goo blog サービス終了のお知らせ 

ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

栗駒路

2022年06月22日 | 旅の話


457号線を三日月山の傍を抜けて
右に、栗駒山へ登ると、
世界谷地湿地帯や展望台や温泉がある。
観光客を迎える施設は一部まだ閉館しているが、
義経の隠し湯というところを謹んで訪問する。
奥から受付の人が現れて、簡単に応対してくださった。
廊下を奥に行くと左右に戸口が有り、
義経と家来3人入浴できる熱い湯船があり、
隣の露天に張り出した床に
2人入れる微温の湯船がしつらえてあった。
一句ひねるにもってこいの静かな雑木林をみていると、
なにか森の動物が現れそうである。
この湯では発句もむずかしいことはやめて、
硫黄の香りにたゆたう気分がすばらしい。
晴れると、山路は天界の眺望が広がっている。
2013.9.17


喫茶の窓辺

2022年06月04日 | 旅の話


草深い当方の喫茶に「かたがたえ」でお立ち寄りくださった
練達のジャズ者諸兄の署名がみえる壁に
額と色紙があるところをご注目。
このあとまもなく、漢詩も揮毫されているが
明るい窓辺は、よいものである。
2013.9.11
大洗パークホテル、温泉は搬送湯らしいが、
レストランの晩餐朝バイキングを堪能した。
芭蕉はめぐる旅籠で何をか思ったか。
バイク族 イビキを競う 子供の日

北上川観光船

2022年05月13日 | 旅の話


旅は道連れ、世は情け
テムズ河もセーヌ河も観光船は行き交っている。
ほとんど揺れのない広いデッキに長い椅子が並び、
観光客は左右のビルの景観を眺める。
ライン川は川幅が広く水量も多いので、観光船の構造は少し違う。
ケルン市では大型の頑丈な渡し船が、
大勢の観光客を河を渡すためだけに乗せていた。
箱根芦ノ湖の海賊船は大勢の客を乗せるが、
なぜか湖面を走るわりには揺れを感じた。
松島の観光船は、外海も走るため揺れるので
漁船のように頑丈にできている。
もしかりに、急ぎ旅の人が松島から北上川を遡って平泉に乗る船は、
ボデイを丈夫にしなければならず、大型巡視艇や魚雷艇を
国から払い下げてもらって、改造するのが安上がりかもしれない。
だが、日がな一日、のんびり釣り糸でもたらし、船底の魚をながめ、
活花や写経をして、おいしい食事を摂るには、どのような船が良いのか。
いくつか、考えてみた。
船体が3つに分かれているのは、穴があいても一度に浸水させないためである。
無事これ名船
天の海に 雲の波立ち月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
2013.9.2

温泉

2022年05月12日 | 旅の話


先日お見えになった水戸藩士の3方が話しているのが聞こえた。
「ブログが6月27日から更新されていませんね」
珈琲を淹れているとき、当方のあのことを言っているらしい。
どうしてもパスワードが入らないので、それから止めたのだが。
そういえば、楽天にもブログ蘭がある。
ところで、
明治生まれの祖父が温泉に出かけるときは、
麦藁帽に草鞋を履いて二日がかりだったが、
父が畑を埋め立てて銭湯を造ったので、
義太夫を唸りながら、
芋茎の皮をむいたあとで入浴できるように祖父はなった。
当時、小学生の当方は入浴が嫌いで逃げ回っていたが、
いまこうして、栗駒の温泉に浸かって、露天の雑木林を眺め
鼻腔から硫黄のほのかな香りが脳天に伝わる頃、満足感で満たされる。
車で40キロで到達するこのような隠し湯は街の周囲の地形にあるが
きょうは夏も終わりで、客が2人だけとは、もったいない。
高原の青い空の下を抜ける頃、八洲廻りのむくつけき団体とすれ違った。
喫茶に戻って『MidnightFreight』をボリューム大で聞くと
タンノイも、あいかわらず良い音である。


