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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

小松の柵へ

2019年03月23日 | 歴史の革袋


1本の黒松は、突風にゆさゆさと揺れている。
枝苅りしようと、頂辺まで梯子を登ったとき釣山連丘が見えた。
山頂の一角に、中世の烽火台遺構が残されている。
烽火は、いったいどこに向けて焚かれた信号か。
平安時代の陸奥国の豪族安倍氏は奥三郡を治め、
律令政府は仙台多賀城柵から栗原市に「伊治柵」を拡大し、
ひたひたと北に勢力を伸ばしつつあった。
野手倍のとなり谷起島に、『安倍の十二柵』の遺跡がある。
『小松の柵』といい、存亡をかけた激しい戦いのあった古戦場である。
『則赴松山道。次磐井郡中山大風澤。
翌日、到同郡萩馬場。去小松柵五町有余也。安倍宗任ノ叔父僧良照柵也』
「南に深流の碧潭をおび、西北に碧立の青巌を負う」
暖気流が一瞬、冬空を通っている節分の日に、
釣山運動公園に登り、はたして「烽火」が小松の柵に向けたものか、
想像を実際の景色を見て確かめようと車を走らせた。
磐井川と久保川がひょうたんの形に入り組んだ凄い地形に驚く。
細い谷起島橋からの眺めは、ダビンチのモナリザの背景に描かれたアルノ川と似ている。
康平5年1062年安倍貞任、源頼義の本営を攻めるが敗れ衣川柵に退去.
衣川関・鳥海柵も頼義に攻略され、厨川柵に籠る――陸奥話記
安倍宗任と伯父の良照が一関の柵を守り、萩ノ荘には軍事訓練馬場があった。
「むかし、川の向こうに競馬場があって、皆で楽しんだものです」
ご近所の写真の先生も、玉露をゆっくり茶碗に注ぎながら、
青春の思い出を話し聞かせてくださった。
谷起島の地は、川と窪地崖に市街地から隔てられていたが、
計測してみると新幹線の停車駅までわずか5キロで、釣山の烽火台まで三キロ、
当方の黒松まで直線二キロの距離であったのには、とても驚いた。
ポール・マッカートニーが若い頃であれば、川の内側の柵跡を買い占めて
ホームグラウンドにしようと考えたかもしれない、閑静な景勝地である。
節分に、ふたりの客人が喫茶に現れて、
子供のためにオーディオ装置をあつらえたい、と申されている。
「むかしはジャズを聴きました」
丁寧で、どことなく徳のある客人であった。
2014.2 /5

