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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

海の茶室の対岸

2021年03月05日 | 歴史の革袋


海の要塞の東の湾から、対岸の丘陵にまた一つの要塞がある。
或る空の青さの透明な初夏の休みに、初めてその要塞の離れにある
持仏堂を遙拝しようと遠征した。
一関から走ること1時間。
背後から猛烈なスピードで追い上げてくる車に辟易して道を譲ると、
髪をなびかせた女がすぐ側を疾走して行った。
地図を、縦に見たり横に見て、幾つもの峠をこえ、
尾の大きいタヌキのなきがらが道端に倒れているの避けながら、
農作業帰りの老夫妻の車に、道を尋ねた。
「後を付いてきなさい」
歯の隙間を見せて頷く古老を、山を回り込んだグニャグニャの道に
追いかけたが、信じられないスピードで彼もまた疾走している。
二股の道でついに見失った。
「ああ、その家なら」
道端の婦人が、頬被りの手拭いをはずして指さした方向にしばらく走ると、
突然木洩れ陽の間から持仏堂の瓦屋根が見えた。
当主は、作業着の上からザァザァ、ホースで水をかぶっていた。
「松林の殺虫液を頭から被ったので、しばらく待っとりやンせ」
食べきれないほどの珍味がテーブルに並んでいたが、
やっとサラの半分まで減らしたところでおなかが苦しくなったのである。
当主はさきごろ、勇躍高価なマツタケの菌を買って、
「生えたのはシイタケ! 」
と痛恨事を言いながら、国定公園の崖に大量に棄てられたゴミが
御公儀に露見して、先週村の衆が総出で清掃した事に話題はうつった。
焼酎を愛呑んでいるが、本当は日本酒がいい、ですと申されて、
立ち上がると、廊下を離れのほうに向かい、文机の書類の山から、
当方の喜びそうな書き付けを広げる。
それから庭の芝生を踏んで大きな御堂の前に立つと、
そこに静かな時間が閉じ込められていた。
漆黒の仏像を、はじめて遙拝する。
膝に腕を揃えて、当主は言った。
「あの左右の襖絵でスが、模様が狭く感じる
ことは...ありませンか?作り直させたのです」
いえいえ....りっぱなものと思います。
当主はツと立ち上がると、遙拝した由緒ある持仏の傍に回り込んで当方を招き、
光背の支柱と仏像の関係が、あのように開き加減でよいのか、
どこぞで見たことはないかたずねて真剣である。
先週は、観光バスが門前に停まった、とぽつりと申される。
庭に出て、しばらく考えてみたが、昔訪ねた、湾の対岸の要塞と、
眼の前にある要塞の構造は、建物や間取りがそっくりなのは何故だろう。
当主が車で先導し、半島を回り込んで送ってくださったが、
やはり猛スピードで、アクセルを踏んでも踏んでも追いつかない。
そこで、奇妙なことに気が付いたのである。
この半島にはスピード標識がどこにも無い。
景色を楽しむのはイナカモノのすることか。
☆絵は張択端の清明上河図、部分。
2007.3/6


海の茶室

2021年03月04日 | 歴史の革袋


雛がいよいよ巣立ちをするときになって、
列車にゆられて漁村の要塞まで行ったことがある。
はじめて会う当主は、書道の筆を休め、
麦わら帽を掴むと縁側から庭に降りた。
瓶の底のようなレンズのメガネが陽にギラと反射した。
しばらくあとを歩いて、峠のけもの道のような笹藪をかきわけたところは、
眼下に海の広がる崖の上。
蔦を掴んで足場を探しながら当主は降りていく。
崖の岩場をやっとのことで後を追うと、垂直のように降りる背後に、
ドーンと打ち寄せる音が聞こえる。
当主は、紺碧の波のうねりが、すぐ足元に見える岩場に立って海を見ていた。
わずか3畳ほどの岩のくぼみに溜まった絶海の砂場である。
青い波が、眼の前を傍までうねって怖いようだが、
崖を背にぐーっとせりあがってくるリアス海岸の
大洋を見た気分は、今も言葉がつかない。
「ここは、誰も降りたことがないよ」
独特の濁声で水筒の御茶を注いでくれたから「野点て」だったのか。

