四級猫       .      .

猫の目観察レポート、地球にて。(社会的地位、犬より下 ゴキブリよりは上)

大東亜戦争の背景・・・

2011年08月16日 | 歴史
大東亜戦争の背景・・・ より

日本は正しい歴史教育を、=(イコール)韓国に有利な歴史教育を・・・韓国大統領
日本の戦争はセキュリティーが故の戦争だった・・・(マッカーサー)

サンフランシスコ講和条約十一条の誤訳を訂正

(転記)
今日の日本の苦難のはじまりは大東亜戦争の敗戦による占領破壊政策であった。では大東亜戦争とは何だったのか。大東亜戦争の原因は2つある。支那事変と日米戦争。

1.支那事変:
スターリンがヒトラーとの独ソ戦に備えて、東西挟撃されないように、東部国境の反共勢力を無力化するため、蒋介石軍閥と日本を戦わせた。

蒋介石は9年がかりの国共内戦に勝利し、支那統一の五分前という絶好の位置に付けていたのに油断し、1936.12の西安事件で捕えられて降伏し、スターリンから3億ドルの大軍事援助を受けて、ソ連の傀儡として対日攻撃を行った。4千名にのぼるソ連大軍事顧問団の指揮権はモスクワにあり、蒋介石にはなかった。

日本は従来の支那軍閥の攻撃と甘くみて、背後関係を見誤り、反撃して大陸の大戦争に引きずり込まれた。スターリンは東部国境に心配なく、西部戦線に集中できた。

2.日米戦争:
米国の満州狙いが原因。米国の日露戦争講和仲介の狙いは、満州全土を占領したロシアを追い返すためで、南満州鉄道の日本への割譲もその狙いは戦後米国が取り上げるつもりであった。それが戦争直後のハリマンの南満州鉄道買収提案。日本政府はOKしたが、帰国した全権小村寿太郎が反対したのでキャンセルになった。すると米国はガラリと排日に変わった。ハリマンの提案は、ビジネスではなかったのである。

これは当時の日本の空気からすれば、あれほどの大犠牲を払ったのだから、当然。今から見ると、米国を満州に引き込んだほうがよかった。ソ連は米国の満州侵入を嫌ったからだ。敵の嫌がることをするのが正しい。

米国のヘレンミアーズ女史は、名著「アメリカの鏡日本」で、戦前の外交記録を見れば、日本が戦争回避に努めたにもかかわらず、米国が日本を攻撃したことは明らかと記している。

3.大東亜戦争
この二つの原因で大東亜戦争は大戦争になった。蒋介石はスターリンの命令で講和を拒否し、日米戦争はルーズベルトの対日圧迫政策に追い詰められ日本に逃げる道はなかった。スターリンは日米戦争は独ソ戦にとって大歓迎なので、ハルノート原案を米国財務省のスパイ、ホワイトに届けるなど、画策した。

4.戦後:

蒋介石の失敗:
蒋介石は再開した国共内戦で敗北し台湾に逃亡した。蒋介石は国共内戦に苦しみ、支那事変の緒戦で失った24万の独軍装備の自軍精鋭部隊を惜しんだが、対日戦争を始め講和を拒否したのは自分だからしょうがない。

米国の失敗:

米国の1949年の支那全土共産化で、西進植民地主義戦略は破たんした。
マッカーサーは「支那の共産化と喪失は、米国太平洋政策百年の最大の過ちである」と総括した。

すると米国の対日政策は180度転換し、日本の独立、再軍備に変わった。満州がなくなれば、日本の占領は米国の負担が増すだけで意味がないからだ。米国の戦争は、日本が目的ではなかったのだ。

0828(土)ナポレオンの腕木通信機

2010年08月28日 | 歴史
ナポレオンの「腕木通信機」の事を初めて知ったのは、30年も前の雑誌の「Tr技術」だったか「CQハムラジオ」だったか「エレクトロニクス・ライフ」だったかの小さなコラム記事でだった。ロシアとの戦争のために整備されたと書かれてたのじゃなかったかな。それにしてもナポレオンは新技術を取り入れるのがすごい。ビン詰も作るし、マーガリンも作ったんじゃなかったっけ?