安倍の館柵へ

2019年03月22日 | 歴史の革袋


東北ニュージーランド村を中心線にして地図を折ると、
「白鳥の柵」と重なる反対位置に『安倍の館』史蹟がある。
およそ、行楽に渋滞するニュージーランド村園を横に見て、
3キロほど上衣川に入った場所にあるらしい。
千年前の東北に一大勢力を持っていた城館主の安倍氏は、
厨川など各地に有名な城柵遺蹟を残したが、
歴史はやがて中央と手を結んだ平泉藤原勢力圏の時代に移っていった。
衣川の「安倍舘」は、ぜひいつか足をのばしてみたいところである。
朝からスカッと陽が射し、母屋のウサギの欠伸で、気温も上がってきたらしい。
当方は、地図に従ってはじめに『骨寺荘園遺蹟』まで厳美街道をひた走り、
そこから一目散に山沿いの道に入っていくと、意外に優雅な道が、
ゆったりと空間に舗装され、左右に50センチほど冬の雪が残っていた。
先日、深夜の北上街道を走った時、前方に電飾ライトがキラキラ回転しているのは、
二台の除雪車が時速25キロで路面の雪を掻き分けているところであった。
冬の運転は、降り積もる雪に凍る、スリップと危険な綱渡りである。
里山が雪原になる上衣川の、すこし奥まって安倍舘橋の左手に、めざす遺蹟はあった。
小山に鶴翼陣の地形と、平地に流れる数条の堀川によって、
天然の要害となっている計算された場所である。
周囲に、馬懸、古戸古戦場、一首坂、駒場など名を残しているが、
山腹に兵が五千も籠城戦をする計画ではなく、
有名な安倍の十二柵は適地に分散構築されて、
現在は、夏草や、つわもの供の夢の跡となった。
厳美街道の342号線から、49号線に接続された道路を走ったとき、
道の両側に里山がつらなっている光景は、ババリア街道のような、
とてもおおらかな気分の良さを感じさせ、めずらしい。
冬景色の途中に、どのように見ても奇妙な巨大な一枚岩が雪の中に、
高さ20メートルほど屏風状に聳え、それが数十メートルも続いており、
コンクリートでも吹き付けたのか?おもわず車を降りて眺めた。
しばらく当方は、この屏風磐を背景に衣川の風に揺蕩う大がかりな
ステージを考えていたが、クラシックならヴィオッティのヴァイオリン協奏曲を、
ドレスデンの面々を揃えてルーシーを弾くところなどを思い浮かべた。
「同級会に、いまからです」
関が丘の哲人が現れると、「そういえばクラシックも聴きますよ」
タンノイを前に教養の一端の披瀝させて、今後、二本差しの仲間入りか。
2014.1/20
北越谷の客人が、タンノイ30センチをご自宅に据えられて、
音楽世界を逍遥しているお話を伺った。

衣の関

2019年03月22日 | 歴史の革袋


枕草子にも有名な、平泉の「衣の関」とは、どこにあるのか?
「関は、相坂の関 須磨の関 鈴鹿の関 くきたの関 白河の関 衣の関 」
また、「奥羽観蹟聞老志」に
去高館一町余山下有小関路是古関門之址也東史曰此地昔時西界白河関東限外浜行程十余日於其中間立関門名曰衣関
一説曰衣関在伊沢郡白鳥村曰鵜木其傍有関山明神今曰之関門宅是乃往時通行之道路而今廃其地也高闢関門左則隣高峻右則通長途南北層巒層相峙険隘之地
北上川河畔の高館から一町あまり下れば古い関の址がある。
吾妻鏡にいわく、西の境界白河の関、東の限界外が浜という奥大道の旅程を十余日として、
その中間地に設けられた関門があり、名を『衣関』という。
また一説に依れば、衣関は胆沢郡白鳥村鵜木の付近にあり
関山明神の近くを分け入っていまは廃道となった左右が崖のように険しいところにある?
芭蕉、奥の細道にも「泰衡等が旧跡は衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり」と書かれ、
あるいは前九年の役の関といわれる衣河関など、いくつか「衣の関」はあるようで、
雪の融けたころ車を走らせ歌枕の地を探してみたい。
昨年正月から姿を見せなかった「ひよどり」は、
雪の坪庭にけたたましく啼き現れ、
パン屑を放ってみると空中でキャッチしたので、
どうも記憶の確かな鳥のようである。
冬は餌が不足するのか、伴って来た新鳥のほうは離れて見ている。
仏蘭西パンの 落ちている庭 連れて飛ぶ
2014.1.14
喫茶で何事か打合せる3人の客人が、
ベースの中古を5万両で購入したと話している。


