若年寄の遺言

リバタリアンとしての主義主張が、税消費者という立場を直撃するブーメランなブログ。面従腹背な日々の書き物置き場。

似非リバタリアンの考える、リバタリアンと外国人参政権

2010年03月03日 | 政治
ここのところ、外国人参政権ネタをずっと繰り返してきた。
そんな中、ふと疑問が湧いた。
「リバタリアンは、この問題をどう料理するのだろうか?古典的自由主義の観点からはどうなるのだろうか。」
と。
俄かリバタリアンとしては気になるところ。

そこで、ちょっと検索してみると・・・


世界の中心で”放っておいてくれ”と叫ぶ: リバタリアンの外国人参政権への考え方
森村進 著「自由はどこまで可能か?リバタリアニズム入門」より転載
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【外国人の参政権について】
国籍によって区別せずに定住外国人にも参政権を認めるのが当然。
この事情は地方選挙でも国政選挙でも同じ。
ある外国人が、例えば東京都新宿区の住民だという理由で区政や都政への参政権が認められるなら日本国の住民だという理由で日本の国政への参政権も認めるべきである。
一方で、外国に定住している日本人は国の参政権を与えられるべきだが日本の参政権を与える必要はない。


(この本、実家に置いてあって手元になく、今回は他サイトの転載の転載)



「リバタリアンは国家・国籍の枠にとらわれてはならない。国籍によって区別してはならない。」ふーん、そうかそうか~・・・・と納得しかけた頭に、再度疑問が立ちはだかる。

「区別してはならない」ってのは、平等に軸足を置いた主張だ。往々にして自由と平等は衝突するということを考えた時、平等を目指す意見はリバタリアン的ではない。また、参政権付与というのは国家の政策決定に参加する権利であり、あくまでも国家の存在が前提とされている。「参政権を認めるべきだ」「参政権が与えられるべきだ」という時の「認める」「与える」主体は国家。参政権行使の結果が反映するのは国家の枠組みの中。どうもリバタリアン的ではない。

リバタリアンは自由を第一に考える。自由とは「他人から介入されない、強制されない」という消極的な価値観であり、構成員として集団の意思決定に参加するのとは質が違う。憲法学では参政権を「国家への自由」と呼ぶことがあるが、これは完全に言葉の誤用だ。リバタリアニズムの主眼は、国の介入、多数派の意思によって決められてしまう事柄を減らし、政府による合法的略奪から私的領域を守っていこうというものだ。100人が各々100通りの選択をできるのが自由であり、100人のうち51人の統一した意思で49人の意思を蹂躙するのが民主制だ。自由と民主とは緊張関係にある。

歴史的にみて、

制限選挙→納税額の引き下げ→普通選挙制→婦人参政権

という民主主義の拡大は、自由の保障に貢献しただろうか。この一連の流れが、社会保障の拡大、福祉国家・行政国家化の流れと一致することを考えると、民主主義の拡大こそが自由に対する脅威をもたらしたと考えることさえできる。



ちょっと視点を変えて。

町内会Aでは、18歳以上の住民全てが町内会の会合に出席することができる。
町内会Bでは、世帯の代表者だけが町内会の会合に出席することができる。
町内会Cでは、25歳以上で会費を払った人だけが町内会の会合に出席できる。
町内会Dでは、住民のうち町内会で会員登録を済ませた人だけが会合に出席できる。

リバタリアン的には、どの町内会のあり方が間違っていて、どの町内会のやり方が正しい、ということはないと思う。その町内会のルールが気に食わないなら、別のところに住めば良いだけの話だ。(移住の自由が保障されていることが前提だが)

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