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ロイス・タンノイ

タンノイによるホイジンガ的ジャズの考察でございます。

山ノ目馬検場擬定地

2022年01月08日 | 歴史の革袋


昔は早馬と言って緊急の通信ネットに馬が走ったほか、
気仙峠を越える婦女子も馬の背にゆられていたが、
各地の『馬検場』が消えていったのは、馬の役務が変ったからである。
子供のころ、雪で凍ったコンクリート道に荷馬車を曳いていた馬が、
眼の前でツルッと滑って、巨体がドウッ!と倒れたのを見た。
起きようと懸命に首を伸ばし、四ッ足をばたつかせる馬に、
蹄が雪にすべって馬喰のオヤジさんもねじり鉢巻きの
赤ら顔を引き攣らせて大あわてだ。
その時、近所の大人たちが示し合わせたようにどやどやと集まって、
白いブチ馬の巨体をなんとか持ち上げ引き起こすのに成功したが、
けっきょく最後は馬力よりも人力だった。
馬の活躍でもっとも過酷で勇壮なアスレチック・スポーツが輓曳競争である。
山ノ目のしばらく行ったところに、子供の目にローマのコロッセオのような場所はあった。
馬小屋で囲まれたグラウンドの中央に盛られた砂の土手に向かって、
四列に並んだ馬は役目を心得て、勢いよく馬そりを曳いて一斉に突進して行く。
周囲の勢子と人馬一体、鞭を奮って気勢を上げると、最後の土手を
必死の形相で暴れる馬に橇そりは乗り上げて脚力も限界だ。
各地の馬主や観客が千人も集まっている間近で見ると、誰もが平静を失う
怒声の飛び交う関ケ原の合戦さながらの時である。
いまそのような体躯の馬を間近で見るのは、藤原まつりの行列くらいか。
そういえば、明治の初め東北を一人で旅したイギリス女性探検家、
イザベラ・バードが、馬の旅を書いていた。
1.ほんの昨日のことであったが、馬の背にゆられて旅籠に着いたとき、
途中で革帯を落としたらしい。 もう暗くなっていたが、馬子は探しに
一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、
「終りまで無事届けるのも当然の仕事だ」と言って、
どうしてもお金を受けとらなかった。
2.イトウは私の夕食のために鶏を買って来た。それを絞め料理しようと
準備したとき、所有者が悲しげな顔をしてお金を返しに来た。
彼女はその鶏を育ててきたので、忍びない、というのである。
こんな遠い片田舎の土地で、こういうことがあろうとは。
私は直感的に、ここは情の美しいところであると感じた。
3.旅籠で、朝の五時までには近所の人はみな集まってきて、
私が朝食をとっているとき、すべての人びとの注目の的となったばかりでなく、
土間に立って梯子段から上を見あげている約四十人の人々にじろじろ見られていた。
宿の主人が、立ち去ってくれ、というと、彼らは言った。
「こんなすばらしい見世物を自分一人占めにして不公平で、隣人らしくもない。
私たちは、二度と外国の女を見る機会もなく一生を終わるかもしれないから」
そこで彼らは、そのまま居すわることができたのである!
2010.3/17
身につまされる。