白鳥の柵へ

2019年03月21日 | 歴史の革袋


『正月三日 乙未条
依物忌無他行、右衛門督方上達部等被来』
ふとした気分で、『しろとりの柵』を見に車を走らせた。
柳之御所から北上川を五キロ遡上したところにあって、
律令時代には白鳥八郎が居た。
厨川二郎の兄弟のことで『安倍十二柵』のひとつである。
航空写真では、小山が突き出て北上川を遮蔽し、
水流はしかたなく円を描き周囲を迂回して、
また気を取り直し流れている、流域随一の珍景である。
城柵跡の地形には、約束のようにY字で白鳥川がそそぎ、
一時は覚べつ城の候補地となったまぼろしの遺蹟である。
正月の混雑をさけ束稲山のふもとの新道から車を進めていくと、
新しく拡幅した立派でありながらあやふやな道があり、
橋の直前に白鳥舘遺蹟の案内標識を見る。
通過する長い橋から見下ろす北上川は、雪解け水を満々と湛え、
光をキラキラ反射しゆっくり流れていた。
白鳥柵のたもとに大きな沼が見える。
この沼は古代には水流の一部であったが離れて残ったらしく、
律令時代の中世に水運の荷揚げ場として活躍をみせ、
沼を汲み出して底を調べれば、千年前からの人工遺物が
マヤの池のように出るはずである。
地形を利用し、代々の城柵は水運や奥大道を監視したので、
小山に盛り上がった遺蹟にそれなりの遺構があるが、
平和な時代になって現代の住居が静かにあった。
舗装された道が遺蹟の奥まで通り、住宅の側を忍び足で見学して、
いにしえの正月気分を味わった。
ところで年末に、フィラデルフィアの名手といわれた若いリー・モーガン
に似た客人が現れ、克舌良く近況を聞き、ヒヨコの菓子までいただいた。
リー・モーガンは、カーティス・フラーやアート・テイラーなどと組んだ
1957年八月の録音をタンノイによって聴いてみたが、
『Lee Morgan Vol.3』の「アイ・リメンバー・クリフォード」で満足しつつも、
バッキング諸兄が変わると演奏さらに昂進する刹那があった。
2014.1.5


伊治の柵へ

2019年03月20日 | 歴史の革袋


テレビも車も生活の風景に無かった子供の頃、
人はみな歩いていた。
師走の深夜の通りを、大勢の人がぞろぞろ、どこかに歩いていく
「がやがや、ひそひそ」の話し声と靴音が、
店先の雨戸の向こうにしばらく聞こえている。
北に八キロ向かうと毛越寺や中尊寺があり、そこまでを
元朝参りに街灯も無い暗闇の奥州街道を人は歩いて行く。
正月の朝、起きると、親が誰かと話しているのが聞こえる。
ゆうべ「たばこ」の立看板が家の前から無くなって、
数百メートル離れた沿道の民家の屋根に
それがちょんと乗っていると。
奥州街道を南に、先日の冬枯れの風景を、車で20キロほど走ると
そこに『伊治(これはる)の柵』はあった。
律令時代に、仙台多賀城の前哨基地として役所官衙の置かれていた
栗原市の名所で、市の名前が「これはる」ときこえないこともない。
『川崎の柵』『覚べつ柵』と同じ時代にあったという場所を訪ね、
ともかく車を走らせるや、目当ての看板標識は視界に現れず、
とうとう大崎市まで行ってしまったことは内緒である。
急ぐ旅ではなく、いっこうにかまわない。
このような城柵計画は、二本の川の合流点付近に造られるのはなぜであろう。
周囲をなつかしく徘徊していると、由緒ある寺院の門脇の看板に、
伊治柵の謂れが書いて有り、文章の途中に
『覚べつ柵』のことがふれてあったので驚いた。
はたして、只者ではない。
持ってきた弁当を車内で味わいながら、日は暮れていった。
タンノイ・スピーカーだけを聴いていると、
『アルテック・ラグーナ』の音像は、ほとんど異文化か。
いつか、タンノイに似せて鳴らしてみたい。
2013.12.16