四半世紀も過ぎた或る日、要塞の土蔵に秘蔵されている骨董の写真を、
遊びに来た叔母が見せてくださったことがある。
そこに写っていた『泪雫』と竹筒に書かれた1本の茶杓だけしばらく憶えていたが、
JBL4350を三重のアルミサッシ防音室で鳴らしているというお客の、
同伴のご婦人が骨董店に遊んで、遅れてROYCEに入ってこられた。
「それは『なみだ』といって、利休が切腹の時、弟子に与えたもので
徳川美術館にあるそうですよ」
怪訝な顔をすると、
「茶道の弟子たちに残した五本のうちの1本かもしれませんね」
そのとき、タンノイのジャズのかなたにドーンという波の音が、鮮やかに浮かんだ。
2007.2/6


霜後の滝へ

2020年09月09日 | 歴史の革袋


「霜後の滝を見に行きませんか」
U氏にさそわれて、いかにもふさわしい奇岩美景を想像していた。
ROYCEから車で南に25分、萩の荘に着いてみると目の前にひろがる
なんのへんてつもない野原と林で、どこに滝が?
眼が泳いだ。上流の「厳美渓」と比べるべくも無い。
立札の蘊蓄が良い。
いにしえの昔、平泉の基衡や伊達藩侯がここまで遠征陣立てし、天幕をめぐらし
しばし宴に興じたと書かれてある。
首をひねりつつ紫花の群生した道沿いに歩むと、小さな川の先が
にわかに裂け窪んで、規模は小さいが瀑布といえなくもない。
滝壺まで降りてみるとはじめて岩壁のそそり立ったスケールが実感できた。
水量の増す大雨の後を想像しながら水神の祠に手を合わせて一句詠む。
霧立ちぬ 霜後の磐を 虹の川
野守りは見ずや 君が袖振る 
いつものごもっとも本歌取り。
当方の知らない風水地形の秘密や深い謂れがあるのかもしれない。
和風アバンチュールには目立ちすぎるが、風雪を経たそうとうな歌枕である。
ラジカセでジャズは似合わず、ロリンズが滝壺でサクスを練習しました、という
いわれがあれば。
☆「霧立ちぬ」は「さ霧立つ」が万葉調で勢いがよいけれど、ただそれだけである。
☆安全ベルトの未装着でアウトになったことを牛乳社長がいまだに申されている。
当方も、深夜3時に目覚ましをかけて流星雨を見に行って献金してしまった。
誰と乗っているのか?って質問があったな。
☆流れ星が見えている間に三度唱えると願いがかなうらしい。
しし座流星雨のときには「一億、一億」と物干し台で五回も唱えるほど火柱が走ったのにはさすがに驚いた。
☆眼のふちの痣を当方は見逃さなかった。「ハイ、荷物を持ったまま、トラックの荷台から
真っ逆さま」うっかり踏み外したが、彼は客の荷物を手放せなかった。
顔から落ちで大事なメガネは飛んだが、荷物は異常なしと千両役者。 

