楽農倶楽部(別館)

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お花見の時季でございますなぁ...(^_^;)

2008年03月27日 16時47分15秒 | (・ω・ )モニュ?
 そろそろお花見の時季でございますな。(^_^;)
 例年はお花見の時期は忙しくて、花見どころではないのですが、今年は仕事が途切れて暇となりました。今年はゆっくり花見ができるでしょう。
 (^_^;)ヨロコブベキカ、カナシムベキカ。

 さて、花見の話題で、Letter from Yochomachiのご隠居さんがトンチンカンなことを書いていましたので、久しぶりにツッコンでみたいと思います。

Letter from Yochomachi
余丁町散人の隠居小屋 - Blog
3/27 Today さくらの日……いつしかニッポンのシンボルとなった
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C111252006/E20080327072647/index.html
サクラはいいものだが、あまりに「ニッポン」と結びつけられすぎているように感じる:
3月27日 今日は何の日~毎日が記念日~: "さくらの日  日本さくらの会が1992(平成4)年に制定。3×9(さくら)=27の語呂合せと、七十二侯のひとつ「桜始開」が重なる時期であることから。日本の歴史や文化、風土と深くかかわってきた桜を通して、日本の自然や文化について関心を深める日。"
その意味で富士山と同じ。ニッポンイストに都合よくハイジャックされてしまわないように、あるがままのサクラと富士山を守らねばならない。

 自国の文化の良さを知らない者はグローバルに侮蔑されるものであるが、まぁ自称グローバリスト(実際は、えせグローバリスト)のご隠居さんが知るはずも無い。

サクラは古来から日本人に愛されてきたと言うが、そうでもない。たとえば永井荷風のお父さんは明治政府の高級官僚で文人でもあったが、「サクラは倭臭がする」といって自分の家(来青閣、そのなかに断腸亭があった)には植えていなかった。自分は尾張の出身であるから明治政府の主流派・薩長閥のニッポンイズムを苦々しく思っていたのであろう。

 単なる一例に過ぎない永井荷風の親父殿の桜嫌いを理由に、「サクラは古来から日本人に愛されてきたと言うが、そうでもない。」と自論を展開し始めるご隠居さん。
 相変わらず見事なデンパぶりである。( ̄~ ̄;) ウーン

 ちなみに永井荷風は桜は結構好きだったようです。

荷風の散歩道
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/bunka/kahu/sanpo.htm
真間
 荷風は真間川の桜並木を愛した。荷風は真間川堤の桜に、遠い日の隅田川の桜を見ていた。「真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た桜と同じくらゐかと思はれる」(「葛飾土産」)と記し、桜の季節にはよくここを歩いた。
 この他に荷風が真間でよく歩いた場所に手児奈霊堂境内には、荷風の偽書を作って絶交された猪場毅(伊庭心猿)が暮らしていた。このことは、「来訪者」に詳しい。
 荷風が見た桜並木は、現在の真間小学校前にあったものである。しかし、昭和24年のキティ台風で真間川が氾濫し、家屋侵水の被害を招いたことからコンクリートの護岸工事が行われ、これに伴って桜の木は代採されてしまった。
 荷風が見た桜の木は、今はない。


 ご隠居さんは荷風より荷風の親父殿のファンだったのかな?( ^▽^)