徳丹城柵跡へ

2019年03月20日 | 歴史の革袋


標高2千メートル岩手山の澄み渡った青い上空を、
とよはた雲が夕日に照らされたなびいている。
国道4号線は、花巻を過ぎ志波の平野に近く、
アウトバーンによく似た風景の先方に赤い奇妙な物体が見え隠れした。
スピードをあげて追ってみると、車に大きなウイングをはみ出させて、
軽のエンジンにもかかわらず、サッと視界から消え去った。
まもなく、多賀城と同じ律令区画で造られた志波城柵蹟がある。
その手前に、国道4号線が官衙域を突き抜いている『徳丹城柵』があり、
発掘された築地塀の芝生にそって、隘路に車を停めた。
歩道橋から見下ろした徳丹城柵は、徳田小学校のグラウンドのそばに、
政庁の正殿遺構が保存されてあった。
基壇の土盛におそれ多くも登ってみると、まだかすかに鼻筋が通ったような
メインストリートが視認できた。
北門、西門、四脚門、八脚門などの遺構も発掘され、官衙の跡がある。
いにしえとなったそれらを想像し、周囲の山嶺のうえに
千年のむかしと変わらぬとよはた雲がたなびいていた。
盛岡は、当時の律令時代から、まったく想像を絶する発展を遂げていたが、
堅固な検非違使の行進や、さんさの行列は歴史の情趣をかざっているようだ。
ひさしぶりに、元船長さんが喫茶に訪ねてきて、
いま応対中の開発商品を見せてくださった。
見本小瓶を鼻に近付けると、年代物のドイツワインの香りがした。
竹簡に「覚べつ柵」産と附記して都に献上された、
スッポンにも効能は劣らぬものであると。
タンノイ・ロイヤルにゴールド・ユニットをまだ付けかねて、
ネジのことを検討中である。
2013.11.30


河崎の柵の和同開珎

2019年03月20日 | 歴史の革袋


河崎の柵出土品について興味ひとかたならず、
本物を拝見するのは大変困難といわれている。
『和同開珎』は、702年から50年間鋳造されたらしい。
高価に取引きされるため贋作も出回っているので見分けるには、
アンチモンの含有量や、サイズ、字体、千年以上まえの風合など。
参考写真は、律令時代の250年間に鋳造された皇朝十二銭
の本物が講談社ブックカバー裏写真になったもの。
和同開珎は約23ミリ六グラムと書かれている。
しみじみ眺めているとき、
トヨタの銀色ボデー車を操縦する粋な二人の来客があった。
御婦人はタンノイを聴いて、
「ベースにちからをいれた録音のようね」といい、
「五味康祐さんが、マルテの手記のことを書いている」
と、男性は申されている。
さて。
2013.11.3


秋の川崎の柵

2019年03月20日 | 歴史の革袋


秋の一日、
悠久の北上川の流れる『河崎の柵』伝承地を眺めにいった。
川崎道の駅の駐車場に、周囲を空から鳥のように見た大きな写真があった。
北上川と砂鉄川の合流するところに、洪水が広がって
湖面状になっているめずらしい様子もある。
そこが古代中世に城柵のあった伝承の場所である。
前回見た川崎の柵遺跡の標識の傍らに、
新たに『覚べつ城擬定地』の堂々たる標識がある。
河崎の柵を発掘調査したとき、遺跡の下2メートルのところから、
さらに遺構が現れた、とあった。
出土した『和同開珎』や『わらび手刀』などの写真を見て、
アッと沈黙した。
和銅開珎コインは、日本で初めて流通した中世708年貨幣と教科書で読み
このような史跡で掘り出されれば何百万両も骨董価格がつく場合がある。
説明板写真の貨幣を見ると、発掘されたボロボロの状態が真に迫り、
幻の覚べつ城擬定地の背景が出土価値を高めて
坪単価を年代的に貨幣と互いが保証しあっていた。
少年のころから聞かされて謎の城柵といわれた『覚べつ城』は、
多賀城政庁が石巻の『桃生柵』と築館『伊治柵』から北進させた城柵と
『続日本記』巻36に記述があるが、本当に建設されたかわかっていない。
『宜造覚鱉城得胆沢之地両国之息無大於斯』
背後に聳えている堤防を昇っていくと、
てっぺんから爽快な秋の景色が広がって、
北上川は音もなくゆっくり流れていた。
午後の陽光が、茂みのさきの川面に反射し、
底知れない水流がここでは悠々とした迫力である。
覚べつ城の『べつ』という漢字は、動物のスッポンをさすそうであるが、
この川にスッポンが棲んでいると、古代中世の人は言っているのか、
あるいは、アイヌ語に共通の発音かもしれない。
夕刻、2人の客人が喫茶に現れて、お話ししているうちに
山梨県というので昔の同僚を思い出した。
校名を聞いて、偶然そこの後輩であると彼等は言っている。
記憶の名字を言うと、その姓は町に多いとうなずき、
ふたりが顔を見合わせて笑っている様子がジャズであった。
2013.11.1


