セリカ魂

「初代セリカに乗りたい!」
celica_himeji-ra25@yahoo.co.jp

ぎふ可児 大河ドラマ館

2020年11月15日 12時50分35秒 | 歴史

11月14日(土)
4カ所で分散開催したお陰で薄い展示のNHK大河ドラマ館。岐阜県内3カ所の残り1つ、可児に行って来た。
8時半に出発して瀬戸から多治見を抜ける一般道だったが多治見市内が渋滞していて予定よりも遅れて10時半に到着。
健康チェックシートを記入して整理券の列に並んだ。


11時の配布開始が15分早まり無事にゲット。指定席なので開場待ちの必要はない。座席表も一緒に添えてくれていた。


さぁ、大河ドラマ館を見学しよう。
展示に期待は出来ないが・・(;'∀')


春風亭昇太師匠の写真とサイン色紙があった。


手書きの大きなボードにはNHK大河ドラマの歴史や豆知識がズラっと書かれていた。タイトルを見ると色々と思い出されて懐かしいな。


歴代の主役を演じた俳優や数々のランキングがびっしり!自分たちで集計した?ネットから引っ張って来た?
手書きなのでヴィレヴァンみたいな熱気を感じた。


有料エリアの入口に甲冑武将さん。
赤い甲冑武者は合戦絵巻で福島隊を率いたお馴染みの殿で今日は柴田勝家だった。


危惧した通り、衣装と資料と映像を少し展示。


終盤に入って他館は撮影可能な展示物が増えていた。でもここは衣装のみ撮影可のままだった。


予想通りの薄い内容だった。
4カ所開催なのでそれも仕方ないか。


「ここ、映えますよ」
福島の殿(今日は勝家さん)お勧め、明智光秀物語の入口。両サイドに水色桔梗紋の幟旗を並べていて空間の使い方が見事だった。


ふと、足元のこれに気付いた。


天下分け目の天王山!山崎の戦いが見事に描かれていた。
おっと、水色桔梗の旗色悪し(;'∀')


こっちの展示は大河ドラマとは無関係。


光秀のエピソードをクイズ形式で掲示。
本能寺の変、光秀の動機は?私は最近有力な長宗我部説を支持している。
見易く工夫されて見どころ満載だった。


光秀のミニブロンズ像と募金箱があった。
建立を目指した募金?と思ったらもう城跡に建っているそうだ。


山城に行こう!コーナー。


床に「はい」「いいえ」の矢印がある。
これを辿って行くと、自分にお勧めの山城が分かるらしい。発想が面白い!こういう展示は大好きだ。

 

恵那のドラマ館も本編の展示よりも自前の展示の方が良かった。ここでは更に、懸命に工夫したスタッフの熱意まで感じた。これならお金を払っても「損した」とは思わない。
「武器が足りないなら軍略で補おう」の心意気を感じた。遊び心もあって実に好感が持てる展示だった。

売店で見つけたクリアファイル。戦国武将を相撲の番付形式でランキング化していて面白い!
立花宗茂の番付が低いとか納得いかない所も多々あるが、それら全てが盛り上がるネタになること請け合いw
これは「買い」だ。


昼食は飛騨牛ハンバーグランチ。
んー、レトルトのハンバーグ?(;'∀')


5玉レイドを済ませてからトークショーの会場に移動。ホールって呼称だけれど西武ドームみたいに壁が無い。
これなら整理券なくても外からトークショー見れるな。武将隊の演武も見れば良かった。


座席に座るとステージ正面の良い席だった。


感染防止で一席ずつ空けて座った。


13時からトークイベント。
小和田哲男先生、さくらゆき・小栗さくらさんが登場。二人とも透明なマウスガードを着けていた。


「これだけ離れていると要らないよね?」
開口一番に言うと小和田先生がマウスガードを外した。理に適った正しい考えだ。
建前のルールに縛られず、本質を見極められるお方だな。


