れきしぱうち

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平安初期 10章-2 「平安遷都」

2013-10-02 | 平安時代
(1)長岡遷都

敵の多い平城京に於いて、桓武天皇が打ち出した策は、天武天皇系の創設した平城京を、
貴族、官僚、寺社ごと捨てることだった。
さらに当時の奈良・平城京は長年の使用により、排泄物の蓄積や、大仏建立で流出した
水銀による水質汚染なども深刻であった。

そこで、母方の血である渡来人秦氏と関係の深い土地で、すでに秦氏が開拓を始めていた
山背国の土地を、自ら狩と称して現地視察を繰り返し、水と陸の便が良いとして、
784年「長岡京」への遷都を決めた。

(長岡遷都の理由)
①平城京は、天武天皇系の都であり、天智系として人身の一新を図る。


②巨大な権力を持つ南都六宗を隔離することで、政治と宗教の分離を図る。


③渡来人との関係の深い土地を基盤とする


④水陸の便がいい


(2)藤原種継 暗殺事件
長岡京建設の責任者となったのは、自分を皇太子に推した式家・藤原百川の甥「藤原種継」であったが、
あるとき、闇夜にまぎれて矢で打ち抜かれて暗殺されてしまう。


この暗殺事件の犯人とされたのは、弟「早良親王」に近い大伴家と佐伯家であった。
特に首謀者とされたのは、暗殺事件時すでに亡くなっていた、万葉集の偏者「大友家持」で、
墓を暴かれ、除名されている。
同時に「早良親王」も天皇の地位を危うくする者として、淡路島に流刑されたが、
早良親王は最期まで無実を訴えたまま、護送途中に変死した。

その後、桓武天皇の周辺に死者、病気が続出し、地震、洪水などの天変地異が多発する
ようになり、早良親王の呪いをおそれた桓武天皇は、建設途中の長岡京を放棄する。


(3)早良親王の呪い
早良親王が悲劇の死を遂げた後、桓武天皇の周辺では不吉なことが相次いだ。
・桓武天皇の皇后が二人相次いで死亡
・皇太子の「あて皇子、のちの平城天皇」が病に伏せる
・天然痘が流行、飢饉が起こる
・天変地異(相次ぐ洪水、富士山の爆発、頻発する地震)

これらの不吉な事が、桓武天皇が天皇の資質のない出身であるのに即位した
からだと人々が噂するのを畏れ、また、無実の罪で死んだ早良親王の呪い
だとして、長岡京を捨てて、別の地に都を移すこととなる。



(4)794年 平安遷都

呪いに悩んでいた桓武天皇を助けたのは、「和気清麻呂」であった。
和気清麻呂は、奈良時代に、称徳天皇の愛人である怪僧「道鏡」の天皇のっとり作戦で
ある[宇佐八幡神託事件」を阻止し、道鏡によって流刑されていたが、天智天皇系の時代になり、
都の官僚として戻ってきたいた。

和気清麻呂は、長岡京を捨て、京都市に新しい都を建設するようアドバイスする。


こうして、694年藤原京遷都からちょうど100年後、784年長岡遷都から10年後の794年、
周りを山で囲まれ、川に挟まれた盆地に「平安京」が移された。

これが、平安時代のはじまりである。

(5)平安京の構造
平城京や長岡京同様に、唐の長安風の碁盤の目のような街で、
中央を羅生門から朱雀大路がのびて、朱雀門を抜けて「平安宮」とよばれる大内裏へ続く。

朱雀大路を挟んで対照に、内裏から見て右手を「右京」とし「西寺」と「西市」があり、
内裏から見て左手を「左京」として「東寺」と「東市」がおかれました。
平城京と違って、都に寺は、この2つがあるくらいで、宗教と政治の切り離しが見られます。


また、政治の場である朝堂院と、生活の場である内裏が切り離されているのも、特徴です。

平安宮(大内裏)
-----朝堂院(儀式の時に官人達が整列する院)
-----大極殿(天皇が儀式に出る場)
-----豊楽院(ぶらくいん・宴会場)
-----内裏-------紫宸殿(ししんでん)天皇が政治、儀式をする所
     ------清涼殿(せいりょうでん)天皇の生活の場






後に、「藤原緒嗣(おつぐ) 」の、都の造営が農民を苦しめている
というアドバイスで、右京の建設を途中放棄して、農民の負担を軽減している。
その為、当時の右京は「羅生門に鬼が出る」といわれるほど不衛生な湿地帯で、
低所得者が住み着いたため、治安も悪かった。
貴族達は、左京に住んでいた。




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