
1本の黒松は、突風にゆさゆさと揺れている。
枝苅りしようと、頂辺まで梯子を登ったとき釣山連丘が見えた。
山頂の一角に、中世の烽火台遺構が残されている。
烽火は、いったいどこに向けて焚かれた信号か。
平安時代の陸奥国の豪族安倍氏は奥三郡を治め、
律令政府は仙台多賀城柵から栗原市に「伊治柵」を拡大し、
ひたひたと北に勢力を伸ばしつつあった。
野手倍のとなり谷起島に、『安倍の十二柵』の遺跡がある。
『小松の柵』といい、存亡をかけた激しい戦いのあった古戦場である。
『則赴松山道。次磐井郡中山大風澤。
翌日、到同郡萩馬場。去小松柵五町有余也。安倍宗任ノ叔父僧良照柵也』
「南に深流の碧潭をおび、西北に碧立の青巌を負う」
暖気流が一瞬、冬空を通っている節分の日に、
釣山運動公園に登り、はたして「烽火」が小松の柵に向けたものか、
想像を実際の景色を見て確かめようと車を走らせた。
磐井川と久保川がひょうたんの形に入り組んだ凄い地形に驚く。
細い谷起島橋からの眺めは、ダビンチのモナリザの背景に描かれたアルノ川と似ている。
康平5年1062年安倍貞任、源頼義の本営を攻めるが敗れ衣川柵に退去.
衣川関・鳥海柵も頼義に攻略され、厨川柵に籠る――陸奥話記
安倍宗任と伯父の良照が一関の柵を守り、萩ノ荘には軍事訓練馬場があった。
「むかし、川の向こうに競馬場があって、皆で楽しんだものです」
ご近所の写真の先生も、玉露をゆっくり茶碗に注ぎながら、
青春の思い出を話し聞かせてくださった。
谷起島の地は、川と窪地崖に市街地から隔てられていたが、
計測してみると新幹線の停車駅までわずか5キロで、釣山の烽火台まで三キロ、
当方の黒松まで直線二キロの距離であったのには、とても驚いた。
ポール・マッカートニーが若い頃であれば、川の内側の柵跡を買い占めて
ホームグラウンドにしようと考えたかもしれない、閑静な景勝地である。
節分に、ふたりの客人が喫茶に現れて、
子供のためにオーディオ装置をあつらえたい、と申されている。
「むかしはジャズを聴きました」
丁寧で、どことなく徳のある客人であった。
2014.2 /5