柳の御所発掘地へ

2019年03月19日 | 歴史の革袋


古都平泉の栄えた中世に、15万もの人が組織だって生活するとき、
大切なアイテムは暦と時間である。
当方が社会に出て働いたころ、給料一ヶ月分した腕時計を買い、
時間を腕にはめて出陣した。
一般の会社でこうなら、中世は、どのように時間を管理していたか、
眼に見えないものを明示し、すべからく日常を運行して
都市集団は活動したはずである。
奈良平城京では、長時間勤務の水時計塔があったらしいか、
夜も明ける前から大勢の官吏が都大路を朝集殿に
ぞろぞろ出勤していた記録が残されている。
腕時計の無い時代の官吏は足早に登庁し、
けっきょくニワトリが鳴く頃には全員事務所に揃っていた様子が浮かぶ。
当方が昔に平泉の政庁『柳之御所』を訪ねたのは、
発掘事業が一段落した春雨の日で、観光客が
ぼちぼち見学を許されたころであった。
束稲山から北上川を渡り柳の御所遺跡に入ると、
子供の頃通ったカーブの道と同じものとは信じ難いほど、
記憶と情景が異なって焦った。
つまり、永い月日を埋もれていた遺跡の周囲一帯が、
再び地上に姿を現したありがたい景色であった。
前回、およその地形だけを見てすぐ引き上げたが、
奈良の都で年給4億円受領していた長屋王の敷地とくらべても、
ちょっと狭いような印象をもった。
あらためて周囲を見ると、生活道路は埋もれた遺跡を分断していたらしく、
御所の大きな堀が道の反対側にも発掘されて、相当広い規模である。
誰も予想しなかった大堀や庭園の池や古代建築物の柱跡が
地中から現れていた様子に深く感心させられた。
列柱跡を図面にして、気分的に同じ奈良時代の各地の建造物と照合した研究を
現地資料館で見ると、具体的な再建も射程にあるのかもしれない。
素人の当方がなかでも一番驚いたのは、地中から現れた一番大きな建造物跡を
地図で辿ったところ「金鶏山」と「無量光院」を結ぶ
線の軸上にあるように、見えたことである。
この先には、朝日の登る束稲山がある。
ディブ・パイクとエヴァンスの演奏が、盛大に鳴っている
平泉の朝夕の太陽が浮かんだ。
2013.10.15

342号線のモニュメント

2019年03月15日 | 歴史の革袋


一関市街地を通る街道342号線は、
岩手の道程を磐井川と並んで走り、
厳美の先で写真のように最も接近して、
やがて須川岳で源流を抜き去ると、
秋田湯沢市まで長い道は続いている。
シルクロードの時代から平泉をめざしてきた交易街道のひとつであり、
風景が伝える以上の意味をもっていた。
厳美の先の骨寺荘園遺蹟に、面白い建物が完成している噂をきいて
ちょっと車を走らせると、
『交流館』には、我々が忘れた歴史の一瞬を目で見せる、
なつかしい時間があった。
広いテラスに出てみると、
草原のさきに黄色い岩の壁が長く連なって、
シルクロード・オアシス敦煌の石窟のように見え、
「洞穴など残っていませんか」
思わず案内の人に尋ねてしまった。
珈琲を喫しながら、莫高窟の敦煌文献を思い出し
いつまでも眺めていたい風景である。
2013.9/30