まぼろしの宮ノ口判官堂

2020年05月20日 | 歴史の革袋


百人ほど恩師を記憶しているが、
三陸山田町にも、ついの栖を構えた御仁が居た。
当方が高校一年の時、赴任してこられ教師は『山男』で、
眉の濃い、いかつい顔に、新任のゆえか頬に赤みをさしながら、
人文地理の教科書を教卓に置いたまま、選挙の演説のように体験を話している。
高音部のトーンが、アルテック・スピーカーのフルボリュームで懐かしい。
1回だけの特別サービス授業かと思ったら、しばらく続き、隣の教室からも
壁を突き抜けてアルテックが聞こえる、生徒はドッと笑った。
ベテラン教師も、ニコニコしながら自分の授業を同時におこなっている。
2週間ほどして先生は演壇に立つと、我々にボソッと言った。
「校長さんに呼ばれて、授業の声を抑えるようにいわれたので・・・」
クマがヤブから顔を出して困ったような表情が、とても良かった。
ということは、大勢の先生方も、黙って新人の様子を眺めていたのだなぁ。
一方で、
「教師は、先輩も後輩も無い自己責任の個人商店のような職業です」
花クマ氏があるとき喫茶で、そう話すのを聞いた。
山男先生は、山岳人共通の歩行姿勢で、末広町の磐井川傍に
下宿しておられた当時、様子を見に行ったことがある。
史学部の研究テーマに、無名の「覚鰲城柵」を選び、
生徒に発掘を実地体験させたのが彼である。
部員の同級生から年次編集雑誌に載せるレポートを預かったさいに、知った。
これら私事とはいえ、山田町の入口に立ち、墓標に追悼を捧げたい。
この日は、次に
大槌川河口から直線で五キロ昇った豪華な休憩所に向かった。
室内から見える、山の偉容が素晴らしく、
一国の領主は、山と川に橋や石庭を配置して迎賓館にするのであろう。
そこからさらに川に沿って4キロ奥まったところに、かの有名な『宮ノ口判官堂』はある。
文治5年に、藤原泰衛によって平泉で討ち取られるまえに脱出した義経の伝説を、
幕末にはシーボルトまでが幕府の役人と面談し、
日本の正史として記録に残すべきである、と説得していたという。
現地の判官堂の侘び寂びのほころび具合が、おくゆかしい。
風たちぬ、をTHE WIND RISESといってはどうかと思うが、
義経北紀行によれば、
義経たちは、六角牛山を越え北に大槌に向かい、
鵜住居川上流の釜石村中村の農家に泊まっている。
その家では驚いて判官神社を建て、分家を別当職とした。
中村から鵜住居川に沿って丘の峰を東に向かった義経一行は、
室浜の法冠大神堂近くで一休みし、大槌川上流にある現在の判官堂で野宿をした。
付近の人たちは、やはりそこに「宮の口判官堂」を建てた。
義経一行は、宮の口を北上して、金沢村の金採掘現場の金売り吉次屋敷に向かった。
義経の動向についてほかにも、
越喜来の崎浜に隠し子が居た、と子供の頃、聞かされたり、
東北を縦貫する義経伝承が、金色堂のように眩しい。
多くの観光客は北上川の高館に立って遠望しながら、
そこから先の景色をまだ知らずにいるのかもしれない。
2018.11/14
判官堂は現地のトップシークレットになっているらしく、
本物の所在を悟るのは容易ではない。
平家達が籠を持って山中まで攻めてくる恐れがあるのだろうか。

大麻生野柵へ

2020年05月07日 | 歴史の革袋


河崎柵、小松柵、石坂柵、業近柵、鳥海柵、瀬原柵を見て、
今回 『大麻生野柵』に向かった。
しばらく道を分け入ると、遠くの田園とリンゴ畑に、なにやら壕のようなものがある。
土地の人に話を聞いて、部族のDNAがフラッシュするところを見たい。
「ほほう、安倍の十二柵ねェ、わたし昭和になってから住んでいますのでね。ふーん」
付近にもう一人姿がちらりと、半身で構えの人がいる。
地形がおよそ二俣の川になるところを探しているが、大麻生野柵はどこなのか。
3か所ほど、選んで散策してみたなかに、
さざれた古代の大石が50個ほど野積みになったところがあった。
どう眺めても、苔むした贅沢さがただの石ではないようだが。
傍を秋田から大原に向かう街道が通り、北上川の水運に橋が架かっている。
しかし、柵として防備の壕が頼りなく、大寺院として風水の地形がたりない。
はっと空腹に気がついて、回転寿司店に向かった。
スルッと出てきた番号札が、13番という思わせぶりの秋である。
帰路、今泉街道の北上川に架かる柵瀬橋が、いよいよ完成するらしい。
これまでの、レマーゲン橋は見納めになるが、
新橋はミラボー橋にそっくりで、束稲山と観音山が背景に美しかった。
2018.10/21
土地の人は遺跡を、安倍頼時の家臣、上麻生玄長の館跡かも、と言うが、
碩学の発掘を待って言葉を慎重である。
北上川クルーズ船で城柵跡を巡るときに、コロナの伏兵にやられるのはまずい。
船が動く頃には、特効薬も手に入れて。