小和田先生のお話は幾度となく拝聴。
毎回その豊富な知識と話術の巧みさに感嘆している。


―時代考証ってどんなお仕事?―
台本をチェックして、あり得ない事は指摘。
特に多いのは言葉の使い方らしい。

―打ち合わせはNHKの外―
制作発表前に打診があるそうだ。でも、小和田先生がNHKに行くと「お、今度は戦国か?」とメディアにスクープされる恐れがある。
打ち合わせはNHKの外で、プロデューサーと脚本家を交えてすることが多いそうだ。

―シナリオのやり取りがシビア―
例として「功名が辻」の大石静を挙げた。本能寺の変のシーンで信長が鉄砲で応戦。いや、そんな史実はありませんよと指摘。
「鉄砲持たせたいです。だって舘ひろしでしょ」反対したけれど押し切られたそうだ(;'∀')

―原作者が生きている方が直しがし易い―
これは意外だったが、説明すれば原作者は納得してくれるそうだ。それよりも演出家の方がやっかい。
2011年の江の時、チーフディレクターから電話。小谷城は落城したけれど燃えてはいない。
「煙がないと視聴者に落城だと理解して貰えない」
「ちょっとだけ燃やさせて」
「うーん、ちょっとだけですよ」
放送だと大々的に燃えていて「騙されたなぁ」
お城マニアからは「小和田さんがついてて何だ!」と叱られたそうだw

「第一部 戦国大名と城」はさくらさんが進行。綿密にトークテーマを練って来たことが窺えた。


―明智光秀―
光秀は主君殺しの謀反人として罪人扱いされてきた。でも小和田先生は「歴史は勝者が都合よく書いてきた」と指摘。
「負けた側の本当の姿を描きたい」と負け組を主に研究するようになったそうだ。
ここ20年で新しい史料が見つかった。
金ヶ崎の退き口は今まで秀吉一人の手柄と云われてきた。実際は秀吉だけでなく、光秀や池田数正らと3人で防いだらしい。

―土岐頼芸―
昔は頼芸を「よりなり」「よりあき」と読んでいたが、土岐家ゆかりの禅蔵寺の過去帳に片仮名で「ヨリノリ」とあった。なので今回は「よりのり」にした。
頼芸の兄・頼武(よりたけ)の子が頼純(よりずみ)。頼純に帰蝶が一度嫁いでいたと描いたのは初めてらしい。
でも、この頼純を本木道三はお茶で毒殺。これにネットは「伊右衛門が毒を盛った」と反応w
後に頼芸は鷹の爪に毒を塗って道三の暗殺を企み、「伊右衛門vs綾鷹」とネットが湧いたw
「綾鷹がどうのって声が」さくらさんがそのことを紹介。でも、お茶から鷹に繋がる流れを省いてしまったので聴いてる人は「モックンなら伊右衛門では?」
さくらさんが言い間違えたと誤解した人多し?

―山城―
明智城のような山城も含め以前、文化庁が城の全国調査をしたら静岡で760箇所、滋賀で1,300箇所もあったらしい。「全国だと3万~5万はあるかな」麓の館と山城がセットになっていることが多いそうだ。

―信長は室町幕府8代足利義政に憧れていた?―
応仁・文明の乱を起こした義政の名物茶器は豪商の手に渡った。
染谷信長の名物狩りは、それを取り戻したかったからでは?

 

「第二部 明智光秀が生きた時代」
―戦国時代っていつからいつまで?―
応仁・文明の乱の火の粉が地方に飛び火して戦国時代になったと考えるのが一般的。
1493年に伊豆討ち入りした北条早雲が戦国大名第1号。ちなみに早雲は一度も自分で「北条早雲」と名乗ってはいない。
もし早雲を大河ドラマで描くとしたら?幸村が信繁となった様に「伊勢新九郎」となるのだろう。
北条が秀吉に滅ぼされる1,590年までを戦国100年と捉えるべきか、最後の決着になった1,600年の関ケ原までとする意見もある。大坂冬の陣や夏の陣まで入れるのは問題ありと説明してくれた。

