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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

長者ケ原廃寺の謎

2019年02月18日 | 歴史の革袋


元日の長者ケ原は、マイルスの『WORKIN』のサウンドが
かすかに聴こえるように澄み渡って、陽が射していた。
衣川沿いの道を行くと、やがて透明な空気の中央に堂々とした石碑が見える。
1189年7月のこと、28万の軍列をととのえ鎌倉を出発した頼朝が、
平泉に入ったのは8月の夏のさかりであるが、かねて何度も眺めていた
絵図の平泉都を目の前にして、北上川正面にある柳之御所周囲を
かりに千代田区とすれば、いま立っているこの衣川の北面は、
水耕田や原野で広がる『長者が原』とよばれる、
渋谷区松濤のような建物でうまっていたはずである。
頼朝は、とうとうそこに立ったとき長者ケ原廃寺は
「ただ四面の築地塀が残るのみ」と吾妻鏡に記述がある。
中尊寺伽藍が完成した時点で、すでに廃寺であったのだろうか。
長者が原の名は『金売吉次』の屋敷跡をイメージしたネーミングが残ったものだが、
歴史が吉次の立場を商社の統括本部長と秘密外交官を兼務させたものであれば、
ここに輸出入用の大きな蔵が何棟も建ち並んであったと言っているかもしれない。
秋田には吉次の隠し金山と言われるものがあり、東山町田河津や各地に
金売り吉次の屋敷跡が残っている。
勧進帳に、東下りした義経主従を迎えて接待を担当していた泉三郎は、
長者が原と隣接した『泉ケ城』に住んでおり、義経を京から導いた吉次のコミットを
考えれば、渋谷区松濤に判官館を移すことが自然のようでもある。
頼朝がことさら長者ヶ原廃寺を見学したのは口実で、
本当は平泉に匿われていた義経の判官館を、以前から地図にマーキングし、
ひとめ見たかったのではなかろうか。
敗走した軍勢の追討に厨川まで進軍した頼朝は、まもなく平泉に戻って逗留し、
金色堂や二階大堂などの名所をゆっくり巡回している。
「あそこが義経殿の住居でございました」
案内人が、気を利かせてそれとなく指し、
供連れてぞろぞろ進む頼朝は馬上から眼の端にそれを見ていた。
そのとき、背後で供の者どもが騒いでいる。
指差す方向を見ると、衣川対岸の関山の中腹にちょうど陽が射して、
二階大堂の天窓に黄金の仏像の顔が光っていた、
後年鎌倉の地に二階大堂を再現して散歩に馬を向けた頼朝は、
そのとき東北の長者ヶ原の景色をかさねて思い浮かべていたに違いない。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
芭蕉も矢立ての句を詠んで本所深川を出発し、奥の細道の北限に
泉が城の到達を記している。
元日の遠乗りを終えて、帰宅すると遠来の訪問客が有って、
鶴屋八幡の羊羹をいただいて幸甚。
日本茶の正月に、ゆっくり暦をめくった。
2013.1/1

謎の金印と金鶏

2019年02月14日 | 歴史の革袋


1974年出版の清張『古代史の謎』で、当時謎のままの解けない諸説が、
40年後の現代には解明が進んだ?のであろうか。
本の28ページに早々と出てくる、後漢書に光武帝が奴国へ遣わした『金印』
のくだりについて「あれはそもそも3個ある」 !?と、
記述がむにゃむにゃでおわっており、歴史の奥も深い。
平泉でも、金にまつわる七つの謎の一つに
『金鶏山の金のにわとり』伝説がある。
金鶏山は、平泉の都市区画を囲むように
丘陵が両翼に広げた鳥の頭部にあたる中心に、
膨らんだ小さな山であるようにも地図では見える。
一年で一番陽の長くなる日に『無量光院』からみて背後の金鶏山頂に
夕日がちょうど沈むように設計されている。
エジプトの神殿やマヤの神殿と軌を一にしているところが、
古代に流石である。
埋蔵されていると伝説の黄金の鶏は、雌雄であるとも、
また一羽とも記録にあるが、昭和の初めに調査発掘されたときには、
漆の入った甕が出てきたという。
素人の当方が考えるには、鳳凰ではなく鶏で一羽埋蔵されているというなら、
それは雌鶏であり、雄鶏は金鶏山頂と朝日の上る方向の直線軸上に
あるように設計したい欲望に駆られる。
つまり、柳の御所の対岸の山頂にあると考えれば、毎日、とどこうりなく
朝を告げる鶏を山頂に捧げて、朝日を遙拝することができる。
金の雄鶏計画は、警備の都合上、最も口の固い三人の職人が選ばれて、
秘かに対岸の山中に分け入って頂上深く埋蔵したので
いまだに知られていないが、どうして雌雄の金鶏の一方なのか、
命じた者はひそかにそれを満足している。
この案は、先日の骨寺遺跡で説明を受けた鐘の埋蔵の話から急に思いついたもので、
学説ではないが、いったい埋蔵された軸上の山とは北上川の対岸のどれかな、
と柳の御所から眺めて、名物桜羊羹でもつまみながら満足しよう。
金は腐らないので、卑弥呼の金印もいつか地上に姿を現すことであろう。
栃木から三人の客人が登場し、大型のJBLのウーハーを備えたマルチ装置を
座右にするスーパーマニアのようだが、携えてきた優秀なカッティング盤を
聴かせてもらったところ、一瞬の音像で、努力のすべてがわかる
レコード盤も有るものであると驚いた。
以前お見えになった男女の客人で、ウエス・モンゴメリーの演奏に
「これは、親指だけで弾いているんだよ」
男性が隣の女性に説明している。
その様子が、北上川の庭園のベンチで対岸の山並みを説明するように、
おだやかでたのしそうであった。
2012.10/22


