goo blog サービス終了のお知らせ 

ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

初春の伊治城柵

2019年05月13日 | 歴史の革袋


767年に造られた伊治城柵は、
一関から国道4号線を南へ25キロにある、
千年以上前の官庁街の遺跡である。
雪は消えて、穏やかな陽気にハンドルも軽い。
いよいよ、発掘の逸品を拝見しに管理センターに向かった。
ラジオはジョージ・コールマンのサクスにトニーのバスドラが
ズドーンと鳴ったようだが、ノンプロブレム。
国府多賀城の前進基地、栗原区に
数千人の移民を投入した古代律令府は、
壮麗な建築群を打ち建てて周囲を圧倒している
本腰であるが、歴史は糾える縄のごとしであった。
まぼろしの政庁跡の一角に建つ管理センターにて、古代のよすがを探す。
現代では街路が入り組んで、目的地が隠れん坊している。
困ったな、と走っていると自転車でやってくる少年がいる
すぐさま車から飛び降り小学校の跡地を尋ねると、
「では、付いてきてください」
坂道もなんのその、どんどん走る栗原の中学生であった。
昼食時にもかかわらず、履物を並べ快く迎えて頂いた。
発掘品は、多賀城様式の瓦が地中から掘り出され
たりすると吟醸酒で乾杯となるが、
このセンターの誇る無二の逸品がケースに展示されている。
パンフレットに出土ポイントがマークされ、非常に珍しいものである。
いつか城柵の復元のかなう日が、来ていただきたい。
喫茶に戻ると、
モニター・レッドの御仁が埼玉からお見えになって、
今度アルテックも入れてみましたと申される。
レコードは千枚、とご謙遜であるが、
千畳敷にジャケットを並べてごらんなさい。
眺めるだけでも大変でしょう。
2016.3/4

出初の纏

2019年05月12日 | 歴史の革袋


音に聴く エゲレスの箱の あだ牡丹
触れじぞ 夢の 寝言なりせば か。
ときに夢にまで出る、タンノイの麗奏
揃いのはっぴのまち火消し衆が 、
冬の空に 
今年も纏を振って ことほいでくださった。
竿の上の馬簾が なんどもシャッシャッと宙に舞う
みごとな伝統のわざに、いたみいりました。
2016.1/23
子供の頃、4号線の街並みの消火栓から
ビューッとホースを伸した町火消し衆が位置について、
合図で何ケ所もポンプから一斉に空に向かって放水をはじめると
雷鳴のようなエンジンの音に、路は土砂降りである。

河崎の柵から黄海古戦場へ

2019年05月05日 | 歴史の革袋


誰にもおじいさんと、おばあさんが居るのはよいとして、
祖父は、義太夫の持ちネタを3つ持っていた。
そのひとつが、
「いがみのごん太ァ!」
などと、炉端でキセルを持ちながら、不思議な抑揚で唸る。
幼児の当方は、びっくりだ。
天窓から射す陽光に照らされる、
ハエが飛んでいたような気がする昔である。
いがみのなにがしが、義経千本桜の四段目の登場人物であると
理屈がわかったのは最近のこと。
十一月。
北上川沿いを下って、河崎の柵まで昼食に行った。
「何を食べたの?」
コンビニ弁当とコーラ。
北上川は、秒速50センチでゆっくり流れている。
そこから千厩川を越え、東の方から黄海古戦場を見に行った。
黄海中学校の傍の細道を下ると、
1057年11月雪の日に、鎮守府将軍源頼義の兵1800と、
安倍貞任4000が、猛烈な人馬の合戦した戦場が広がり、
黄海川が、熊館の傍を流れている。
快晴で、稲刈りの済んだ田園の古戦場に、
幾筋も飛行機雲が見えているが義経は、
平泉から馬を飛ばして、ここまで見学に来ていたか。
朝に平泉を出立すれば昼には着いている距離である。
黄海合戦のシーンは、スポーツではなく人馬の損害が痛ましい。
せめてラグビーか、ニューポート・ジャズフェスのような喧騒であればなあ。
おんや、誰か入口で「チョコレートありませんか」と、お尋ねである。
2015.11/7
夕刻、駐車していると生徒が急いで背後に乗込んで来た。
自分の家の車と思っているのだ。
様子が嬉しそうで、いいことが有るらしい。