朝の大船渡

2022年02月28日 | 旅の話


旅の宿に、鳥の声で目が覚めた。
薄くカーテンから外を覗くと、町はまだ寝っているが、
遠くの景色はすでに明るい。
薬師堂温泉のみやげという『駒かすみ』を、
ポケットから出されて
朝の茶受けに、けっこうな味である。
正面の山の形が、彫刻のようにおもしろい、
スケッチしてみた。
まちは、しだいに変わってきた。
よくみると絵の建物が直立していないが、
ペンが曲がってもうしわけない。
朝の、まだ陽のあたるまえの街。
2011.11.13

井の頭公園 その2

2022年01月12日 | 旅の話


新入社員講習でカンズメになっていた最後の日は悪夢であった。
打上げに、81人が打揃って城ヶ島にピクニックの解放日で、
我々は崖の上から蒼く広がる雄大な海の景色を満喫し、
缶コヒーなどを飲んでいた。
4人の女性社員がたまたま通りかかった当方に、
「ボートを借りたから奴隷のようにボートを漕ぎなさい」
と言って笑った。
ボートなど、見たことも乗ったこともない当方であったが、
はいはい、と請け負った。
岩場の湾に浮かんでいるはずが、いつしかボートは
海流に流されて沖に。
気が付いたときは、深い色の大波の砕けるゴツゴツした岸壁が
目前に迫って危機一髪、女性達は全員真っ青になった。
こうしてタンノイを聴いていると、
あれを幸運と紙一重とは、なかなか思えないが。
ひそかに反省した当方は、近所の碑文谷公園のボート場に日参し、
人並みの腕まえを模索して、井の頭公園に遠征したときもすぐ櫂を握った。
寮の一つ隣部屋の男が「絵を描きに行こう」と誘うので、
初めて東横線、渋谷京王線を乗り継いで井の頭公園に行ったが、
『喫茶メグ』のことは、そのときまだ知らなかった。
同僚は、本格的にカンバスを乗せた三脚を立て、
油彩の筆をとった姿が極まっていて、当方もまねをして
万年筆でちょろちょろ描いていると、背後にガキンチョが大勢集まって、
「うまいね。 じょうずだね 」
静かに標準語でほめてくれるから、都会子の行儀良さに驚いた。
ボートは後ろ向きで櫂を漕ぐから、海に出るときは多少練習した方がよい。
「こんどまた乗せて 」
女性たちは言ってくれたが、本当?
もうすこしであやうく海中でハーレム・ノクターンだ。
国語の先生という客人が珈琲を呑みたいと寄って、
ピアノ・トリオを聴きつつ壁の漢詩をながめていった。
ガーランドがもとボクサーであることを知っていたので、
たいていのことは心得ているのかもしれない。
昭和40年代の現場実物、井の頭公園ボート場
2010.5.13

