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魔法が解けたそのあとで

結婚、出産、育児、介護、お仕事。来た球を打ち返す、毎日のつれづれをつづりました。

季節巡って

2016-11-02 21:27:00 | 日々のこと

こんばんは。

めっきり冷え込んできましたね!

急に気温が下がって、身体がびっくりしてるみたいです。

冷えからか、頭痛や腹痛になっている人も周りに多くて。

私は靴下を二枚履きして、首元はハイネックにしていったせいか、頭痛になりそうな痛みがあったのですがセーフでした!

数年前から五本指靴下一枚と日常で履いている靴下の二枚履きを始めて、朝夕熱い白湯を飲むようにしたからか、つらい冷えが解消されてきたような気がします。

そして、今年はあたたかいこたつの下に敷くラグを購入し、こたつとみかんもセットし、ホカホカになりました。

娘も「こたつ出してよかったね~!」とゴロゴロ。

わたしは娘のことを叱ることも多いのですが、やっぱり娘には甘くて、娘が「欲しい」と言えば手に入れるように頑張ってしまう。

「ママ、わたしのために、ありがとう」

という娘の笑顔を見たくて。

たまにADHDとアスペルガーの傾向があると診断された娘を育てる大変さに、本当につらくなってしまうこともあるのですが、やはり娘は可愛い。

娘と眠る前に必ず

「りおはママの宝物」「ママはりおの宝物」

と娘のいうところの「あいことば」を言うのです。

娘は本当にいろいろな言葉を覚えてきて、驚かされます。

4月に入学して、教室で授業中にふらふらと席を立っていたり、授業に参加せず椅子に反って座っていたりしたころとは格段に成長して、先日の参観日ではたくさん手を挙げて発言していました。

揉めていたお友達とも仲良くできるようになり、その子が「りおちゃんと仲良くなれて良かった」と言いに来てくれた時は、涙が出てしまいました。

こどもはずっとこどもではないのだな、と思います。

どんどん、成長していく。光の方に。

わたしも、成長したい。死ぬまで、成長したい。より良い方に。

今、いろいろなものを処分して、暮らしやすいようにうちを整えています。

ものを減らして整理して、いらないものは譲って、なにかいちいち探すストレスから解放されたくて。

うちに帰ってきて、居心地の良い一番の場所にしたくて。

小学校の頃からうちにあったカリモクのソファ。

さすがにへたってしまって、ついに処分したのですが、ここでこどもたちはよくごろんと横になって眠っていました。

そういうソファも欲しいなと思います。

母と父が選んだソファは、本当に雲の上に寝転んだようにふわふわで、わたしは日記に書いていました。

母がいなくなるまで家族に寄り添ってくれたソファ。

そんなソファが欲しくて。

家族の思い出となるようなものが欲しくて。

ずっと、娘を支えてくれる思い出になるような家具が。

今、いろいろ考えているところです。

 

わたしと娘が、住んでいたところから逃げてきた季節が巡ってきました。

寒かったはずなのに、なぜかあまり憶えていないのです。

ただ、片手にトランク、片手に娘の手を引いて、ホームから見える自分のうちだった部屋の窓を見上げ、駅のホームから電車に乗った時の、ほっとした気持ち、新幹線に乗って姉に連絡した時のああ、もう大丈夫だ、という気持ち。

それだけが強く心に残っています。

今、生活している中で、体調を崩した時

「38度の熱が出たのに歩いて自分で病院に行って、午後からパパの友達夫婦が家に来る接待を解熱剤飲んでやったなあ」

とか、コープのカニのトマトクリームソースでパスタを作っていた時に、

「仕事から帰ったらパパがこれで作ってくれていたけど、二人前のパスタに一人前のソースしかかけてくれなくて、うすいパスタを食べたなあ」

とか(わたしが作って夫に出すときはもちろん一人一人前のソースで出していて、どんなものか分かっているはずなのです)、床暖房をつけたら嫌な顔されたこととか、いろいろふっと思い出すんですよ。

「あたたかい」

って幸せなことなんだなあ、と思います。

寒かったら暖かくできて、それって豊かな事なんだなあって。

お金のことは不安だし、有り余ってるわけではないですが、自分のやりくりでなんとかできる。

気兼ねすることなく、娘と笑いあって暮らせる。

帰ってきて、自分の機嫌で怒鳴るひともいない。

元夫との思い出は、良いことももちろんありました。

だからこそ、八年も一緒にいたのです。

でも、今から思うと、りおが生まれて一ヵ月たったくらいのあの時、授乳しているりおをわたしの腕から取り上げて自室に籠り、「お前は悪い母親だから、この子は実家で育てる」などと言って火が付いたように泣く赤ちゃんを返さなかったあの時に、警察を呼ぶと言ったらやっと出てきて土下座してきたあの時に、「この人は普通じゃない」と感じたあの時に、離れていればよかった、とは思います。

そうしたら、娘も怒鳴られて大きくなることもなかったし、夫婦で諍う姿を見せなくてよかったのに。

後悔します、でももうリカバーするしかないです。

 

「民衆の歌」ってご存知ですか?

最近、この曲が聴きたくて。音楽ってすごく聴きたくなる歌があるんです、時々。

ミュージカル「レ・ミゼラブル」のなかの革命を起こそうとする民衆たちが歌う歌なんですが、とても力が湧いてくる歌詞をメロディーなのです。

この歌以外に「オン・マイ・オウン」という歌があるのですが、叶わぬ恋を歌った日本語の歌詞に

「あの人 わたしをいらない」

というところを聴いた途端に、涙が溢れてしまいました。

わたしは、26の時に夫になった人と出会い、恋は叶わなかった。捨てられた。

「あの人は、わたしをいらない」

そうはっきり感じて、ひとりで泣いたことがたくさんあった。

でも、それから8年たって、彼から連絡がきて、結婚することになった。

どんなに、わたしが幸せだったか。その瞬間、わたしは「世界一幸せだ」と感じたこともあったのだ。

 

元夫は、わたしのことはいらなかったんだな、と今、思います。

自分のことを愛してくれなくなった女、自分の役に立たなくなった女。

 

わたしは彼を愛していたのだろうか?