河崎の柵と覚鼈城

2022年01月07日 | 歴史の革袋


『河崎の柵』の砦は、安倍氏十二柵のうち最も前線にあって、
一関市街地から東に14キロ北上川を下ったところで発掘された。
2003年に、県埋蔵文化財センターの発掘調査で見つかったのは、
幅4・5メートル、深さ1・2メートルの堀である。
北上川と、北東側の針山までの間を南北に約60メートル延びていた。
千百年ほどまえ、東北の豪族の首領が、中央政府の迫り来る圧力にそなえ、
千人の工人を動員し2万本の丸太を組んで造ったといわれる。
当方も、遺構がまだ残っているものか確かめようと、
北上川東岸の道を、風景をのんびりながめつつ車を進めると、
前方の路上に大きなキジ鳥がまだらの紐のようなものを
咥え跳ね踊っているのが見えた。
猛禽の狩であった。
川崎の眼と鼻の先には『薄衣』という雅びな京風の地名のところがあり、
そういえばサッカーの上手な旧友が住んでいたところである。
滔々と流れる北上川は、巨大な魚が棲んで居そうな深い色を見せ、
あるときは峡谷を流れて静かに250キロの流域を海に下っていく。
小学校の頃に、先生が言った。
表層の流れと深層では温度やスピードが違うので泳いではいけない。
河口の石巻港まで多くの支流を集めて呑みこむところを見ながら、
船で下るツアーがあれば一興である。
ダンゴや日本酒やビールで日がな一日、
船べりに身を持たせて釣り糸でも垂れながら遊んでいたい。
船が河崎の柵を通ったとき、時の城柵が整然と廻らされる眺めは、
歴史の変遷で木も朽ち、古文書にわずかに名を残す古代の遺跡である。
先年の発掘で掘り起こされた一部に、
擬定地として碑がたてられているのを現地で見ることが出来る。
スケール的には、北進を遮断するための支流を結んだ距離に、
山から木を切って北上川や砂鉄川に筏を組んで流し、
ここに集めれば、先人の昔を偲ぶ構築はいまも可能だ。
歴史の話題で、河崎の柵の発見に劣らないのは、
前に触れた『まぼろしの覚鼈城』の発見である。
学者の研究では、川崎の柵の下に、眠っている、という。
壮麗な都城は、758年の桃生城についで767年に、
宮城最北端に伊治城が造られると,次に北の胆沢の地が
律令政府にとって領土獲得の対象となった。
伊治城から13年遅れて780年に覚鱉城が竣工される。

ところで、ふらりと現れた元船長さんは、
いつも新しい客人を同伴する熱心な人である。
山形から、営業エリアを宮城に拡張する客人は、ジャズの楽しさを休憩にして、
海産物を大窯で煮出してエキスを作る船長さんのアイデアに頷きながら、
昼食はさてどこにしようか。
2010.2/19
おれんじぶっせ1個、かたじけなし

SS氏の毛越寺庭園

2021年10月17日 | 歴史の革袋



「どうも」と入ってきたSS氏は、店先に立って
「このワンカップ、いくらです?」
といいながら、当方の都合を尋ねている。
これまでと違う新しい写真の束を持っていた。
初めのころ、怪人か、と思ったSS氏も、
百枚ほどの作品を拝見するうちに、揺るぎない流儀の
統一されてあきらかになると、風雪を越えて
森羅万象を追い求めている時の旅人かもしれない。
さっそく見せていただいたなかに、とうとう『毛越寺庭園』が現れて、
内心でヤッタ!と思ったのは、
SS氏の対峙した毛越寺庭園をいつか見る日が来ると、
期待していたからである。
バッハの無伴奏チェロ組曲のように、最高の技倆と機材と天候が
要求されている難解な対象であることは、撮影してみるとわかる。
これまで多くの芸術家が挑戦しているが、浄土庭園という
極楽のような見た目のイメージが定着し、あくまで穏やかな
風景も、もう一方の激動の歴史が背後にある。
芭蕉はこのことを、『夏草や つわものどもが ゆめのあと』 
と言葉で撮影してみせた。
吾妻鏡によれば、この池の対岸に荘厳な寺院建築が林立し、
藤原氏は、内陣に安置する仏像のために大金を延々牛馬に積んで、
みやこの運慶集団にノミを持たせることに成功したのである。
ところが、完成間近にうわさをききつけてチラリと仏像を覗きに、
わざわざ駈けつけた都の権力者達は、見て驚いた。
このような絶品を、奥の細道の先に渡すなど、とんでもないことです。
さっそく洛中より持ちだし禁止のみことのりを発したので、
藤原氏はやむなく。
「見た目に多少、中の上でもやむをえず、よろしく」
と踏みとどまりながら、こんどは時の大納言に砂金を積んだ牛馬の列を向けて、
「大門の扁額に雄渾な一筆をお願いします」
と、『吾妻鏡』は二枚腰である。
いま毛越寺庭園は、一瞬にして消失した歴史のことなど何事も無かったように、
若いカップルの華やいだ会話や外国語の声が聞こえているようだ。
2009.11/15
仏像に、そもそも中も上もあるわけがない。