サンマルコ広場から見た海

2022年01月07日 | 旅の話


七年に一度公開されるというダ・ヴィンチの描いた
円形人体図は、ベニスの美術館にある。
やっとそこに辿り着いたとき、遺稿は公開されていなかった。
1.掌は指4本の幅と等しい
2.足の長さは掌の幅の4倍と等しい
3.肘から指先の長さは掌の幅の6倍と等しい
人間についてこのようなことが、逆さ文字で背景に書いてあるそうだ。
イ.ユニットの直径は指の先から肘の付根の長さと等しい
ロ.高さは地面から直立した肩先の位置と等しい
ハ.横幅は掌の幅の4倍半と等しい
鏡文字で書けば、えもいわれぬタンノイ・ロイヤルの寸法のことであるが。
ダ・ヴィンチがミラノの戦禍を避けてベニスに暮らしたのは1501年のことである。
それから490年後に通過して、サンマルコ広場に行ってみた。
広場はいまも往時の様子をそのまま留めて、
ビバルディをはじめ、『たそがれのヴェニス』のMJQなど、
地球上でも過度に濃密な人類の足跡が残っている空間のはずが、
ときどき海水に洗われるせいか、ただの石畳の広場がそこにある。
痕跡は歴史の紙魚にすら残らないようだ。
広場の端の巨大なミナレットは、いちど崩壊しているそうである。
奥の細道にも濃密に人類の痕跡を残す場所はあるが、
雪の積もった定休日、或る人物のことが浮かんで電話してみた。
いまどちらに?
「えーと、いま、花泉のコンビニの駐車場にいます」
そう電話の向こうは言っている。
融通無碍な人は、それから車を飛ばして現れた。
雪のわだちを踏んで進むワイパーのさきに、多くの車が走っている。
左手にある奥まった店に車を停め、一緒に焼肉の網をつつきはじめると、
タンノイのジャズを聴いている時と、様子が同じであったのがおもしろい。
食後のテーブルに、終えた食器がこれ以上ないほどすっきり、
四段に重ねて箸の揃えてあるのを初めて見る。
なにごとも、このように整頓される暮らしぶりであろうか。
まだ人の居ない店の窓際にいる主人と思われる人が、
ニコニコこちらを見た。
それがピアノ・トリオの演奏を終えたアーチストにも似て、
ここにも日々を積み上げている演奏者がいた。
※RTS85m.f1.4
2010.3.9

須川岳の不思議な湖

2021年07月21日 | 旅の話


国道342を登って須川岳を越えるとき、
本州を馬の背のように通る一本の分水嶺と交差する。
分水嶺に立つとき、太平洋側の領地を一関藩、
日本海側が佐竹藩であると、皆いまも心得ているのがおもしろい。
富士はどこから見ても富士であるが、この地の須川岳はそうではない。
分水嶺を越えた佐竹藩では『大日岳』と呼ばねばならず、
伊達藩から見るとき、山は『栗駒山』と称して、それが歴史というものか。
長老写真家が或る時訪ねてきて、大事そうに鞄から取り出した
須川岳をめぐる数葉のスチール写真に、気になる風景が写っていた。
山頂から、僅かに佐竹藩に入って横たわっている
みずうみを撮影したものであったが、火山湖のためか
魚も棲まない透明な水面が春夏秋冬を日光にひっそりとうたた寝ている。
ぜひ一度、登攀してみなければ。
さいわい、クルマで行けるときいてハンドルを刀の柄のように握りしめ、
分水嶺を越えて佐竹藩に入った。
佐竹藩とは、大正八年に三十六歌仙断簡の由緒がある。
舗装された道を進むと、検問も番所もなく、
秋田おばこの姿もなく、隠れるように湖はあった。
駐車場から森の小径をたどって歩くと、清潔なキャンプの設備があって、
山小屋が幾つも並んでいるが、塵一つ無い。
カセット・ラジオからスタンリー・タレンタイン団が聞こえてきたが、
タンノイでもJBLでもない、不思議な音がここでは鳴っていた。
神秘の静けさを湛えた湖は、何を演奏してもただ吸いこまれていく
ような雰囲気があって、笙や篳篥で奏でる底なしのジャズである。
夕刻、仙台の帰りと申される客人が登場し、アート・ペッパーの
『Meets The Rhythm Section』ガーランド、チェンバース、ジョーンズ1957年録音と、
77年の『VILLAGE VANGUARD LIVE』ケイブルス、ムラーツ、ジョーンズを、
その間にあった時間を聴こうという試みである。
A・ペッパーの20年を推量するも、思考停止。
2008.9/27

