
元日の長者ケ原は、マイルスの『WORKIN』のサウンドが
かすかに聴こえるように澄み渡って、陽が射していた。
衣川沿いの道を行くと、やがて透明な空気の中央に堂々とした石碑が見える。
1189年7月のこと、28万の軍列をととのえ鎌倉を出発した頼朝が、
平泉に入ったのは8月の夏のさかりであるが、かねて何度も眺めていた
絵図の平泉都を目の前にして、北上川正面にある柳之御所周囲を
かりに千代田区とすれば、いま立っているこの衣川の北面は、
水耕田や原野で広がる『長者が原』とよばれる、
渋谷区松濤のような建物でうまっていたはずである。
頼朝は、とうとうそこに立ったとき長者ケ原廃寺は
「ただ四面の築地塀が残るのみ」と吾妻鏡に記述がある。
中尊寺伽藍が完成した時点で、すでに廃寺であったのだろうか。
長者が原の名は『金売吉次』の屋敷跡をイメージしたネーミングが残ったものだが、
歴史が吉次の立場を商社の統括本部長と秘密外交官を兼務させたものであれば、
ここに輸出入用の大きな蔵が何棟も建ち並んであったと言っているかもしれない。
秋田には吉次の隠し金山と言われるものがあり、東山町田河津や各地に
金売り吉次の屋敷跡が残っている。
勧進帳に、東下りした義経主従を迎えて接待を担当していた泉三郎は、
長者が原と隣接した『泉ケ城』に住んでおり、義経を京から導いた吉次のコミットを
考えれば、渋谷区松濤に判官館を移すことが自然のようでもある。
頼朝がことさら長者ヶ原廃寺を見学したのは口実で、
本当は平泉に匿われていた義経の判官館を、以前から地図にマーキングし、
ひとめ見たかったのではなかろうか。
敗走した軍勢の追討に厨川まで進軍した頼朝は、まもなく平泉に戻って逗留し、
金色堂や二階大堂などの名所をゆっくり巡回している。
「あそこが義経殿の住居でございました」
案内人が、気を利かせてそれとなく指し、
供連れてぞろぞろ進む頼朝は馬上から眼の端にそれを見ていた。
そのとき、背後で供の者どもが騒いでいる。
指差す方向を見ると、衣川対岸の関山の中腹にちょうど陽が射して、
二階大堂の天窓に黄金の仏像の顔が光っていた、
後年鎌倉の地に二階大堂を再現して散歩に馬を向けた頼朝は、
そのとき東北の長者ヶ原の景色をかさねて思い浮かべていたに違いない。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
芭蕉も矢立ての句を詠んで本所深川を出発し、奥の細道の北限に
泉が城の到達を記している。
元日の遠乗りを終えて、帰宅すると遠来の訪問客が有って、
鶴屋八幡の羊羹をいただいて幸甚。
日本茶の正月に、ゆっくり暦をめくった。
2013.1/1