黄海古戦場跡

2019年05月02日 | 歴史の革袋


一関の磐井川が北上川にそそぐところは、狐禅寺川岸である。
幕藩時代、産地米をここで帆船に積みかえ、石巻湊に輸送した。
弧禅寺川岸から船で12キロ下ったところに、有名な河崎柵がある。
森と崖の景観を遊覧船でゆっくり眺め下れば、
かっての城柵も堤防に変わった左手に、砂鉄川口が現れ、
中央の盛り上がった深い河は重々しくカーブしていく。
ゆっくり7キロほど流れ下ると、左岸に黄海古戦場が見える。
歴史が北上川沿いに刻んだ跡は、比与鳥柵や鶴脛柵、
黒沢尻柵、大麻生野柵、胆沢の柵や白鳥の柵、柳の御所や河崎柵、
そして桃生の柵など、風化させてなお名を残していた。
先日、栗原寺七堂伽藍跡のある金成町まで4号線を南下し、
若柳町付近から東に折れて、律令軍の軍道の痕跡を探してみた。
築館の伊治柵を通過した軍団は、ここから東に進路をとって
金流川河口にむかったのだろうか。
多賀城柵を出発した二千の兵は、行軍を隠密裏に監視されていたが、
迎え撃つ在郷軍団も一関と気仙郡の遊軍を河崎柵から黄海砦に
結集させて、二方から包囲したと言われる。
現地の地形を見ると、いったん不利になれば川に沿った道が狭く、
金流川河口まで退却しても渡河が自由にならない。
これら歴史的遺跡の近くに、先日ライオンのお昼寝を見学したサファリパーク
のあったことを思い出した。
「壁のリトグラフは、コロッセオではありませんね。」
客人は、自分が見たものより構造が低いようだ、と首を傾げて居られたが、
「むかし友人に案内された有楽町の『ママ』で、ジャズのとりこになってしまい、
クリフォード・ブラウンが・・・」
とお話は音楽のようになめらかである。
「戦後のあの当時、三十才まで給料袋をそっくり母親に渡したので、親はけっこう潤っていましたね」
素晴らしいことだが、さてご自分は?
「日曜のアルバイトが月収を上回り、いまもレコード残っています」
ただの人物ではないので、ジャズと両方傾聴する。
「すごい低音に鳥肌がたって、溜まっていた疲れが消えました。」
以前中尊寺境内で貰った書のカレンダーと、タンノイの音を誉めてくださって、
御仁は、秋の街路に去っていった。
人の乗った大きな飛行船がUFOのように浮かんでいたのはその時である。
2015.9/20


都岐沙羅柵

2019年05月02日 | 歴史の革袋


むかし山寺の立石寺に行ったことがある。
岩山の巌壁の淵から下界を見下ろす眺めは、
桂景寂寞というより、足がすくんで句どころではなかった。
芭蕉はこの景観の発句に挑んでいるのではないかと探す。
酒田で旅の身体を休めて、句会と宴席に歓迎され、
ふたたび海岸を北上して、西行の歌枕『象潟』に到着した。
曾良の旅日記に、
昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。
衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。
所ノ祭ニ付テ女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。
先、象潟橋迄行テ、雨暮気色ヲミル。
今野加兵ヘ、折々来テ被レ訪---。
日本書紀658年7月4日条に、問題の有名な単語が有る。
『都岐沙羅柵造に贈二位、判官に一位、渟足柵造の大伴君稲に・・・』
史上ただ一点の記録に名を残す謎の国定城柵、
都岐沙羅柵は象潟ではないかと、最近騒がれているが、
北海道のトキサラマップ川を引用し、読むそうである。
また、
芭蕉の筆懐紙が保存される越後沼垂町の眞野仁蔵方。
地名の『沼垂』は古代の渟足であるという。
続日本紀にある覚鼈柵も、所在が謎であったが、
現在北上川の河崎柵の地下に眠っているといわれている。
ぬれていくや 人もおかしき 雨の萩
2015.9/4

謎の益澤院

2019年04月30日 | 歴史の革袋


みちのく金色堂の傍に経蔵の建つことは知っているが、
1337年焼亡のあと、当時の二階瓦葺きの姿は誰も見ていない。
一切経の5400巻は、大勢で金銀の墨を使い紺色の紙に、
華麗に書写した文字を猪の牙で磨き光らせ、
8年掛かってついに1126年3月完成されたと。
伝承によれば、この写経の行われたところは『益澤院』といい、
藤原清衡の生まれた江刺豊田舘の近くに、
これまで謎であった院跡が発掘されている。
風景を写真で見ると、落ち着いて仕事の出来そうな良いところである。
当方は先日、文明の利器、携帯ナビゲーションで、
北上川にそって街道を右往左往し、益澤院近くを通過したものであるが、
レストランで楽しい時を費やしてしまい、立ち寄るタイムリミットが、残念。
盛岡の客人が聴かせてくださったワンダフル、ジョニーハートマン、
以前、3人組の客人にリクエストされて、
それから針を乗せていなかったとは。
秋風の 吹けども青し 栗の毬
2015.8/27
大槌川上流で宮ノ口判官堂は発見できなかったが、
付近に瑠璃色のカワセミが棲息している。