誰よりも、世界を引き換えにしてもあの人が欲しかった。

そういう時もあったのです。頭がおかしいほど、同じフロアに彼がいることが、探さなくてもわかったほど、彼が好きだった。

でも。

なにが、そんなに好きだったんでしょうか。

彼に会ったことで、わたしは仕事も変えたし住むところも変えた。

彼はわたしの運命を大きく変えた人ではあります。

彼に会わなかったらどうなっていたんだろうか。

そう考えることがあります。

今も結婚してなくて、仕事していたかもしれない。

そして娘には会えなかった。

そう考えると、彼と出会わなかったら、という選択肢はわたしの前から消えてしまうのです。

 

今、やっとわたしは離婚して、元夫と離れ、自分の人生を自分の手に取り戻した気がします。

脳梗塞をやったせいか、最近いやなことはどんどん忘れていくのです。

強い感情も、どんどん忘れていくのです。

いやだな、と思ったことも、ま、いいやに変わるサイクルが短くなってる。

でもそれがいやでなく、むしろとても生きやすくなって、元夫にされたことも、以前のように強い感情で思い出すのではなく、「あんなことがあっていやだったなあ~」というくらいなのです。

「もう過ぎたこと」

わたしには人を恨んだり憎んだりするエネルギーが残ってないというか。

娘と笑って毎日を過ごしていくことに使いたい。

わたし、ひょっとして今まで一番幸せなのかもしれません。

 

 

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秋深まり

2016-10-27 21:13:20 | 日々のこと

こんばんは。

お久しぶりです。

暑い夏もようやく終わりましたね。

わたしにとっては、母を亡くしてからちょうど一年。

母がいなくなった季節がめぐり、いろいろなことをふっと思い出してつらくなる夏でした。

病院に続く坂道、病室の窓から見えた花火、壁にとまっていた蝉、ストレッチャーで地下に運ばれていく母の姿。

それは家族みんなが感じたことで、それぞれにつらい想いを持って、じりじりと過ぎた一年でした。

そしてようやく、父が納骨すると決め、夏に親族と一緒に母をお墓に納めました。

母を偲ぶ会を母の故郷で行い、そのあと実家に行き、みなで母をおくりました。

母の骨壺をお墓に納めようとしたその時、いつも慎重な姉が、骨壺の蓋を落としてしまったのです。

蓋は割れてしまいました。

ふと

「母はこの墓に入りたくないのかな」

などと思ってしまいました。

母にとっては全く血縁のない人ばかりのお墓。

わたしも、以前義両親が墓を購入して

「リツコさんもここに入るのよ」

と言われたとき、ぞっとしたことを思い出しました。

私にとって他人ばかりの墓に、死んでからも一緒に入る…

その時はそんなに義理両親とは不仲ではなかったのですが、もやっとしたことを憶えています。

あー別れて良かった!

最期に抵抗するなんて、母らしいな…なんて思いながら、新しい骨壺に納めて納骨しました。

それから父は、お寺を通るときは必ずお墓に寄っているそうです。

「今までお墓に寄ろうなんて思わなかったのにな」

と笑う父。

一ヵ月に10日はこちらのマンションに来ているのですが、ロクなものも食べてないんでしょう、人とも話していないのでしょう、なんだか口を無意識に動かして舌打ちみたいにするようになってしまいました。

こちらで話していると、だんだん減ってくるのですが。

咳は、漢方薬が三か月たち、徐々に効いてきたのか、息切れしなくなってきたそうです。

咳き込むことも減って、楽になったかな…と思いますが、食事中必ず一回はむせこむことがあり、誤嚥しやすくなっているんだろうなと思います。

冬になれば、半年ちかくはこちらにいることになるので、今からやきもきしています。

 

去年の冬のはじめ、私と娘は逃げてきました。

その季節が巡ってきます。

あの寒い土地での冬の始まり、自転車に乗ってあたたかな日差しのなかを幼稚園に急いでいた道、

制服を着た小さな娘の手を引いて歩いていた肌寒い朝、娘のお稽古に急ぐ車内の匂い、

いろいろなことがフラッシュバックします。

どうしようもなく、感情に流されそうになることがあります。

でも、今こうしていられて、本当に良かった。幸せだ、と思います。

 

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長い階段をのぼり 生きる日々は続いていく

2016-06-26 15:29:43 | 日々のこと

こんにちは。

先日、小沢健二さんのライブに行ってきました。

お台場に行くのもえらい久しぶり、チケットが取れたものの、行けるのかな・・・と心配でしたが、幸い同行者が見つかり、無事に行ってこられました。

2000年になる前に、姿を現さなくなっていた小沢さんは、2010年にオペラシティで、2012年にツアー、4年後の今年、またツアーを開催しました。

2012年の「ひふみよ」ツアーのCDが発売され、その頃、母の病気が分かり、私はこのCDをずっと聴いてました。

20年前に聴いていた彼の曲のなかの「強い気持ち強い愛」を泣きながら何度聴いたことか。

社会人になってから、同じ会社の同僚が「LIFE」を貸してくれ、どはまりしたわけですが、それからずっと彼の音楽はわたしのなかにありました。

貸してくれた彼女はフリッパーズのライブにも行っていて、大いにわたしを羨ましがらせたわけですが、彼女もこのツアーを観たでしょうか。

20年、わたしを支え続けてくれた歌が、それを作った人の口から歌われる。

テレビでしか観たことがなかったその人は、40代後半になってもその姿は変わらず、お父さんになっていました。

髪をかき上げるしぐさ、ほっそい白い腕、はにかむ笑顔、上目使い、たまに外れる音。

人って変わらないんだなあ、と思いました。

新曲はすごく文学的で、これこそ歌詞を反芻しながら何度も考えたいもの。はやく音源化をのぞみます。

「それはちょっと」を、結婚し、息子をもうけた彼が歌っているのは感慨深かったです。

そして分かったのが

「わたしはわがままだから!」(離婚したんだ)

