魔法が解けたそのあとで

結婚、出産、育児、介護、お仕事。来た球を打ち返す、毎日のつれづれをつづりました。

長い階段をのぼり 生きる日々は続いていく

2016-06-26 15:29:43 | 日々のこと

こんにちは。

先日、小沢健二さんのライブに行ってきました。

お台場に行くのもえらい久しぶり、チケットが取れたものの、行けるのかな・・・と心配でしたが、幸い同行者が見つかり、無事に行ってこられました。

2000年になる前に、姿を現さなくなっていた小沢さんは、2010年にオペラシティで、2012年にツアー、4年後の今年、またツアーを開催しました。

2012年の「ひふみよ」ツアーのCDが発売され、その頃、母の病気が分かり、私はこのCDをずっと聴いてました。

20年前に聴いていた彼の曲のなかの「強い気持ち強い愛」を泣きながら何度聴いたことか。

社会人になってから、同じ会社の同僚が「LIFE」を貸してくれ、どはまりしたわけですが、それからずっと彼の音楽はわたしのなかにありました。

貸してくれた彼女はフリッパーズのライブにも行っていて、大いにわたしを羨ましがらせたわけですが、彼女もこのツアーを観たでしょうか。

20年、わたしを支え続けてくれた歌が、それを作った人の口から歌われる。

テレビでしか観たことがなかったその人は、40代後半になってもその姿は変わらず、お父さんになっていました。

髪をかき上げるしぐさ、ほっそい白い腕、はにかむ笑顔、上目使い、たまに外れる音。

人って変わらないんだなあ、と思いました。

新曲はすごく文学的で、これこそ歌詞を反芻しながら何度も考えたいもの。はやく音源化をのぞみます。

「それはちょっと」を、結婚し、息子をもうけた彼が歌っているのは感慨深かったです。

そして分かったのが

「わたしはわがままだから!」(離婚したんだ)

ってこと。そう、わたしはわがままだから。(元夫に言わせると)だから結婚に向いてなかったんだって思いました。

嫁でなくて、パートナーとして結婚した。ひとりの、自分の足で立ってる人と思い、結婚した。

「両性の同意があったから」結婚した。だけど「結婚」はそれだけではなく、それ以上のものをわたしに差し出せと言ってきた。

(正確には元夫とその家族が)

でもわたしは「わがままだから」。無理でした!って唐突に思って歌った。

「わがままだから~!」

そう、死ぬまでわたしはわがままだから。

彼の口から「僕はずっとひとりで生きるのかと思ってたよ」と聞くのは感無量でしたね。

人は変わるんだ。

彼はとても生きるのが楽そうだったし、楽しそうだったし、幸せそうだった。

良かった、と思いました。

長い階段をのぼり生きる日々は続くし、大きく深い河を渡らなきゃならないし、涙がこぼれてはずっと頬を伝うだろうし、冷たく強い風はこれからも吹き付けるだろうし。

それでも生きていく。

 

その日にSNSで知り合った方に、病気になったことを話していて、つくづく「幸いだったな」と思いました。

入院した時に「あーライブどうしよう、行けるのかな」って思ったことを思い出しました。

でもこうして来られた。

そしてまたもしかしたら再発することもあるかもな、と思いました。

わたしの脳の中で裂けた血管が、また同じところが裂けないとも限らないし、もしくは違う細い血管が裂けるかもしれない。

そんなこと言っていたらもーなんにもできないよ、とも思いますが、脳梗塞になったから、わたしは娘の学資保険もかけられなくなってしまったわけです。

それは治ったとはいえ、まったく今までなったことのない人と、一度血管裂けてしまった人では保険会社も感じるリスクは違うだろうな、と思うのです。

まあそういうことがまたないかもしれないし、あるかもしれない。

だからこそ、彼のライブに行きたかった。

ここまでわたしの支えだった彼の生の歌声を聴いてみたかったし見てみたかった。

・・・いやー、歌詞とか、すごい憶えているもんですね。彼が間違ったところも分かったし笑

素晴らしかったです。

そして、これからは、会いたい人には会っておこう、行きたいところには行っておこう、「いつでも会える、いつでも行ける」はわたしには少ない確率になってしまったから。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭のなかで起こっていること

2016-06-16 21:24:49 | 健康

こんばんは。

雨が降っています。

雨が降ると「球体の奏でる音楽」というアルバムの曲が頭の中で流れます。

小沢健二さんが久々にライブ・ツアーを開催していて、運良くチケットが取れました!