秋の巌美街道

2019年02月13日 | 歴史の革袋


平泉から太平洋に向かう街道が343号線なら、
反対の日本海に向かう街道が国道342号線といって、
中世に大陸と交易した重要な街道である。
この砂金街道について、子供の時はピンと来なかったが、
唐辛子、唐木、唐三彩、教典など、
馬の背にゆられて入ってきたのであろうと想像する。
道の途中に、さきごろの烈震で中座した橋はそのまま残されてあり、
中尊寺経蔵別当の中世荘園遺跡があり、岩山の隠し洞窟にはまだ
砂金が入っているような噂もある。
久しぶりの秋の遠乗りで、荘園跡にたどり着けば、
遺跡発掘の説明板にどれどれとつい見入ってしまう。
すると、背後に誰か立っている?
黄色のユニホームにアポロキャップの男性がにっこり
「ゆっくり見ていってください」
と言った。
――あの鐘楼の鐘は意匠が凝って見えますが、と
そこで、たずねたわけである。
「この駒形根神社は、栗駒山頂の神社の分社で馬の木彫刻が本殿に祀られたものが、
明治の廃仏毀釈のときに、脇に移されました。
あの古鐘は、大戦の金属供出で兵器の材料になるところでしたが、
関係者が相談し土中に埋蔵しましたので、また鐘楼に釣り下がっています」
――荘園の中央を蛇行する川は、護岸がコンクリであるところが、
わたしのような素人目には千年のイメージを妨げます。
説明の人物は、嫌な表情もなく、言った。
「昭和の中頃まで昔の小川でしたが、川底が非常に浅く、
背後の連山に雨が多量に降る季節にはドッと溢れて、
あたり一面が湖水になったのです。
しばらく陳情し、いまのように深く掘った護岸工事ができました。
排水には直線の水路が水はけに常識ですが、
学者のかたがお見えになったとき、昔の蛇行そのままをたいそう喜ばれていました」
――わたしのような観光客には、山頂に東屋があったら
空から荘園を見渡せるのに、とおもいます。
「以前と違って、景観保全区域になりましたのでそのかわり、
左奥の山裾に段になった特別の水耕田があり、毎年豊作祈願祭りが催されるのですよ」
専門知識人の、抑制のある自在な説明を堪能した。
当方と連れが聞くだけではまことにもったいないが、
谷を超えて空中を走ってくるダンゴといい、さりげなく現れる専門の説明者といい、
不思議な土地柄であると思ったそのとき、
背後の山から谷に吹き下ろす一陣の風が、
荘園に広がる稲穂を黄金色の波にして中世そのままに渡っていくのが見える。
帰り道、マニュアルクラッチ車で、久しぶりに路面の振動を感じつつ巌美街道を戻ると、
脇の森林から伐採木を山のように積んだトラックが割り込んで来たところが、
風景に似合ってすばらしい。
平安の昔も、社殿建築に切り出された丸太を、義経の遠乗り一行は真近に見たのか。
秋の342号線には、アール・ハインズの演奏するロンサムロードが聴こえてくるようだ。
喫茶に戻ると、3人の客が音楽巡りに立ち寄ってくださったが、
ベイシー楽団とサラボーンの演奏がタンノイで鳴るところを聴いて、
「ちょうどまえのところでJBLとマークレビンソンで鳴る
エラとベイシー楽団の演奏を聴いてきたところです」
たいそう喜ばれているが、マークレビンソンとは、はてな?
このお客はこうも申されている。
「サラ・ボーンの最後の日本公演では、うちのホールでも唄ってくれました」
淡々とした笑顔の、あやしい人々である。
2012.9/16


謎の二階大堂

2019年02月12日 | 歴史の革袋


絵を見せられて、「現物を見ないことには…」
と、サザビーズで敬遠されるのが「絵に描いた餅」であるけれど、
『二階大堂』は、昔行って見た興福寺東金堂のような姿であったのか。
中尊寺を起点に、白河の関から陸奥の外ガ浜にのびていた
奥大道という幹線動脈を、旅人になった気分でゆっくり歩み寄ってくるとき、
圧倒的光景で待っているのが二階大堂という。
奈良の東大寺をダウンサイジングしたような建物は、
二階層の窓に突き抜けた黄金の巨大仏像が顔をのぞかせ、
山腹の遠目にもギラギラ輝いているありさまが光々しくすばらしい。
旅人はあまりに強烈な印象を見せられて、
京に上る道すがらも思い出してはなぐさめられたようである。
そのころの歴史上の大事件といえば、チャンスをねらっていた鎌倉幕府大軍が、
朝と晩に毎日30万食も消費しつつ平泉に攻め上ってきた源頼朝事件であるが、
二階大堂を下から見上げて、頼朝はグッときた。
鎌倉に戻ると、同伴した絵師に頼んでおいたスケッチ絵図を政務の合間もながめ、
彼に、鎌倉の地に再現を決心させることになった二階大堂である。
そんなにいいのか。
当方も遅れて鎌倉に駆けつけてみたが、もはや焼失して
二階堂という地名だけが鎌倉の外れに残っていた。
このように頼朝に実現できたことが現代に不可能なはずはない、
と誰も思っている。
桜山を背景にした風光明媚な地形に『柳の御所』をまず再現しようと考える
のは当然であるが、二階大堂と、十円硬貨の裏にある絵柄と三点セットが、
当方は楽しみである。
当時の平泉は、都市計画に風水を駆使しながら、祇園など
京の地名が散見されるように、先人の本歌取りの遊び心もあったらしい。
あるいは京から呼び寄せた大勢の職人たちの、なぐさめでもあったのか。
当方の知人宅の庭も、「京の庭師を招聘して造作させました」と枕詞にいうほど、
やんごとなきありがたさ、というものである。
子供のころバスに乗ると、停留所で「ぎおん、ぎおん~」と車掌の涼しい声がした。
御所の周囲を、見ず知らずの旅人に観光されては検非違使の都合もあり、
金色堂の建つ関山の中腹に奥大道を通し、中尊というネーミングの
初めと終わりを二階大堂と釈迦堂と金色堂で修飾したのかもしれない。
先日東山からパラゴン氏がお見えになったとき、
「歴史の地にホテルを造って、ライフワークとしたいものです」
と申されていたが、すると平安朝ホテルの庭の離れ座敷に、
ふんだんに桜材を多用した自分用のジャズ喫茶を造るつもりではないか、
と驚いたが黙っていた。
平泉において、ヌーヴェル・キュイジーヌを朝顔の姫君とたのしみ、
パラゴンで聴くビビットなビル・エヴァンスなど、
全国の皆の衆は心待ちにされることであろう。
平泉北面の二階大堂想像図で、正確な根拠はないが、
3月11日は堂内が点灯され、九メートルの阿弥陀立像が山腹に浮かぶ姿を、
対岸の北上川や衣川からでも拝観したい。
2012.8/30