ってこと。そう、わたしはわがままだから。(元夫に言わせると)だから結婚に向いてなかったんだって思いました。

嫁でなくて、パートナーとして結婚した。ひとりの、自分の足で立ってる人と思い、結婚した。

「両性の同意があったから」結婚した。だけど「結婚」はそれだけではなく、それ以上のものをわたしに差し出せと言ってきた。

(正確には元夫とその家族が)

でもわたしは「わがままだから」。無理でした!って唐突に思って歌った。

「わがままだから~!」

そう、死ぬまでわたしはわがままだから。

彼の口から「僕はずっとひとりで生きるのかと思ってたよ」と聞くのは感無量でしたね。

人は変わるんだ。

彼はとても生きるのが楽そうだったし、楽しそうだったし、幸せそうだった。

良かった、と思いました。

長い階段をのぼり生きる日々は続くし、大きく深い河を渡らなきゃならないし、涙がこぼれてはずっと頬を伝うだろうし、冷たく強い風はこれからも吹き付けるだろうし。

それでも生きていく。

 

その日にSNSで知り合った方に、病気になったことを話していて、つくづく「幸いだったな」と思いました。

入院した時に「あーライブどうしよう、行けるのかな」って思ったことを思い出しました。

でもこうして来られた。

そしてまたもしかしたら再発することもあるかもな、と思いました。

わたしの脳の中で裂けた血管が、また同じところが裂けないとも限らないし、もしくは違う細い血管が裂けるかもしれない。

そんなこと言っていたらもーなんにもできないよ、とも思いますが、脳梗塞になったから、わたしは娘の学資保険もかけられなくなってしまったわけです。

それは治ったとはいえ、まったく今までなったことのない人と、一度血管裂けてしまった人では保険会社も感じるリスクは違うだろうな、と思うのです。

まあそういうことがまたないかもしれないし、あるかもしれない。

だからこそ、彼のライブに行きたかった。

ここまでわたしの支えだった彼の生の歌声を聴いてみたかったし見てみたかった。

・・・いやー、歌詞とか、すごい憶えているもんですね。彼が間違ったところも分かったし笑

素晴らしかったです。

そして、これからは、会いたい人には会っておこう、行きたいところには行っておこう、「いつでも会える、いつでも行ける」はわたしには少ない確率になってしまったから。

 

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こおろぎが鳴いている

2015-09-29 20:12:36 | 日々のこと

お久しぶりです。

3月からずいぶん間があいてしまい、申し訳ありませんでした。

4月から、国家資格取得を目指して、専門学校に通っています。

職業訓練の一環で、公費負担、雇用保険もいただけるという制度を利用しています。

それに際しても夫の反対があったのですが、頑張って通って、試験も満点がほとんど、という成績でした。

でも夫の暴力がまた6月にあり、本当に今回はもう駄目、と思いました。

そんなどん底の中、先月、母が亡くなりました。

一年三ヶ月前に血液のガンと判明した母が、5月の連休後に痛みをうったえ、入院して抗がん剤治療をしたのですが、同じ抗がん剤をうっても効かず、らちが明かないので東北の大学病院から都内の病院に転院させてから二週間足らずで、あっという間に亡くなりました。

病室での苦しそうな母、看護しているわたしや家族、バイタルチェックのモニター(よくドラマで臨終の際にピーって鳴るやつ)、息を引き取った母、医師や看護師に見送られて霊安室に向かう自分の脚。

そういった一連の出来事が、まるで「お母さんが死んだ夢を見たよ」っていう、長い長い夢を見ているようです。

たしかに棺のなかに入った母を、火葬場の扉のなかに見送ったのに。

まだ信じられないんです。

今も。

毒母であったけれど、何かあった時に駆けつけ、助けてくれたのは、夫でも、夫の家族でもなく、母だった。

その母の死に際しても、夫や夫の親からはお香典も、お花もありませんでした。

そして、ひと夏、自分の家族と過ごして、「わたしの場所はここだ」とわかりました。

もう別居します。

取り急ぎ。

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春遠からじ

2015-03-01 16:25:35 | 日々のこと

大分春めいてきましたね

受験生もそろそろ進路が決まって、出会いと別れの春が近づいてきました。

今日は夫と娘が義理実家に行っているので、久々にPCを開けました。

先日、うつのことを上司に言ったら「採用時は心身ともに健康である、ということで採用したのだから、

今通院しているということはそうではない状態。このまま雇用できるかわからないので上に聞いてみる。

もし・・・だったら継続はお断りする、ということで」と言われたよ!

だから今、仕事を捜してます

いろいろ頑張ってきたけど、残念だなあ・・・と思いますが、大きく落ち込んだりはしないようになりました。

いろいろなことがあった冬。

わたしのなかでやっと「うつ」状態がなくなって、「なにもしたくない」という気持ちがなくなり、元気になってきました。

夫とも言い合いをする元気がでてきて

でも夫は「昨日は悪かったね」と言う様になった

心療内科の先生に言ったときも

「旦那さん、ずいぶん変わりましたね」

って

で、わたしが「何でそんなに変わったの?」って聞いたら夫が「前からそうだったよ?」とか言う、という話をしたら

「え・・・前は違いましたよね?」

ってそうだよねえ?