瀬原の柵へ

2020年05月05日 | 歴史の革袋


50年ぶりに、目薬というものを母屋で使って、
二階から目薬とはこれかと思った。
秋の瀬原の柵に行くと、
黄色い車の御仁がドアを半分閉めて首から携帯を提げながら、
「あのへん一帯が、我々が「せわら」とよんでいるところで、
赤い柱の建物に、田村麻呂の顕彰碑があったかと思いますが、
なにぶん、人の興味はさまざまで・・・」
瀬原の柵が歴史の舞台になるのは、1051年からの戦史陸奥話記だが、
「同七日関を破り膽澤郡白鳥村に到る。大麻生野及び瀬原の二柵を攻めこれを抜く。生虜
一人を得て申して云く、度々の合戦の場に、賊師の死者数十人、所謂散位平の孝忠、金の
師通、安倍の時任、同貞行、金の依方等なり。皆これ貞任、宗任の一族にて驍勇驃悍の精
兵なりと。」
瀬原柵は、衣川が北上川にそそぐ一角に造られ、遺跡はまだ見つかっていない。
柵の機能は、河川を利用した流通と街道の警備に働いて、現在のような護岸の堤防が
無かった頃は、束稲山周囲一帯の遠望見晴らしが良かったと思われる。
藤原清衛の統治時代になり、金鉱開発で産業が勃興し、
新たな都市計画が景観を一変させ、京風の寺院建築がぞくぞくと建立されていった。
思いのほか瀬原のすぐ近くに、室の木遺跡があって驚いたが、
田園の一角に九百年そのまま庭が残されてきたのは、先人の見識というものか。
よそから勝手に観光に来て、詠嘆できるのがすばらしい。
写真図文郎氏撮影。昭和中期の瀬原風景は、メイン街道がこう通っていた。
2018.10/17
最近、そこ地震が多いから気をつけて @
「どうやって、気をつけるの ?」
火の始末とお客の誘導と、包丁を足に落さないことさ @