海から見る陸奥国分寺と多賀城

2021年03月31日 | 旅の話


松島で腹ごしらえもおえ、次にいよいよ隣町千二百年前の遺跡、
大伴家持の多賀城跡と陸奥の国分寺跡をめざす。
海から帆船で入港したいところだが、
古代の街並はすでにないので、車で中心部に乗り入れる。
多賀城遺跡は小高い丘陵に広がり、当時は海岸線も内陸に入り込んで、
いまからは想像も出来ないような絶景が広がっていたようだ。
家持と芭蕉の旅をしのんで、歌枕に一時を過ごした。
スケッチは、陸奥国分寺七重の塔と国府多賀城
2007.10/16

松島や

2021年03月31日 | 旅の話


レコードの『右』回転を決めたのは、右利きの人である。
レコードが左巻きなら、逆に曲がったアームを、
左指で盤に乗せることになったかな。
『バッチア・フィレン』を聴いて、秋の始めに旅をする。
船がゴン!ゴン!
と唸りをあげ岸壁を離れたとき、後部デッキから海が見えた。
松島にて、芭蕉も感激のあまり飽和したという未完の一句を、
ぜひ、ひねりたいものだが、
不穏な天候に大きく揺れるデッキで、小さな子が親にしがみついて泣きだしている。
海鳥の餌にエビ煎を売っていた乗務員が、
見かねて飛んできて何か言っている。
もっと、のんびり舟遊びを期待していた当方は、
ふと、浮き袋、救命胴衣を付近に捜す気分になったが、
百人以上も乗っている客はイザというときどうするのか、発句どころではない。
そんなことはおかまいなしに、ガイド嬢のアナウンスは島々を結んで行く。
「松の1本生えたあの島は、舟遊びした伊達政宗が、
庭に運んできた者には銭千貫を与える、と賞賛したセンガンジマ?でございます」
260あるという小島のあいだを縫って、海龍丸は進む。
ところで、歴史館に停めてきた車の駐車料金はどうなるのかな、
ひるの弁当は?
「海の青と空の青や、観光客の放った餌に群れて、海鳥はきょうもさまよう」
芭蕉もたぶん、とり混み中につき、歌どころではなかった。
駐車場にビフィーターの姿はなかった。
塩竃寄りの「ガスト」は駐車場が空いていた。
2007.10/15


アウトバーン

2021年03月25日 | 旅の話


デュッセルドルフ・ヒルトンでバスタブに浸かっているとき停電があった。
所在なく薄暗いバスタブの湯に浮かんで、一日を漠然と思い返したわけである。
「このトンネル横手に、戦時中の飛行機格納庫があります」
ガイドが言った。
WWⅡのプラモデルマニアにとって、アウトバーンのトンネルに造られた
秘密格納庫の話は耳をそばだてる。
バスは無情にも、あっというまに封鎖された壁穴横を通りすぎた。
停まっては危ない。
追突されるので。
組立工場とも聞くが、いずれ、穴の中からメッサーシュミットが出てきて、
自動車道路を滑走路にして飛行機が飛び立つのである。
フロントガラスの先にひろがるシュバルツバルトも、
パイロットからあのように見えたのだろうか。
気分が同じはずはないけれど。
幼稚園にあがるまえの記憶で、
ブンコウさんと自転車に乗って国道を平泉に向かっている。
頭の上の方から声がする。
「掴まっていろ、ハンドルに」
平泉の外れの国道に飛行機が不時着したという情報をどこから聞いたのか
幼時の当方を乗せて20分も走ったのだろうか、そのとき
東北本線の白い国道の先から離陸したと思われる物体が、
ババババと爆音を響かせて、上空を飛び去って行くところに遭遇した。
昔の飛行機は、こまかいことを言わなければ直せてしまうのであろう。
乗員が手を振っている黒い機影を記憶に残して、
こっちもUターンしゆっくり家に戻った。
日本の国道も、電柱が離れているところではなんなく離着陸ができたのだ。
バスルームの明かりは停電ではなく、ライトが消えていた。
日本の高速道は、アウトバーンをモデルにしたといわれ、
東北道では、岩手山が綺麗に見える場所がある。
『オールド・タイムズ・セイク』でも聴いて走れば、芭蕉の知らない景色だが。
2007.9/29