しない沼の秘密

2021年09月24日 | 歴史の革袋


中学の時、モノグラムのプラモデルB-17を買うために
同級生と二人、東北本線にのんびりゆられ仙台藤崎デパートに向かった。
なんでもあると噂に聞こえたプラモのメッカである。
途中で『しない沼』という駅名を聞いて、それから何年も、
大きな沼があるのだろうと思っていたのだが。
アルテックでジャズを聴く松島町の客人の家は、
しない沼の近くにある旧家で、気さくな遠洋航路の元船員さんである。
いま『バーニー・ケッセル』を聴いていると、
なんとなくのんびりした探検心が湧いてくるのが不思議だ。
―― おたくのところにある『しない沼』ですが、見てみたいものです。
それはどんな沼ですか?
「ああ、その沼は干拓されて水田に変わり、いまはありません。
昔から、この巨大な沼は洪水で溢れ難儀したために、
元禄時代には、溢れる水の排水洞窟を掘る人夫達が動員されて、
松島湾まで何キロか地下道が造られ、いまでもその元禄潜穴に
降りる縦穴が残って、子供の時には、遊び場になっていました。
トンネルを掘ったときの逸話で、完成を祝うトンネルの現場で、
評判の踊り子をかこんで酒盛りの最中、鉄砲水で下に居た人は
みんな流されてしまったという話は、ほんとうでしょうか。
その後、沼は篤志の人によって水田干拓がおこなわれ、
記念館があります。
ただですね、付近の人は、このような建物の顕彰を、
あの老人は喜ぶはずがない、と話していますけれど 」
――ではその水田と縦穴を、いつか見に。
バーニー・ケッセルの演奏が「いそしぎ」に変わって、
昔のしない沼に、水鳥の飛ぶありさまが、
タンノイのかなたに浮かんだような気がした。
2009.7/20

パリ祭

2021年07月15日 | 歴史の革袋


7月14日はパリ祭。
「きょうはパリ祭だ」
何年もまえに、田舎の破れ部屋で、言った男がいる。
当時の巴里は、はるかに遠い國だったが、
そのとき部屋は特別な空気が立ちこめていた。
子供の時、話を聞いていた当方、いよいよ、パリの空の下、
セーヌが流れる景色を眺めに海を渡ったが。
おのぼりさんとしては、路上のスタンドに立ち寄って、
記念になりそうな新聞を物色していると、店員が「タダで読マナイデ」と言った。
フランス語、読めない当方にむかって、かいかぶり。
『ムーラン・ルージュ』に行きたかったが、満席で、『リド』にまわった。
一番よい席は、舞台傍の食事付テーブルらしいが、
ワイン1本だけの外野スタンドに節約した。
日本の伝統芸では、歌舞伎座のようなものだろうか、
ストロボライトに踊り子がストップ・モーションする意外なショーだ。
パリ祭なら、遠くで思うものでよいかと、タンノイでイブ・モンタンを聴く。
『Windows.3.1』と格闘していた真夜中に突然電話が鳴り、
訝って受話器をとると、相手は、
「きょうはパリ祭だ」の破れ部屋の御仁から、30年ぶりの声であった。
御仁は道草のような話しのあとで、或る人物の消息を知りたいと言っているが、
中学に大町で姿を一度見て以来の伝説の人間が、電話の向こうにいる。
1メートル90はあろうかという巨人が、ジャンパーの肩を少しすぼめて、
歩いている姿を思い出すと、ついでにモーツァルト40番が聴こえる。
巨人の部屋の蓄音機で聴かされた人のハミングを、また聞きした40番。
2008.7/14
或る日、破れ部屋の御仁の著作になるという本が届いた。
深夜の電話が縁を結んだようである。




