
ご亭主の手もとで、先刻から撫回されている小皿がある。
―― それはなんですか?
「一関郊外の古民家の庭先から掘り出された幕藩時代の絵付けなのだよ 」
ヒビ割れ皿をいとおしそうに手のひらで温めているから、
ぽかんとするばかりだが、障子を開けて顔を見せた奥方が伝える。
「○さんが、見てもらいたい物があると電話で言っていますが 」
取り次ぎの呼吸もぴったりだ。
岩手美術品博覧会に東西奔走する人の話がでて、展示出品の鑑定のため
亭主の家にも特に来訪があったことを感心していたが、
本日の落慶堂宇の別当殿は、見識を生かして広域に活動のご様子である。
歩みはやがて広場の一角に到着し、最後尾に並んだ当方に、
観光客が何の集まりか不思議そうに寄ってきて、
「能楽堂はどこにありますか? 」
釈迦堂の開眼式の賑わいがきょうのハイライトと気がついたらしい。
遠くから「チーン 」と 澄んだ鐘の音がしだいに近寄ってくると、
目の前を高貴な色を身に纏った僧の一団が、
列を作って厳かに釈迦堂に吸い込まれて行く。
さきほどながめた茜色の木の葉の重なりのすきまを、
ゆっくり衣のたなびくような声明が永く続いて、コーラスの背後に、
大勢の観光客の玉石を踏む歴史の音が聞えている。
式が終わって内陣の開放が有り、特別に釈迦像と脇侍を、
触れるほど近くから拝観が許されたので、いよいよである。
御堂に入ってみた。
平安鎌倉の昔から各地の旅人を安寧してこられた三体を、
息を止めて眺め、象の背に乗った脇侍の彫りの深い切れ長の眼の、
映してきた時間をゆっくり拝すことができた。
式典会場に一同が移り、壇上で次々と祝詞が述べられていく。
学者殿から、三百年まえ修繕のあった工人仏師の記録が詳しく紹介され、
おわりに関東の名刹浅草寺から来賓の、有り難いお言葉があった。
聞くことまことに開眼に華を添える彩り深いものであった。
テーブルに並ぶ前沢牛や山海の珍味の祝膳の華やぎがどうにもまぶしく、
握った2本の棒が遊んでいるのは、箸の奴、何かに臆しているのだろうか。
たしかに皿が並んで回転しているいつもではないが。
そうだ、同伴した♀は頃合いをみたかサッと消えたから、
月見坂に鳴る竹の葉先の擦れ合う音や雉鳥や野鳥のさえずりが、
チェインバースのベースやモブレイのサクスと似合って、
タンノイのむこうに、しばらく浮かんだ。
2010.12.4

