れきしぱうち

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平安後期 15章-9 「白河院と、源氏の衰退」☆

2014-03-09 | 平安時代
(1)白河院と、源氏の年表

1068年、後三条天皇譲位、白河天皇として即位。
1081年、白河天皇の神社参りに、源義家が武士として異例の護衛につく
1083年、「後三年の役」で源頼家が参加
1086年、「堀川天皇」に譲位、白河院政が開始
1087年、「後三年の役」終わる
1091年、源義家と、源義綱兄弟が争う。
    源義家の荘園が禁止される。
1092年、朝廷の護衛に、源義綱が起用される。
1093年、源義綱、美濃守になるも比叡山とトラブルを起こし、失脚。
1096年、白河院が出家して「融観、白河法皇」として院制を続ける。 
1097年、源義家の昇殿が許される
1101年、弟の源義親の乱
1104年、源義家と義綱が延暦寺強訴の追討を最後に、歴史の記述から見なくなる
1107年、堀川天皇没、「鳥羽天皇」が5歳で即位。
1108年、平正盛が、源義親を討伐
    延暦寺の強訴を源氏と平氏の両氏で防ぐ
1109年、源氏の家督を継いだ源義忠が暗殺、義綱の一族追放

1113年、平忠盛、夏焼大夫の討伐で出世
1115年、待賢門院が、天皇の中宮になる
1119年、平正盛、賊平真澄の追討で出世
1123年、ひ孫の「崇徳天皇」即位
1129年、白河法王、77歳で崩御   

(2)白河天皇の源氏の起用
[前九年の役]で武名を挙げた「源義家」は弟「源義綱」とともに
白河天皇の護衛に抜擢される。


白河天皇が院となってからは、自由な立場、自由な発想で政治を執るようになった。
特徴的なのは、地位の高低や、しきたりに関わらず、気に入った者や、使える人材を
側近として起用していった事である。

1081年、寺社の武装化が進み、中でも延暦寺(山門)と、園城寺(三井寺=寺門)の
対立は激しく、この年の日吉社(ひえしゃ)祭礼を巡り、山門の僧兵は寺門を襲撃、
園城寺を壊滅的に焼き払った。

白河天皇は、山門側(延暦寺)に加担し、寺門追捕の為に、
検非違使と共に、[前九年の役]で部名を挙げた武士、「源義家」を出兵させた。

1082年、白河天皇は、こうした寺社抗争の中で、石清水八幡宮を参詣する。
その時の天皇の護衛を「源義家」と弟の「源義綱」に命じるなど、
側近の護衛として起用する。

武士の天皇護衛は前例がなく、初めは関白、藤原師実(もろざね)の前駆として
公家のいでたちをしていた源氏であったが、帰りは慣例を無視して、
武士の恰好のまま護衛にあたり、それを白河天皇も認めた。
それ以来、源義家達は、堂々と武士の恰好のまま、天皇警護にあたるようになる。


(3)後三年の役
朝廷の意志に反した戦いであるとして、朝廷から怒りをかうが、東北での人気絶大に。

1083年、陸奥守として東北の拠点、多賀城に赴任した「源義家」は[後三年の役]に参加。
戦中の官物の納付が遅れ、朝廷から戦を辞めるようにとの通達も無視した為、
戦は、義家の私戦とみなされ、褒美どころか、官物の督促を受けることとなる。

また、東北での絶大な人気を背景として、荘園の寄進を受け、荘園を拡大する。


(4)1091年、源義家と源義綱の内乱
【兄、源義家の冷遇】
清原兄弟の内乱を鎮め、大きくなり過ぎた「源義家」の力を牽制する為、
院は、院宣をだして、ちの力を抑えた。
・諸国の「源義家」の随兵の入京を禁じる
・「源義家」に荘園を寄進する事を禁じる。
・翌年には、義家の持つ諸国の荘園を院宣によって停止した。

【弟、源義綱の優遇】
その逆に、弟の源義綱を取り立て、事実上兄の源義家より出世させて、
パワーバランスを図ろうとした。
しかし、「源義綱」は、第一級国司の美濃守に任命されるが、
美濃で比叡山とトラブルを起こし、それ以来、源義綱の出世はとまる。

【兄弟対決】
1091年、京市街で、兄「源義家」と弟「源義綱」が領地争いの内乱をおこす。
鎌倉時代に書かれた『百錬抄』では、「天下の騒動、これより大なるはなし」
と記され、京の都が震撼したと書かれてある

京での源氏の勢力は、ここで一旦沈み、
かわって、平氏が院の寵愛を受けて台頭してくるようになる。
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font size="3">(5)昇殿を許された源義家
1098年、白河院の強い要望で「源義家」は、昇殿をゆるされ、再び院の寵愛を受ける。
これは、この頃台頭してきた平家とのバランスをつける意味もあったと考えられる。


(6)1108年源義親の反乱
平氏と源氏の衰勢が逆転した転機

「源義家」の息子「源義親(よしちか)」は、九州で略奪と官史を殺した為、
隠岐に流された。だが、出雲で再び反乱を起こした為、白河法皇の起用で、
「平正盛」が追討にあたり「源義親」は討伐される。

これを機に、源氏に代わって桓武平氏が、京で力を持つようになっていった。


山川出版「詳細日本史研究」P125では、
(6)の源義親の反乱が記載されているだけである。

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