「不可視の両刃」放射線に挑む~英国大学院博士課程留学~

英国に留学して放射線研究に取り組む日本人医師ブログ

いつか世界へ ~留学の動機1~

2016-04-10 | どうして留学しようと思ったのか
しがらみなく過ごした少年時代、夜明けの向こうから素晴らしい明日が来ると疑問もなく無邪気に信じていた頃、野茂英雄投手が日本から米国に渡って活躍されている姿をテレビで見て、よく判らぬままに「海外で活躍するなんて凄いな」と私は思ったものでした。ただ同時に、自分の周囲とは違う、遠く離れた世界のことなのだろうと漠然と感じていました。そもそも世界の広大さを知りませんでしたし、世界の多様さについての関心もありませんでした。
それから長い年月が流れて、紆余曲折を経て、私は地元の医学部に進みました。念願の医学部に入学した頃はまだ、卒業後には地元の病院で働き、ずっと地元に住むのだろうと思っていました。英語はもちろん外国語は全般的に苦手だったし、観光旅行はともかく海外に滞在するつもりなんてありませんでした。
相変わらず世界には興味がない一方、医科学研究には関心がありました。入学してすぐに医療現場を垣間見る機会があり、「今は治せないとしてもいつか治せるようになりますように」と願いながら、地道に研究する必要性をその際につくづく感じました。研究という営みには、もちろん辛い時、苦しい時もありますが、患者の苦しみに比べたら大したことはありません。また、サイエンスには知的好奇心を満たすことが出来るという魅力がありました。医師として臨床と研究に従事し、社会に貢献していきたいという想いが、いつの間にか、私の心の中にはありました。
色々な先生方とのご縁にも恵まれて、医学部の幾つかの研究室に自由気ままに出入りするようになり、培養細胞の扱い方、生化学・分子生物学的実験の仕方、臨床統計学の考え方など、医科学研究における「視座」というものを教えて頂きました。研究がますます面白く、楽しくなり、そしてやり甲斐というものが判ってきました。

そんなある日、私は医学部長賞を受賞することになりました。しかも金賞でした。つまり、医学部生にとって最高峰の栄誉でした。当時の医学部長の黒岩義之教授といえば、「日本神経内科学の父」と呼ばれた御尊父の黒岩義五郎九州大学名誉教授譲りの臨床家であり、学究肌の厳格な神経内科医として尊敬を広く集めていました。したがって、医学部教授陣の目前で、黒岩医学部長から賞状を手渡された時はたいへん緊張しました。その賞状の正確な文面は覚えていませんが、一読して、内容に驚愕しました。「世界に羽ばたく医師になれ」と書いてあったのです。

――世界に羽ばたけと言われても、一体全体、どうすればいいのだろうか?

私はその時になって初めて「世界」というものを意識しました。そして、自分の目で世界を見てみようと思ったのでした。それから医学部の制度を利用して、米国のカリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)に1か月間留学する機会があり、米国の大学に集う人たちに度肝を抜かれました。なるほど、世界とはなんと広大で、なんと多様なのだろうかと。UCSDといえば、日本人初のノーベル生理学・医学賞受賞者の利根川進博士の母校でもありますが、ノーベル賞受賞者数十名を擁する世界屈指の学究都市サンディエゴの中核を占める研究機関です。UCSDに限らず、DNA二重らせん構造の提唱で有名なフランシス・クリック博士が晩年を過ごしたソーク研究所、世界をリードするスクリプス研究所など、サンディエゴには世界中から最先端の科学を志向する研究者たちが集まっていたのでした。私もいつかこういう方々と肩を並べて研究したいと無邪気に思ったものです。

医学部最終学年になって、私は再度、海外留学する機会を得ました。英国のダンディー大学遺伝子発現制御研究所で3か月間の国際サマースクールが開催されるということを知り、医学部長の推薦状をもって応募してみたところ、幸運にも、夏季給費留学生として採択されたのでした。世界中から集まったサマースチューデントの中で日本人は私だけでした。この間、東日本大震災および原子力発電所事故で大きく傷ついた「福島」のことを幾度も聞かれるという経験をしましたが、もう一つ、自分の心の中に強烈に刻まれたのが「競争心」でした。つまり、世界と戦って、勝ちたいと思うようになりました。
サマースクールの期間中、他のサマースチューデントと話す機会がよくありましたが、ある日、英語が稚拙な私に対して、オランダから来た女学生がイライラした表情で「あなた、本気で研究者になる気があるの? 遊びに来たなら中国に帰れば? 私は世界一の研究者になるためにここにいるのよ」と言いました。その時まで私のことを中国人だと思っていた彼女に正直呆れましたが、侮られてはさすがに頭に来たので、「大口をたたくだけなら、誰でもできるのでは? 少なくとも私はお前よりはハードワーカーだ」と私も言い返しました。実際、サマースチューデントの中で私はもっともハードワークしており、夜中や休日に研究所の警備スタッフから「お願いだから、そろそろ帰って下さい」と言われたこともしばしばありました。結局、私と違って彼女はサマースクールでは大した実験成果を残していませんでしたが、その苛烈なまでの向上心、競争心には見習うべきところがあると思ったのでした。つまり、我々は常に世界中のライバルたちと競争して、新しい何かを見つけていかなければならないのだということを。こちらが敵視しようがしまいが、そんなことはお構いなしに、我々はすでに競争しているのだということを気づかせてくれたのでした。言うまでもなく、私は負けず嫌いですから。戦わざるをえないならば、やはり勝ちたいと思うようになりました。
振り返ると、ダンディー大学では田中智之教授にたいへんお世話になりました。東京大学医学部を卒業され、日本で血液腫瘍内科の医師として臨床に従事された経歴を持つ彼は、細胞生物学の研究に取り組まれてから、華々しい活躍をされ、英国でもっとも高名な生命科学者の一人になっていました。実際、エジンバラ王立協会フェロー「FRSE」の称号を贈られ、Cell(細胞)という用語を名付けたロバート・フック博士の名を関した「フック・メダル」を受賞されていました。
凄い。いつか田中教授のように私もなれたらいいなと憧れました。

その後、東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故の被災地で臨床に従事してから、私は放射線被ばく影響の研究をしようと思いました。そして、その研究分野で世界の研究者と肩を並べて、従来の教科書を書き換えなければならないと気付きました。しかし、そのためにはどうすればいいのか。放射線生命科学、放射線医学において、広島、長崎、福島の記憶を持つ日本が世界をリードするにはどうすればいいのか。
私の出した結論は、海外の大学院博士課程に進み、世界と戦うすべを学ぼうということでした。とくに米国や英国のように世界中から研究者が集う場所で、国際的な研究者になるためのトレーニングを受けることで、いつか彼らと競争して、最終的に勝つ方法を見出したいと考えたのでした。それがいつか福島原発事故被災者のためになると信じて。無念のうちに亡くなられた方々のためになると信じて。
こうして私はいつか研究留学をしたいと思うようになったのです。