で、「マッサン」の話。

成長した養子のエマが、好きな人ができてそれに母のエリーが反対し、読めない日本語で書かれたエマの日記を読むのです。

そこにエマが帰ってきて激怒

マッサンも「日記を読むのは良くない」と言い、エリーも謝るのです。そして自身の初恋を語る・・・という最近のシーン。

わたしは、「母親が子供の日記を読む」ということが、そんなに謝ることだと思わなかったんです。

それは、「母がわたしの日記を読む人」だったから。

隠しても、隠しても読まれてた。それについて怒ってもお構いなし。

母にとってわたしは「自分から生まれた自分のもの」。実際そう言われたこともありますからねえ~

四十路の娘の髪型や服装まで文句つけてきますからね、今でも。

で、この「日記を読む」ということ。

わたしがこのブログの過去ログを非公開にしていますが、この訳が、夫がこのブログを見た、ということだったんですね。

どこまで読んだかわかりませんが、このブログは結婚前から書いているものなので、夫が知らないことがたっくさんあったと思うんです。

どうも結婚前のところまで読んだのかな・・・。

と思われることもあり。

結婚前のことはあまり話していないし、彼は知らなくても良いことだと思うので、これ以上読まれるのはいやなので、ブログの名前も変えて、ログも非公開にしました。

夫はわたしの「日記も読んだ」と言ってましたが、ブログもどう捜して読んだのかわかりませんが、読んだのでした。

「人の日記を読む」ってのは、良くないことですね。

それはお医者さんにも「そんなことしていいんですか?」と指摘されました。

わたしは母がそういう人だったのだあまり感じませんでしたが、夫のしたことは良くないことです。

ブログは公開しているもので、夫が読むことも仕方ないことだと思いました。

「なんであんなこと書いてるの?」

と言われましたが、わたしは昔からものに書くことでいろんな思考を整理する人間なのです。書くことによって消化、昇華する、というか。

だから書くことはやめられない。

これはわたしのずっとむかしからの記録だから。

さて、夫が変わった理由。

それはこのブログを読んだこともあるのではないかな、と思います。

推測でしかありませんが。

自分がしてきたことを、客観的に読めた。

わたしが夫に対する気持ち、結婚前からの気持ちと、結婚してからの気持ち。

わたしが夫に対して感じたこと、考えていたこと。

それを知ったのかな、と。

今は読んでいないと思います。

おいおい、過去記事も公開したいと思います。

皆様も、良い春を迎えられますように

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世界が変わる

2015-01-25 13:30:34 | 日々のこと

こんにちは。

ISISに捕われていた2人の方の消息について、昨夜遅くに報道がありました。

私はツィッターを見ていて知りました。

遠い国での出来事だったのが、突然隣にやってきた、というか。

世界が変わってしまった気がしました。

70年続いた平和が、いよいよ終わりになるかもしれないな、と感じます。

私には5歳の子供がいるのですが、この子を無事に大きく育てるために、今までとは違う注意を払って行こうと思います。

どうか、後藤さんは生きて帰ってきてほしいと祈っています。


先週、亡くなった21歳の猫のお葬式に、行ってきました。

弟夫婦のうちに、新幹線を乗り継いで着いたのは、お葬式の2時間前でした。

和室に、ふかふかなクッションの上に横たわっている猫を見ました。

周りにはお花やご飯の缶詰などが供えられていて、弟夫婦、特に奥さんの優しい気遣いに感謝しました。

私が持ってきたお花をそえて、猫を撫でた時、冷たくて、固くて、ああ、死んでしまったのだ!と事実を突きつけられ、涙が溢れました。

それから子供たちが再会してにぎやかに遊ぶ声を聴きながら、最後のお別れをさせてもらいました。

綺麗なピンク色だったお花と肉球は、少し色褪せていた。

丸い頭は冷たくなっていたけれど、首の後ろの毛はふさふさで、ああ、変わらない、と嬉しくなった。

閉じられた瞳が少し見えた。緑の瞳はもう開く事がない。

触ると怒るので触れなかった、真っ直ぐなシマシマの尻尾。

横たわっているのであまり触れないが、白い胸毛。

肉球は、生涯家猫であったので、すべすべのままでした。

いつまで触っていても、飽きる事なく、この綺麗な猫が、もう失われてしまうのか、と思うと涙が止まらず。

ごめんね、ごめんね、ありがとうね。

生きているうちに、最期のお別れをしたかった。

でもこうして来られてよかった。

うつが悪化するかも、と危惧したけれど、実際見ずにいる方が良くなかったと思う。

わたしが拾った小さな命。ここに終わった。

ずっと一緒にいて、守ってくれた。小さな身体で。

ありがとう、ありがとう、と繰り返した。

弟が万事手配してくれていて、みなで一緒に車に乗って、斎場へ向かった。

途中、少し迷ったら弟が

「ルカちゃん、まだ一緒にいたいのかもね」

と言った。

風の強い、青い空だった。

「天国ってどこにあるの?」

「空のずっと上の方だよ」

「今日は風が強いから、ルカちゃん流されてっちゃいそうだよね。」

「どうやって天国に行くの?」

「タタタター!って走っていったんだよ」

子供たちはタタター!と繰り返して笑った。

そう、気の優しい猫だった。外に出たら、5匹の猫に囲まれて、弟に助けを求めて鳴いていた。

斎場に着いて、綺麗に飾られた。一通りの仕来りが終わり、最期に撫でて、お別れをした。

娘がぽろぽろと大粒の涙を流していた。

いよいよお別れの時が来て、扉の向こうに消えた。

1時間ほど待っているときに、猫と人間の年齢対比表を見たら、20歳以上の猫は

「国宝級」

とあり、本当に長く生きてくれたんだな、と思った。

真っ白なお骨になった猫。

頭に黒い部分があり、もしかしたら麻痺が出たのは、何か悪い物が頭にあったのかもな、と思った。

食べなくなって1週間ほど、寝付いたのもわずかな期間だった。

急に悪くなって、あっという間に逝ってしまった。

あんなに元気だったのに、なぜ?という悔いが、今回お弔いに参加した事で腑に落ちた気がする。

心の整理が少し出来た。

小さな骨壺になって、猫は帰ってきた。受け取った弟の涙が止まらなかった。

一番長くいた、弟。深夜に帰宅した弟につきあってくれたのは、猫だった。

「ただいま」

と声をかけて、ああ、もういないんだな、と思った。

ずっと声をかけ続けた生活が、終わったのだな、と。

それから、弟夫婦と猫のことを語り合った。

元気だった頃から、最期の様子を聴かせてもらって良かった。