鹿踊りの庭

2019年01月07日 | 歴史の革袋


鹿踊りの庭を見た記憶の屋敷は、明治の三陸津波被害から避難して、
いまの高い所に移されたものという。
5歳がたちまち過ぎてしばらくあと、もう一度訪問する機会があった。
庭を案内する当主とご長男が漏らされていたが、
前日は我々の訪門のために庭の草刈りをされたらしいのが恐縮である。
この庭は、ご先祖が京の庭師を三陸まで招聘して造作されたいわれが
庭園雑誌に紹介されて、野次馬の当方が話を聞いて、
ぜひ離れの茶室の紫檀黒檀の天井を拝観したいと熱望した。
それからふたたび音信のない先頃の東北大震災に、陣中お見舞いの途中
立ち寄ろうとしたが、捜してもどうにも場所がわからない。
あちこちうろうろしていると、庭先で伊万里の大皿を洗っている老人を見かけ、
車を降りて尋ねてみた。
「ああ、あそこは大丈夫。場所は次の湾だが、あなた方は誰?」
父もそうであったが、田舎では、どこから来て何の用事か、まま詮索される。
どの人も、心の奥で世間のちょっとした変化も逃さない。
瓦礫の積もった震災の沿岸を心細く進むと、角に停まる消防自動車から
わざわざ二人が降りて、斜面の中腹の住居を教えてくださった。
土蔵の側から入ると、あいにくのご不在で当方は早々に退去した。
ご無事がなにより。
2011.4/1


元旦の幻影

2018年12月30日 | 歴史の革袋


櫻川
来神河流過平泉館下川也往時遶駒形山下毎春艶陽之時櫻花一萬株爛慢于峯頂風光漸去飄零日飛此時満川如雪河流変色仍称之櫻川如今其地為野田尤可慳或指衣関小流者非是

衣河館 今曰高館
在平泉村東安倍頼時所築曰之衣河館文治中民部少輔基成居此館義経于茲世称高館是也上有義経古墳々畔有一櫻樹今猶存焉是乃往時之旧物也傍有兼房墓天和中我前大守綱村君建祠堂祭義経幽魂
桓武帝延暦八年六月庚辰征東将軍奏胆沢之地賊奴奥区方今大軍征討剪除村邑余党伏竄害人物又子波和我僻在深奥臣等遠欲薄伐運粮有難其従玉造塞至衣川営四日輜重受納二ヶ日然則往還十日依衣川至子波地行程仮令六日輜重往還十四日従玉造至子波地往還廿四日也
東史曰予州在民部少輔基成朝臣衣河館文治五年閏四月晦日泰衡襲其館予州兵悉敗績予州入仏堂害其妻子後夫人乃川越太郎重頼女死時廿二女子四歳義経廿七歳
同八月二十五日頼朝令千葉六郎大夫胤頼之衣河館召前民部少輔基成父子委身于下吏降胤頼 九月二十七日頼朝歴覧頼時衣河遺蹤同六年二月十一日千葉新介敗大河次郎兼任于衣河館
今詳考東史或記歴覧頼時遺蹤或記敗兼任于衣河館按義経東行之時秀衡別構営称之高舘而往年頼時旧館此時猶存者可視
賦高館古戦場
高館従天星似冑衣川通海月如弓義経運命紅塵外弁慶揮威白浪中出本朝一人一首

吉次居宅
在衣川北旧礎猶存焉吉次奥州大買往昔在京師而合牛若于鞍馬寺約東行携之至于平泉秀衡相喜賞之以貸財及第宅此其遺址也

柳営館
其址今在高館東北輝井陣営東来神河東俗曰之柳御所義経東行改義行在東奥号義顕 見東史 其常居乃柳営館也然是高館乃頼時旧館而基成相継而居焉衣河館者往時旧名也

和泉城
遺址在中尊寺西阻衣川是乃往時貞任族兄成道所拠之古塁曰之琵琶柵後秀衡第三子泉三郎忠衡居于此城仍曰之泉城
按此城去高舘以西可十町康平中号琵琶柵文治中忠衡居之同五年夏六月廿二日先義経自尽己五十日
東史曰三男忠衡家在于泉屋之東
按往昔之旧墟問之郷導渾不詳地理方角来歴事実佗時問之別人則又異其対殊其地豈此処而己哉処々皆兪故所記其中或依其所告之可信或拠其所見之可証而挙其大略于此庶幾竢其識者而帰至当矣於他郡方所亦兪前條柳営館亦細考之不分明者多想秀衡迎義経之東行而新設居第者蓋此柳営館也泰衡攻而所弑者高舘也然義経先是不与基成可同居焉故平日在柳営舘斯地挟隘因曁其受泰衡大兵也移居于高館者欠但基成居頼時旧館而義経自尽于別舘欠是亦不分暁後人考定之

衣関
去高館一町余山下有小関路是古関門之址也東史曰此地昔時西界白河関東限外浜行程十余日於其中間立関門名曰衣関
一説曰衣関在伊沢郡白鳥村曰鵜木其傍有関山明神今曰之関門宅是乃往時通行之道路而今廃其地也高闢関門左則隣高峻右則通長途南北層巒層相峙険隘之地
藻監草衣関奥州 こへわつらふ 時鳥 月 なみた さくら  

後撰雑一  よみ人しらす
たたちともたのまさらなむ身にちかき衣の関も有といふなり
道貞忘れて侍りける後みちの國の守にてくたりけるにつかはしける

詞花別  和泉式部
もろ共にたたまし物をみちのくの衣の関をよそに見るかな
建保六年歌合冬関月

続後撰冬  順徳院御製
かけさゆるよはの衣の関守はねられぬままの月をみるらん
旅の歌の中に

続拾遺旅  大蔵卿行宗
都いてて立かへるへき程ちかみ衣の関をけふそこえぬる

同  衣笠内大臣
たひ人の衣の関をはるはると都へたてていく日きぬらん
宝治百首歌奉りける時寄関恋

同恋五  前参議忠定
跡たへて人もかよはぬひとりねのころもの関をもる涙かな
五十首歌

続千載賀  贈従三位為子
行人もえそ明やらぬ吹返す衣の関のけさのあらしに

新続古今別  藤原顕綱朝臣
東路に立るをたにもしらせねは衣の関のあるかひもなし
嘉元百首歌奉し時旅

夫木集春部  前中納言定家
さくら色によもの山風染てけり衣の関の春のあけほの
洞院攝政百首花

同春  大納言経成卿
花の香をゆくてにとめよ旅人の衣のせきの春のやまかせ
親隆一寂然法師
杜鵑衣の関にたつね来てきかぬうらみをかさねつるかな
嘉元百首歌奉りける時旅
津守國助
たひねする衣の関をもる物ははるはる来ぬるなみたなりけり
堀河百首  藤原顕仲朝臣
白雲のよそにききしをみちのくの衣のせきをきてそ越ぬる
光台院入道五十首

夫木下同  正三位知家卿
さくら色の衣の関の春かせに忘れかたみの花の香そする
近衛院因幡光俊女
紅葉ちる衣の関をきて見れはたたかつまをそむるなりけり
嘉応二年十月法性寺殿歌合関路落葉
 
土御門内大臣
ちりかかる紅葉の錦うへに着て衣の関をすくるたひ人
衣川の関の長おおはしけるとききて
重之
むかしみし関守みれは老にけり年のゆくをはえやはととめぬ
家集には衣の関のおさありしよりも老たりしをと有
小々妻(サメ)十題百首  寂蓮法師
やまかつの結てかへるささめこか衣の関とあめをとをさぬ

新葉集  為忠
露結ふそてを衣の関路とやうらゆく月も影ととむらん

弁慶堂址
在衣関以西山頭往昔有一堂蔵武蔵坊弁慶像其堂今荒廃遺像在大日堂或曰此地乃重家墓所也

中尊寺
在中尊寺村号関山中尊寺堀河鳥羽両朝勅願所也堀河帝長治二年乙酉奥羽押領使左将弁富任卿奉勅至東奥伝中尊毛越経営詔于御館清衡至鳥羽帝天仁年中稍落成焉以精舎在衣関而号関山輪奐富麗頗極其美今尽荒廃纔存寺院本文左将蓋左少弁乎
東史曰寺塔四十余字禅房三百余宇清衡管領六郡之時草創之自白河関至于外浜行程廿余箇日其道路毎町立竿卒都娑図画金色阿弥陀像計当国中心立墓塔于山頂寺院中央有多宝寺安置釈迦多宝像於左右中間開関路為旅人往還之道文治五年九月十七日源忠所訟末篇書中尊毛越無量院寺塔注文如今挙其記録次第附各区之下

釈迦堂
安一百余體金容即釈迦像也己下皆載本文

二階堂
高五丈本尊長三丈金色弥陀脇持九體丈六也按右三区及仏像今己亡

金色堂
上下四壁内殿皆金色堂内構三壇悉螺鈿也安阿弥陀三尊二天六地蔵定朝作是乃天仁二年己丑所立蔵三代尸者是也
按金色堂如今土人所謂光堂者是也在経堂東南堂柱各図胎蔵界大日十二躯彫螺鈿細紋堂内尽金色中構三壇各上置仏像壇下皆三代之屍也左壇乃痊基衡右痊秀衡前壇清衡也後水尾帝寛永中黄門君時修補之次令人発而点検焉清衡棺長六尺曠二尺裏之以白綾漆其上納雄剣一口井鎮守府将軍印璽基衡裏之以白絹朱其上襯白衣表綿袍秀衡亦同之蔵和泉三郎忠衡首函高二尺方一尺五寸黒漆壇上仏像中立者弥陀是乃定朝所作観音勢至相並于其前多門持国両立六地蔵擁後共雲慶所造也今暗与東史記合其佗今所蔵有楽師二躯共丈六有大日一躯共運慶所造外有珍蔵者一曰秀衡撃刀長一尺六寸広一寸二分二曰用大刀誤衛府太刀者長一尺六寸出秀衡棺中三曰義経刀長九寸五分
☆ 奥羽観蹟聞老志巻之十
2011.1/2

古寺落慶

2018年12月27日 | 歴史の革袋


西風が落葉を舞いあげている晩秋の日、royceの前の工事道路に
郵便二輪車が風のように封書を届けて行った。
釈迦堂と仏像の修繕落慶開眼の式をおこなうと、別当から突然の知らせである。
落慶開眼法要といえば、天平の昔に伝わる大仏殿の来歴をイメージするが、
便りの御堂については、子供の時、割烹着を着た婦人が、境内に群生する山菜を
眼の前で採ってわざわざ持たせてくださった記憶がある。
平安時代からの最も賑やかな、いまならタイムズ・スクエアや銀座通りのような一角にある
御堂だが、お釈迦様だけが堂内で何百年も沈黙していたのか、
存在の様子がいっこうに思い出せない。
あるとき、数え切れなくある京の寺院のなかで、訪れる人の無い鄙びた寺に
テレビカメラが入って、ぶしつけに尋ねるのを見た。
「有名な寺院には観光客が多く入りますが、御寺のご心境というものは…」
僧はちょっと笑うと、
「修行に集中できるから、これでよいのです」
そのシチェーションと似ている修業三昧の御堂は、
これまで何百年もそこに在った。
落慶開眼の突然の知らせに驚いた当方は、失礼ながら俄然興味深々、
財布を裏返し衣服を新調していよいよ当日、
古刹に参集する一群の末尾に加わったのである。
奥大道の北口から坂道を進んでいくと、紅葉する樹木に午後の光が
茜色の万華鏡のように照り映え、木漏れ陽から透ける堂塔の列を彩っている。
鎌倉前期まで、右手の丘の上に甍を翼のように雄大に広げていた二階大堂を、
しばらく夢想して空中に描いた。
大勢の観光客が逍遥している歴史に包まれた空間にいると、
遠く麓の街道からかすかに、業務に励む車両の音が風に乗ってもれ聞こえた。
いったい、お釈迦様は、何百年ぶりに賑やかな日を迎え、どのようなお顔をしているか。
無言の御像にも、きょうは思いかけず周囲が騒がしく、
なにかしら意思の発露があるのではないか。
知らせをくださった別当職という御仁について少し記憶があって、
磐井川の中ほどにかかる橋のたもとで、骨董に情熱を傾ける亭主から、
偶然蒐集品を見せていただく機会があった。
亭主の話にうっかり耳を傾けると引き込まれる、笑い転げ、あるいはしんみりさせられる、
柳亭痴楽の綴り方のような隠し芸であったが、実力を知る人は少ない。
家にあった母の婚礼道具で、刀身の先の短い懐刀の記憶を話すと、
にわかに態度が変わった亭主は、文庫を開き、墨で拓本にした日本刀の刷紙を
何枚もテーブルに並べてくださって、解説が興味深かった。
障子を開けて、奥方が顔をみせて言った。
「いま○さんが、見てもらいたい物があると、お電話ですよ」
亭主の手もとでは、先刻からたえず撫回されている小皿がある。
「それはなんですか?」
一関郊外の古民家の庭先から掘り出された幕藩時代の絵付けなのですよ、
ヒビ割れ皿をいとおしそうに手のひらで温めているから、ぽかんとするばかりだが、
そのさい聞かされた、美術品博覧会の準備に東西奔走する人のことに、
亭主の家にも展示出品の鑑定のため来訪があったことを感心していた。
この鑑定人が、今回落慶する堂宇の別当とすぐにわかり、広域な活動を知った。
当方は広場の一角に到着し最後尾に並ぶと、そこに観光客が寄ってきた。
「能楽堂はどこにありますか?」
行列が何の集まりか不思議そうにして、釈迦堂の開眼式を気がついたらしい。
まもなく遠くからチーンと澄んだ鐘の音がしだいに近寄ってくると、
高貴な色を身に纏った僧の一団は、厳かに釈迦堂に吸い込まれて行く。
さきほどながめた茜色の木の葉の重なりのすきまを、ゆっくりとした声明が
衣がたなびくように永く続いて、背後に大勢の観光客の玉石を踏む音が聞こえる。
式が終わって、参詣者にいよいよ御堂に入る許可があった。
階段を上って特別に内陣の釈迦像と脇侍を、触れるほど近くから拝観が許された。
平安鎌倉の昔から奥大道を往来した旅人を、安寧してこられた三体を、
息を止めて眺め、象の背に乗った脇侍の彫りの深い切れ長の眼の
映してきたものをゆっくり拝すことができた。
場所を移した披露会場で、堂宇のいわれや、三百年まえにも修繕された
工人仏師の記録や講話が右筆からあって、そのうえ関東の名刹から来賓した僧の
祝詞も興味深いものであった。
当方は、そのころすでにテーブルに並ぶ前沢牛や山海の珍味のゆくえに
心を奪われていたので、記憶のおぼろげが、せっかくの機会に残念だ。
参道に鳴る竹の葉先の擦れ合う音や、雉鳥や野鳥のさえずりのことを、
チェインバースのベースやモブレイのサクスがたっぷりとした抑揚を響かせる
タンノイのむこうに、しばらく思い返す。
2010.12/4