サブルーチン

2022年01月21日 | 歴史の革袋



子供世界にも、ルーティーンワークはある。
昨日から明日に向けて小学生がこなすメインルーチンは、
だいたい想像できるが、ふとこの8月8日に、プログラム言語的に
サブルーチンについて、思い出してみたのが次のようであった。
小学校から帰ると、一番手前に立ててある『杉浦茂』のマンガを読み、
次に近所の養豚小屋の親子の成長ぶりを見にでかけ、
その家の人に声をかけられ、捕ったばかりのまむしを七輪で焼いた物体を、
滋養になるから食べろと言われることもある。
子供なので拒めず、食したその味は、淡白な煮干しに似ていた。
つぎに子供の集団が遊んでいるところに出会うと、ガキ大将は、
子供なのにみょうに見識と度量があって、しばらく入れてもらっていると、
隣の区のガキ大将とたまたま出会ってしまって、こちらの大将も長い竹竿を構えて、
道の中央で一対一で渡り合うのだが、そこは大将であるから互いに真剣なようでいて、
あうんの呼吸で戦いは適当に終わってやれやれだ。
その竹竿は、桶屋さんが道の脇に束ねていたものだが、それでこんどは、
桶屋の親方が道端に茣蓙を敷いて、鉈をあやつって
長い青竹が細い紐になるのをしばらく見せてもらって、つぎに
新築現場があれば、しばらく作業を見ていると、
「やってみるか? 」
と釘とかなずちを渡されたりする。
その間のことは、こちらは全くの無言でよく、時の赴くままのサブルーチンである。
次に、運よく御茶屋の親父さんの釣りの成果である磐井川支流のフナや鯉が、
タライに泳いでいるところを見て、次にお菓子屋の工場のアズキあんが、
忙しく水桶の篭でつぶされているところを見て、ときに水飴を割りばしにさして、
「ほれ」 と、もらったりする。
つぎに杉の木の側の池の、魚や亀の状態を見て、
麻屋さんの長い通路で、機械仕掛けがロープをガラガラ縒っているところを見て、
状況が許せばさらに遠征し、各地の鳩小屋を見に行ったりする。
白壁の土蔵が並んだところには、土鳩が何匹も巣をつくって出入りしていたが、
あまりに高いので、糞の汚れだけの隙間に、飛んできた鳩が、
さっと入って行くのをみて満足しなければならない。
そのような日常のあるとき、家が銭湯をやると言い出して、
たちまち田んぼが埋め立てられて、いわゆる瓦の乗った銭湯の建物が出現した。
長い鉄製の煙突を直立させるとき、大勢の男女の工人が呼吸を合せ、
何方向からもロープを綱引きのようにして立ち上げ、
てっぺんには西洋の剣のような避雷針がついていた。
銭湯の裏側に『釜場』と称する内燃機関があって、
そこが新しく重要な立ち寄りさきに加わった。
『釜場のおじさん』と呼ばれる人は、柔らかな人なのか堅い人なのか、
こちらと同じようにまったくしゃべらず、地面を掘り下げた位置に半身を置いて、
いつも湯釜の火加減を真剣に、潜水艦の機関室のようなパイプの走った、
メーターをにらんでいる。
無口な釜場のおじさんが、たまに捕ってきたスズメを、新聞紙にくるんで、
やかんの湯をザーツとかけると、竈の炎に放り込んでいる。
適当な呼吸で火箸で取り出されると、焦げたズズメの身が湯気を立て、
当方に、どう? と合図がある。
すこし目をそらすと釜場のおじさんは、黙って食べ始める。
するとたまに、壁の向こうでドンドン!と叩く音がして、遠くで
「ぬるいぞ! 」
と声がすることもある。
普段人けのない場所に気配として押し寄せる観客の、
「成駒屋! 」
という掛け声と言えなくもないが、釜場のおじさんは、オッという感じで、
いそいで竈の扉を開くと、赤い炎に向けて薪を放り投げる。
まれに左奥に行って、小さな戸を開き、たんたんと湯場の様子を見ることもあるが、
そこはたしか女湯のはずである。
一瞬の出来事の、無表情の姿勢を、業務中の高度な威厳というのかもしれない。
当方は、釜場の出来事に満足して外に出ると、次に、
新らしくできた肉屋さんの前を通る。
親に言いつかって、肉を買ったときにくわしく様子を見たが、
おおきな冷蔵庫の中からギューッとドアが音を立てて、
取り出された肉塊を、偉丈夫の白衣のご主人が、細く長い包丁を、
日本刀のように静けさを湛えて、みごとに肉片が切り取られてゆくのを見た。
肉屋の白衣のご主人も、まったく何も言わず、当方に黙ってそれを包んで渡す、
静かな世界であった。
夜になると、二階の窓が開かれて、ご子息の非常に張りのあるなめらかな唄が、
記憶にあり、都会風の新しい時代を彩る景色に感じたものだが、
しばらく後になってお会いした時にそれを話すと、思いのほか
恐縮されていたのが解せないが、できればもういちど、
ちゃんと正座して聴いてみたいものである。
コンピュータ言語では、メインルーチン、サブルーチン問わず
すべての処理単位は関数を定義する形で記述されるが、
あの世界にあっては主にキンダー関数である。
床のuesugiアンプが、笑っているようだ。
2010.8.8
NikonFTN