平安時代にもサクラはあったがいわゆるヤマザクラでソメイヨシノではない。万葉集ではサクラはほとんど詠まれていない。

 ヤマザクラも結構きれいなものですがねぇ。
 ちなみに、奈良時代の万葉集でも、平安時代の古今和歌集でも桜について詠まれています。

花見 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B
歴史
 花見は奈良時代の貴族の行事が起源だと言われている。奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が鑑賞されていたが、平安時代に桜と変わってきた。その存在感の移り変わりは歌にも現れており、『万葉集』において桜を詠んだ歌は40首、梅を詠んだ歌は100首程度だが、平安時代の『古今和歌集』ではその数が逆転する。また、「花」といえば桜を意味するようになるのもこの頃からである。
 『日本後紀』によると、嵯峨天皇が812年(弘仁3年)神泉苑にて「花宴の説」を催した。これが記録に残る最初の桜の花見だとの説がある。831年(天長8年)から場所は宮中に移り、天皇主催の定例行事として取り入れられていった。その様子は『源氏物語』「花宴」に描かれる。『源氏物語』には藤を鑑賞する宴会についての記述もあるが、この頃には「花」はほぼ桜と同義に使われるようになっていたためか、桜以外の花を観賞する宴が花見、花宴といわれることはない。
 吉田兼好の『徒然草』には貴族風の花見とそうでない田舎ぶりの花見の違いが説かれており、室町初期には地方の武士階級にも花見の宴は行われていたことが伺える。
 織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される。この時期のもっとも大規模な花見は豊臣秀吉の醍醐の花見である。
 花見の風習が広く庶民に広まっていったのは、江戸時代、徳川吉宗が江戸の各地に桜を植えさせ、花見を奨励してからだといわれている。江戸で著名な花見の名所には愛宕山 (港区)などがある。この時期の花見を題材にした落語としては『長屋の花見』や『あたま山』がある。


 ソメイヨシノの歴史は短いが、花見の歴史は結構長い。
 桜は古来から日本人に愛されてきたと考えるほうが正しいと思います。!(・。・)b

全国のソメイヨシノの名所も明治以降植えられたものが多い。そろそろ樹の寿命が尽きる頃だが、所詮人為的に植えたもの。「ニッポンの伝統が廃れる!」と大騒ぎするほどのことでもない。松林にしてもそうだ。

 ソメイヨシノの寿命が尽きることがあっても、花見が廃れることはないでしょうね。
 しかし、ソメイヨシノの寿命ですが、結構長いかも知れません。

ソメイヨシノの誤解
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/gimon10/treedrgokai2.html
情報元:
このはなさくや図鑑~美しい日本の桜~
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/index2.html
(ソメイヨシノ寿命60年説)
 ソメイヨシノ寿命60年説というのがあるのを皆さんご存知でしょうか。ソメイヨシノは、寿命が短い桜だと言われています。前述のようにソメイヨシノは、片親がエドヒガン系品種ですが、このエドヒガンザクラ、実は、大変長命で、全国には樹齢千年級のものが数多く存在します。長命の桜から誕生したソメイヨシノが薄命とは皮肉なものです。
 しかし、ソメイヨシノ寿命60年説に異議を唱える方もいらっしゃいます。青森県弘前市では、樹勢回復に熱心に取り組まれた結果、多くのソメイヨシノの樹勢回復が成功しています。また同市には、日本最古の樹齢百年をこえるソメイヨシノがあります。
 弘前市の例から考えるとソメイヨシノは、けっして短命ではないといえる証左ではないでしょうか。
 地道な樹勢回復と適切な管理作業こそが人の寿命をも凌駕するソメイヨシノを育て上げるポイントだと思います。


 毎年、毎年根元を踏みつけられてドンちゃん騒ぎでもされりゃ、ソメイヨシノでなくても寿命は短くなるでしょうね。(゜-゜;)ウーン

 松林については松は痩せ地に適した植物でありますから、土が肥えると樹勢が弱まります。
 ゆえに、下草刈りなどをきちんとやって土が肥えないようにする必要があるのですな。
 松の世話をきちんとすると、松茸と言う恵みを得ることができます。
 木材の輸入業者を甘やかしたおかげで、国内の松林が管理できなくなったため、松林が枯れ出したのですな。

 しかし、某商社の社内報の記事を書かされていた割には、ご隠居さんの知識は浅いし狭いですなぁ。
 よほど組合が強くて、会社が仕方なしに読まれもしない社内報の記事でも書けとメンドウみてくれたのかしらね。( ̄∀ ̄*)イヒッ

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
破綻した論理 (FC)
2008-03-27 20:25:42
毎々楽しく読ませていただいております。
我田引水の理論展開は「デンパ」と言われても仕方ないですね。
とても参考になりました。
あるところで「デンパな奴」に辟易してました。
いつもありがとうございます。
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毎度コメントどーも (空楽)
2008-03-28 12:16:47
 毎度コメントをありがとうございます。(^^)

>あるところで「デンパな奴」に辟易してました。

 BBSですかね?
 私も以前はBBSで投稿していましたが、現在はブログに時間がかかるため、ご無沙汰です。
 BBS仲間もいたのですが、忘れられちゃったかな?(;´д`)トホホ

 でも、ブログの場合、BBSと違って書いたことが保存されますからね。多くの方に読んで貰うにはブログが向いていると思うのですな。
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