オクトーバー・フェスト

2021年03月24日 | 旅の話


静かにビールを味わう季節になった。
いまころミュンヘンでは『オクトーバー・フェスト』が始まっている。
1974年秋のミュンヘン『ロウエンブロイ』の大テントに入った。
数千人の観光客や市民が、中央の舞台の軍楽隊が吹き鳴らす
ババリア舞曲のしり上がりに煽りたてる音楽に揺れて、
ゴーッという騒音とビールの泡で遠くが霞んでいた。
「ハポンか?」
近くの席の男女が、長椅子をずらして我々を座らせてくれた。
どんどんいこう、と言われて、
さっそく回してもらったジョッキを掴んだ静岡人が、小柄な人であったから、
大男、大女のドイツ人の間に挟まれて、「キンダー?」 と可愛がられている。
普段は生真面目なドイツ人も、男も女も太い腕を巻くって、
皆ノドの奥までビールに浸かり、陽気に上気した顔でジョッキを傾けていた。
ガイドは言う。
「ドイツでは自分の腹の下を見て、足の爪先が見えるようならまだ一人前ではないんだ」
パルス、ビルゼナー、ヴァイスの大テントをのぞいて陶然として夜道を歩くと、
上空のあちこちの柱に備えられたジーメンスのスピーカーから、勢いのよい音楽が聴こえてくる。
公園の一角に即席遊園地がつくられて射的や回転ブランコ、覗き小屋で賑わっていた。
高速ブランコで、毎年、何人も怪我人がでるのは、
フラフラで乗っても誰も止めないからだという。
1974年は「カモメのジョナサン」が翻訳されて話題になり、
ビル・エバンスがエディ・ゴメス、マーティー・モレルと日本に遠征し、
M・J・Qが解散コンサートで驚かせた年だった。
ラスト・コンサートのLPジャケットは、どれもみな同じに見えて、
中のLPは再販なら音に差があって心外だ。
2007.9/23

ローマの橋

2021年03月24日 | 旅の話


テヴェレ河に架かる小さな石積の橋を渡ろうとしたのは、
二度目に泊まったホテルから遠くない所にあるという
雑貨屋に向かったときのこと。
薄闇のなかを、行き交う人もなく歩いていると、
道の先に、そこだけが明るい橋のたもとの街灯の光の端に、
威張った人が立っていた。
黒い服に短いスカートの、バルドーに似た濃い目鼻立ちの姿は、
貴婦人とすぐに察した。
ドキン。
すれ違うにはなぜか狭い、チャオと言うのか?
挨拶がわからず、一対一であることが足どりを鈍らせた。
.....ゞ§☆▽♯〆*。
申しわけありません。
オットリーノ・レスピーギのローマ三部作を、
まだタンノイで聴いたことのない人は幸運だ。
ミューズの微笑が、三つも待っている。
2007.9/17

ローマのレストラン

2021年03月23日 | 旅の話


我々の通されたレストランは古い石造りの部屋で、
天上まで開けたガラス窓の外に、ローマの遺跡『カラカラ浴場』の
大きなシルエットが見えた。
二間続きの広い部屋に大きなテーブルが何組も置かれ、
旅行客でごったがえしている。
レストランで注目すべきは、窓際の一畳ほどの大きな事務デスクで、
周囲を移動する目配りの只者でない三十代の白シャツの男が、
この店を束ねているらしかった。
大勢のウエイターが男に恐縮して、腰を低く会釈しつつ働く姿は、
いささか古いローマ時代のようだ。
当方が男の隙をみて、書類等の置かれている机の側まで行ってみたのは、
日本のレストランではなかなか見ることのない、ボスの席が一般客の
食卓の傍に置かれている不思議に、表敬の気持ちがあったのだが。
江戸時代の大店の帳場と機能が似ているのだろうか。
されど、それほど間を置かずに戻ってきたその男が、
ゆっくり接近してきて、じっと当方を見ているのが残念だ。
こちらは二十代の若造で咎めだては無いけれど、
しかしさらに近寄ることもままならず、席に戻った。
ジャズ喫茶の世界で言えば、話に聞くところの、
旅行客が『B』の奥に置かれた丸テーブルに接近したときのような、
間合いと緊張かな。
そのあと、ローマのレストランではお定まりのカンッオーネの一団が登場する。
カラカラ大浴場がローマ市民のために賑わっていた頃、
日本は邪馬壹国の卑彌乎が国造りに忙しかった。
2007.9/16