ウィキペディア

テレグラフと呼ばれており、ギリシャ語のテレ・グラーフェン(遠くに書くこと)に由来。

テレグラフとはクロード・シャップの腕木通信を指す固有名詞だったが、後に一般名詞化して電信を表すようになった。

1793年にフランスでクロード・シャップによって発明された。



大型の手旗信号方式、腕木と呼ばれる数メートルの3本の棒を組み合わせた構造物をロープ操作で動かし、別の基地局から望遠鏡を用いて確認することで情報を伝達



伝達速度は意外に速く、一分間に80km以上の速度で信号伝達された。腕木の組み合わせによって手旗信号よりも精密かつ多彩なパターンの信号を送信できるため、短い文書を送れるだけの通信能力があり、数百km先まで情報伝達することができた。夜間には腕木の端部や関節部に灯りをともして信号を送ることも試みられた

ナポレオン時代にかけ、フランスで600kmが整備された。フランス国内を縦断する550kmのルートを通じ、8分間で情報伝達することを可能にした。

要員を常駐させねばならないこと、悪天候時は使用できないことなどの欠点があり、有線電信の登場により、急速に衰退

腕木を用いて情報を伝送する方式は、後に鉄道の腕木式信号機へと応用されている。

「モンテ・クリスト伯」の中で、主人公が腕木通信の通信塔を訪れるシーンがある。

* 1801年 リュネヴィルの和約の為にフランス東部の都市リュネヴィルへの通信回線の増設を命令した。クロード・シャップはこれを二週間で完成させ、ナポレオンは現地の全権大使との連絡網を活用した。
 
* ナポレオンがエルバ島を脱出し、フランスへ上陸するとその行動が腕木通信で即日パリへ通報された。


日本では江戸時代中期から米相場などの情報を伝えるために、大型手旗信号の一種である「旗振り通信」が存在、1745年時点で少なくとも実用に供されていたことが確認されている。一説には大阪-和歌山間を最速3分、大阪-広島間を27分(別の文献では40分足らず)で伝達できたとされる。

幕末から明治維新期には、欧州の腕木通信システムは前時代の技術となっており、日本は腕木通信を飛び越して電信を導入することになった。

民間の相場通信需要も、長距離電報・電話の通信料金が下がった1914年-1918年頃まで、旗振り通信のみに留まった。

9921「いき過ぎたりや」

2009年09月21日 | 歴史
いき過ぎたりや(~バロック的なる歌舞伎)

・・・彼らはエネルギーをもてあまし・戦いを求めました。戦いがないと稼ぎにありつけないし、のし上がる機会もないのです。こうした不満が豊臣政権の頃からくすぶり始めています。秀吉の朝鮮出兵もそれが遠因になっています。雑兵たちの不平不満のはけ口を国の外に向ける必要があったのです。そして、徳川政権になってからも・・・そうした背景のなかで由比小雪の乱や島原の乱が起きるのです・・・

こうした江戸初期の若者の心情を代表する科白が「生き過ぎたりや」です。当時のかぶき者の風俗は、「駿府記」によれば「鬢髪(びんぱつ)を切り下げ、狂紋を染め、太刀長柄(たちながえ)を帯び、その容貌尋常ならず」というもので・その長い太刀には戯言が刻んであったと言います。当時のかぶき者が納めたと思われる朱鞘の太刀が名古屋の熱田神宮にも残っています。それには「生過(いきすぎ)タルヤ廿五、都築氏」と記されています。二十五歳を過ぎて「 この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもう少し早く生まれるべきだったのだ・この時代は俺の時代ではない」という思いがこの時代の若者の共通の思いなのです・・・