泉が城と芭蕉

2018年12月12日 | 歴史の革袋


泉が城は、前に触れた『河崎の柵』と会社が同じ系列の、
『業近の柵』の古代に建っていたところである。
『奥の細道』に次のように現れる。
『まず高舘にのぼれば北上川、南部より流るる大河なり。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る』
いよいよ一関に入って芭蕉が川向うの二夜庵に泊った日は十二日であるが、
以前の旅程から三段飛びの踏み切り板に爪先を合わせるように、
尊敬する『西行』が数百年前に平泉に入った日に合わせて韻を踏み、
と言われていることなど非常な入れ込みが凄い。
それはエバンス・マニアを自認する者が、『ビレッジ・ヴァンガード』に、
日本から海を越えて、25日の日曜日に席に着くようなこと?
『和泉が城』について、芭蕉が存在をわざわざ奥の細道に、
残しているのはどうも訳がある。
泉が城の主は、三郎忠衡という藤原黄金カンパニーの常務取締役であるが、
社長である父から、東下りしてきた義経の補佐を命じられて、接待していた。
平泉に入った義経は、さいしょ高館区にある眺望館を宛てがわれていたが、
おそらく常務の和泉が城に遠くない場所に、
側近や厩のための広い平地を宛てられたのではなかろうか。
秀衡の没後、義経の立場が危うくなったとき、北方にひそかに逃がしたのも、
泉三郎忠衡ではなかろうかと想像するのは、副社長と専務の二人の兄に、
攻め滅ぼされているからである。
秀衡の三男でありながら兄弟と戦って義経を守った和泉三郎に、
芭蕉はけなげを感じ一章をもうけたのかもしれない。
平泉を散策するとき、いつも気になっていながら、まだ辿り着けない。
数日前、福島のいわき市からお見えになった人は、
ちょっと秀衡に似ていて貫禄があった。
秀衡が現代に居れば、金色堂の近くの能楽堂で、
たまにビッグバンド・ジャズなど奏でるはずである。
2010.3/27

山ノ目馬検場擬定地

2018年12月12日 | 歴史の革袋


昔は早馬と言って緊急の通信ネットに馬が走ったほか、
気仙峠を越える婦女子も馬の背にゆられていたが、
各地の『馬検場』が消えていったのは、馬の役務に変化が生じたからである。
子供のころ、雪で凍ったコンクリート道に荷馬車を曳いていた馬が、
眼の前でツルッと滑って、巨体がドウッ!と倒れたのを見た。
起きようと懸命に首を伸ばし四ッ足をばたつかせる馬に、
蹄が雪にすべって馬喰のオヤジさんもねじり鉢巻きの、
赤ら顔を引き攣らせて大あわてだ。
近所の大人たちがどやどやと集まって、
白いブチ馬の巨体をなんとか引き起こすのに成功したが、
けっきょく最後は馬力よりも人力だった。
馬の活躍で見たもので、もっとも過酷で勇壮な、
アスレチック・スポーツが輓曳競争である。
山ノ目の、しばらく歩いたところに子供の目にはローマのコロッセオのような、
場所はあったが、四列に並んだ馬は役目を心得て、
周囲を馬小屋でぐるり囲まれたグラウンドの中央に、
砂の盛られた障害に向かって、一斉に勢いよく馬そりを曳いて突進して行く。
周囲を取り巻く勢子と人馬一体、気勢を上げると、
最後の土手をソリは乗り上げて脚力も限界だが、
千人も集まっているのか各地の馬主や観客が、
間近で見る必死の形相で暴れる馬と一緒に、
興奮の坩堝の馬検場であった。
そのような体躯の馬を間近で見るのは、春の藤原まつりの行列くらいになった。
そういえば、明治の初め東北を一人で旅したイギリス女性探検家イザベラ・バードが、
馬の旅を次のように書いていた。
―― ほんの昨日のことであったが、馬の背にゆられて旅籠に着いたとき、途中で革帯を落としたらしい。もう暗くなっていたが、その馬子は探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、「終りまで無事届けるのも当然の仕事だ」と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。
―― イトウは私の夕食のために鶏を買って来た。それを絞め料理しようと準備したとき、所有者が悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女はその鶏を育ててきたので、忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、ここは情の美しいところであると感じた。
―― 旅籠で、朝の五時までには近所の人はみな集まってきて、私が朝食をとっているとき、すべての人びとの注目の的となったばかりでなく、土間に立って梯子段から上を見あげている約四十人の人々にじろじろ見られていた。宿の主人が、立ち去ってくれ、というと、彼らは言った。
「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにして不公平で、隣人らしくもない。私たちは、二度と外国の女を見る機会もなく一生を終わるかもしれないから」
そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!
2010.3/17