猫間が淵

2021年07月10日 | 歴史の革袋


平泉古図によれば、
大きな池が市街地に二つ横たわっていたが、今は無い。
『猫間が淵』という妙な名前に惹かれて、
或る天気の良い日に出掛けてみた。
京の七条坊に「猫間」という地名があるので、
平泉は「祇園」や「鈴沢」などの地名と同じように、
憧れの名を移した謂れがあるのだろうか。
猫間が淵は、柳の御所と伽羅の御所を隔てて、
大きなナマズのように横たわっていたが、
忘れてならないのは、当時の北上川は現在位置ではなく、
桜山の麓を流れていたらしい位置にあって、
風光明媚を楽しむというより御所の生活水に欠かせなかったと思われる。
通りかかった婦人に「猫間が淵はどこですか?」と尋ねてみた。
あいては困惑していたが、しばらく歩いてなだらかな傾斜の一帯を指し、
「この辺なんですけど...」
と、ほのかに笑った。
見たことも無いものを、たずねて申しわけありませんでした。
ほんとうに、忽然と歴史に消えた猫間が淵である。
先日、函館の某ジャズ喫茶の御二人が、わざわざROYCEにもお寄りくださった。
「八戸から遠征されたお客が、ROYCEに寄るように申されまして」
と、木下オーディオのことをご紹介くださった。
管球アンプで動作させる本格的なシステムによって、
天下無双のジャズが鳴っているのだと、ご主人の
にこやかに話される雰囲気が良かった。
このあと、隣り街の管球ビッグ・システムのジャズ喫茶『エル○ィン』を
尋ねるそうであるが、そこのマスターという人は、あるときROYCEにやってきて、
「自分のアンプ? たしかレシーバーです」
と言った人物ではなかろうか?
奉行所の人相書と、特長がよく似ていたので。
2008.6/29



桝盛

2021年07月09日 | 歴史の革袋


平泉能楽堂のある、関山北側の広場の端にレストランがあって、
湯気の立ち昇るどんぶり蕎麦をいただくと、散策の半分が終る。
おもむろに建物の裏手のベランダに廻らせてもらうと、
眼下に一幅の景観が広がり、遠く焼石峰が雪を載せて連なっている。
あの山の向こうが佐竹藩だ。
平野のあちこちに点在する家と田畑を縫って、
流れる一筋の川面の光りを『衣川』といい、古代の戦役で有名な
「衣の館は綻びにけり」の問歌、この川を対峙した軍馬が嘶き、
赤く染まった古戦場とはなかなか想像できない平安な風景である。
眼を凝らして探すのは、桝盛といって四角いフレームに垣根の樹が育ったもの
が残っていた。 
戦場に赴く鎧武者の乗った軍馬をドヤドヤと入れて、
軍団編成の単位に使ったメートル原器があったといわれている。
藤原時代の平泉の人口は15万と記録にあり、それが本当なら、
京の都にせまる都会となって傍目にも脅威でさえあるが、
一定の戦闘スタイルと軍団管理が完成しても、
あまり目立たないようによろしく繁栄していたのである。
先日、ROYCEに珍しい客人がみえて、近くに住まっているのを思い出した。
歴史書をひもとくと、鎌倉軍が平泉を占領した後、
頼朝がこの地に残していった軍団長の名前と同じであり、
おも立ちもど関東武者をしのばせたが、はたして末裔か。
壁にサインをいただくのを失念したのがおしまれる。
御仁は、『バディ・リッチ』の片手16分の連打をテープに録って、
遅廻して解析しましたが、噂どうりのテクニックです、と申されていた。
スイングかテクニックか、またストロングなバイタリティか、
タンノイは幽玄の世界にジャズをいざなって、絵巻物のシーンを広げていった。
2008.6/28


二階大堂

2021年07月08日 | 歴史の革袋


鎌倉の頼朝は1191年7月に全国から集めた28万の大軍を組んで、
いよいよ平泉に攻め登る、と『吾妻鏡』にある。
このとき平泉には、すばらしい音響を奏でる巨大伽藍装置が幾つも有った。
頼朝がとくに気に入ったのが『二階大堂』という、
黄金の大仏を入れた二階建てのユニットである。
鎌倉に戻ると、さっそく藤原三代の造った建物をオマージュして建立し、
恒久平安を願って、彼はときどき拝観に行っている。
当方が、博物館で小さく復元された模型を見ても、
二階建ての非の打ちどころのない雄大なバランスが忘れられない。
無量光院が『パラゴン』とすれば、こちらは『エレクトロボイス・パトリシアン』といってよいのか、
なまなかの思いつきで具現できる建造物ではないので、復元は遅れるかもしれない。
台座に使われた礎石が国道四号線の関山北側中腹に残っているところを見て、
いまは往時をしのぶ。
あのような傑作にふさわしい音楽といえば、ロイヤルで聴くマイルスもよいが、
ラフマニノフのピアノC二番の雄大なスケールを聴いてみたくなる。
夕刻、二人の客人がお見えになったとき、
アシュケナージとモスクワフィルをターンテーブルに載せた。
2008.6/27


金色堂

2021年07月04日 | 歴史の革袋


1124年に完成した『金色堂』は、
黄金の御堂という奇抜な姿をして、
あらゆる季節の変化に照り映え、多くの旅人を驚かせた。
いまコンクリートの覆堂におさまっているのは、
どこかROYCEの黄金のホーンの付いたタンノイに似ているけれど、
むこうは創建の頃から数十年は、むき出しの黄金堂が
風雨の中にそのまま建っていたというから素晴らしい。
時代が六百年下って、江戸時代に芭蕉の見た金色堂は、
覆堂という名の建物で外観がすっぽり包まれ、
内陣だけがありがたく観賞できている。
ドナルド・キーン氏は芭蕉の時代からさらに三百年下がって、
覆堂に訪れた時、アメリカ育ちであるのに、こんなことを言っている。
「私は日本にきてからすばらしい仏像に夢中になって、
これこそ絶対的な美だと時々感じたことがある。
広隆寺の薬師如来などがそうであった。
だが、震えるほど美に打たれ、自我を忘れて、
この世でない世界に入ったと感じたのは、
中尊寺の内陣を見た時だけである。」
金色堂の全容がはじめて姿を表したのは、
ごく最近の1965年の大修理からである。
このことは、現在の鑑賞者はトクした立場にあるようだが、
覆堂に覆われたころの見えない金色堂を見た印象でいうと、
もしかすると昔の方がすばらしかったのでは?
と、別の印象も起きて難しい。
このように金色堂には三つの姿があり、堂の本質に相違はない。
いまも芭蕉のころの覆堂は「がらんどう」になって傍に残されている。
子供の時、親の言いつける用事で中尊に行った。
ご婦人は、
「まってね」というと、
金色堂の境内の「ミズ」という韮のようなものを
いっぱい採って持たせてくださった。
たまにコルトレーンの黄金のサキソフォーンの音色を聴いて、思い出す。
2008.6/24

天空の回廊

2021年07月04日 | 歴史の革袋


路を車は勢いよく昇って行くと、
瞬く間に視界は空の中にあって、
遠く下界に桜山が見えた。
噂によれば、毛越寺庭園と金色堂を結ぶ最短の間道は、
山を分け入って、誰一人通らない細道が舗装されてあるときいて、
長いこと探していた空の道である。
フィレンツェのポンテ・ヴェッキオ橋のヴァザーリの秘密回廊のように、
仕掛けの隠れた古都は霞がたなびいている。
春に遠征して、途中に造られた東屋で珈琲にサンドイッチを摘んでいると、
山裾の東北高速道を静かに流れて行く車の列が見える。
秋には海苔のおにぎりと沢庵に御茶でカセットのエヴァンスを鳴らし、
運転を人に任せてビールや新酒をゆっくり楽しんだ。
ついでにパーカーのキャップを廻して、白い紙に瞑想を二.三行ならべたら、
気分は一瞬サンテグジュペリかバルザックとなったのがもうしわけない。
2008.6/22
藤井少年が、きょう将棋9段になってしまった。
雨にちまたのアジサイが綺麗だ。
2021.7/3

誰が風を見たでしょう、と。

2021年06月24日 | 歴史の革袋


毛越寺庭園の独鈷水の一部が「遣り水」となって、
ゆっくり常行堂の傍らを流れ大泉池にそそいでいる。
その湖畔の、誰でも知っている可憐な枝垂れ桜は、見えなくなった。
或る写真展で、柳のような枝先の強風に舞踊っている先端が、
青い空を背景にした『風』という組写真になったものを見た。
それが、しばらく心にかかっていたのは、そうまでして永遠に残したかった枝といえば、
奥の細道広しといえども、あの場所に立つ枝垂れ桜ではないか。
そこからすこし離れると、一体の石仏が永遠の時間を佇んでいるのが見える。
あるとき「太陽」という雑誌に、夏草茂る庭園を背景にした石仏
が写っていたので、心に止まった。
夏休みに浄土庭園を訪れ、写真と同じシーンをファインダーに覗いたが、
なにかがおかしい。
撮影の時だけ、石仏は百八十度廻れ右させられたと知り、
石になったのちも働かされる気の抜けない立場だが、
体力や気力もなければ、あそこまで人は撮れるものではない。
ところで、すでに評価の定まったはずのコルトレーンのこと、
なるべく聴かないでいれば新鮮な発見もあるこの世界である。
いつのことか某寺島氏と申される人物がROYCEに現れたとき、
当方はぜひ碩学の感性の一端を伺えればと、コルトレーンに針を載せた。
すると、お付きの人が飛んで見えて、
「どうか、それだけは...」
生まれて初めて貴重な体験をしたのである。
某寺島氏を見ると、頭を抱え地蔵様のように廻れ右
しているジャズ的姿があった。
1961年の11月2日と3日にライブ録音された「ヴィレッジ・ヴァンガードのコルトレーン」は、
二枚のLPを持って、どちらのカッティングが良いか、ドルフィーが
バスクラリネットで「ブブィ~」とアンサンブルはじめる
あたりから気を取られるので、完遂できないでいる。
タンノイはすばらしい。
2008.6/20

at Basin Street

2021年06月23日 | 歴史の革袋


小学生の頃、特別史跡『毛越寺』の拝観料に、
石ころの多い街道を手のひらに握ってきた20円を置いた。
だだっ広い庭園の先にぽつんと建っている、
破れかけた宝蔵庫の縁台に近寄ると、
鍬を持った老人が野良仕事の帰りに、
煙りを鼻から噴いて休んでいた。
麦藁帽の下の窪んだ眼には、大泉池が映っている。
「あの先の、国道を造ったとき、掘り返した土の中から
鳥の形をした大変な物が見つかったのじゃ」
見知らぬ老人の物語る思い出が子供に何の事かわからなかったが、
このころニューヨクでは、クリフォード・ブラウンとマックスローチの五重奏団によって
『WHAT IS THIS THING CALLED LOVE』などが吹き込まれていた。
毛越寺と称される区角について、地元の人は知っていることだが、
平安期のころ回廊の付いた伽藍建築が3面も豪華に並ぶ威容が
辺りを払って賑々しいところである。
パリに倣えばシャンゼリゼか、
南大門は凱旋門、
北上川はセーヌ川、
伽羅の御所はルーブル宮、
柳の御所はヴェルサイユ宮、
中尊寺はモンマルトル、
柵の瀬橋はミラボー橋
といった比肩が、外国人にはわかりやすい。
なぜ『奥の細道』に毛越寺の記述がないのか疑問に思っていたが、
芭蕉が訪れたころ、大泉が池のある浄土庭園は葦の生えた草原に放置されて、
情趣を見いだせなかったからなのか。
あと一句のために、もったいないことであった。
いずれ往時の建築がすべて復元され甍を並べることがあれば、
現在の平泉の風景は、だいぶ趣のかわったものになる。
浄土庭園をこのままの景色で楽しんでいたいと思う、
そうとう浮世離れしている平安期の傑作である。
テレビ画面、震度6の表示が2か所に繋がって、ぬあんとこれは驚いた、
あいだに挟まれている空白表示が当方の場所である。
2008.6/14

金賞蔵

2021年06月20日 | 歴史の革袋


つね日ごろ、いろいろのアルコールを飾棚に、
囲まれて漠然と生きている。
或る日の昔、昼食後の油断を突いて、
「こんちは」
とやってきた花泉町の営業人は言った。
「これが清酒鑑評会で全国金賞をとった清酒です」
へえへーっ、金賞のそれを、どうやって造ったの?
尋ねたが、いまひとつ話がむずかしい。
「これでその現場を撮ってきて」
ポラロイドカメラを渡して、むりやり頼んだ。
戻ってきた写真に、緑色のタンクが静かに写っていたので、
初めて見る御物に感激した。
「超特選純米大吟醸」というそうだ。
あれからだいぶ月日もたって、ことしは、
地元の多数の蔵が金的を射止めたと聞かされ、
タンノイの奥のマイルスも興奮。
その時、久々に水戸のタンノイ氏が登場されて、
地元の室内楽団のことなど解説してくださった。
水戸芸術舘の吉田秀和氏のことや、小澤征爾氏の話をうかがって、
タンノイ・ロイヤルで弦楽演奏を聴いてみた。
「管球マニアの制作発表会があり、アルテック銀箱でそれが大変良い音で、
自分もカミ様の御認可を得てWE300Bのアンプを、
早くオート・グラフに繋いでみたいものです」
シングルとプッシュプルの音楽表現の差について、本当のところはどうなのか、
そのときの会では聴き漏らしてしまわれたそうである。
金賞蔵のタンクが、プッシュプルで映っているのが興味深い。
2008.5/31