鳥海の柵

2019年04月25日 | 歴史の革袋


衣川区の絵図面で、また北上川に沿って進むと
まもなく眼下に胆沢城柵が見えてくる。
北上川と胆沢川の合流する周囲は陣取りが激しく、
豪族安倍氏の『鳥海柵』も見える。
両者は川を挟んで角突き合わせたのであろうか。
『捲土重来、将軍鳥海の柵に入り暫く士卒を休む。柵中の一屋に酒数十瓶を醸す。士卒争ってこれを飲まんと欲す。将軍制止て云く、恐らく賊類毒酒を設け疲頓の軍を欺くかと。而るに雑人の中の一両人たまらずこれを飲むに害無し。而る後合軍これを飲み、皆万歳を呼ぶ。将軍が武則に語って曰く、いつも鳥海柵の名を聞き気になって、その内部を見ること能わざるに、今日貴君の忠節に因って初めて入城を得たり。城内の様子、とうとう見れて感きわまれり』
鳥海柵は、埋め戻されて原野となっているが、
先年の発掘に成果があり、
国の『史跡』にふさわしいと官報に公示された。
当方は、兵が二百人も広間で宴会できる
大型建屋の古代を想像する。
そのとき、一ケ月消息の無かったヒヨドリが、
庭でツツジの散花の掃除をしているところに
一直線で飛んできたので、台湾バナナを奮発した。
中新田『バッハ・ホール』から、北村英治スーパーカルテットの
5月23日ライブの案内を、A4判30枚頂いた。
1976年に、菅野邦彦氏とやったマイファニー・ヴァレンタイン、良かった。
タンノイを鳴らして、マランツ♯7に詳しい客人達が、
そのチラシを見てヨシと頷いて、ライブに話が早い。
2015.5/20
そういえば当方も昔、宗任の故事にならって転居の倉庫に
未開封の美酒箱5ダースを残置した。

御室桜

2019年04月23日 | 歴史の革袋


15日は衣川の御室桜を見に行った。
京の仁和寺から、秀衡の母親の屋敷に運ばれた
さすがの桜が咲いているという。
あれから800年の時がたつが、
秀衡の母とは、安倍宗任氏の娘で衣川に屋敷跡が残っていた。
義経もたびたび京の噂に遊んだところで、春をことほぐ。
知人を同道し現地に到着すると、
室の木の遺跡には東屋が建っており、
薬草園の痕跡のようなものが有った。
周囲をぐるりと50本の桜が、ひっそりと満開である。
願わくば、桜の下にてジャズ聴かん。
春の雫を、盃に受けて。
西行がここに立ち寄ったのには、わけがある。
衣川屈指の歌枕、室の木屋敷は、東の束稲山から
西の月山神社まで直線上にあるように見えた。
都市計画に風水を駆使した重要な屋敷ではないか。
東屋にて腹ごしらえが済むと、
おいおい、どんどん歩いて消えてしまった。
2015.4/16
1500円の襖の張り替えをするとチラシが入った。
はてな?


衣川の殷賑

2019年04月19日 | 歴史の革袋


平泉の隣りの衣川区に、藤原黄金文化の一つまえの
地層遺跡がそっくり有るらしい。
平安朝後期の安倍の遺跡である。
シュリーマンがトルコのトロイ遺跡を掘ったとき、貴重な歴史地層を
金銀財宝をめざし第七層まで堀抜いた話は有名だ。
この衣川文化層を、何度か現地散策してみると、
看板標識が遺跡所在を示し、そっくり手つかずの地面が
雑草に覆われて残る豪華さであった。
あの時代がそのまま風景に残っているところを鑑賞することができる。
例によって絵図面に、おもな遺構をプロットしてみた。
楯代官跡、向館、北館、照井館、白鳥柵、瀬原柵、貞任館、
月山神社、衣関、小松舘、琵琶館、衣河柵、並木屋敷、
郷近柵、和泉城、吉次屋敷、二階大堂
これら千年前の遺跡は、いうまでもなく当時多くの人が働いて
経済文化を隆盛させ、花鳥風月を嗜み年収もそうとうである。
安倍一族は「先祖安東の末孫にして津軽濱安東浦に住す」とあるので、
日本海を隔てた樺太、アムール川ロシア、渤海国などと貿易し
始めに財を興したのであろうか。
今回の図は、このまえの絵図面を右下に移動した部分になる。
そうこうしていると、喫茶の客人が
「関東から日帰りで平泉観光に」と申されている。
お仕事にピアノを演奏されるそうで、ただの人物ではなく、
御仁の演奏のかわりに、傍らの女性が多々お話くださった。
2015.1/31