河崎の柵

2018年12月11日 | 歴史の革袋


いまから千百年ほどまえに、東北の豪族の首領安倍氏が命じて、
千人の工人を動員し2万本の丸太を組んで造ったといわれる『河崎の柵』砦は、
一関市街地から東に14キロ北上川を下ったところにある。
前項の『覚鰲城』の候補地がすべて北上川西側にあったのと反対に、
東岸であるところが性格を示し、京からの攻撃進路を断つものである。
『川崎』の名が示すように、北上川と砂鉄川の分岐した舌状の沿岸台地に、
二重の柵をめぐらして守備の軍勢を配置し警備をおこたらなかったと古文書にあった。
或る日のこと、遺構がまだ残っているものか確かめようと、北上川の東岸の道を、
風景をのんびりながめつつ車を進めると、前方の路上に
大きなキジ鳥がまだらの紐のようなものを咥え跳ね踊っているのが見えた。
猛禽の狩であった。
川崎の眼と鼻の先には『薄衣』という雅びな京風の地名のところがあり、
そういえばサッカーの上手な旧友が住んでいたところである。
滔々とそばを流れる北上川に、巨大な魚が棲んで居そうな深い色を見せ、
大河は平野を流れ、あるときは峡谷を流れて静かに、
250キロといわれる流域を海に下っていく。
子供の頃に、表層の流れと深部では温度やスピードが違うので、
泳いではいけない、といわれていたが、
河口の石巻港まで多くの支流を集めて呑みこむところを見ながら、
船で下るツアーがあれば一興である。
ダンゴや日本酒やビールで日がな一日、
船べりに身を持たせて釣り糸でも垂れながら遊んでいたい。
船べりからの眺めに、川崎を通ったとき、時代の城柵が整然と眺められれば、
と惜しまれるが、歴史の変遷でいつしか木も朽ち、
古文書にわずかに名を残す古代の遺跡は、先年の発掘で掘り起こされた。
一部に擬定地として碑がたてられているのを見る。
スケール的には、北進を遮断するための支流を結んだ距離に、
二重の壕と、軍勢の突進を怯ませるような太い丸太を堀立てて塀にした柵を持ち、
背後の小山に本陣館を建てたのではなかろうか。
山から木を切って北上川や砂鉄川に筏を組んで流し、ここに集めれば、
先人の昔を偲ぶ再度の構築はいまも可能だ。
想像図は、根拠が無い。
ところで、ふらりと現れた元船長さんは、
いつも新しい客人を同伴する熱心な人である。
山形から、営業エリアを宮城に拡張する御仁は、ジャズの楽しさを休憩にして、
海産物を大窯で煮出してエキスを作る船長さんの話に頷きながら、
昼食はさてどこにするのか。
2010.2/19


まぼろしの覚鰲城跡

2018年12月10日 | 歴史の革袋


『覚鰲城』のことを聞いて、むかし高校2年のときに、
笑わない同級生がいたことを思い出した。
廊下を右肩をちょっと傾けて早足で歩く渋面の男に、
なるほど、と当方もしばらく渋い表情を真似てみたが。
にわかなものは、にわか雨だけが良いのか。
年次の学園会報の編集をして、男に部活のレポートを求めたところ、
しばらくして上がってきた原稿が『覚鰲城の研究』である。
史学部の年次研究をみると、前年は須川湖の研究で、
はじめて聞くマイナーな対象ばかり、
「趣味は洞窟や穴掘り」と言っていた意味がわかった。
クラブの担当は教師になりたての山岳家で、
いちど下宿を訪ねたことが有る。
授業の特長のある大声が隣の教室まで漏れて感心したが、
教師のひきいた20人ほどの集団が史学部であった。
今を去る千二百年前、東北の勢力平定するため多賀城の前線基地として、
紀広純が構築した城柵であるが、『覚鰲城』は所在がいまだに発見されていない。
「穴を掘ったら土器が出た」と言っていたが、いったい彼等はどこを掘ったのか?
1. 有馬川流域の有壁(北上川西側丘陵台地)
2. 宮城県登米郡中田町上沼(北上川本流)
3. 一関市赤萩磐井川北岸(北上川西側丘陵台地)
4. 平泉衣川南岸(北上川西側丘陵台地)
5. 前沢町古城明後沢(北上川西側丘陵台地)
6. 水沢市佐倉胆沢川南岸(北上川西側丘陵台地)
オーディオマニアの分布と重なるようにこれだけ候補地があるなか、
学校の近くにある赤荻の擬定地といわれるところかもしれない。
邪馬壹国のように擬定地というところがおもしろく、
三千人が集結できる古代の城柵のさまざまな条件がどうしたら満たされるか、
あれこれ思いつつまたジャズを聴く。
そのとき寒風をついて入ってきた客人は、前にもお見えになったことが有る。
ジャズとクラシックのLPをお持ちになったので、聴かせていただいた。
「若い頃、はるおさんのJBLで、ジャズの手ほどきを受けました」
もの静かに枢要な知識の片鱗をレコードに合わせてお話しくださると、
タンノイも名盤に英國の渋さを載せ、冬の午後はゆっくり過ぎていった。
2010.2/13


まぼろしの舞草刀

2018年11月24日 | 歴史の革袋


先日のこと、一関の市街地から北上川にかかる橋をわたると、
美しい円錐形に裾野を伸ばす観音山がどんどん迫ってきたが、
その山懐には、日本刀愛好者なら誰でも知っている『まぼろしの舞草刀』の発祥地がある。
それまで伝統的に定規のように真っすぐだった刀身が、
どうやら舞草刀から弓形に反りを見せて、
平安後期の動乱に攻撃的破壊力をもつ新兵器として、
設備を整えた鍛冶工房から量産されていくのである。
周囲の地形には、金の鉱山や砂鉄の川が分布している。
いったい舞草刀の実物は、だれが持っているのだろう。
実用の刀と、観賞工芸用の美品があるのか、
舞草刀として確認されたものは非常に少なく、
しかしながら、眼力のあるひとが見ると、それとわかる特徴がある。
いまだにそれは、旧家の蔵の中に人知れず眠っているのかもしれない。
里見八犬伝の刀は、鞘を払うとサッと刀身に霜が浮かんで、
先端から雫の玉がこぼれ落ちる、玉散る氷の刃だというので、
上野の博物館に、正宗の名刀というものを見に行った。
正宗は、白さやから抜かれて薄明かりに銀色に輝いていたが、
もしこれに、霜がかかって雫が落ちることがあれば、見ものだ。
タンノイの音も、ふっと霜がかかったように鳴るときがあってちょっと良いが、
ナポリで生まれたアルド・チッコリーニの、昔コンクールで一位を取った
コンチェルト1番を、たまには聴く。
2009.9/27