最期の治療や、お弔い、というのは、つくづくあとにのこされた人たちが悔いなく悲しみを日常に慣らして行くためのものなんだな、と思う。

今回の事をお友達に話したら、

「動物って、病気やけがを代わりに持って行ってくれるって聞くよ」

と言われたんだけど、今回のことは、両親が避寒にくるために猫の環境を変えてしまった事、それに当たるかと思った。

両親の寿命を伸ばした事が、猫の寿命を縮めてしまったのだろう。

そして、11月末に私が1週間、猫と一緒にぬくぬくと過ごしたことで、わたしの病いも癒してくれた。

優しく、美しい猫だった。

いろいろな想いはあるが、小さな猫に支えてもらった私たち家族。

ひとつの歴史が、彼とともに終わった。

そして、猫がいない世界が始まった。

わたしが泣いていると、娘が気遣って言ってくれる。

「天国で、また会えるよ」

さようなら。また会おうね。




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虹の橋を渡る

2015-01-16 10:54:09 | 日々のこと

お久しぶりです。

訳あって、しばらくブログの公開を制限していました。

またほとぼりが冷めたら、理由を書いていきたいと思います。

阪神淡路大震災から明日で20年という節目の年を迎えるにあたって、テレビなどでしきりに神戸の映像が流れていますね。

わたしは、大学生だった20年前に被災しました。

そのあとに東京に就職が決まっていたので、神戸の街は卒業式に出た時に見た光景で止まっています。

10年くらい、地震が起きた時刻になると目が覚めていましたが、もう大丈夫だろう、と思っても、ふいにテレビでその映像が流れると、「観たくない!」という気持ちで胸がきゅっとなります。

「あさイチ」で、一人娘を亡くした男性が

「(災害で)人生変えられるとは思っていなかった。」

とおっしゃっていました。わたしは身内を亡くしたわけでも、家が倒壊したわけでもないですが、本当に地震はわたしさえも変えました。

遭わなくても良いものに遭ってしまった人、見なくても良いものを見てしまった人、というのは、もうあとには戻れないんですね。

そうでない人もいるかもしれない。

でも、確実になにかを変えてしまうもの、そのひとつが災害だと思います。

さて、今日はわたしが震災の前の年に拾った猫のことを書いておきたいと思ってアップしています。

わたしが大学生で、就職活動をしていた1994年5月に、家の近所で茶トラの猫を拾いました。

鼻水と目やにでカピカピになっていた顔をした小さな猫は、それから21年、家族として支え、慰めてくれました。

わたしは猫が喜んでいるとき、ゴロゴロ喉を鳴らすのを初めて知りました。

震災の時も、一緒に体育館に避難しました。ぶるぶる震え、毛布から出てきませんでした。

飲まず食わずでやっと落ち着いたのは、母の実家に避難してからでした。

それから猫は、関西から東北、埼玉の弟家族のうちに落ち着いて、毎日寝てばかりの生活だと聞いていました。

弟夫婦に赤ちゃんが生まれてからも、猫は一度も手を出したりすることなく、見守ってくれました。

しかし避寒にくる両親のために、弟家族が引っ越したのはペット禁止のマンションで、やむ終えなく置いていってお世話だけはしていたのですが、その間にわたしが1週間行った時は、朝方に鳴いて、撫でてやってだんだん横になり、一緒に寝て過ごしました。

元気で、ご飯も少なくてもちゃんと食べていました。

その後、両親が来て、年末、わたしに母から

「猫がご飯も食べなくなって、夜も鳴いていて介護猫になった。うるさくて休めない。

拾ったのはお前だから、お前が引き取れ」

という連絡が来ました。

その後、スープ状のご飯に代えたら、また食べるようになったのですが、この大晦日にフェイスタイムで見た猫の片目が、瞬膜が出たままになってしまっていました。

びっくりしたわたしが病院に連れて行ったか聞くと行ってない、もう寿命だから病院に行ってもお金がかかるし、とのこと。

その後、わたしは不安定なのでお正月もどこも行かずに過ごしたのですが、猫がうるさいという理由で、弟夫婦が引き取りました。

そして一昨日猫のことを聞いたら「近日中に亡くなると思います」とやせ細った画像が弟から送られてきました。

わたしはびっくりして、なぜ?こんなになってしまったの?と信じられない思いで、ツイッターで「危篤の猫がこの水を飲んだら持ち直した」ということを知り、その水を送る手配をしました。

そして昨日、その旨をメールしたら、弟の奥さんから着信があり、なぜか携帯が固まり、出られませんでした。

かけ直したら、猫が午後に亡くなったと。

いよいよとなったので、弟が半休を取り、可愛がってくれた弟の奥さんが仕事から帰宅したすぐあとに、吐血してそのあと亡くなったと。

突然すぎて、なんとも言えませんでした。

弟家族に看取られたことは、本当に有難かったです。

送ってもらった画像は、静かに横たわっていました。

ピンクだった肉球や鼻も、少しうすい色になって、うすく、小さくなったその姿を見たときに、涙が止まらなくなりました。

今も、泣き過ぎて頭が痛いです。

白い胸の毛に顔をうずめて慰めてもらった、ざらざらの舌で涙を舐めてもらった、ピンクの肉球は、お日様の匂いがした。

ぴんと立った尻尾、緑の瞳。甘えた声。

いきなり、弟夫婦がいなくなって、どんなにか寂しく、不安だったことだろう。

両親の寿命は永らえたかもしれないが、猫の命を縮めてしまったのかもしれない。

寿命とはいえ、血を吐いて亡くなったということは、どこか悪くなっていたのかもしれない。

そしたら病院に連れて行ったら、新しい環境で大好きな弟家族と一緒に、もう少し穏やかに暮らせたかもしれない。

仕方がなかったとはいえ、人間でいえば100歳を超える高齢である猫の環境を変えてしまった事が悔やまれてならない。

この涙は後悔の涙。

まさかあんなに元気だったのにという油断から、できるだけのことをしなかったという悔い。

最期だと思ってお別れしてこなかった悔い。

もう抱っこして、撫でてあげられない悔い。

さみしい思い、不安な思いをさせてしまったのではないかという悔い。

もの言わぬ動物は、だからこそちゃんと人がみてやらなくてはいけないのだ。

彼らからあたえてもらった愛情は、返せないくらい大きい。

犬猫ではない、家族だった。

目やにを綺麗にしてくれた獣医さんが驚くほど、可愛い猫だった。

綺麗になった猫をみて、飼うのを反対していた家族が手のひら返すくらい、美しい猫だった。

真っ白だった腹毛は、一度も汚れることなく、臆病なので、逃げ出すこともなく、家猫で生涯を通した。

うちには、もうひとり、猫がいました。その猫は、両親が遠出する時に連れて行った車から、窓を開けて逃げてしまい、見つからないままです。ずいぶん捜しましたが、もう10年になります。