2014年 夏

2019年04月12日 | 歴史の革袋


胆沢鎮守府から多賀城国府まで、奥州街道は85キロ。
胆沢鎮守府から磐井川畔まで28キロ
磐井川畔から伊治柵まで20キロ
伊治柵から多賀城まで42キロ
阿久利川畔から多賀城まで行程二日
野営地の特定は難問である。
だが、いずれにしても
真相は領地のせめぎ合いにほかならない。
そのとき、雷鳴と豪雨の間隙をついて、
伊達藩から、夏のたよりが届いた。
2014.8/1

胆沢城柵跡

2019年04月12日 | 歴史の革袋


梅雨のあがりに、母屋で弁当をこしらえ『胆沢の城柵』を見に行った。
なにぶん千二百年も昔の遺蹟ゆえ、どのようになっているのか?
遺蹟の付近には、岩手で唯一の前方後円墳趾や、
貞観時代の仏像を擁する寺院もあるが、
胆沢鎮守府はその仏像より60年ほど古い。
一関から北に奥州街道を30キロ、はたして現地に到着すると、
原っぱと田畑が広がるばかりで、ほぼ、何もなかった。
この、何もないところに、千二百年の深い意味がある。
東京ドーム九つ分といわれる区画を、背後の鎮守府神社が
静かに鎮護していたようである。
近くに異様に大きいコンクリートの埋蔵調査館が建って
いるのが流石であるが、問題の『漆紙文書』の複製をここで見ることが出来る。
宮城県の小田軍団から応援に胆沢城に出された鎮兵の、
承和10年(843)2月26日付欠勤届文書断片である。
また、城柵の偉容を復元した二階層大門や政務殿の縮尺模型など。
人のいない広野に、初夏の風に揺れる草花をながめて昼食を摂った。
「アレ、この風景で聴くチャーリー・バードのギターは意外に、よろしゅう御ますナ」
総司令官の坂上田村麻呂は、京都弁を使ったであろうか。
翌日、黒い皮ジャンのアーチストが喫茶に登場すると、
いつもシブヤで演奏しており
「オフは地方に散歩に出る」、ともうされてサインをくださった。
自宅で使っているアンプは、GECのKT88であると聞き、血圧やや上昇する。
鳥瞰図は、いわゆる想像である。
北河遠上白雲間
一片孤城萬仞山
羌笛杜漣情楊柳
春風不度玉門関
※ 「杜漣」とは、平仄ルールに外れてもコルトレーンの意。
2014.7/5
福島ナンバーの車から5人の客人が降り立った。

『翰苑』

2019年04月07日 | 歴史の革袋


江戸時代に新井白石と本居宣長は、
2世紀の日本に存在したといわれる『邪馬台国』の異なる説をたて、
由緒正しい論争はいまだ決着がつかない。
古代に文字の無かった日本で、伝承欠落を埋める
隣国の魏の図書館にあった魏書東夷伝倭人条の古文書が、
おおいに参考になった。
あるとき、九州の大宰府天満宮に収められている古文書もまた、
平安期の写筆で東夷伝倭人条そっくりの漢文のあることが注目され、
この『翰苑』断簡を各方面に照会したが世界のどこにも原書が見当たらず
「天下の孤書」といわれて国宝に指定された。
気温が緩んだ春になって
おなじ写筆でも、ピアノの鬼才フランツ・リストが、
ベートーヴェン5番運命の原楽譜から書き起こしたピアノ演奏用の写筆、
指が6本あると評されたリストのテクニックとは、いかばかりか。
タンノイでグールドの弾く「5番運命」を聴くと、
第1楽章では交響楽団の粘りのある弦の重奏がなつかしくなるが、
2楽章アンダンテは、グールド独特の運指とテンポが簡潔にして玄妙、
いまも耳新しい。
アンダンテを聴いていると、そこでつい、
エバンストリオが加わって同じ演奏をしているところをかさね、
ベースやドラムスの存在をタンノイの空間に埋めてみたくなる。
2014.4/21


