(1)藤原良房時代の天皇達
藤原北家の2番手、藤原良房に翻弄された3人の天皇
823年、淳和天皇即位(藤原冬嗣が蔵人頭)
833年、仁明天皇即位(藤原良房が蔵人頭)
842年、[承和の変]
850年、文徳天皇即位
857年、藤原良房が、太政大臣になる。
858年、清和天皇即位、(藤原良房摂政)
866年、[応天門の変]
872年、藤原良房死去。

(1)第53代 淳和天皇
桓武天皇の子で、平城天皇、嵯峨天皇の、(異母)弟である。
野心が乏しく、桓武天皇が崩御した時は、臣籍降下を願い出ているが、
認められず、兄の嵯峨天皇から823年に譲位された。
即位後は、才能のある官僚の登用、荒廃した地方政治の再建、勧農政策の推進、
大規模な勅使田の設定など、数々の政治の立て直しをし、安定した時代を築く。
藤原冬嗣が蔵人頭であった。
(2)第54代 仁明天皇
藤原北家繁栄の足がかりとなった、[承和の変]の頃の天皇
嵯峨天皇と、美人で名高い橘嘉智子の子で、自身も美貌であったと伝えられる。
833年即位。
本人の実績よりも、「仁明天皇(にんみょう) 」の頃に、藤原北家が縁戚を組み、
著しい勢力拡大があったことが、クローズアップされる。
仁明天皇の皇后は、藤原良房の妹「順子」で、その子が「文徳天皇」となる。
藤原良房とは、皇太子時代からの仲であり、
833年に、仁明天皇が即位すると、藤原良房は「蔵人頭」として権力をふるい、
[承和の変][応天門の変]で、他豪族を排除し、藤原家の権力を決定的なものとする。
【日本後記】
『日本後記』は、840年完成した、六国史3番目の歴史書。全40巻。
嵯峨天皇が編纂を命じ、「藤原緒嗣」を責任者として、仁明天皇の時完成した。
792年桓武天皇~833年淳和天皇までが書かれている。
(3)藤原良房の陰謀、承和の変
[承和の変」は、平安初期の842年に起きた、藤原良房による排他勢力の一掃事件。
当初、仁明天皇の皇太子は、淳和天皇と仁明天皇の妹の子「恒貞親王」であったが、
842年、淳和上皇に続いて、嵯峨上皇が亡くなると、「恒貞親王」の後ろ盾は、
「伴建岑(とものことみね) 」と「橘逸勢(たちばなのはやなり) 」だけとなった。

伴と橘が、「恒貞親王」をかついで、仁明天皇に謀反を起こす企てがある、密告があり、
上記首謀者一族は流罪となり、無実の「恒貞天皇」も廃太子となった。

これで反対勢力を一掃した藤原良房は、、仁明天皇と藤原良房の妹順子の子で、藤原家の血をひく
「道康親王・のちの文徳天皇」を次期天皇とした。

この時代、子供は母の実家で養育される為、藤原良房は次期天皇「道康親王」を手元で育て、
孫のバックとして、藤原良房の「外戚」としての栄華が始まる。

(4)第55代文徳天皇
藤原良房に虐げられた天皇
[承和の乱]で本来の皇太子を蹴落として、藤原良房の手で育てられ、立太子し
「道康親王・文徳天皇」として即位する。
だが、藤原良房の圧力に苦しみ、天皇であるにも関わらず、生涯内裏正殿に住むことなく、
内裏の外れの東宮で暮らした、と伝えられている。
花見ひとつをとっても、天皇が、臣下である藤原良房の邸宅に出向いている。
こうして、文徳天皇の頃に天皇の「外戚」となった藤原良房の横柄さは際立ち、
臣下では初の太政大臣にまで昇りつめている。
文武天皇は、第一皇子である「惟たか親王」を愛し、譲位を望んだが、
藤原良房はそれを許さなかった。

