毎日新聞
イラストレーターで映画監督やエッセー執筆など多彩な活動で知られた和田誠(わだ・まこと)さんが7日、肺炎のため死去した。83歳。葬儀は近親者で営んだ。お別れの会を後日開く。妻はシャンソン歌手で料理愛好家の平野レミ(ひらの・れみ、本名・和田レミ=わだ・れみ)さん。
大阪市生まれ。多摩美術大図案科卒。広告制作プロダクション「ライトパブリシティ」に入り、たばこ「ハイライト」のデザインで注目された。旧社会党のロゴマークなども作った。
1965年、自主製作アニメ「マーダー(殺人)」で毎日映画コンクール大藤信郎賞。68年フリーとなり、69年に一連の似顔絵が評価され、文芸春秋漫画賞。知的なユーモアを感じさせるシンプルなイラストは星新一、丸谷才一、村上春樹さんなどの作家らに愛され、多くの雑誌の表紙や本の装丁を手がけた。ポスターや絵本の制作、作詞、作曲、落語原作にも取り組んだほか、映画には特に造詣が深かった。84年の初監督作品「麻雀放浪記」は高く評価され、続く「快盗ルビイ」でブルーリボン監督賞。文才も発揮し、82年に著書「ビギン・ザ・ビギン」で日本ノンフィクション賞、93年「銀座界隈ドキドキの日々」で講談社エッセイ賞。94年には美術、文筆、映画にわたる業績で菊池寛賞を受賞した。92年から本紙書評欄「今週の本棚」のイラストを担当していた。
********
日本を代表する イラストレーターだった
映画監督も マルチナ才能に恵まれた方だった
奥様は 平野レミさん
文春の表紙 素朴だけど印象深い
絵が素晴らしかった
知的なユーモアを感じさせるとなっているが
言い得て妙
レミさんのコメントもシンプルな言葉で綴っているが
気持ちが伝わってくる名文
一番の幸せが・・・
以下、平野のコメント全文。
1年ほど前から体調を崩し自宅で療養していました。7月より都内の病院に入院していましたが、肺炎を患い、最後は家族みんなに守られながら、安らかにお別れをしました。肺炎を患ってからはご飯を食べられなかったので、和田さんが好きなご飯を沢山作って、安らかな顔の横に置いてあげました。最後の料理を作っているときはすごく幸せで「私にとっての一番の幸せは、和田さんにご飯を作ることだったんだ」とあらためて気づきました。47年間、私の料理を美味しい美味しいって食べてくれて本当にありがとう。安らかにね。
イラストレーターで映画監督やエッセー執筆など多彩な活動で知られた和田誠(わだ・まこと)さんが7日、肺炎のため死去した。83歳。葬儀は近親者で営んだ。お別れの会を後日開く。妻はシャンソン歌手で料理愛好家の平野レミ(ひらの・れみ、本名・和田レミ=わだ・れみ)さん。
大阪市生まれ。多摩美術大図案科卒。広告制作プロダクション「ライトパブリシティ」に入り、たばこ「ハイライト」のデザインで注目された。旧社会党のロゴマークなども作った。
1965年、自主製作アニメ「マーダー(殺人)」で毎日映画コンクール大藤信郎賞。68年フリーとなり、69年に一連の似顔絵が評価され、文芸春秋漫画賞。知的なユーモアを感じさせるシンプルなイラストは星新一、丸谷才一、村上春樹さんなどの作家らに愛され、多くの雑誌の表紙や本の装丁を手がけた。ポスターや絵本の制作、作詞、作曲、落語原作にも取り組んだほか、映画には特に造詣が深かった。84年の初監督作品「麻雀放浪記」は高く評価され、続く「快盗ルビイ」でブルーリボン監督賞。文才も発揮し、82年に著書「ビギン・ザ・ビギン」で日本ノンフィクション賞、93年「銀座界隈ドキドキの日々」で講談社エッセイ賞。94年には美術、文筆、映画にわたる業績で菊池寛賞を受賞した。92年から本紙書評欄「今週の本棚」のイラストを担当していた。
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日本を代表する イラストレーターだった
映画監督も マルチナ才能に恵まれた方だった
奥様は 平野レミさん
文春の表紙 素朴だけど印象深い
絵が素晴らしかった
知的なユーモアを感じさせるとなっているが
言い得て妙
レミさんのコメントもシンプルな言葉で綴っているが
気持ちが伝わってくる名文
一番の幸せが・・・
以下、平野のコメント全文。
1年ほど前から体調を崩し自宅で療養していました。7月より都内の病院に入院していましたが、肺炎を患い、最後は家族みんなに守られながら、安らかにお別れをしました。肺炎を患ってからはご飯を食べられなかったので、和田さんが好きなご飯を沢山作って、安らかな顔の横に置いてあげました。最後の料理を作っているときはすごく幸せで「私にとっての一番の幸せは、和田さんにご飯を作ることだったんだ」とあらためて気づきました。47年間、私の料理を美味しい美味しいって食べてくれて本当にありがとう。安らかにね。