母禮将軍の屋敷趾へ

2020年03月22日 | 歴史の革袋


プッチーニ氏は、ラ・ボエーム作曲中のクライマックスに、
感動で涙を流しながら五線譜にペンを走らせたそうであるが、
モーツァルトは、そうゆっくりもしていられなかったか。
先日、鳥矢崎古墳を散策し、
780年『宝亀の乱』の中心人物といわれる呰麻呂氏をしのんだ。
790年には、北に20キロ進んだ北上川河畔の巣伏村で、
再び桓武天皇軍と地元豪族の大規模な戦さが始まっている。
陸中折居駅から東に5キロ進んだ北上川河畔が最大の古戦場といわれ、
遺跡を表す監視櫓のモニュメントが建てられていた。
史書に寄れば、紀の古佐美征東将軍と豪族阿の弖流為氏が、
総勢6万で戦ったいくさである。
このとき豪族軍の副将で水沢から陸前高田に抜ける物流街道を
統治していた母禮将軍の屋敷跡が、
地形が昔のまま12号線の途中に残されていると聞いて訪ねてみた。
何度か現地を走って地形をやっと理解できたが、すばらしい。
このころの地方豪族の住居跡は、掘建て柱跡の発見に期待するが、
両側の台地の窪んだ中央に古道が走っており、
かりに千人の豪族がここに集合し、高い台地上から
大音声でアテルイやモレの命令を聞くときは、
民族存亡の大事件である。
対面の傾斜地が声を反響すると、円形劇場のように反響して、
プッチーニのオペラの舞台のようだな、と思った。
一敗地にまみれた桓武天皇軍は、やがて地方人の見たことも無い、
唐の都市計画がモデルの壮麗な胆沢城柵をこの地に出現させ、文化的に圧倒する。
南に抜ける細道を登っていくと、中腹に『前野清水』という水場があり、
モレの時代からの湧水なのか、ご馳走になった。
京にても 京なつかしや ほととぎす
2018.6/4
運動会で二百人が紅白に分かれ、一斉に走り出す棒倒し。
やってみた記憶で、棒倒しは中毒になる。
宝亀の乱も巣伏の戦も、勝っているうちが花なり、散ってはまずい。
福島の客人が、連休を北に針路をとってお見えになった。



田尻町の五千年前に行く

2020年01月07日 | 歴史の革袋


遮光器土偶は、田尻駅から直線6キロの丘の桑の根元から出た。
ほぼ完全体で、東京博物館に収蔵され重文指定されている。
田尻駅前のタクシーの御仁は、
「4キロ先の恵比須田だが、まあ、ごにょごにょ」
と、簡単に行けるところではないようだ。
つぎに、道端の塀の下でたばこを吸おうとした工務員氏に聞くと、
東北の方角を指して、左、左、右だと教えてくれた。
つぎの田尻H氏に似た人が、言った。
「蕪栗沼の方だが、広いよ、とっても。鳥がいっぱいいる」
遮光器土偶は、縄文時代に造られたが、手の込んだ造形は、
職人の手仕事のようで、いまだ目的を誰もうまく答えることができない。
宇宙人だという人もいる。
そのようなものが埋まっていた場所が、5千年残っているのも不思議だが、
大昔から、蕪栗沼は渡り鳥の飛来地だったのか。
チャールズ・ミンガスは『直立猿人』を作曲したが、あれはほんとうは、
『遮光器土偶』にすべきであった。
2018.2/9
山岳師の、事故にも挫けない記録を正月テレビで見たが、
むかしお世話になっていた会社にも山岳師が居て、
あるとき顔が凍傷になって現れたので驚いた。
いつも下界と山頂の間合いを計って暮らしている。


伊達の黒箱

2019年10月13日 | 歴史の革袋


海の要塞の土蔵にあった骨董物件を、
偶然のこと数年前、写真で鑑賞する機会があった。
伊万里の大皿や利久『泪雫』のほかに、
タダコさんの生まれた越喜来の南部屋が、
江戸時代に伊達藩に千両奉加した引き出物として預けられた
『伊達の黒箱』も、話だけで現物は見なかった。
遠い記憶で、それが何か知らず忘れていたが、
仙台市史通信の27号に、大きく紹介されている伝説の、
『伊達の黒箱』の中身を、ついに見た。
パンドラの箱は空けられて、古文書が200通あまり開陳されている。
やはり、伊達騒動の記録の古文書で、いまなら誰も安心して目を通す。
先日、水筒に珈琲を淹れ『原田甲斐』氏の墓を探しに車を走らせた。
紛争の穀倉地帯の領地は、北上川を挟んでどこまでも広がって、すばらしい。
酒井雅楽頭という人物は、どのような人間なのだろう。
刈りかけし 田面の鶴や 里の秋
2017.10/20