9812(水)ご先祖様のこと

2009年08月12日 | 歴史
おはかの掃除に行く。誰かが草をとってくれていた。

お盆と言う事で、自分の知っている先祖のことを書いてみる。といっても、昔聞いた事なので勘違いや、聞き間違いがあると思うけど。

先祖は元々は九州にいたが、何とか天皇に加担して負け、あげくは親類同士の土地相続争いのいくさに負けて、九州を命からがら逃げて関東に流れてきたのだそうだ。先祖の菊池数馬は、小田原の北条氏の家来でどこかのお城の家老をしてたそうだ。豊臣秀吉の北条攻めでお城が陥落寸前に降伏を受け入れて、お城の殿様が1人腹を切ることで城をあけわたして、城を出たとき生き残っていた家来とその家族はあわせて300人だったそうだ。けが人は戸板に寝かせて4人がかりで運びながら、数ヶ月かけて知り合いのお坊さんが平泉にいたので、その人を頼って平泉の中尊寺まで歩いて来たそうだ。その途中で関東の知り合いを訪ねては、数家族ずつ家来にしてもらいながら、平泉まで歩いてきたそうだ。中尊寺に数ヶ月ほどいたそうだ。平泉のお坊さんから、石鳥谷の大興時のお坊さんを紹介されて大興時に来て数ヶ月住み(秀吉の奥州攻めで石鳥谷の稗貫氏が追われたので)早池峰山がきれいに見えるここに住み着くことになったのだそうだ。好地は湿地帯でそこを開拓したり、隣の紫波町(昔は村)との田んぼの水争いで活躍したりして、地元の人たちに信頼されるようになったのだそう。南部の殿様に家来にならないかと誘われたそうだが、あってみたらこの殿様では苦労するだけで、努力の甲斐がないと判断したので。年をとりすぎてるからと断ったら、では息子を仕官させないかと言われ。じつは開城する条件が、どこにも仕官しない。侍に戻らない事が条件と約束したので、息子も仕官させられないとうそをついて断ったそうだ。

菊池数馬の長男の家には、数馬の手紙類が。次男の熊野神社の神主さんの家には系図が残されてるそうだ。私の先祖は数馬の末っ子で数馬が亡くなるまで末っ子の家に隠居所を作って一緒に住んでいたそうだ。数馬が戦場に行く時必ず持っていった手のひらの観音経というお経の巻物をもらっていたそうだが。400年の間に2度火事にあったので、先祖のものは今は何も残っていないそうだ。

10数年?前、盛岡の「南部氏の古文書を読む会」?研究会?の母の友達が、古文書読んでたらお宅の先祖の事が書かれてるらしい文書あるので確認してくれないかと、母に電話あって、見せてもらったら。好地村の北条氏の浪人の菊池数馬の娘を嫁にしたいが許可してほしいと言う文書だった。南部藩の公式文書に書かれてるということは、確かに北条氏の家来だったのだなと思った。

参考
「境塚(さかいづか)、菊池数馬の墓、江曽一里塚」
「奥道中10石鳥谷~日詰郡山」
「私達の郷土-北上川が語る悠久の物語」
「石鳥谷の中心部を抜けて行く」
「奥州街道」

7920 安倍首相の深謀術数?

2007年09月20日 | 歴史
聞いた話によると、安倍首相が能がないようなやめ方をしたのは、実は、も~のすご~い深い考えからだと言う。

安倍首相がやめたとき、普通に誰でもすぐ思いついたのは「何でやめるって発表したんだろう?。やめるって言わずに黙って入院すれば、幹事長の麻生氏が総裁代行になり。そのうち、野党が首相を続けられないなら、やめろやめろの大合唱になるから、その時に民主党に手柄を取られたような形でやめれば安部首相に傷がつかず、総裁代行の麻生氏もすんなり次期首相になれたのに」と言うことだった。

実は総理は麻生氏が、次の首相になれば短期政権に終わるのでわざと次の総理になれないように仕組んだのではないのか?ということか、あるいは単に麻生氏が安部氏の意向にそむくような事をするので、次期総理になるのを邪魔したのではないか、という話がながれているそうだ。

0z26 生意気なガキ

0000年12月26日 | 歴史
UPI 共同 0000年12月26日

昨夜、中東のベツレヘムとか言うところで、小生意気なガキが生まれたそうです。
生れ落ちるなり「天上天下唯我独尊、われこそ救世主なり!」と毒づいたので、Japanから来た、細本Kづ子氏も駄目だこりゃ、と匙を投げて帰国したらしい。

(UPI NEWS 信頼度調査:8%)

0000年1月1日 日の丸

0000年01月01日 | 歴史
日の丸は元々は、東北に攻めてきた大和朝廷と戦った蝦夷が、太陽を信仰していたので自分達の印に戦の時に使ったもの、それを戦勝国の大和朝廷が「日本」(ひのもと)という国名と一緒に持っていったものだから。東北とはゆかりが深い旗印。阿部首相はその「ひのもと」の言わば王族の子孫。「日本」の正統な支配者の手に日本が戻ったわけだ。