『SUNDAY AT THE VILLAGE VANGUARD/BILL EVANS TRIO』

2021年03月17日 | 旅の話


6月25日のROYCEは、薄雲に太陽が遮られ、涼しかった。
1961年のあの日、ニューヨークも摩天楼に遮られた太陽光線が、
薄くビレッジ・ヴァンガードの路面に照りかえしていたのか。
たまに『SUNDAY AT THE VILLAGE VANGUARD/BILL EVANS TRIO』を聴くと、
6月の14日間終了の日曜日に「リヴァーサイド」スタッフによって録音された、
LPの現存を、幸運に思うわけである。
なぜなら、指を平手にして弾いたベーシスト、ラファロを聴く最後の演奏となったから。
ところで、A氏が登場され 「どうぞ」 と出された梱包を開いてみると、
当方が中学の時に、生まれて初めて某薬局の応接室で味わった記憶の
ドイツ菓子バウムクーヘンだが、ジャズ喫茶は記帳の義務がある。
バウムクーヘン1包み、非課税。
A氏は、音楽を聴く間に、それまでの出来事や研究されてきたことを話す。
当方の言葉を遮って、あるいは待ってました、と、
どちらがマスターかな? と、思うほどサエている。
ビル・エヴァンスの「SUNDAY AT THE VILLAGE VANGUARD」を聴きながら、
ビレッジヴァンガードとブルー・ノートのステージのスペースを比較しての感想を、
ジャズ喫茶を経営している当方に、ポロッと言った。
ふんふん、
何気なく聞き流したけれど、わざわざ東京?のライブを聴きに、
行ってきたらしい。
七月になり、再び登場されたA氏が手挟んでいだ『ジャズ批評』なるものを見た。
ぱらぱらページをめくっていると、あやしげな、というか、
ニューヨーク・ツアー・レポートの写真に、な、なんと、
A氏は澄ました顔で、中央に納まっていた。
すると?
ライブを聴きに行ったのは東京ではなく、太平洋のむこうのニューヨークか。
A氏は、にっこり笑うと、
「わたしの側に写っている若い女性は、これから売れる歌手です」
尋ねていないことまで申されたうえ、
「スタンリー・クラークはまずまずの出来でしたが、案内役の、
えーっと、藤岡氏なる人物の解説でジャズクラブを5.6ケ所楽しみました」
こうして当方は「ビレッジ・ヴァンガード詣」の先を越されていたのである。
例の電車の通過音問題であるが、
地階にあるヴァンガードの壁際に位置をとられて、
「たしかに、電車が走る音が聞えました」
これ以上の専門的な鑑賞の子細については、ひとまずおいて。
ラファロの加わったLP盤は、両面で6曲を、謹んで拝聴できる。
同じCDは、なんと別テイクも含み11曲聴ける余禄があって、
タンノイ持ち前の英国風の渋い響きは、
エヴァンス、モチアン、ラファロのコラボレーションに、いつのまにか
調和や霊感といった叙情さえ漂わせ、あるときは激しく、また静かに奏われる。
ライブの行われた14日間のいずれの日にか、
ヴァンガードの客として楽しみたかったものである。
2007.8/1