思えば20数年前に会社の友達が貸してくれたCD。

それからずっと彼の歌に支えられてきた。

そう考えると、初めて生で歌声を聴くことが出来る。

音楽で人を支えることが出来るって、すごいことですよね。

「強い気持ち強い愛」

この曲を聴きながら何度涙したことか。泣きながら立ち上がってきました。

母の病気が分かった時に泣きながら聴いた

「長い階段を上り 生きる日々が続く

 大きく深い河 君と僕は渡る

 涙がこぼれては ずっと頬をつたう

 冷たく強い風 君と僕は笑う」

こうやって人生は続いていく。そのなかで何度も立ち上がりながら生きてく。

ああ、生きていて良かった。

こんな日が来るなんて、思いもしなかった。

以前、小沢さんがツアーをした時に「行きたいな~」と言ったら、元夫に

「行ってどうするの?」

と言われたことがありました。

宝塚もそうだった。「お前がそんなもの見てどうするの?お前が見て何が変わるの?」そう言われました。

・・・いやなことを思い出してしまいました汗

 

さて、救急搬送、即入院となった私はそれからしばらくベッドの上だけで生活しました。

自分の頭のなかで何が起こっているのか・・・。不安でした。

トイレも行けないわけで・・・初めてカテーテルというものを身体に入れましたよ。

絶え間なく点滴がされて、それも吐いたりしてたから元々血管が出にくいのにほんと~~~~に!何度も何度も刺されました。

痛さには我慢強い私でも、両腕の内側、手の甲などぶすぶすと刺されて、でも血が出なくて、痛さに声が出ました。

でも一生懸命してくださってるから我慢。

それに看護師さん達にはお世話になりました。清拭やいろいろなものの始末もしていただき。

偉大な職業だな・・・とつくづく感じました。

お医者様が「振り向いても血管切れる人は切れるから」と言うので震えあがって頭も上げないよう、安静にしていました。

わたしの場合、脳の細い血管の内部が裂けて、そこで血が滞っていたそうです。

血栓で詰まったのではなく、動脈硬化が起きているわけでもなく、ただそこだけが裂けた。でも血管の外には出血はなく。

それなので血管が修復されるのを待つ。

数種類の点滴をしながら安静に。

頭が、痛いんですよ。

やっぱり裂けたとこのそばには神経があるから痛いんだね、とお医者様が。

鎮痛剤をもらって過ごしました。

そして数日たったら、身体ってすごいですね、痛みもなくなってきたんです。

でも右の視界が変。奥行がない。

この違和感をどういえばいいんだろう。

でも麻痺などはないので「じゃあ明日から車椅子乗ってみようか!」みたいなノリで。

ベッドから車椅子への移乗だけなのに、くたくた。

頭痛が悪化してしまいました。

でも歩いて点滴をガラガラ引きながらトイレに行って。

少しずつ少しずつ、動くようになりました。

筋肉は一週間で一割減ってしまうそうです。

ずっと横になっていたのでフラフラでした。

麻痺など後遺症がないのでお医者様も「で、いつ退院する?」って。

でもこの視界が変なのは治らないんだろうか・・・?

「歩いてリハビリして。脳は死んだ部分をカバーする働きがあるから、慣れるよ」

「娘さんの入学式あるんでしょ?出られるように頑張らなきゃ」

と言われ。

不安なうちに、二週間あまりで退院しました。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする