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奥村チヨさん 芸能界引退 70歳

2018-01-06 09:47:08 | 日記
スポニチ

歌手の奥村チヨ(70)が2018年いっぱいで芸能活動から引退すること決めた。所属事務所が6日早朝、報道各社に「本人からの手紙」を添えた文書をFAX送信して発表した。

 奥村は1965年に歌手デビュー。和製シルヴィ・バルタンの異名をとり、コケティッシュな魅力と甘い声で人気を集め、NHK紅白歌合戦にも3度出場した。

 奥村は「ファンの皆様へ」と題した手紙で「今年いっぱいで歌手活動を卒業する事を決心致しました。今迄ファンの皆様そしてスタッフの皆様にささえられいつも元気を頂き本当に楽しくお仕事をさせて頂き大変幸福でした」と心境をつづった。

 また、2014年に母親が亡くなった時に「もう完全にやめようと思っていたのですがついつい私の好きな作品とめぐり会ってここ迄来てしまいました」と振り返り、「今迄応援して下さったファンの皆様の事を思えば大変心が痛みますが長年に渡り今迄熱いエールを送り続けて下さり心から御礼と感謝を申し上げます」とファンに感謝した。

 「そして最後に私は感動できる歌にめぐり会いました。“サイレントムーン”この歌で卒業したいと思います」としている。1月24日には“卒業アルバム”として「ありがとう〜サイレントムーン」が発売される。


70歳ということにも驚いた
昨年だったか ご夫婦でTVに出られていたが
お年はとられていたが イメージは昔のまま

ご主人の浜圭介氏とおしどりカップルと
言われている 
お子さんはいない


女優の麻生祐未さんは姪
少女っぽい雰囲気がよく似ている

今年いっぱいなので 約一年活動を
される




首都圏 地震が続く・震源地は地震の巣

2018-01-06 09:38:00 | 日記

昨晩の地震は グラグラときて
大きいと思った瞬間 終わったので
よかったが 大きな地震に繋がらないか
心配だ

今年に入ってから 地震が相次いでいる気が
する・・・・

それでも3回程度か?

国も地震予知はできないと諦め
防災、減災害に力を入れるようだが
どこまで巨大地震に間に合うのか?

大地震はいつ起きてもおかしくない


****
気象庁によると、今回の震源の千葉県北西部や茨城県南部などは「地震の巣」と呼ばれるほど地震が多い場所で、気象庁は、日頃から十分な備えをするよう呼びかけている。

星野仙一さん 死去70歳・燃える男・プロ野球の黄金期を支えた

2018-01-06 09:26:50 | 日記
スポニチアネックス

楽天の星野仙一球団副会長が4日に亡くなったことが分かった。70歳だった。死因は明らかになっていない。現役時代は中日のエースとして活躍し、引退後は中日、阪神、楽天の監督を歴任。計4度のリーグ優勝を飾り、楽天時代の13年には自身初の日本一に輝いた。17年に野球殿堂入り。「燃える男」、「闘将」と呼ばれ、巨人を倒すために野球人生をささげてきた男がこの世を去った。

 突然の訃報だった。星野氏が息をひきとったのは4日。球界関係者によると「がんで闘病していた」という。昨年末に体調が悪化し、年末年始を家族とハワイで過ごす予定だったが急きょ取りやめていた。昨年11月28日に東京で、12月1日には大阪で「野球殿堂入りを祝う会」に出席。2000人を超えるプロ、アマの球界関係者が集まり「これだけの人が来てくれて野球をやってて良かった。野球と恋愛して良かった。もっともっと恋したい」と失われない野球への情熱を口にした。しかし、これが、最後の晴れ舞台となった。

 相手が強ければ強いほど、「燃える男」。現役時代のキャッチフレーズだった。その原動力が「打倒・巨人」。ドラフトでふられ、憧れの球団は「生涯のライバル」に変わった。中日のエースとして闘争心をむき出しにして投げ、巨人戦は歴代6位タイの35勝で通算146勝を挙げた。沢村賞を受賞した74年にはV10を阻止して優勝したが「日本シリーズは邪魔。俺は巨人を倒したからいいんだ」と言い切ったほど、巨人を倒すことに執念を燃やした。「強い巨人に勝ちたいんや」。その思いは引退後も変わることはなかった。

 監督時代は「闘将」と呼ばれ、代名詞は鉄拳制裁だった。「非情と愛情の2つを併せ持つことが大事」という持論を持ち、闘う集団につくり上げた。中日で2度のリーグ優勝。97年には扶沙子夫人(享年51)を白血病で亡くしたが、グラウンドで戦い続けた。「俺は弱いチームを強くすることが好きなんだ。それが、男のロマンやないか」。反骨心の塊のような男。02年に低迷していた阪神の指揮を執り、翌03年に18年ぶりのリーグ優勝に導く。楽天監督時代の13年には日本シリーズで宿敵の巨人を破り、4度目の挑戦で初めて日本一監督となった。

 14年にユニホームを脱ぎ、15年に球団副会長に就任。ONとともに球界への影響力は大きく、星野氏も「野球への恩返しの意味でも自分の思いや考えを若い人につないでいきたい」と語り、野球の普及活動に尽力していた。恋に恋した野球。しかし、楽しみにしていた20年東京五輪を前に帰らぬ人となった。あの笑顔はもう見れない。あの怒鳴り声ももう聞けない。



びっくり

昔 一度 ある街でお見かけしたことが
あったが ダンディでカッコいい方だった

がん闘病をされていたそうだが
いつも若々しく、活力にあふれたイメージが強く
死とは結びつかない
訃報に驚いた

数年前には奥様も亡くされていた


残念だ