プラモ

2019年03月13日 | 歴史の革袋


プラモデルといえば、マルサンという会社の登録商標だが、
勉学も疎かにして、放課後せっせと組み立てた。
そのはてに、完成させてはつまらない、と深く判明した。
ちょっと組み立てては、バラして箱に戻す。
鯉から藍に変わってはまずい。
たまに眺める、倉庫の貴重な逸品。
そういえば、最近あまりみていない
2013.9/21
帰郷して20年ぶりに、郷愁のプラモ店に行ってみたら
M4シャーマン16/1が破格で、高い棚に有った。
ロイスにて完成品を見た関が丘の哲人、絶句。

トポロジー

2019年03月08日 | 歴史の革袋


ひとまず夜をむかえて、オーディオを聴くと
どうも、照明によって、音は変わる。
天井裏に登ってダウンライトを配線するのは、
音のためであった。
Betty Carterのバンガード・ライブなど
聴き違えるようであり
オーディオを志す者は忙しい。
一関から直線に釜石に抜ける道を紆余曲折していると、
増沢という標識を路肩に見たが、中尊寺経をこしらえている、
数百人の僧が整列写経する『益澤院』を思い浮かべた。
2013.9/11


黄金の国ジパングは栗駒を越え

2019年02月23日 | 歴史の革袋


1270年から25年をかけて、ベネチアを出発し
アジア大陸を二度冒険旅行したマルコ・ポーロは、
フビライ帝に歓迎され揚州の総督を3年勤めたが、
揚州はかって鑑真和上が修行していたところである。
揚州の港は地図で見ると日本に近く、
ここから酒田港や秋田の港に交易で渡る船は、宝物満載し、
平泉は心得て、相手の歓心を得る各種物品を
東北沿岸の集積港に準備していた。
先日、そろそろ雪も解けて、日本海と平泉を結ぶ栗駒山地はいったい
いまころどうなっているか、国道342を走ってみた。
しばらく登ると、アイスクリームの店の前に道を整えている人がいる。
――― 栗駒に抜ける道の様子はどうでしょうか。
「まだ無理ですから、下に戻って457に抜けるとよいでしょう」
そこで、言われるまま釣橋の隧道から宮城に入ったが、
須川岳と栗駒山は同じ山であるのに、登る道の景色がまったく違う、
奇妙な山である。
須川岳は、景色の森を抜けて切り立つ崖に七曲がりの険しい道が
峻厳な谷川を越えていくが、いっぽうの栗駒山の457号線は、
なだらかな景色が広がって、どちらも異なる美しさだ。
どんどん457を走らせるとき、ふと運転席のハンドルの傍らに
三段スイッチがあることに気が付いて、パチンと右に入れると、
車はポパイがほうれん草を食べたように勝手に馬力を出し、
ふだんは驢馬のようなこの車の本当の力を初めて見せた。
だがところで、なだらかな見通しの良い道とは、
つまるところ、頂上がそこに見えるのにいつまでも距離の縮まらない
根気のいる道である。
春まだ浅く、雪の残っている周囲になったころ、
当方はあっさり退却することにした。
途中、工事の道を抜けると、おや、このような高地にまで救急車は
サイレンを鳴らし激しい勢いで登ってくる姿を見た。
『吾妻鏡』には、秀衛の残された夫人が酒田に落ち延びて、
随行の36人衆とともに暮らした記録が見えるが、
「奥の細道」によれば芭蕉も曽良とこの酒田に、
平泉からもう一つの道を山寺に抜け旅をしている。
あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ
2013.4/20