―安土桃山時代っていうけれど―
安土はいいけど桃山は間違い。
「伏見桃山城は絶対やめて!」と強調された。
家康の時代に二条城が出来て伏見城は廃城に。
城跡に植えた桃が綺麗で以後「桃山」と呼ばれる様になった。

―下剋上の時代―
家を繋ぐことが一番の大事で能力本位の時代だった。主君に力量がないと思えば自分が代わってやると謀反が起きた。中国地方の大内氏→陶氏→毛利元就が下剋上で有名。
ナンバー2が力を持ち過ぎると起き易い。
家族で結束してそれを防いだ。北条は兄弟の結束で、薩摩も島津四兄弟の結束が強かった。だからトップに立つ人間は常に緊張感を持っていた時代だった。

―人物から歴史に入るのもあり―
さくらさんが歴史を好きになったきっかけは土方歳三だと言った。静岡大での教授時代、ゼミの学生に歴史のきっかけを質問。
「大河ドラマを見て興味を持った」が多かったそうだ。きっかけは何であっても現場(史跡)に足を運ぶことが大事。
自治体が協力し合うことも大事だと力説されていた。

コロナで喋る機会がなくて「喋り方忘れちゃうよ」と困っていたら娘さんが「だったらYouTube始めたら?」と提案した。
小和田先生はYouTubeを知らなかった(!)そうで、「動画配信だよ」と教わって早速始めるフットワークの軽さよ。
 →戦国・小和田チャンネル

時代考証を始めた1996年頃、放送直後に電話帳で調べた歴史マニアからクレームの直電があったそうで「あの時は大変だった」としみじみ振り返った。
でも、そういう意見も大事なので議論を進めながら「間違えない様に」を第一に進めてきたそうだ。足利義昭と駒の恋バナなんて、諸意見ありそう。

いやぁ、一時間半の濃密なお話、とても面白かった!さすが大学教授だけあって「1コマ」しっかり。
楽しいエピソードを引き出す見事なMC、さくらさん。お二人ともお疲れ様でした。


さぁ、トークショーでも紹介されていた明智城に行こう。車はそのままに、徒歩で向かって多分こっちの方だと思う。


途中の民家に愛知万博のモリゾーキッコロじゃん!終了後に備品の払い下げ販売があったけれどその時の?


明智家の菩提寺「天龍寺」があった。


大きな位牌!もしかして等身大とか?


黒板に説明が書かれていた。
位牌の戒名は「長存寺殿明窓玄智禅定門」だそうだ。


明智一族のお墓。


卒塔婆には「四百三十九回忌」とあった。


住宅街を抜けると整備された石畳の桔梗坂。


きつい?ちょっと不安だったがすぐに二ノ丸に到着。
明智城大手門が再現されていた。


横を見上げたら「中の丸」と切り岸が見えた。


二ノ丸曲輪にはトイレも整備されている。


明智城跡散策路マップを確認。
駐車場の閉鎖時間も気になるので長居は出来ないな。


明智城が落城した時に亡くなった七武将を祀る塚。


リーフレットなども用意されていた。


来場者数を把握する為のカウンターも設置。
1,561人目だったがいつリセットした?


展望台があった。


さくらさんが言っていた様に眺めがいい。
明智の荘を一望に見渡せて、これなら敵が来たらすぐに分かるな。


光秀の銅像があった。大河ドラマ記念イヤーの今年6月13日に建立されたそうだ。
ちなみにその日は光秀の命日。
ちなみついでに先ほどの天龍寺のお位牌の高さ、あれも命日にちなんで6尺1寸3分(184cm)にしたらしい。


見つめる先は京。かな?


ヒラリと舞った陣羽織姿で軽快な印象。


手にする得物は得意な火縄銃(!)


綺麗な紅葉が見られるロケーション。
花を愛で、工夫に溢れた展示を見て、楽しいトークを聴いて、光秀の史跡を巡って充実した一日だった。
「ようやく陽のあたる時代になった」
復権ぶりを地元の方々も素直に喜んでいるみたいで三成の地元・石田町と同じだった。



最新の画像もっと見る