良房が、文徳に嫁がせた娘「明子」の生んだ「惟仁親王・のちの清和天皇」
を、1歳で立太子させるという、暴挙に出た。
文徳天皇は、32歳で急死。
この死亡も、藤原良房の陰謀説がある。
藤原北家の2番手、藤原良房に翻弄された3人の天皇
823年、淳和天皇即位(藤原冬嗣が蔵人頭)
833年、仁明天皇即位(藤原良房が蔵人頭)
842年、[承和の変]
850年、文徳天皇即位
857年、藤原良房が、太政大臣になる。
858年、清和天皇即位、(藤原良房摂政)
866年、[応天門の変]
872年、藤原良房死去。

(1)第53代 淳和天皇
桓武天皇の子で、平城天皇、嵯峨天皇の、(異母)弟である。
野心が乏しく、桓武天皇が崩御した時は、臣籍降下を願い出ているが、
認められず、兄の嵯峨天皇から823年に譲位された。
即位後は、才能のある官僚の登用、荒廃した地方政治の再建、勧農政策の推進、
大規模な勅使田の設定など、数々の政治の立て直しをし、安定した時代を築く。
藤原冬嗣が蔵人頭であった。
(2)第54代 仁明天皇
藤原北家繁栄の足がかりとなった、[承和の変]の頃の天皇
嵯峨天皇と、美人で名高い橘嘉智子の子で、自身も美貌であったと伝えられる。
833年即位。
本人の実績よりも、「仁明天皇(にんみょう) 」の頃に、藤原北家が縁戚を組み、
著しい勢力拡大があったことが、クローズアップされる。
仁明天皇の皇后は、藤原良房の妹「順子」で、その子が「文徳天皇」となる。
藤原良房とは、皇太子時代からの仲であり、
833年に、仁明天皇が即位すると、藤原良房は「蔵人頭」として権力をふるい、
[承和の変][応天門の変]で、他豪族を排除し、藤原家の権力を決定的なものとする。
【日本後記】
『日本後記』は、840年完成した、六国史3番目の歴史書。全40巻。
嵯峨天皇が編纂を命じ、「藤原緒嗣」を責任者として、仁明天皇の時完成した。
792年桓武天皇~833年淳和天皇までが書かれている。
(3)藤原良房の陰謀、承和の変
[承和の変」は、平安初期の842年に起きた、藤原良房による排他勢力の一掃事件。
当初、仁明天皇の皇太子は、淳和天皇と仁明天皇の妹の子「恒貞親王」であったが、
842年、淳和上皇に続いて、嵯峨上皇が亡くなると、「恒貞親王」の後ろ盾は、
「伴建岑(とものことみね) 」と「橘逸勢(たちばなのはやなり) 」だけとなった。

伴と橘が、「恒貞親王」をかついで、仁明天皇に謀反を起こす企てがある、密告があり、
上記首謀者一族は流罪となり、無実の「恒貞天皇」も廃太子となった。

これで反対勢力を一掃した藤原良房は、、仁明天皇と藤原良房の妹順子の子で、藤原家の血をひく
「道康親王・のちの文徳天皇」を次期天皇とした。

この時代、子供は母の実家で養育される為、藤原良房は次期天皇「道康親王」を手元で育て、
孫のバックとして、藤原良房の「外戚」としての栄華が始まる。

(4)第55代文徳天皇
藤原良房に虐げられた天皇
[承和の乱]で本来の皇太子を蹴落として、藤原良房の手で育てられ、立太子し
「道康親王・文徳天皇」として即位する。
だが、藤原良房の圧力に苦しみ、天皇であるにも関わらず、生涯内裏正殿に住むことなく、
内裏の外れの東宮で暮らした、と伝えられている。
花見ひとつをとっても、天皇が、臣下である藤原良房の邸宅に出向いている。
こうして、文徳天皇の頃に天皇の「外戚」となった藤原良房の横柄さは際立ち、
臣下では初の太政大臣にまで昇りつめている。
文武天皇は、第一皇子である「惟たか親王」を愛し、譲位を望んだが、
藤原良房はそれを許さなかった。

良房が、文徳に嫁がせた娘「明子」の生んだ「惟仁親王・のちの清和天皇」
を、1歳で立太子させるという、暴挙に出た。
文徳天皇は、32歳で急死。
この死亡も、藤原良房の陰謀説がある。