
テレビも車も生活の風景に無かった子供の頃、
人はみな歩いていた。
師走の深夜の通りを、大勢の人がゾロゾロ、どこかに歩いていく。
「がやがや、ひそひそ 」
話し声と靴音が、店先の雨戸の向こうにしばらく聞こえている。
道を北の方角に八キロ向かうと毛越寺や中尊寺があり、
そこまで元朝参りに街灯も無い暗闇の奥州街道を、
市内大町、山目の人は歩いて行く。
正月明けて朝、起きると、
親が誰かと話しているのが聞こえる。
ゆうべ「たばこ 」 の立看板が家の前から無くなって、
数百メートル離れた沿道の民家の屋根に、ちょんと乗っていると。
「ヤロメラ 」
ブンコウさんのつぶやきである。
先日の冬枯れの風景を、奥州街道を平泉と逆の南に、
車で20キロほど走ると『伊治(これはる)の柵 』 はあった。
律令時代に、仙台多賀城の前哨基地として役所官衙の置かれていた、
栗原市の名所で、市の名前が「これはる 」 ときこえないこともない。
『川崎の柵 』 『覚べつ柵 』 と同じ時代にあったという場所を訪ね、
ともかく車を走らせるや、目当ての看板標識は視界に現れず、
とうとう大崎市まで行ってしまったことは内緒である。
急ぐ旅ではない、 いっこうにかまわない。
このような城柵計画は、二本の川の合流付近に造られるのはなぜであろう。
周囲をなつかしく徘徊していると、由緒ある寺院の門脇の看板に、
伊治柵の謂れが書いて有り、文章の途中に『覚べつ柵 』 のことがふれられ、
驚いた。 はたして、只者ではない。
持ってきた弁当を車内で味わいながら、日は暮れていった。
タンノイだけを聴いていると 『アルテック・ラグーナ 』 の音像は、
ほとんど異文化か。
いつか、タンノイに似せて鳴らしてみたい。
2013.12.16