梅ノ木田屋敷跡

2019年06月22日 | 歴史の革袋



冬の晴れ間を突いて、
道の駅パンと缶コーヒーを持ち、
骨寺遺跡まで行った。
発掘調査中の梅ノ木田屋敷跡も埋め戻されて、
標識柱とプレートが建っていた。
期待する瓦はまだ無いが、
平泉町内の遺跡と同じ柱間で数十個、
径1メートルの掘り跡ものぞかせ並んでいるという。
千年前の、秋田由理の柵や払田の柵から
須川を越えて衣川に物流すると、
梅ノ木田屋敷あたりが番所かもしれない。
時代的に、アバウトではあるが。
ジャズに詳しい御客が、お見えになった。
高校生の時、コルトレーンが来日したが、
勉強に忙しくて聴きもらしたと、
痛恨を申されている。
阿古久の 心も知らず 梅の花
2017.2/19

二階大堂のその後

2019年06月21日 | 歴史の革袋


清衡管領六郡之最初草創之。先自白河関。至于外浜。廿余ヶ日行程也。其路一町別立笠率都婆。其面図絵金色阿弥陀像。計当 国中心。於山頂上。立一基塔。又寺院中央有多宝寺。安置釈迦多宝像於左右。其中間開関路。為旅人往還之道。次釈迦堂安一百余体金容。即釈迦像也。次両界堂 両部諸尊。皆為木像。皆金色也。次二階大堂(号大長寿院)。高五丈。本尊三丈金色弥陀像。 脇士九体。同丈六也。
次金色堂。上下四壁内殿皆金色也。堂内構三壇。悉螺鈿也。阿弥陀三尊。二天。六地蔵。定朝造之。
正月、平泉に行って、
二階大堂のある北坂下から登りたかったが、閉じられていた。
鎌倉から頼朝が攻め登ったころ、
平泉の二階大堂は、まだあった。
碩学集団の発掘で場所や規模はわかったようだが、
もう一方の、頼朝が鎌倉に造った二階大堂は、
行ってみると薮地に荒れ、地名だけが残っている。
ところが最近のニュースで、基壇と池の復興まで、整備を終えたらしい。
しみじみ、鎌倉二階大堂の復元図を見て、思った。
当方の考えている二階大堂と、そうとう開きがあるが、
奈良の大仏殿も、創建の頃は違った図面が残っている。
自分のイメージを、修正する必要がありそうだ。
二階大堂の雛形は、黒沢尻の北上川傍にあった白山寺ではないかと、
碩学集団は、言っているという。
復元された二階大堂に一歩、足を踏み入れるとき、
堂内にズラリと並んでいる10体が演奏する、無限の音楽が楽しみだ。
2017.2/9
客人は、言葉少なにドリス・デイを聞きたいと申されている。
「いま、若い人々から凄い人が現れてきていますか?」
・・・・・ うさぎのハルちゃんしか、思いつかない不覚を悟った。


河崎の覚鰲城擬定地

2019年06月18日 | 歴史の革袋


「陸奥国言 欲取舟道伐撥遺賊比年甚寒其河已凍不得通船令賊来犯不已故先可塞其寇道仍須差発軍士三千人取三四月雪消雨水汎溢之時直進賊地因造覚鱉城於是下勅曰海道漸遠來犯無便山賊居近伺隙來犯遂不伐撥其勢更強宜造覚鱉城得胆沢之地両国之息無大於斯」780年2月2日紀
文献の覚鰲城は、見た人が居ず、場所もわからない。
これまで七つの候補地が挙げられ、
なかでも発掘で和同開珎が2枚出土した一関市河崎区である。
律令の官衙はモデルがあって、様式が統一されている。
この場所はいくつかの疑問のうち、誰でも考えるのは、
背後から攻められたら危ないということであろう。
しかし史実は、建築まもなく敵に攻められ破壊されたので、
存在を補強した感がある。
河崎の柵と、覚鰲城柵遺跡が二重になっている贅沢さは、
トロイの遺跡のようだ。
2017.1/21
寒さ暑さにもめげず、廊下のうさぎの食欲は
きょうもパクパクポリポリ旺盛だ。
目の色を変える好物はバナナだが、わけあって爪の垢ほど。



