1901(明治34)年、鹿児島県の北方・熊本県との県境にある現在の伊佐市に生まれた海音寺潮五郎は昭和の歴史文学の巨人である。上杉謙信の半生を描いた小説『天と地と』や『平将門』、ライフワークの『西郷隆盛』、評論『武将列伝』などの名著に加えて、司馬遼太郎を発見したことでも知られる。「もし路傍の私に、氏が声をかけてくださらなかったら、作家になっていなかったであろう」と司馬は語っている。
「ほんとの勇気とは日常の場合に、迫害や死を恐れず、自分の信念を吐露し得る気力でしょう」とは,その司馬と海音寺の対談の中の発言である。日本人はいざ戦争となると勇敢な人間がずいぶんいるが、平時には少しも勇敢ではない。この「ほんとの勇気」があったなら、米国との戦争は避けることができただろう、と海音寺五郎はいう。「ある国に生まれたという運命ゆえにその国を愛し、立派にするよう努力しなければならない」と説く彼故の苦言でもあり提言でもある。
1901(明治34)年11月, 海音寺は明治中期以後衰退した史伝文学の復興を目指し,多くの史伝文学を手がけた昭和の歴史文学の巨人である。代表作に上杉謙信の半生を描いた小説『天と地と』や『平将門』、ライフワークの『西郷隆盛』、評論『武将列伝』などがある。
また海音寺潮五郎は,親しく面倒を見ていた後輩の中から,3人の優秀な弟子を育てた。寺内大吉,胡桃沢耕史,そして司馬遼太郎の3人である。わけても司馬遼太郎を発見したことでも知られる。「もし路傍の私に、氏が声をかけてくださらなかったら、作家になっていなかったであろう」と司馬はつづっている。
海音寺は直木賞の選考委員(第39回~第63回)をつとめた。委員を辞任するまで,全ての選考委員会に出席し,選評を書いている。特に第42回の受賞者となった司馬遼太郎を非常に高く評価し,受賞に導いている。
▼直木賞選考のエピソード
司馬遼太郎の『梟の城』が直木賞候補になった時には,海音寺も含めて多くの選考委員がこの作品を推した。だがそこに立ちはだかったのが当時の大御所・吉川英治であった。一人だけ司馬の受賞に反対だった。海音寺が吉川の説得にかかる。 「吉川先生,この人はね,先生とむしろよく似た素質を持った天才だと思いますよ」(『司馬遼太郎からの手紙 』,317ページ,週刊朝日編集部編,朝日文庫より)・・・。こうして何とか吉川を説き伏せ,司馬の受賞にこぎ着けた。
▼関連ブログ
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