ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

NO7 入社時は全女の10周年

2009年03月29日 06時33分16秒 | ROSSY's HISTORY
 1978年8月、全女は創立10周年を迎えた。そう、私が入社した年は旗揚げ以来、10年が経過した記念すべき年だったわけだ。この記念大会は8月9日、日本武道館において開催された。その前日には、ホテル・ニュー目黒において全国各地のプロモーターを集め、10周年パーティが行われたのだ。当時、全女は全国の地域別にプロモーターを置いていた。覚えている限りの名前を挙げると、北海道は堀氏、東北は岡田劇場の菅原氏、関東は三沢芸能の三沢氏、大和プロダクションの阿部氏、四国は小松氏、九州は大石プロの大石氏といった具合に、プロモーターが重ならないような形式を取っていた。
 東北の岡田劇場は、IWAジャパンの浅野起洲社長がその昔、修行していた所だ。四国の小松氏は、力道山時代の名物リングアナだった人。大和プロダクションの阿部氏は、あの阿部四郎のことだ。いろいろなプロモーターが存在し、全女の興行を買っていたわけになる。また、興行そのものは買わないが、手伝いをする準プロモーターというべき人達も大勢いた。この手伝いというのは、主に野外興行をやるための場所を探すのが大きな目的で、興行は全女の自主興行となる。体育館が無くても、そこに空き地があれば、全女はどんな市でも街でも出掛けていった。パーティでは、特製の記念時計がプロモーターに進呈された。この時計の5分刻みの数字の部分には、プロレスの技のイラストが描かれていた。おそらく、限定20個位の製作なため今、持っている人が居ればかなりプレミアムなのだ。 
 創立10周年大会は日本武道館で開催されたが、WWWA世界シングル(ジャッキー佐藤VS池下ユミ)、WWWA世界タッグ(ゴールデン・ペアVSクイーン・エンジェルス)、オール・パシフィック(チャべラ・ロメロVSマキ上田)の3試合のみ、という大胆な興行だった。この日のために海外武者修行中のクイーン・エンジェルスを凱旋帰国させ、WWWA世界タッグに挑戦させる。クイーンのトミー青山&ルーシー加山は、ロスからメキシコに渡り第2の都市、グアダラハラに生活の拠点を置き、試合を重ねていた。トミー青山のリングネームは、本名の冨高のトミから取り、青山は松永兄弟が青山で飲んでる際に思いついたというのだ。ルーシー加山は、本名の漆原からウルシ…ルーシーとこじつけ、加山は松永国松さんのレフェリー・ネームから拝借した。この二人とは年齢が近いせいもあり、私にとっては親近感があり、帰国は楽しみな限りだったのだ。ジャッキーVS池下は、60分時間切れ引き分け。ジャッキーにとっては、前年11月のマキ戦に続いてのフルタイムマッチとなった。
 松永兄弟はプロモーターよりも、TV局のプロデューサーやディレクターを大事にしていた。まるで、腫れ物に触るように、至れり尽くせり。地方でTV撮りをしては、ゴルフ三昧。プロモーターは、営業本部長の高橋三男さんが親身になって面倒をみていたのだ。高橋さんは気風も良く、親分肌の人。日曜日になると、よく渋谷の場外馬券を買いに行かされた。「外れ馬券を集めると、換金してもらえる」と言われたから、私はせっせと外れ馬券を拾ったものだ。これは、何も分からない私を騙すジョークでもあった。時々、馬券を買わないで飲んでしまったりして、小遣いを稼いだ。入社1年目は、わりと呑気なままに過ごしたように見えるが、新入社員はそれなりに奮闘したのだ。(つづく)


▲10周年大会で凱旋帰国したクイーン・エンジェルスと。写真は渡米の日のもの。

▲ファンクラブ・イベントの会場で。弱冠21歳の夏。

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