薄衣城

2019年06月17日 | 歴史の革袋


冬の晴れ間に 『薄衣城』を、見に行った。
薮をかき分ける所は、雑草の少ない冬にかぎる。
搦手櫓の入口に車を止め、
7分で細道を上ると、最上部はきれいに芝生が張られて、
縄張りの構造がよく理解できた。
眼下に、北上川が流れ、有名な河崎柵跡が見えている。
東の山脈のさらに遠くにぽつんと見える山は?
さっそく下界で、オッド・ジョブ氏に質問した。
「三島山ですね」と、申されるが、
その先にある室根山ではなかろうか。
薄衣城は、いっとき『まぼろしの覚べつ城』の候補になったが、
南大門を配置したり、3千人が整列するスペースがとれない。
オッド・ジョブ氏と、今回話して気がついたが、
かれはさらに誰かに似ていると思って考えたら、
イオニアの賢人『ターレス』と、そっくりである。
3重ギャザード・エッジの構造模型には、眼が点になった。
伊達藩の1番丁から、クリスマス・カードが届いた。
2016.12/22


蚊下郎日記

2019年05月28日 | 歴史の革袋


庭のスバルレ・ガシイが去って、
坪庭から薔薇が見えるようになった。
蝶やオニヤンマが飛来する。
ふと、廊下のウサギの耳の中を蚊が刺した。
蚊の羽音は300ヘルツと言われるが、
聴能力ラビットの油断である。
かっては、
サンセット77であるとか
アンタッチャブル。
ベン・ケイシーであるとか
逃亡者。
モノクロ画面にチャンネル争いをした昔があったとは。
きのうのことや、あしたのことを
ひとまずおいて、タンノイを聴く
やはりジャズは、B面の1曲目がたいがい一番である。
草いろいろ おのおの花の 手柄かな
2016.8/25
純毛ウサギは、耳をラジェターに風を取り込んで
扇風機で涼んでいる。

鳥矢埼古墳群へ

2019年05月24日 | 歴史の革袋


分け入っても 分け入っても 青い森
342号線が骨寺荘園遺跡を過ぎたころ、左折して橋を渡ると、
舗装された涼しげな道が青い森にアップダウンしている。
途中で、薮の中から白い山ユリが顔を出す。
まもなく道の別れるところにさしかかり、
青稲が植えられて周囲のぴしっと刈り込まれた田圃が、
カラバ公爵の農地のように延々と続いて、一関に回遊してゆく。
レッド・ガーランドのスローなバラードの聴こえる風景である。
また進むと、右手は栗駒山の方角で、
左手に有名な鳥矢崎古墳群がある。
1972年に学術調査した栗原市碩学団は、
2号墳墓から意外な古代の逸品、従五位下の階級バックルを発掘したという。
道奥の部族が一斉に朝廷から離反した780年5月1日「宝亀の乱」は、
京の都に激甚ショックを与え、改元と帝の退位をもたらした。
仙台多賀城柵と伊治城柵と覚鼈城柵が一斉に陥落したのは、
本日のようなのどかな天候の時であるが、いったいぜんたい。
政府転覆を企てたと、おおげさに部族代表にされた現地官僚、
伊治公呰麻呂氏従五位下は多賀城柵攻略まで加わらず、
気も済んで、さっさと隠棲したらしい。
昨日、呰麻呂の栗原市から悠揚とした紳士がお見えになった。
カミン・ホーム・ベイビーのアブダリマリクとベン・タッカーの
二丁のベースの嵌合具合を楽しんで演奏が終わると、
「フルートのハービーマンは少々記憶に有りますが、
マイルスもアガルタから入ってカインド・オブ・ブルーに行く、逆のコースを辿りました」
ハービーマンの風貌は、セニョール呰麻呂に似ているような気がする。
2016.7/24