断舎離などという言葉がある。
僕もよくわかないのだが、まぁ、過去の遺物はどんどん捨てて前へ進んで行こう、とかなんとかいう意味ではないかと想像している。
そのコンセプトはよくわかるが、完全に同意するというわけにはいかない。
最近、昔から使っているプラスチックの計量カップを落とし、ひびが入ってしまった。
中身が漏ってくるのでたぶんもう使えないだろうとおもい、捨てようとして体が止まった。
これはもう相当長く使っている。
今は亡き家族が生きていたころから。その人が日々の日常の中で使っていたものである。
これを捨てると云う事は、何かその人の体の一部を捨てるような気になってしまい、結局捨てられなかった。
考えてみればこれ以外にも、昔から使っているものはたくさんある。
食器類、箸、服、簡単なメモなど…
食器は使っているうちにいずれ割れてしまうだろう。しかし…一度捨てたらもうそれらは永遠に戻ってこない。
僕は物を長く使うたちなので、靴は穴が開くか、破れて雨がしみ込んできてどうしようもなくなるまではくし、服もぼろぼろになってさすがにこれでは人目が…と思うようになるまで着る。人目をはばかられるほどぼろぼろになっても、まだ使用に耐えるものは犬の散歩のとき専用の服にしているぐらいだ。
誤解なきよういうと、これはあくまでも誰にも会う必要がない普段の服装である。
理由はもったいないからというのももちろんあるが、僕はどうしてもものに愛着を持ってしまう性格だからでもある。
やむを得ず捨てるときは、ありがとう、と感謝の念をささげながら捨てる。
断舎離とは程遠い生活である。
いずれ割れた食器類を入れる場所を確保しなければならないだろう。
そのためにも比較的捨てやすいものは、捨てていかなければならない。
一番扱いに困るのは日記類だ。
昔まだノートに書いていたころのものは、どうするか。
今はもうその頃の日記など気恥ずかしくて読めない。
しかし、とっておいたところでどうなるわけでもない…かといってそれを捨てることは自分の体の一部を捨てるような気もして簡単にはできない。
でもいずれはばっさりやるだろう。大事なものでありながら同時に人には見せたくないものでもあるからだ。
僕が以前の楽天ブログをバッサリとやったのも、いろいろな理由はあるが、僕の意図に反して読んでほしくない人間にもアドレスが伝わってしまったからでもあり、また、あとからよむとこっぱずかしかったからでもあり、ましてやそれを放置しておいてどこの誰ともわからない他人に読まれるなんて嫌だったからでもある。
そして、あれは公益性のない私的なものであり、そもそもの最初から自分が自分ひとりの意志で始めたものであり、それをやめるのもまた自分が自分ひとりの意志でやめただけの事でもある。
ただ、挨拶もなく突然バッサリとやったことは確かに唐突であり、僕の未熟な部分でもあったとおもう。
というわけで、これから捨てるものと取っておくものを区分けしなければならない。
最近、グールドが生前かたっていた「人生の解毒剤」という言葉がよく頭に浮かぶ。
これは彼があるアメリカのビジネスマンと話していた時に、その人の口から洩れた言葉である。
その人のオフィスを訪ねた時、ちょうどバッハの音楽がかかっていたらしい。
その時にグールドがなんで仕事中にバッハなんかをかけるのかと聞いたのだろう。
その答えが「バッハの音楽が私にとって唯一の人生の解毒剤なんだ」と答えたという。
それを聞いて、こんなバリバリのやり手のビジネスマンがそんなことを言うなんて、といってグールドが驚きを隠せなかったという話である。
そして同時に、これは真に優れた芸術作品のこの世における存在意義を示している。
話は全然飛ぶが、最近また芭蕉にひかれている。
彼の作品というより、人間性にである。
あまりにも近似性を感じるのだ、人生ではなく、気質というか、本質というか、そういう点で。
大好きな良寛よりも芭蕉に親しみを覚える。
彼の作品群をまだ僕は本格的に読んだことがない。
なので、いずれ近いうちに読んでみるつもりである。
あと、最近EM菌の発酵をやっている。
ふとしたことから友達に誘われてEM菌の発見者の講演会に行ったことがきっかけである。
話を聞いて、これは単なる健康食品の範疇に収まる話ではないと思った。もっと深い、と直感的に感じた。
こういうものが身近にあるのに、しかもそれほど高くないのに、使わない手はないと思う。