しない沼の秘密

2018年11月20日 | 歴史の革袋


中学の時、モノグラムのプラモデルB-17を買うために、
同級生と二人、東北本線にのんびりゆられ仙台の藤崎デパートに向かった。
なんでもあると噂に聞こえたメッカである。
途中で『しない沼』という駅名を聞いて、何年も、
大きな沼があるのだろうと思っていたのだが。
アルテックでジャズを聴く松島町の客人の家は、しない沼の近くにある旧家で、
大変気さくな元遠洋航路の船員さんである。
『バーニー・ケッセル』を聴いていると、
なんとなくのんびりした探検心が湧いてくるのが不思議だ。
―― あの、おたくのところにある『しない沼』ですが、今度見てみたいものです。
どんな沼ですか?
「ああ、その沼は干拓されて水田に変わり、いまはありません。
昔から、この巨大な沼は洪水で溢れ難儀したために、元禄時代には、
溢れる水の排水洞窟を掘る人夫達が動員されて、松島湾まで何キロか、
地下道が造られ、いまでもその元禄潜穴に降りる縦穴が残って、
子供の時には、遊び場になっていました。
トンネルを掘ったときの逸話があり、完成を祝う現場で、評判の踊り子をかこんで酒盛りの、
最中、鉄砲水で下に居た人はみんな流されてしまったという話は、ほんとうでしょうか。
沼は篤志の人によって水田干拓がおこなわれ、いま記念館があります。
ただですね、付近の人は、このような建物の顕彰を、あの老人は喜ぶはずがない、
と話していますけれど。
――ではその水田と縦穴を、いつか見に。
バーニー・ケッセルの演奏が「いそしぎ」に変わって、昔のしない沼に、
水鳥の飛ぶありさまが、タンノイのかなたに浮かんだような気がした。
2009.7/20

桜山へ

2018年11月03日 | 歴史の革袋


桜山に、中里から小学生の時遠足で登った。
頂上でフルヤキャラメルと水筒のリボンシトロンがうまかった。
柳の御所から北上川が桜に染まった山容を眺めた西行の、
平安朝の視界を、いま見ることはできない。
西行の2度目の東北の旅は、途中で鎌倉に立ち寄って頼朝と対面している。
それが本当なら互いに深い意図を隠して、相手の持つオーディオ装置の、
鳴りをたしかめたと思われる。
やがて遠路平泉の柳の御所に入った西行は、あるじ秀衡に、
頼朝の音響装置の鳴り具合を話題にして、東北の酒をくみかわしたのか。
柳の御所から見た当時の桜山は、満開に咲き誇って、
有名な歌を西行に詠まれている。
百人一首の西行をみると、なかなか闊達な日常をうかがわせるが、
数百年の後、芭蕉は、西行の道をたどってこの地に立ち、
頼朝の攻略ですでに滅んだ平泉古都を見た。
これから5月の連休に、西行と芭蕉の歌枕に立って、
のんびりと北上川に映る桜山を観光するのはすばらしい。
秀衡も、西行も、芭蕉も、メメントモリの象徴のような桜を、
現代の人とは違った感性で眺めていた。
ジェツト機の翼に点滅するランプは…
で知られる名調子の、深夜ラジオのナレーターがふたたび代わったことに気が付いた。
その気だての良さそうな声は、一点の非もない逸材であろうけれども。
だが、タンノイはタンノイであって。
ⅢLZで聴いて以来の番組が、ある日突然のナレーションの変貌に、
スピーカーのエッジが壊れたかと驚いた。
ズート・シムスとアル・コーンはYOU’D BE SO NICE TO COME HOME TOを、
ソロで交代するが、意外や両者の技倆を憶え違えていたと、気が付いた。
ユードビソゥ…はヘレンメリルの唄が女性の心をあらわしているように定着したが、
本来は男性の言いまわしとの説もあって、いったい誰の演奏が真に迫っているか、
コルトレーンなどを聴いてみたい。
2009.4/27

歌謡曲

2018年10月28日 | 歴史の革袋


ラジオから「若原一郎」の歌が流れて、ふと思い出した。
詰め襟の時代はおそるべき、
お隣のパチンコ店の軍艦マーチを363日聴いていたが、
或る日、一方のお隣の旅館に若原一郎が泊まるといい、
前日からなんとなく騒がしかった。
人口比を都会に当てはめると、
日本に現れたポール・マッカートニーかイブ・モンタンの騒ぎ。
日曜の朝、二階の窓から通りを見おろすと、すでに一台のタクシーがスタンバイして、
集まった女性たちが十重二十重に今や遅しと主役を待ちかまえている。
周囲の空気が熱く、そこに質感のリアリズムさえただよっていた。
真っ白いマスクで顔を覆ったスターが、コートを翻してタクシーに三歩で吸いこまれると、
歓声とともに大町通りの女性の人垣はうねって車を取り囲んだ。
一瞬の顔は、りりしい眉の下の眼がちょっと笑って、
かくありたいその余裕が人気の証明である。
当方は、歌謡曲では若原もよいが、
やはり上原敏の『流転』のほうを、タンノイで聴きたい。
2009.3/8