小野田少尉に敬礼! - 国思う故に愚痴あり より
産経新聞 1月19日【ニューヨーク=黒沢潤】米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は17日、フィリピン・ルバング島で30年間潜伏任務を続け、16日に死去した元陸軍少尉の小野田寛郎さんの評伝を掲載した。
小野田さんについて「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」と指摘。「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐の尊さについて知らしめた」と強調した。
小野田さんがフィリピンのマルコス大統領(当時)に1974年3月、投降の印として軍刀を手渡したとき「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容した。
また、小野田さんの出征前の日本は「紙と木からなる牧歌的な地」だったが、約30年を経て帰国した母国は「高層ビルやテレビ、ジェット機などがある未来型の世界」へと変貌を遂げていたと指摘した。
一方、米紙ワシントン・ポスト(電子版)も同日「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へと移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった」と論評。多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田さんは任務に忠実であり続けたがゆえに「多くの人々の心を揺さぶった」とたたえた。
「最後の日本兵」小野田氏がなぜロシアで感動を呼ぶのか17.01.2014
日本の敗戦後、フィリピンのルソン島で30年もパルチザンとして生活を続けた小野田寛郎さんが91歳で亡くなった。
「小野田さんはおそらく日本人兵士としては世界で一番名の知れた人物だっただろう。勇敢さ、兵士としての忍耐強さの手本だった。この人は百年たっても語り継がれるだろう」
これは数年前、ロシア語のあるサイトに載せられた一文だ。
ロシアでは小野田さんはいつも尊敬の念がこめられ、また小野田さん以外の日本兵でジャングルのなかに何十年も潜み、司令官の命令を守り続けた人々に対してもソ連人は感動を表したものだった。
20世紀2度も日本と戦った経験を持つロシアがこれだけ感動したことも何も驚くことはない。兵士としての義務に忠誠を誓う姿勢は、ロシアではつねに最も重要度の高い美徳とされてきたもので、ロシア帝国でもソ連でも青少年に教え込もうとされてきたことだった。
アジアのジャングルのなかで日本兵が相次いで見つかり、第2次大戦が終わったことを知らなかった、または信じようとしなかったことが、ソ連で紹介されると、1941年に書かれた『誠実な言葉』というソ連時代の有名な話を思い起こした。
夜遅く、作者はある庭園で職員の小屋に小さな男の子を見つける。もう遅いのに、この子はどうしても家にかえろうとはしない。他の子たちと戦争ごっこをしていたときに、自分の持ち場を離れないということを誓ったからだ。約束をさせた子どもらはそのことを忘れて帰ってしまった。この子だけは家に帰ることができない。それは約束をしたからだった。話をきいたあと、作者は通りで少佐をみつけ、この子に持ち場を離れて、家に帰るよう命じてもらう。
ソ連時代、この話は小学校低学年の必須図書だった。おそらく誰もこの話に無関心ではいられなかっただろう。この話も、小野田さんの話と同じだったからだ。
:英雄の行為だ。
:でも彼自身はこれを英雄的行為とはとらえていない。彼は言われた命令を遂行しつづけた。これは日本では当たり前のことだ。この経験から学ばねばならない。
:インタビューがよかった「私は日本が強く、繁栄することを願って戦った。そして今ここに来て、やはり日本は本当に強く、繁栄した国だった」ということは、彼の戦いは無駄ではなかったんだ。
:本当に強い人だ。ものすごく強い…。本当の意味で祖国の正真正銘の兵士だったんだ。
:ほとんどロシアの兵士だよ。
:小野田さんのために東京都心で銅像をたてなければ。これこそまことの愛国者だ!