三内丸山遺跡

2022年01月18日 | 歴史の革袋


道路にはみ出しそうな大きな乗用車が停まって、
中から姿を現したマイクロソフトの西○彦氏と似た八戸市の人である。
試みに、右手を握り、こぶしを作って人指しユビをカギ形にすると、
それが下北半島で、指に囲まれた中が陸奥湾、指の中間が恐山、
底部に三内丸山遺跡は位置している。
当方は、『南郷サマージャズフェス 』を青森に訪ね、
ぜひ三内丸山のことを眺めて見たい。
菅江真澄の寛永六年の記録に、三内村の遺跡のことが書かれ、
あるていど知られていたこの地に、なんと1994年のこと、
直径1メートルもの6本のクリの柱跡が地中から現れ、大騒ぎになった。
410年、中国皇室図書館の魏史倭伝にある邪馬壹国の記録も、
日本の鐶壕楼閣のことを見たと言っているが、それより三千年も ?
古い地中から静かに姿を現したので、関係者は鳥肌が立った。
音に聞こえたタンノイも、スピーカーユニットの実存がなくては、
ありがたみも雲を掴むように、地中から現れた古代遺跡が土器の欠片や
植物のタネだけでは、バンゲルダー録音に足りない。
古代遺跡の六本巨大柱の威力を見る。
本州北端の縄文文化が、にわかに全国の脚光を浴びることになったが、
今後の展望を、ジャズを聴きながら青森の客人に、お尋ねした。
―― 遺跡の発見で、青森は何か変わりましたか?
「百八十度変わりました。観光から物流から影響は広範囲で、
産業の核になる関連開発が順に立上げられています」
―― 水没した十三湊遺跡が有名ですが、ほかに大陸と
交流の記憶を残す対馬のような島があるのでしょうか?
「海面に見えませんが、海底から立ち上がった山のてっぺんのような地形
が残っており、現在は魚達の繁殖の場に適して有名な漁場となっています 」
いつか一関インターから東北道を北に向かって、縄文の風に、
たなびく集落の煙りを、高い柱の上から眺めてみたい。
当方が昔おせわになった会社で、「必ず見に来る取締役」の指示で、
専売公社研究員の海外報告を聴講したとき、講師は、
こちらの見当違い質問に、巧みに場に合わせて曲げて驚かされた。
客人も、豊富なデータからアドリブで返すのはジャズだ。
イラストは想像図
2010.6/22


桜吹雪の記憶

2022年01月14日 | 歴史の革袋


桜の花吹雪が小路に舞散って、
青い葉だけが残った或る日。
「よし!」とW先輩は何事かうなずくと、向野の校門を出て
二百メートル先の木影の食堂に先だって入っていった。
店内に学生服の先客の三人が、テーブルの
湯気の立ち昇るどんぶりにフーフーと箸を動かしている。
いつも食事の手配にぬかりのないW先輩と、言われるまま着席して、
ラーメンの匂いに寛いだ気分になっていたのだが。
「隠れろ! 」
突然に声がして、ガバッ!と学生服の皆が
テーブルの下に低い姿勢になった。
オイオイ、何なの 。
窓の外の通りを見ると、世界史のU教諭が、
何事か考えている様子で通って行くのが見えた。
大所帯の高校の風紀指導U教諭は、存在を畏敬されている、
いささか迫力の漲るギョロ目の、しかし授業のおもしろい人だ。
が、校外の食堂に制服で入ってはいけない決まりになっていることを、
入学し 初めて知ったのである。
U先生は、終業のベルが鳴っても言う。
「あと二、三分、合わせて五分で終わりますから、そのまま 」
我々の店仕舞いを制止して、めいっぱい話をする人であったが、
論説の情念の根幹は、二十代に遭遇した太平洋戦争の学徒出陣にあるらしく、
いまだあの不条理に心の整理おさまらず、どこかで戦いが続いているかのような、
悲惨であったけれどもこっけいな話が、毎回の授業を修飾し、
絵巻物を紐解くならいになっていた。
授業から二十数年が経って、たいていのことを忘れていた当方が、
郷里に戻った或る日、突然のことU先生から 「顔を見せるように」
電話があったとタダ子さんから伝言された。
はてな?
20年の空白に訝りながら、免許を取ったばかりの車で、
指定された観光地の建築物を訪問してみたわけである。
受付嬢に用件を告げると、五階の社長室に案内された。
なんと、U先生は大きな社長のデスクに座って笑っているではないか。
先代からの稼業を継がれて、ホテルの社長に収まっていたのである。
「商売は、だいぶ儲けているそうで 」
こちらの機先を制して、閑古鳥の閑をもてあまし読書三昧の毎日を
察知しているように、さっそく授業の続きの論説が流れていくのを聞いた。
「先生の授業は今も憶えています 」
U先生は、答えていわく、
「それがね、このあいだ大学に進学した夏子ちゃんに道で会って、ガクッときたのは、
先生がもっと教科書中心の授業をしてくださったらわたし苦労しませんでしたのに、
と苦言があった 」
と笑って、ホテル新館を建て、はじめに迎えた若い二人組の女性客のことを言った。
「責任者は来てちょうだい! 」
東京からの客が部屋で呼んでいるというので番頭さんと勇んで行ってみたら...
「私たちが風呂から戻るまでに、この飛んでいるハエを何とかしてちょうだいな!」
だって。
いやはや、どんなお褒めにあずかるのかと思ったら、それがこの仕事の始まり。
U先生は、クフン!と昔の授業そのままに鼻を鳴らしながら、
インターホンに命じ、ホテル自慢の昼食を社長室に並べさせ、
当方に御馳走してくださった。
U先生の用向きというのは、御自分の戦争体験である絵巻物を綴った原稿を
書き上げたので、自分だけで満足してもどうもね、
他人の印象は違って恥を書いてはいけないから、一冊にする前に、
やめたほうがよいのか遠慮なく感想をきかせてもらいたい、と申された。
戦時の歴史が原稿用紙の字になった束を預かったが、
授業で聞いた説話といささか印象の違うシリアスなものであった。
太平洋の戦地で若い下士官であったU先生は、占領した半島の
空を睨んでいる対空機関砲を持ち場にして、二等兵たちと
米軍のグラマン戦闘機相手に戦っていたが、とうとう敗戦の玉音放送を知った。
大事に残していた貴重な最後の弾帯を機関砲にセットして、
海の向こうから悠々と現れた敵機に連射をあびせた時の葛藤や、
戦地からやっと実家に帰り着いた日の、痩せて紙のように薄く
ヒラヒラした姿の描写が、忘れていた平和を描いて圧巻である。
当方はカセットテープから流れる太平洋の向こうのジャズを聴いて、
酒店の店番をしながら原稿を読了し、ちょっと複雑な気分であったが、
のちになって上梓した紺色の表紙をながめ、
とうとうU先生の太平洋戦争が終わったのだと思った。
ところで、学生時代いつも御馳走にあずかっていた一方のW先輩は、
こちらも給料取りになって最初にお会いしてみると、美大に入ったあと
画商に変身したさまざまの面白い体験を聞かせてくださった。
こんどはボクが払います。
レストランに入って言うと、「そうなの 」と笑っている。
食事が終わって白山通りを歩いていると、W先輩は「じゃあこんどはボクが 」
また一軒のレストランに入って、御馳走を勧めながら、笑っていた。
H・モブレーはシルヴァーとしばらく共演していたので、
セットにして音色を憶えるむきもあるが、マイルスの
『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』でサクスを吹いたとなれば、
どれどれと腕前の程をタンノイに探してみたくなる。
掲示のアルバムは、問題のベーシストとやっているので、
はたしてどうかなと聴いてみる。
2010.6.1
藤井四冠と師匠は段位は逆転したが、弟子にご馳走する。
当方も、一生涯御馳走にあずかる覚悟を持つべきであった。

