rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

幸せの構図、フェルナン・レジェ”余暇”

2012-03-25 00:55:59 | アート

余暇

真っ青な空の下、健康そうな家族の散歩の途中の一コマといった絵。
20世紀前半活躍した、フランスの画家フェルナン・レジェの代表作”余暇”。
世界第二次大戦が終結してまだ日も浅い頃の1948年あたりの作品だが、暗い時代が終わったことで人々の希望に満ち溢れる様を描き出しているようだ。

レジェに初めて出会ったのは、小学1年の頃か、国立西洋美術館に展示されていた「メロンを持つ人」だった。
大きな画面に単純化された形と色で描かれたもので、漫画のような印象で、軽いショックを受けた。
その絵の前には、アカデミックなヴァン・ダイクの肖像画や印象派の明るく光に満ちた風景画などを見ていたので、極端にデフォルメされた子供ながらにふざけているように見えた絵が同列に飾られていたから、驚きと混乱があった。
しかし、不快感はまったく受けず、むしろ楽しそうで、絵が笑っているかに思えたのだ。
以来、レジェは、自分にとって幸福感を得られる絵の代表格になった。

今回、レジェの絵を採り上げたのには、今の気持ちの反動がある。
幸福に輝く未来を想像しにくいこと、人々のもちろん自分も、毎日一回は心の底から笑うことが難しいと思えるから。
だから、レジェの幸せそうな絵を観たくなったのだ。

何もレジェが、まったくの能天気だったわけではないだろう。
第一次世界大戦に従軍した経歴もある。
それでも、まだ、人と機械・科学技術の蜜月を、信じることができた時代だった。

当時よりずっと進んだテクノロジーと、仲良く歩んでいるのか人類。
使うはずの人の心の成熟度は、ほとんど進まない実情で、歪があらゆるところに蓄積され、噴出している。
幸せって、なんだろう。

時には、絵に描いた幸せを観て、心を癒そう。
健康な体、家族、笑顔、青い空。
”余暇”を過ごせる幸せの構図だ。

静かな、あまりにも静かな一日

2012-03-22 23:20:23 | 随想たち
天気予報では、昼あたりからぐんと気温が上がるはずだった。
しかし、灰色雲越しの薄日射すひんやりとした一日になった。
風すらそよとも吹かず、こんなに静まり返った日は、いつ以来だろうか?

彼岸の最中、今日も義母方のお墓参りに行く。
この先50年たっても変わることがないだろうと思われる景色の中を、自動車は進む。
お墓にお線香を供え、このお墓に血の縁ある人々の平安を祈った。

それから、少しだけドライブを兼ねて、自動車を走らせる。
もし、この景色が変わるとすれば、家の形が時々の流行になり、跡継ぎの絶えた廃屋が荒れた庭とともに佇んでいるのだろうと夢想した。
ある集落の神仏混合に祭ってあるお寺に寄ってみた。
江戸時代にいくつかあったお寺と神社を合祀したのだと、石碑に印されている。
境内には、遅れた梅の花が満開となり芳しい香りを控えめに漂わせ、ゲートボールの興じるお年寄りの方々の溌剌とした声が響き渡る。
お墓参りの人たちもちらほらみえた。
時が止まったかのような空間。

家の庭では、ねこがいつもと違う様子で枯れ芝の上に丸くうずくまっていた。
「にゃぁ」と声をかけても、応答がない。
幾度か繰り返して、やっと返ってきた。
具合でも悪いのか、それとも内側に篭っていたいのか。
いつものように寄ってこなく、庭をうろうろ家事のようで行き来するワタシが仕事に切りをつけ家に入るときになって、ようやくのたりのたりとエサをねだってきた。

動くものは、家の住人と、上空を横切る旅客機のみ。
木々も鳥達も、風もなにもかも、今日は静まり返っている。
ぽかりと異空間に落ち込んだような、不思議な感覚。

珍しい、静かな、あまりにも静かな一日だった。

それぞれの「フランダースの犬」

2012-03-20 23:41:01 | 映画
アニメ「フランダースの犬」の再放送を、某テレビ局でしている。
今、物語はクライマックスにはいったところ。
小さい人がこのアニメを見ているのだが、夕食時に重なり、家人と中くらいの人と自分は、どうも食事が咽喉を通りにくく感じてしまう。
だから、画面が視界に入らないよううつむいて食事をした。

自分が小学生に上がる頃、母が本を買ってきて読み聞かせしてくれたのが、この物語との出会い。
毎日寝る前に数ページずつ読んでもらった。
貧しくともひたむきに生きるネロ少年を、心から応援し、幸せになれるよう願って話を聞いていた。
ルーベンスの祭壇画、アントワープ、白黒の絵・・・幼い子供心に、特別な物として刻み込みながら。
その当時使っていたコーヒーカップの絵柄が、木々の生い茂る小川のほとりにある水車小屋だったか、銅版画のタッチで描かれ、それを拠りどころに物語の風景を想像して聞いていた。

それから数年後に、テレビアニメとして「フランダースの犬」が放映されたとき、話の筋を知りながらも毎週欠かさず見たものだ。
まだ、子供だったのだ。
今の小さい人と変わることなく、ただ楽しく見ていただけ。
でも、今は、辛すぎてとても見てはいられない。
ネロは、いつの世でも世界中に存在すると思うから。

人は、貧困や飢えなどだけで死ぬわけではない。
生きる希望が消え失せたときに、死ぬこともあるのだ。
生きようとする気力を削がれることは、自らの命を諦めるに等しい。

自分を振り返っても、それは考えすぎなのだが、子供に見せたい物語・アニメではない「フランダースの犬」。
何でも、アメリカでは、この物語の悲惨な結末は子供向きではないとして変更したと聞く。
そうまでしなくともいい、進んで見せるものではないだけだ。