:まさに侍だ。
米英露などでも「多くの日本人にとって忍耐、忠誠、犠牲といった戦前の美徳を体現する存在だった」「日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「日本人には義務と忍耐の尊さについて知らしめた」「最後の日本兵」「小野田さんのために東京都心で銅像をたてなければ。これこそ自分の国のまことの愛国者だ!」などと敬意をもって報道・称賛されている。
産経新聞 1月19日【ニューヨーク=黒沢潤】米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は17日、フィリピン・ルバング島で30年間潜伏任務を続け、16日に死去した元陸軍少尉の小野田寛郎さんの評伝を掲載した。
小野田さんについて「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」と指摘。「彼の孤独な苦境は、世界の多くの人々にとって意味のないものだったかもしれないが、日本人には義務と忍耐の尊さについて知らしめた」と強調した。
小野田さんがフィリピンのマルコス大統領(当時)に1974年3月、投降の印として軍刀を手渡したとき「多くの者にとっては格式のある、古いサムライのようだった」と形容した。
また、小野田さんの出征前の日本は「紙と木からなる牧歌的な地」だったが、約30年を経て帰国した母国は「高層ビルやテレビ、ジェット機などがある未来型の世界」へと変貌を遂げていたと指摘した。
一方、米紙ワシントン・ポスト(電子版)も同日「彼は戦争が引き起こした破壊的状況から、経済大国へと移行する国家にとって骨董のような存在になっていた忍耐、恭順、犠牲といった戦前の価値を体現した人物だった」と論評。多くの軍人は「処刑への恐怖」から潜伏生活を続けたが、小野田さんは任務に忠実であり続けたがゆえに「多くの人々の心を揺さぶった」とたたえた。
「最後の日本兵」小野田氏がなぜロシアで感動を呼ぶのか17.01.2014
日本の敗戦後、フィリピンのルソン島で30年もパルチザンとして生活を続けた小野田寛郎さんが91歳で亡くなった。
「小野田さんはおそらく日本人兵士としては世界で一番名の知れた人物だっただろう。勇敢さ、兵士としての忍耐強さの手本だった。この人は百年たっても語り継がれるだろう」
これは数年前、ロシア語のあるサイトに載せられた一文だ。
ロシアでは小野田さんはいつも尊敬の念がこめられ、また小野田さん以外の日本兵でジャングルのなかに何十年も潜み、司令官の命令を守り続けた人々に対してもソ連人は感動を表したものだった。
20世紀2度も日本と戦った経験を持つロシアがこれだけ感動したことも何も驚くことはない。兵士としての義務に忠誠を誓う姿勢は、ロシアではつねに最も重要度の高い美徳とされてきたもので、ロシア帝国でもソ連でも青少年に教え込もうとされてきたことだった。
アジアのジャングルのなかで日本兵が相次いで見つかり、第2次大戦が終わったことを知らなかった、または信じようとしなかったことが、ソ連で紹介されると、1941年に書かれた『誠実な言葉』というソ連時代の有名な話を思い起こした。
夜遅く、作者はある庭園で職員の小屋に小さな男の子を見つける。もう遅いのに、この子はどうしても家にかえろうとはしない。他の子たちと戦争ごっこをしていたときに、自分の持ち場を離れないということを誓ったからだ。約束をさせた子どもらはそのことを忘れて帰ってしまった。この子だけは家に帰ることができない。それは約束をしたからだった。話をきいたあと、作者は通りで少佐をみつけ、この子に持ち場を離れて、家に帰るよう命じてもらう。
ソ連時代、この話は小学校低学年の必須図書だった。おそらく誰もこの話に無関心ではいられなかっただろう。この話も、小野田さんの話と同じだったからだ。
:英雄の行為だ。
:でも彼自身はこれを英雄的行為とはとらえていない。彼は言われた命令を遂行しつづけた。これは日本では当たり前のことだ。この経験から学ばねばならない。
:インタビューがよかった「私は日本が強く、繁栄することを願って戦った。そして今ここに来て、やはり日本は本当に強く、繁栄した国だった」ということは、彼の戦いは無駄ではなかったんだ。
:本当に強い人だ。ものすごく強い…。本当の意味で祖国の正真正銘の兵士だったんだ。
:ほとんどロシアの兵士だよ。
:小野田さんのために東京都心で銅像をたてなければ。これこそまことの愛国者だ!
:まさに侍だ。
米英露などでも「多くの日本人にとって忍耐、忠誠、犠牲といった戦前の美徳を体現する存在だった」「日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「日本人には義務と忍耐の尊さについて知らしめた」「最後の日本兵」「小野田さんのために東京都心で銅像をたてなければ。これこそ自分の国のまことの愛国者だ!」などと敬意をもって報道・称賛されている。