さて出来上がりが楽しみである。
僕もよくわかないのだが、まぁ、過去の遺物はどんどん捨てて前へ進んで行こう、とかなんとかいう意味ではないかと想像している。
そのコンセプトはよくわかるが、完全に同意するというわけにはいかない。
最近、昔から使っているプラスチックの計量カップを落とし、ひびが入ってしまった。
中身が漏ってくるのでたぶんもう使えないだろうとおもい、捨てようとして体が止まった。
これはもう相当長く使っている。
今は亡き家族が生きていたころから。その人が日々の日常の中で使っていたものである。
これを捨てると云う事は、何かその人の体の一部を捨てるような気になってしまい、結局捨てられなかった。
考えてみればこれ以外にも、昔から使っているものはたくさんある。
食器類、箸、服、簡単なメモなど…
食器は使っているうちにいずれ割れてしまうだろう。しかし…一度捨てたらもうそれらは永遠に戻ってこない。
僕は物を長く使うたちなので、靴は穴が開くか、破れて雨がしみ込んできてどうしようもなくなるまではくし、服もぼろぼろになってさすがにこれでは人目が…と思うようになるまで着る。人目をはばかられるほどぼろぼろになっても、まだ使用に耐えるものは犬の散歩のとき専用の服にしているぐらいだ。
誤解なきよういうと、これはあくまでも誰にも会う必要がない普段の服装である。
理由はもったいないからというのももちろんあるが、僕はどうしてもものに愛着を持ってしまう性格だからでもある。
やむを得ず捨てるときは、ありがとう、と感謝の念をささげながら捨てる。
断舎離とは程遠い生活である。
いずれ割れた食器類を入れる場所を確保しなければならないだろう。
そのためにも比較的捨てやすいものは、捨てていかなければならない。
一番扱いに困るのは日記類だ。
昔まだノートに書いていたころのものは、どうするか。
今はもうその頃の日記など気恥ずかしくて読めない。
しかし、とっておいたところでどうなるわけでもない…かといってそれを捨てることは自分の体の一部を捨てるような気もして簡単にはできない。
でもいずれはばっさりやるだろう。大事なものでありながら同時に人には見せたくないものでもあるからだ。
僕が以前の楽天ブログをバッサリとやったのも、いろいろな理由はあるが、僕の意図に反して読んでほしくない人間にもアドレスが伝わってしまったからでもあり、また、あとからよむとこっぱずかしかったからでもあり、ましてやそれを放置しておいてどこの誰ともわからない他人に読まれるなんて嫌だったからでもある。
そして、あれは公益性のない私的なものであり、そもそもの最初から自分が自分ひとりの意志で始めたものであり、それをやめるのもまた自分が自分ひとりの意志でやめただけの事でもある。
ただ、挨拶もなく突然バッサリとやったことは確かに唐突であり、僕の未熟な部分でもあったとおもう。
というわけで、これから捨てるものと取っておくものを区分けしなければならない。
最近、グールドが生前かたっていた「人生の解毒剤」という言葉がよく頭に浮かぶ。
これは彼があるアメリカのビジネスマンと話していた時に、その人の口から洩れた言葉である。
その人のオフィスを訪ねた時、ちょうどバッハの音楽がかかっていたらしい。
その時にグールドがなんで仕事中にバッハなんかをかけるのかと聞いたのだろう。
その答えが「バッハの音楽が私にとって唯一の人生の解毒剤なんだ」と答えたという。
それを聞いて、こんなバリバリのやり手のビジネスマンがそんなことを言うなんて、といってグールドが驚きを隠せなかったという話である。
そして同時に、これは真に優れた芸術作品のこの世における存在意義を示している。
話は全然飛ぶが、最近また芭蕉にひかれている。
彼の作品というより、人間性にである。
あまりにも近似性を感じるのだ、人生ではなく、気質というか、本質というか、そういう点で。
大好きな良寛よりも芭蕉に親しみを覚える。
彼の作品群をまだ僕は本格的に読んだことがない。
なので、いずれ近いうちに読んでみるつもりである。
あと、最近EM菌の発酵をやっている。
ふとしたことから友達に誘われてEM菌の発見者の講演会に行ったことがきっかけである。
話を聞いて、これは単なる健康食品の範疇に収まる話ではないと思った。もっと深い、と直感的に感じた。
こういうものが身近にあるのに、しかもそれほど高くないのに、使わない手はないと思う。
さて出来上がりが楽しみである。