谷起島の小松の柵

2019年04月06日 | 歴史の革袋


小松の柵の地形を眺めに行った。
一関萩荘谷起島に、柵の伝承遺跡が有る。
安倍宗任、良照軍が守備していた柵は、
川と谷の入り組んだ複雑な地形を難攻不落にしていたが、
ついに1062年の夏、一万の兵に包囲され、
夜戦に持ち込まれ落城した。
何度目かの谷起島橋を通ると、
豪雨に緩んでいた護岸が綺麗にととのって、
数本の植木がなるほどと思われる間隔で整備され、
付近の薮道にキジ鳥が散歩している。
芭蕉の句もよいが、杜甫の『春望』が似合う名所である。
國破山河在
城春にして草木ふかし 
感時花濺涙
千年前の地形は現在も残っており、
俯瞰図を想像して描いてみた。
2014.4/16


衣川安倍館、再び

2019年04月05日 | 歴史の革袋


前回、雪に隠れる風景を、安倍館橋周辺から見た。
その地形のおもしろさに惹かれ、また眺めに行くと、
千年も前に栄えた城柵はすでにないが、
発掘図を参考に想像を描いて古人の時代を偲ぶ。
一関の『小松の柵』を守備していた先頭軍団は、
征夷大将軍をたて押し寄せてきた律令軍に一敗地にまみれると、
二筋の軍道に分かれて奥州衣川「安倍城柵」に退却したと、歴史書にあった。
弁当でも広げて周囲を眺めると、里山に春の景色がひろがり、
ゆったりした人々の時間が流れている。
芭蕉ではないがしかたがない、一句。
座禅草 雪は剥がれて 衣川  
2014.3 /22
コンラッド・ジョンソンアンプでタンノイを鳴らす、
遍歴の成功秘話を電話にて伺った。
五味康祐氏がおられたなら、さぞかし。


『石坂の柵』

2019年03月26日 | 歴史の革袋


去九月五日、貞任襲荻馬場、小松柵、遂以敗北、官軍乗勝追北、賊衆到磐井河、或迷失津、或墜高岸、或溺深淵、暴虎憑河之類、武則以精兵八百余人、暗夜尋追、分敢失者五十人、偸従西山、入貞任軍中、俄令挙火、見其火光、自三方揚聲、攻撃貞任等出于不意、営中擾乱、賊衆駭騒、自互撃戦。亡傷甚多、遂棄高梨宿並石坂柵、逃入衣河関、
小学生の或る日、見慣れた風景の蘭梅山頂に突然、塔が現れたので、
子供たちは集団で、大木の洞に巣む蜂の大群やクマザサをかきわけ、
やっと頂上に着くと、大きな無線中継塔があった。
それから転居して或る日の高校の夏休みに、再び山頂に登ると、
林の影から現れた人に見覚えが有った。
「たまにここまで散策に来る」
と言い、こちらの将来について質問があった。
ご自分の進路を「本当は研究者になりたい」と話しておられた。
彼はそれから視界の開けた場所に当方を案内し、しばらく下界を見ていたが、
「あの街道は、むかし秋田方面へ大勢の兵が往来した重要な軍道」
と話していた。
市街地から須川岳の方向に伸びる厳美街道は342号線といい、
前回探訪した『小松の柵』より、およそ4キロ上流に『石坂の柵』がある。
釣山の烽火台とは市街地を挟んで、小松の柵と三角形を構成する拠点は、
電話のない時代にノロシが緊急の連絡に用をなしたものであろう。
全国統一の野望に燃える律令軍団が造った多賀城柵に対し、
安倍の豪族軍が構築した最先端防御の柵であったが、
小松の柵と日を置かず、一万三千の敵軍に破られたという。
これらの地形や古文書の表記、伝承地名を味わっていると、
千年も昔の城柵のたたずまいが、浮かんでくる。
一関市街地から観光地『厳美渓』に向かうとき、必ず通る要衝の地で、
段丘状の地割れの淵をカーブする千年の道は残ってあったが、
ごく最近、直線的に立派なハイウエイに改装され、それまでの曲がった坂道は、
駒泣坂、鐙越(あぶみごえ)の地名に古人の日々をとどめていた。
タンノイ装置を賞味し、地域の歴史の閲覧にいそしんでいると、
にこやかな客人が現れて、シューマンの作品を褒め、
「ベートーヴェンはトスカニーニが一番です、3番が好きですが」
などと申されて、桃生の柵の歴史などを話し始めるこの人物は、
いったい何者かな。
2014.2 /28