夕食が終わり、すぐさま後片付けに台所へ向かった。
小さい人が続けて見ていたところ、耐え切れなくなった中くらいの人にチャンネルを変えられたと、報告にやって来た。
さて、どうしたものか。
ただの物語として見ている小さい人の気持ちも分かるが、中くらいの人の気持ちも分かる。
夕食の団欒のひと時を、理不尽な悲しみ色にしたくない気持ちが勝って、中くらいの人をあえて咎めないと小さい人に告げた。
小さい人は・・・今の時点では、それを理解できないだろうと思うけれども。


”記憶のタグ”青春の切なさとあいまって、エヴリシング・バット・ザ・ガール

2012-03-20 00:22:12 | 音楽たちーいろいろ
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Tender Blue

夢を追いかけながら、人生経験にと飛び込んだ職場でかかっていたBGMで知った、エヴリシング・バット・ザ・ガール。
そして、はじめてCDを買ったアルバムでもある”エデン Eden"。
それに収録されている”Tender Blue"は、希望と不安で毎日が輝いていた、甘酸っぱく切ない青春に添えられた曲だ。

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Driving

”ランゲージ・オブ・ライフ The Language of Life' ”は、本気で夢に歩き始めた頃によく聴いていたアルバム。
シャーデーとデヴィッド・シルヴィアン、この三者の曲とともに聴き込んだ、記憶に深く刷り込まれた曲たち。
今もこれらの曲を聴くたびに、鮮やかに蘇る当時の様子と未来に湧き立つ心。
輝いていた日々。

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Missing

彼らの音楽から疎遠になっていた時期に発売されたアルバム”アンプリファイド・ハート Amplified Heart”。
たぶん、自身の不安定さが、きらきらしたときの思い出を髣髴させる彼らの曲を聴くに耐えられなかったからだ。

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night and day

ヴォーカルのトレイシー・ソーン初期のソロアルバム”A Distant Shore ”に収められている。
彼女の声は、ボサ・ノバにぴったりだ。
クールな歌声は、また違ったボサ・ノバを楽しませてくれる。

こうして、Everything But The Girl の曲をざっと振り返ってみて、やっぱり胸の辺りがきゅんとする。
音楽は不思議なものだ、巧妙に人生に絡んでいる。
前にも何度か書いているが、”記憶のタグ”として重要な役割を担っているのだな。

怒らない日本人が、唯一瞬間爆発するもの

2012-03-19 00:56:08 | つぶやき&ぼやき
何が起こっても、辛抱強く耐え忍ぶ日本人。
というか、わが身に直接日常的に降りかかる災厄として、一番危惧しているもの、それは”食”。
これは、いたるところに密に埋められている、まさに地雷。
BSE問題による肉牛、中国の毒入り餃子、食品偽造問題などが、記憶に新しいだろう。
たしかに、生命・健康に密接にかかわることなだけに、市民の関心は高い。

しかし、それだけが我々を脅かす問題ではないのだ。
末期症状を迎えている病巣は、ちょっと見渡しただけでも山と転がっている。
少子高齢化と人口減少、それに伴う税金・年金・保険の問題、産業構造の歪化、累積赤字国債の肥大化、雇用問題、ありすぎて枚挙しきれない。
また、大震災による復興のあり方、原発今後、放射能汚染問題も新たに加わり、既存の問題と複雑に絡み合い、事態を一層深刻化させている。

今日、NHKのETV特集「生き残った日本人へ-髙村薫 復興を問う-」を見た。
簡単に言い切れない重い問いが我々にのしかかっていると、高村薫氏は言う。
未来を見据え、理性を持って考えなくてはないらない。
今まで築き上げた繁栄と、その成功体験によった、実情と乖離した政策論争に明け暮れていては、何にもならず、真の復興に導けないと。
国民全てが、価値観を新たにし、それによって失わなくてはならないものへの痛みに耐える覚悟が、迫られているとも。
何を失うかの、その当事者の立場に立てば、どれだけの痛みに耐えなければならないのか、想像に余りあるけれども。

理性を保つことは、至極難しい。
わが身に起こる災厄によって、いとも簡単に理性は吹き飛んでしまう。
だから、特に日本人において目立つのは、”食”の安全性に関することで、あっという間に関心と怒りは頂点に達する。

でも、そうとばかり限らないことを、今目撃している。
本当のところは、厚いベールに包まれてなんともいえないが、”情”に訴えかけ、頻繁に広報することで、この”食の安全性”に対する疑念と不信を押さえ込んでいることだ。
諦めて納得している者ばかりではないだろうに。

あの震災で変わったであろう価値観が、はっきり意識化されるのに長い時間がかかると言う高村薫氏。
生きている人の生活は、日々続く。
10年とかのんびり待ってはいられない。
既に、1年が経過した。
万全の策などありえるはずはない。
10年20年100年先を見据えた、より良い未来を築くための地に足をつけたヴィジョンを打ち立て、旗を掲げるものよいでよ。
改革には苦痛を伴うと、先ごろの政治家はよく口にするが、自分とその周りの者の保身を確保しての方便に使われてきたから、要注意。
市民は、よく曇りない眼を見開き、私利私欲を捨てて、いまこそ未来を明るいものにする覚悟と努力を負わなければならないだろう。
”食”だけではなく、その真っ当な怒りを爆発させるのだ。