山下洋輔

2019年02月20日 | 歴史の革袋


コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』を
新しい手法でライテイングしたテレビ映像を見たが、
次に期待するのは『ジャッカルの日』である。
フランスのド・ゴール大統領が郊外で飼っていたひつじのジローを
夫人が気を利かせ、ことわりなく食卓に供したので、
大統領は1週間口をきかなかった。
ド・ゴール暗殺がテーマになったミステリー小説を
フォーサイスは『ジャッカルの日』に書いた。
最近ニュースの襲撃事件が騒がれたアルジェリアは、
むかしフランスに植民統治され、多くのフランス入植者が暮らしていたが、
ド・ゴールは政策転換し、アルジェリアを民族自決にしたことから、
ホームグラウンドを失った一群のフランス人がいた。
コードネーム『ジャッカル』をド・ゴールのもとに送り込んだクライマックスは、
パリ解放記念式典の8月25日モンパルナス広場。
一度だけ読んだ棚の背表紙が見える本を、異なった演出に
リライトするのは、ジャズの演奏でよくあることである。
パリの正面玄関に凱旋門があり、エレベータに乗ったのは2度目の
1988年であったが、円形広場から放射状に走るシャンゼリゼや
パリ14区のモンパルナス広場の方角を眺めた記憶がある。
パリのフランス人は英語を話さないと聞いていたが、
英語で話しかけると英語で答えが返ってきた。
ジュリエット・グレコの唄う『巴里の空の下セーヌは流れる』を、
そこでしばらく概観する。
Sous le ciel de Paris
S’envole une chanson
Hum Hum
Elle est n e d’aujourd’hui
Dans le coeur d’un garcon
Sous le ciel de Paris
Marchent des amoureux
Hum Hum
Leur bonheur se construit
Sur un air fait pour eux
このころの1988年に、山下洋輔氏がSWEETBASILで演奏したトリオを
タンノイで聴いて、驚いた。
2013.2/11


鎮守の森

2019年02月19日 | 歴史の革袋


喫茶の窓のかなたの鎮守の森に、
高みの枝葉でなにかがじっと居るのを遠メガネで見ると、
銀色の襟巻きをしたカラスが一羽止まっている。
中学の時、6ヶ月新聞配達のバイトをしてプラモデルを購入した
思い出のコース途中に、森に差しかかると冬の5時半は暗く、
子供心にゾクッとしたが、鬱蒼と茂ったトンネルの先に
やがて現れる青い星空は感動ものである。
現在は国道4号線が中央を通って、鎮守の森は小さくなったが、
そういえば道端に待っていたおばあちゃんからミカンをもらった。
新聞配達は、同級生から「いいバイトがある」とその気にさせられ
新聞店に行くと、そこは叔父の経営していたところで驚いた。
叔父は無言で、銀縁メガネの奥から当方を見ていたが、何も言わなかった。
父親が、いちど配達に同行したことがあり、
それから叔父に電話し、一番遠くの離れた家は郵送になったので、
迷惑だったかといまは思う。
ひょろりとしたインテリ眼鏡の社員が、
ご自分の下宿しているベツレヘムホームの一室に当方を招いてくださり
「プラモデルにはこの本が良いかな」
ヒットラーの著作『マイン・カンプ』を、積み上げた本から引き抜いて
貸してよこしたのだが、中学生にチンプンカンプであった。
森には、夕刻になると千羽もカラスの大軍が集まって来ることが有る。
周囲の電線にも真っ黒に並んで、夕焼けに浮かぶありさまは
ヒチコックの『鳥』のシーンである。
市内の方々の森をネグラに巡回するのか、ふだんは数羽がいるだけである。
コレクターズ・アイテムというマイルスの50年代の演奏は、
パーカーとロリンズとマイルスがセッションしているので、
はたしてどのようなあんばいか、誰しも耳をそばだてるLPであるが、
A面3曲目の『ラウンド・ミッドナイト』は、鎮守の森の雪の夜を奏でているようだ。
2013.2/1