きっとその子が待っていてくれると思います。

天国の手前に、虹の橋があるといいます。その橋のたもとには、かつて愛された動物たちが飼い主たちを待っていて、生涯を終えた飼い主は、動物たちと一緒にその橋を渡っていく、といいます。

ふたりは、そこで会えたでしょうか。待っていてくれるでしょうか。

 

わたしたちきょうだいが、一緒に暮らしていた時代から家族だった動物は、この猫で最後となりました。

猫のたまらない可愛さ、どちらかというと人間が猫のお世話をさせていただく、という感じである猫との生活。

毛玉を知ってしまったわたしは、毛玉をとても懐かしく感じます。

でも、きっともう動物を飼うことはないでしょう。

わたしが拾った命でしたが、天に返すことはできませんでした。

ごめんね。

たくさんもらったよ、小さい身体で今まで支えてくれて、本当にありがとう。

わたしたちはあなたがいてくれた21年間、幸せだったよ。

あなたは幸せだったかな。

さようなら、ルカちゃん。

本当にありがとう。ゆっくり、休んでね。

 

 

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鳥啼き 魚の目に泪

2014-06-08 11:23:49 | 日々のこと

こんにちは、お久しぶりです

春も過ぎて、初夏の陽気、と思ったら梅雨入りしましたね

その季節の移り変わりに、いろいろなことが起きました。

26人の応募者のなかから採用された、9時から16時、週4日、時給も高め、の仕事ですが、7月で辞めることにしました。

いろいろな理由があるのですが、パワハラがすごくなってそれとコンプライアンスに疑問があったのですが、それもひどくなって。

持病の腸の病気が悪化してしまったり

「このままここにいたら、自分のせいにされてしまうかも

ということがあって。思い切って辞めることにしました。今度は自宅の近くで就活してます。

夫も2年ぶりに異動があり、今度はさらに過酷な部署、しかも残業代でないっていうところに、ついに落とされまして

生活は大変になってしまって、気持ちは落ちますが同僚に話したら、

「あー、身体壊す前に辞めた方がいいですよ」

と、さらっと言われました。

それより本当にショックなことがありました。

今年の桜を、こんな気持ちで見たことはなかった。

忘れられない春になりました。

春から初夏の5月。

5月の連休は、大分長くお休みだったので、東北の実家に行きました。

昨年夏以来の実家。

今回は姉弟3人そろって行きました。

それには、訳がありました。

母が、去年の夏くらいから身体の調子がどうも良くない、といろいろな検査を受けていたのですが、

「原因が分かった」

と連絡がきたのが4月の半ば。

「血液の病気になった」

と曖昧な報告で、え?なに?白血病?白血病だったら治るよね?って聞くと「そうじゃない」と。

精密検査をこれから受けて、結果が出るから、それから、という母は、はっきり教えてくれませんでした。

今思うと、母もこわかったんでしょう。

私も、もう頭のなかがぐるぐるしながら、母の話の断片からネットで検索しまくり、おそらくこれだろう、という病名を見つけました。

それは

「根治ができない」

「最後はかなり苦痛を伴う」

という病気でした。

そして原因が

「染色体異常、遺伝、放射線」

ということで、頭を殴られたような気がしました。

福島の隣県の実家に住む両親。

父は去年の春から急速に持病が悪化し、漢方薬を飲むようになって寛解してきた。

原発事故以後も、父は庭で畑をやって、その野菜をずっと食べてる。

因果関係は分かりません。

でも、その病気に使う薬の輸入量が、過去最大になったと4月のニュースにありました。

母は、治らない血液のがんにかかってしまったのです。

 

がん、っていやですね。言葉だけでも禍々しい気持ちがする。

切除すれば治る、というものではなく、血液を作る大元の骨髄がおかされているのだから、骨髄移植しかないんですが、母は70手前。

若い人なら移植に耐えうるのでしょうが、この年齢ではまずしないそうです。

 

分かったときは

「母が死んでしまう」

という気持ちが押し寄せてきて。怖い、いやだ、どうしたらいいの?母が何をしたの?

そればかりで。

母からの手紙、母に買ってもらったもの、母が作って送ってくれたもの、そういうものが目に入る度に、

「もう母はいなくなってしまう、すべて失われてしまう」

という気持ちが押し寄せてきて、涙が止まりませんでした。

今は、母に会いましたし、大分時も立ったので、涙があふれて止まらないということはありませんが。

 

母に

「この病気だよね?」

と聞くと

「さすがリツコ、よく分かったね」

とかえってきました。

ああ、そうなんだ。

判明してから平均余命3年。でも薬が効けば、5年以上生きた人もいる。

でも、母は日本人女性の平均寿命まで生きることはないんだ。

 

5月の連休、姉弟そろって実家に帰りました。

娘たちも連れて行ったので、ばたばたしてましたが、夜、母と話しました。

母は、元気でした

陽気で、元気で、自分勝手で、気まぐれな、いつもの母でした。

でもすぐ疲れてしまうらしく、よく横になってました。

家事はほとんど父がやっているようでした。

姉と私で片付けや掃除、食事とフル回転し、弟は子供たちを遊ばせ、運転手。

父も少し休めたようで、昼寝してたりしました。

母が言うには

「結果が分かってから、お父さん全然昼寝なんてしなくてね。気が張ってたのかもね」

と。

母はステージ1、まだ自覚症状もあまり目立ってなく、病気に顕著な症状である痛みなどもない。

でも血液の数値は悪化しているので、これを良くするため、薬を投与する入院をする。

この時点で、両親は「治るんじゃないか」という気持ちがあったようです。

そして入院が5月末で終わり、数値は改善が見られたそうで、今は外来で通院しています。

母からの電話で

「抗がん剤」

という言葉が出て、私は、ああ、と思いました。

やっぱり、がんなんだな。お母さん、がんになっちゃったんだな、と。

母の家系ではがんで亡くなった人はいないのです。だから、がんになるなら父かと思ってました。

でも、母は血液のがんになった。

そして

「すごく稀に寛解っていって、治る人がいる。私、そうかもしれないってお医者さんが言ってる」

って言うのです。

でも、寛解、というのは、がんが見られなくなる状態で、完治とは違うのです。

わたしの持病でも、寛解と増悪という、良くなる時期と悪くなる時期がある、それを繰り返すので、完治はしないのです。

でも母は信じている。

私も、母が寛解すると信じたい。

母は入院したら痩せちゃった、と言ってました。

「がん細胞って栄養を食べるから、そんなに栄養あるもの食べられないんだよね。

だから痩せちゃった。」

 