泉が城と芭蕉

2022年01月08日 | 歴史の革袋


泉が城は、前に触れた『河崎の柵』と会社が同じ系列の
『業近の柵』の古代に建っていたところである。
奥の細道に、次のように現れる。
まず高舘にのぼれば北上川南部より流るる大河なり。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
いよいよ一関に入る芭蕉が川向うの二夜庵に泊った日は十二日であるが、
尊敬する『西行』が数百年前に平泉に入った日に合わせて、
三段飛びの踏み切り板に爪先を合わせるように旅程を調整していた。
ただのワビサビのなせる物見遊山ではない。
エバンス・マニアを自認する者が、『ビレッジ・ヴァンガード』に
海を越えて、25日の日曜日に席に着くようなこと?
『和泉が城』について、芭蕉が記述を奥の細道に残すのは訳がある。
現地を訪問すると個人の私有地らしく、内部はわからないが、
泉が城の主は三郎忠衡といって藤原黄金カンパニーの常務にあたり、
社長の秀衡から、東下りしてきた義経のサポートを命じられて、
最後まで任務を果たし、とうとう殉職するのは有名である。
義経が平泉に入った当初は高館の眺望館に住まわされたらしいが、
のちに常務の和泉が城に近い、発掘された「接待舘」付近に住んで、
吉次屋敷や御室ともつながる平地に暮らしていたのではなかろうか。
秀衡の没後、義経の立場が危うくなったとき、ひそかにルートを定めて
逃がしたのも、地理に明るい泉三郎のような気がする。
芭蕉はけなげを感じいり、一章をもうけた。
平泉を散策するとき、いつも気になっていながら、まだ辿り着けない。
福島のいわき市からお見えになった客人は、秀衡に似て貫禄があった。
現代に秀衡が居れば、金色堂の近くの能楽堂で、
たまにビッグバンド・ジャズを奏するはずである。
2010.3.27