荘園遺跡の2

2021年03月14日 | 歴史の革袋


「神代より 斯くにあるらし 古昔も」
と歌われた万葉の風景を、本寺荘園遺跡に訪ねてみることの続き。
磐井川の傍らの道を、どこまでも標高を上げて行くので、
しだいに空気も景色も澄んでハンドルを忘れる。
このとき難しいのは車のスピードのことである。
この道に許されるスピードは50キロであるが、なんとなく
『ルマン24H』のコースをしのばせるところがモノ騒ぎである。
ホネデラ24時間レースがいつか開催され世界遺産を横目に、
スポーツカーが驀進する日が来るのかもしれない。
路の途中で、立ち寄るべきところのひとつに
アイスクリームの店と蕎麦の店がある。
美味しいモノで無口になった人々をそっと見ると、
満足げに瞑想し、タンノイを聴いているときと、どこか似ている。
遺跡を俯瞰するには駒形根神社に登るよう教わったが、
そこで、不思議なアザミの花を見た。
自生したものか特別に植えられたものか、探索してみたが
鳥居の周囲に2株だけ、その色の見事なアザミは大きく育っていた。
これまでで最高のアザミの色である。
鳥居の石段の右手に小さな鐘楼がある。
梵鐘は大きくはないが、形が観世音寺の
7世紀の鐘と似ているような気がする。
おそれおおいが、小さく突いてみた。
予想外に良い音であった。
そういえばROYCEにおみえになった人から聞いた話で、
ミジンコ博士も最近ここを訪れて、
「お、いいねー」
と申されたと。
2007.6/22


骨寺荘園遺跡

2021年03月14日 | 歴史の革袋


『荘園』という千年もむかしの営農遺跡が磐井川の
上流に発見されたと聞いて、太古の昔を訪ねてみた。
ROYCEの傍の磐井川を10キロ遡るとそこは厳美溪で、
KO氏のウエスタンWE-16Aホーンがある。
また、空跳ぶダンゴで有名な某居宅には大変な装置が鎮座している
噂があるが、当方は依然として拝聴していない。
厳美溪からさらに上流に7キロ遡ったところに山谷仙人がおり、
ゴトウホーンやバイタボックスが美麗な音響であたりをはらっている。
山谷からさらに3キロ上流に本寺HONDERAというところがあり、
古い文献に骨寺と書かれて目的のところである。
『骨寺村荘園遺跡』は、「吾妻鏡」にある中尊寺ゆかりの別当の所有と、
古図の分析をした碩学の証明で、川や道、田園が太古の絵図のまま残っている。
希有の存在であるそうで、いったいどこにあるのだろう。
さんざん車を走らせてのどが渇き、自動販売機のボタンを押したとき、
渋いガラス戸をにゅっと開けた男が
「駒形根神社に登れば見える」
と教えてくださった。
県道を北東に入ると、急に異次元の空間が開けて駒形根神社は有り、
石段のそばのパネルに、世界遺産の登録候補の図解があった。
神社に登って、お賽銭をと箱を探したがそれらしいものはなく、
木戸の隙間に挟んだら、ほかにもいくつかお賽銭がそのままになっていた。
杉の木に絡んだ藤の花がみごとで、ビルの四階ほどの高さまで咲いている。
朽ちかけた鐘楼の傍らから見た、谷あいに広がる田園風景は忘れ難いものである。
現在生活されている人にとって、庭先まで車で踏み込まれるのは迷惑なことで、
何台も車が連なるようになるとき、いずれ侵入禁止となるであろう。
山懐に抱かれるように千年ものあいだ変わらず耕作されてきた風景は、
見る者に、ふしぎな安らぎと感慨を憶えさせ、倦きることがなかった。
2007.6/1