今年の夏は、母のそばにいたい。

母が、いつまで動けるか分からない。

それもあって、仕事を辞めることにしました。

今の仕事は、絶対にそこは私がやらないと困る、という時期が月に何回かあるのです。

ハローワークに後任の求人が出たのですが、20人を超える応募があり、ハローワークの担当者も「もう閉め切ったらどうですか」と。

条件がすごく良い仕事でした。

去年の夏に雇っていただいて、光が見えました。

でもここにいても先はないです。ずっと勤めたから正社員になるということもありませんし、責任は重くなって行く。

母のことがあれば、責任ある仕事には就けない。

でも働かなきゃ交通費も出ない。

ジレンマです。

でも、とにかく今年の夏は、娘と一緒に母のそばにいたい。

どのくらい思い出を作れるか。

もう、母に残された時間は限られているのですから。

 

 

 

 

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ソチの冬、のち春。

2014-03-15 11:22:03 | 日々のこと

こんにちは

「ごちそうさん」、泰助が帰ってきて、本当によかった・・・。

それにしても、戦争中も今も、国は助けてはくれないってことがよく分かった今日のごちです。

いまだに13万人の人が避難している状態。健康被害がこれからどんどん出てきたとしても・・・多分水俣みたいな

ことになるんだろうな・・・と予想できますが。

ごちでの戦争中、家を焼かれ、夫や子供を奪われ、こんな悲惨なことが過去にあったのかと信じられないほどの戦争。

それをまた繰り返したい人もいるのか・・・と信じられない思いですが、さて、これから日本はどうなるんでしょうかね。

そして、いきなり着の身着のままで自宅に帰れなくなって、家族もばらばらで、保障もなくて、健康も害して、

福島原発の1.2.3号機は人が近づけない位の放射線量で、汚染水はどんどん漏れてて海に流してて、なんて

3.11が近づいたら急に盛んに報道されていることを見てると、戦争について思ったことと同じ感想しか出てこない。

どうしたらいいんでしょうね?

子供たちのために・・・。

 

今日は卒園式であと少しで娘が帰ってきます・・・年長さんみるだけで、泣いてまうわー

謝恩会で年長さんの先生が

「生まれてきてくれて、ありがとう。みんなに会えて、本当によかった」

とおっしゃってて・・・身内でない方に、そんなふうに言ってもらえて・・・お母さん達のすすり泣き、最高潮でしたわー

卒園、おめでとう・・・。

娘も、どうなることやら、と思った年少さんが終わり、4月からは年中さん

「ねんちゅうさんになるから!」

と最近、お風呂に入るとひとりで身体と髪を洗う娘。まあぬるぬるですが

今年はソチ・オリンピックに影響されて、初スケートに行ったり

400メートルトラック、娘の手を引いて何周したことか・・・5時間ほどリンクにいて、汗だくで帰ってきましたよ

オリンピック、羽生選手の金メダルをはじめ、素晴らしかったですね

でも一番は、真央選手

真央ちゃんが泣くと、みんなが悲しい。真央ちゃんが笑うと、みんなが笑顔になる。

それってスターだよね

この笑顔が見たかった

おばちゃん、見るたびに泣いてまうわー

真央選手のフリーの演技。

「これが浅田真央だ」

私には、23歳の若い人の多くが人生のなかで経験しないであろうものを見て感じてきた人の凄みを感じました。

鬼気迫る青の炎、今までの彼女とは違う、渾身のステップ。彼女はラインを超えた。

あの無邪気な笑顔の女の子が、世界中のライバルと競い、お母様を亡くし、それでも滑り続けてきたこと。
それをどこぞのおっさんにとやかく言われることではない。

私が初めてフィギュアを観て感動したのはカテリナ・ビットの「花はどこへいった」でした。
スケートで、何かを伝えられるんだ、と感動したことを、子供心に憶えてます。
 
トリノで荒川静香さんの「トゥーランドット」は、彼女の悲しみ、喜びすべてがあの滑りに出ていた。
氷の上で跳び、回り、踊る。
 
ほんと、スケートを25年ぶりくらいにやってみて、立って滑るだけでも難しいのに

どれだけの鍛錬が必要なんだろうか。想像もつかないです
素晴らしいものを観せてくれてありがとう

鈴木選手の品の良いスケーティングから、生きる喜びを感じました。

村上選手の若さ、元気さに、希望をもらいました。
 
メダルってなんだろうね?
 
なんか、真央選手のフリーの演技は、そんなことを世界中の人に考えさせたのではないでしょうか。
 
高橋選手の集大成の演技も、心が震えました。
 
もちろん、羽生選手も素晴らしかった。天才、というものを、また目の当たりに出来た幸運。
 
樹選手も力強かった。でも引退されるのかな?ちらっとそんな記事を見たのですが
 
それぞれの国でトップになって、世界のトップを目指して集まってきた選手たち。
 
パラリンピックでも、本当に驚きの活躍を見せてくれていますね
 
本当に、ありがとうございます。
 
私も頑張ろう
 
とりあえず、ある試験に合格、との通知がきました
 
娘が幼稚園に入る前から続けてきた勉強で、仕事をしながら隙間時間を見つけて勉強してきた成果が出て
 
失われた記憶力にびっくりの試験勉強でしたが、なんとか合格でき、アラフォーでも頑張れば出来る
 
そう思って小さな自信になりました。
 
夫が突然働けなくなるかもしれませんし、何があるか分からない今の世の中。
 
自立できるように備えなくっちゃ、という気持ちが強まります。
 
今の仕事は多分続けていても先がない・・・わたしは子供が大きくなったら、もっと働かなくてはいけない。
 
それにはちゃんと資格や経験を積まなきゃならない。
 
先日、夫と私の年収合せても、義妹の年収の方が多いということが判明し
 
夫はこれ以上転職や資格取得をする気はさらさらなく、今いる会社で「もう出世できないだろうから」と。
 
収入を得る手段を考える気もなく。
 
「自分は家事をするから、リツコが頑張って稼いで」
 
という感じです
 
まあいいんですが、頑張りますから、働くの好きだし、いいんですが。
 
自分の肩に、これからの生活レベルの維持がかかっているわけで、直視するのが怖い気もしますが
 
でもやるしかないでしょ
 
Spring is almost here.
 
春は新しくはじめるには良い季節。
 
つらかった冬は、春の喜びを倍にしてくれます。
 
さあ、お迎えだ
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雪・・・2月の日々

2014-02-19 12:44:10 | 日々のこと

こんにちは毎日寒いですね

大雪・・・結婚してからこちらに帰ってきてから、こんな大雪初めてです・・・

今日明日とまた大雪、なんて予報があり、もうやめて~と泣きが入ったところに、

「松岡修造、ソチから帰国

予報消えましたありがとう、松岡さん助かったよ~

金曜日は会社から命からがら帰ってきましたよ運転怖かった~

駐車場から出るのも一苦労駐車場の坂を上れるか~と思ったら、夫が雪かきしといてくれて、なんとかセーフ

土日はもうオリンピック観て、じっとしてましたよ・・・

私、長野五輪でジャンプ団体観に行ったんですよね。いや~感動した

観ている時は

「なんでこんな吹雪の中を突っ立ってなきゃいけないんだろう」

って考えてたんですが、やっぱり金メダルは感動しました

その当時、捻挫で出られなかった葛西選手、おめでとうございます

41歳、同じ歳ですわ。レジェンド・・・。

これから真央選手、力を出し切って、彼女の喜び・悲しみ、すべて出しきって欲しいですね

そしてプルシェンコ選手の引退。

これも長野五輪の一周年記念エキシビションで彼を初めて観たんですが

「ロシアの金髪の王子様がいる・・・」

って思いましたよ、ほんとにすごい選手でしたね。

「やけくそカルメン」とか、ニコ動で観てみてくださいとても彼の晴らしさが分かります

しかし雪で動けず5日とか・・・ネットでは「てんぷら総理」なんて揶揄されてますが、もう新潟県の泉田知事と代わっちゃえよ

変えんでええところをガンガン変えて、ゴリ押して、どんどん苦しくなっていって、気が付いた時にはもう・・・

なんてならなきゃいいですがね。

さて、「ごちそうさん」はふ久ちゃん、嫁に行きましたね

しかし相手のおうちに挨拶へ行って、そのまま置いてくるんですね、娘・・・それってありなん?

「子供欲しいんだったら急がんとあかんでしょう」

とか、お父さんに言われたくないわ~たびたび、ぶっこんで来ますよね、このドラマって。

でも観てると、つくづく「戦争ってやだな」って思います。

先日、「永遠の0」観てきたんですが。

あれを観て「特攻隊ってカッコいい」って思う高校生もいるんですね・・・おばちゃん「戦争いややわー」としか思えへんけどな

戦争が怖いところは「人が人でなくなる」ことが大きいと思います。

戦争さえなければ・・・映画観ていて、何度も思いました。

「あの戦争当時は、ひとりひとりに、物語があった」

とおじいちゃんが言ってましたが、愛する人が死ぬ、行方が分からなくなる、つらい生活を強いられる、死にたくないのに死ななきゃならない、人を殺さなきゃならない、そんなことが普通の人たちの身に降りかかるのが戦争。それも否応なく。

「ごちそうさん」でも、ついに次男が「志願する!」という局面を迎えています。

め以子にもついに、突きつけられる戦争。

ユーモアにあふれている今期の朝ドラですが、これからどうなっていくんでしょうか?

「永遠の0」では、「海軍一の臆病者」と言われた主人公。

岡田准一さんが、品の良いパイロットを演じています。

祖母が言ってました。

「優秀な男は海軍で、戦争でみんな死んでしまった」

祖父の弟、つまり祖母の義弟も、海軍で亡くなりました。

「自分が死んだら、愛する妻と子はどうして生きていけるか。だから死ぬわけにはいかない」

と、「生き残ること」にこだわった主人公が、なぜ特攻で亡くなったのか。

そのわけは説明されているのですが、私は「それでも、生き残って欲しかった」と思ってしまいます。

どんな人になっていても、生きて帰ってきて欲しかった。

子どもを産んでからか、私はあのゼロ戦に乗っている一人一人、米機に乗っている一人一人、その人たちのうしろに、愛する家族がいる、大切な人がいるということが、もう胸に迫って、観ているのがつらかった。

私は、自分の子供をだれかを殺すために産んで育てているわけではなく、そうならないために育てている。

誰一人、試験管から生まれた人間は存在しない、母親がお腹の中で育てて、やっと産んで、育てて大きくして、大人になったわけで。

良い映画でしたよ。

主人公の岡田さんは素晴らしかったし、あの親分がもう、すべてをかっさらっていったというか・・・

岡田准一さんは大河ドラマの主演もされていますが、彼の素晴らしいところは

「自分が何を出来てなくて、何をしたら良いか」

ということを真摯に、素直に理解して、向上しようという心があるところではないでしょうか。

だから大御所俳優達にいろんなアドバイスをもらったり、助けてもらったりしてきているのでしょう。

今花開いている岡田准一さんの演技、また戦争というものはどういうものか、それを感じるために「永遠の0」という映画を観てみるのも良いかもしれません。

 

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